王都での戦いは、ヴェストフックス公国軍による一方的な殺戮という形になっている。ユーリウス王の死が伝わり、守るべき主を失った王国軍に死を賭して戦う理由はなくなった。王国軍の騎士、兵士の多くが降伏を訴えたのだがヴェストフックス公国軍、と称している実質、竜王軍はそれを拒絶。戦いを終わらせなかった。逆らった者は決して許さない。バラウル家のやり方ではあるが、それを決めたのはアルノルト。彼個人の残虐性が発揮されたということだ。
降伏が許されないとなれば、死ぬまで抵抗を続けるか逃げるかのいずれかを選ぶことになる。もしくは、抵抗を諦めて、大人しく殺されるのを待つか。生への執着がある者たちは「逃げる」を選んだ。その全てが死を恐れているわけではない。同じ死ぬでも死に場所を選びたい。そんな想いから王都を脱出し、逃げている者たちも大勢いる。バルナバスはその一人だ。
「休むな! 苦しいだろうが、足を動かせ!」
彼には逃げ延びる前からやるべきことがある。指揮官として騎士や兵士たちを率いること。彼らを無事に逃がすことだ。
「北だ! 北に向かえ! そこには味方がいる! 辿り着ければ、一息つける!」
だがその北、ツェンタルヒルシュ公国までの道のりは遠い。ずっと歩き続けていることなど不可能。それでもバルナバスは部下を𠮟咤激励して、前に進ませようとする。
全員が無事に逃げきることなど不可能なことは分かっている。だが脱落者が、結果としてヴェストフックス公国軍の追撃の足を遅らせることになれば、その分、助かる者は増えるかもしれない。非情なようだがバルナバスは命の選択を、相手にそうとは分からせないまま、行っているのだ。
「その先にはノルデンヴォルフ公国がある! さらに多くの味方が待っている!」
ノルデンヴォルフ公国がどう動くかなどバルナバスには分からない。分かる必要もない。結果として嘘になろうと、今この瞬間、その言葉が人々の希望になり、前に進む力になればそれで良いのだ。
「諦めるな! 前に進め!」
諦めることなく、どれほど苦しくても、前に進み続けることが出来た者だけが生き残れる。そう信じるしかない。それに疑問を持ってしまったら、バルナバス自身も動けなくなってしまう。
王都での厳しい戦いをなんとか潜り抜けたバルナバスは、すでに疲労困憊。疲労だけでなく、全身に大小さまざまな傷を負った状態なのだ。
「……サー・バルナバス」
「何だ? 体力の消耗になる。無駄話ならやめておけ」
質問は受け付けたくはない。バルナバスも王国の状況を把握していないのだ。何も知らず、「北に向かえ」と命じていることが知られると、それに疑問を持つ者も出るかもしれない。こう考えているのだ。
「体力はご心配なく。私は元気ですので」
「……だったら、もっと急いで先に進め」
「そうしたいのですが、その為に知らなければならないことがあります」
「…………」
バルナバスの瞳に警戒の色が浮かぶ。バルナバスでさえ、かなり消耗している状況で「元気だ」と言い、さらに命令に疑問を持っているような言葉を発してきた男が何者か怪しんでいるのだ。
「イグナーツ・シュバイツァー殿の居場所をご存じですか?」
「……何故それを知りたい?」
男の問いはバルナバスが予想していたものとは違っていた。違っていたが、ソルの居場所を知りたがっている男には、さらに警戒の思いが強くなる。
「王国がこのような状況になった今、我々が頼るべきはイグナーツ殿だと考えております」
「……貴様、何者だ?」
益々、バルナバスは相手の素性が分からなくなった。ソルの力を知る者であることは分かる。だが、だからといって味方とは限らないとバルナバスは考えている。
「警戒しないで頂きたい。我々は……どう説明すれば信じて頂けるのか……ルシェル殿下の侍女、ミストはご存じですか?」
「知っている」
「彼女の出身一族です。情報局で働いておりました」
男はミストの一族の人間。これを聞いたからといって、バルナバスには事情は分からない。この一族がソルをどう評価しているかなど、バルナバスが知ることではないのだ。
「情報局の人間であれば頼みがある」
「過去のこととして、お話ししたつもりなのですが……聞くだけはお聞きします」
ミストの一族はすでに王国の為に働くつもりはない。この言葉でそれは明らかになった。それにバルナバスは怒りを感じない。情報局の人間、諜者というのはそういう信頼出来ない者たちだと思っているのだ。
一部、誤解がある。彼らは一族の存続の為に、最善と思われる道を選ぼうとしているだけ。王国に従うのはただの自殺行為だと考えているのだ。これも騎士の立場から見れば、裏切りなのだろうが。
「サー・ディートハルトに伝えてもらいたい。王国からの使者の言葉を信じるなと」
「ブルーノ卿のことですか」
「ブルーノ卿が裏切者? お前たちはそれを知っていたのか?」
「恐らくはサー・バルナバスとそう変わらない時に。その伝令でしたら、すでに送られています。リベルト卿のご指示で」
彼らもリベルト卿からバルナバスが伝えられたと同じことを聞いていた。それがブルーノ卿であることを突き止めるのは、彼らにとっては容易いことだ。城内の出来事も、多くを知れる備えをしてあったのだ。
「そうか……イグナーツ様の行方は私も知らない。知っているのはルシェル殿下と一緒だろうということくらいだ」
「ルシェル王女と。そうなると……北ですか」
ルシェル王女を逃がすとなれば、向かう先はノルデンヴォルフ公国。こう考えるのが普通だ。
「恐らくは。目的地は一緒だな」
「ええ。ただ、だからといって貴方がたに同行するつもりはありません。我々は我々が考える方法で北に向かいます」
「……そうか」
情報局の人間であれば、良い逃走経路を知っているかもしれない。バルナバスのこの目論見は、あっさりと崩れてしまった。すでに王国に仕えることを止めた彼らに、同行を強制することが出来ないことは分かっている。
「気休めにしかならないでしょうが、御礼に情報をひとつ。この先、竜王の追撃はそれほど厳しいものにはなりません。敗残の兵よりも、王国一の将であるサー・ディートハルトが率いる軍に興味を惹かれているようですので」
「……それは何処からの情報だ?」
「答えはご勘弁を。情報源を明かさないのが、我々のルールですので」
「そうか……分かった」
竜王の側近、側近なんて存在はいなくてもそれに近い立場の人間からの情報。バルナバスはこう考えた。そういった繋がりを持つ諜者という存在を、ますます信用出来なくなった。
「お詫びついでにもう一つ。もし勝ちを諦めていないのであれば、担ぐべきを人を間違えないように。それ以前にその方をその気にさせる必要があり、それはかなり難しそうですが」
「……その人物をその気にさせたら勝てるのか?」
誰のことかは聞かなくても分かっている。ただ、情報局の人間がこう考える理由は、まったく思いつかない。自分が知らない何かを知っているということだと、バルナバスは考えた。
「これは騎士様らしくない問いですね? 勝敗は時の運とか申しませんでしたか?」
「最後は運だ。だが、その運を得るには、その資格を得なければならない。勝つための準備だ。私の問いはそのひとつ」
「なるほど……そういうことでしたら、肯定は返せません。我々には戦略、戦術の類は分かりませんから」
男がソルに期待すべきと言っているのは、戦略、戦術以外の何か。これはバルナバスにも分かった。だがここまでだ。すでに王国を離れたつもりの男に、これ以上、未だ王国の騎士であるバルナバスに親切にする義務はないのだ。
「……どうやら、気休めにならないのは事実のようだな?」
「申し訳ございません。我々は数でしか見ておりませんので」
ヴェストフックス公国軍は全体としては追撃の手を緩め、東にいるサー・ディートハルト軍との戦いに備え始めている。これは間違いのない事実だ。だが、追撃に加わっている者たちの実力までは、男の一族は把握していない。その必要性は、時間も、なかった。
「サー・バルナバス、で間違いないかな?」
現れたのは一人の男。バルナバスは知らないが、男はソルが会ったことのある聖仁教会の人間、アルノルトの臣下だ。
「ああ、そうだ。お前は?」
「死神」
「そうか。そうであれば現れる場所を間違えているな。さっさと王都に戻るが良い」
「ああ、そうする。さっさとお前を倒して、王都に戻る」
膨れ上がる男の殺気。常人でも感じ取れるほどの凄まじい殺気に、バルナバスを除く周囲の人々は、迷うことなく背中を見せて逃げ出していく。
「それは無理だな。倒れるのはお前のほうだ」
心を圧するような殺気に怯む様子もなく、バルナバスは男に向かって足を踏み出す。強者との戦いはバルナバスの望むところ。戦いを前にして恐怖に震えるはずがない。
「……ナーゲリング王国が臣、バルナバス。参る」
ナーゲリング王国の臣と名乗ることはバルナバスの意地。まだ終わっていないという宣言だ。この想いが報われるかは分からない。そんな期待はしていない。王国の騎士として生き、王国の騎士として死ぬ。ずっと前から、彼はこう決めていたのだ。
◆◆◆
人が足を踏み入れることのない山中を移動し続けているソルたち。予想していたよりも移動は順調だ。アンデッドモンスターに襲われることもない。
山中にアンデッドモンスターや危険な獣がいないわけではない。そういった存在を避ける術を、手に入れられたおかげだ。
「……なんだろうな。王国にいる全ての犬を従えたら、それで勝てるんじゃないか?」
危険を察知し、教えてくれているのは野犬のフェンとその群れの仲間たち。それはとても有難いことなのだが、ハーゼたちにとっては信じられないことでもある。
「それが出来るのであれば、過去の竜王はとっくに行っているのではないですか?」
ダックスは不可能だと思っている。そんな都合の良い力であれば、とっくにそれを利用している者がいるはず。彼はそういう事実があったことを知らない。彼が知らないということではなく、実際にそういった事例はない。
「どうしてここで竜王が出てくる?」
一人だけ、話が理解出来ていない人物がいる。ミストだ。彼女はソルの力とバラウル家の血の繋がりを分かっていないのだ。
「……どうしてだろうな?」
ミストがどこまで事実を把握しているか分かっていないハーゼたちは、答えに困ってしまう。
「そんな話より、良いのですか?」
迂闊に竜王という言葉を口にしてしまったダックスは、なんとか誤魔化そうと、強引に話題を変えようとした。
「何が?」
それにあっさりと乗ってしまうミストだった。
「前を歩く二人のことです」
「それは……」
まして話題はソルのこととなると、頭の中はすぐにそれでいっぱいになってしまう。
「ミストにとって王女は主だからな。文句も言いづらいだろ?」
ハーゼも、話を逸らす為であることはどうでも良くなって、楽しい話題として食いついてきた。
「あれは……速く移動するためだから」
この中でもっとも体力がないのはルシェル王女。彼女だけが突出して劣っているのだ。その彼女のペースに合わせていては、いつまで経っても目的地につかない。ヴェストフックス公国軍に追い抜かれてしまう可能性もある。
それを避ける為に選んだ手段は、ソルがルシェル王女を背負って移動すること。今もそうしているのだ。
「まあそうだけど……王女様が受け入れるとは思わなかった」
まったく抵抗を見せなかったわけではない。話が出た時にはルシェル王女も躊躇いを見せた。だが、その躊躇いはわずかな時間。ハーゼの感覚では、すぐに受け入れた。
「ハーゼ。それは余計な話だ」
ハーゼの言葉はミストを揶揄うためのもの。そうだとしても、今の言葉は口にするべきではないとカッツェは考えた。
「そうか? 俺は主相手だからといって遠慮することはないと思うけどな」
ハーゼ本人はミストを応援しているつもりだ。仕える相手だからといって遠慮して、身を引くべきではないと考えている。
「そうだとしても、第三者がどうこう言うことではない」
第三者だからこそ言えること。ハーゼの言い分をカッツェはこう思っている。忠誠を向ける相手に対して、遠慮するなといっても無理な話。忠誠と恋愛感情は比べられるものではないと、彼は考えているのだ。
「気にしなくても良い。別に私はやきもちなんてやかない」
「だから遠慮するなと俺は言っている」
「ルシェル様相手だからじゃない。私はソルにとって一番じゃない。ソルの一番大切な人は別にいる」
「……それは……知っていたのか?」
ソルの一番大切な人は誰か。ハーゼたちも分かっている。ソルはルナ王女の復讐の為に生きてきた。生きている可能性が生まれた今、ソルがどう考えているかは分からないが、ルナ王女が大切な存在であることに変りはないのは間違いない。
「ハーゼは知っているのか? 会ったことがあるのかって意味」
「いや、遠目で見たことがあるだけだ。ただ、遠くから見ても、震えるほど美しい女の子だったな」
「ハーゼ、一言多い」
またハーゼの余計な一言を指摘するカッツェ。
「あっ……これは悪かった」
「いや。そっか……そんな綺麗な人なのか。会ってみたいな」
ルナ王女はとても美しい女性だと聞いても、ミストの心に嫉妬は生まれない。ソルが大切に想っている人がそういう女性であることに納得し、会ってみたいと思った。
「……いや……やめておいたほうが良いかな?」
「どうして?」
ハーゼの忠告に不満顔のミスト。彼女は分かっていないのだ。
「たぶん……殺される」
「えっ……?」
「あっ、いや、これは俺の勝手な考えだけど……少し話を聞いただけでも、かなり嫉妬深そうで、それでバラウル家の人間だからな」
会って話したことのないハーゼには真実は分からない。ソルが稀に漏らす過去の話からの想像だ。その稀に漏らされた過去の話だけで、真実を突き止めていることも、ハーゼは分かっていない。