呆気なく、これほど呆気なく、ナーゲリング王国が滅びることになるとは、ユーリウス王は思っていなかった。砂上の楼閣という言葉がぴったりな脆い、わずかな衝撃で崩れてしまうような国だった。そんな王国の王に、なりたくもなかったのに、ならされた自分は何なのか。こんな想いがユーリウス王の心に広がっている。
生まれた時からノルデンヴォルフ公となることを義務付けられていた。それを疑問に思うことも許されなかった。年を重ね、色々と物事が見えるようになるにつれて、不満が大きくなっていった。跡継ぎという言葉は自分を縛る鎖だった。何をしても愛される妹が、お気楽な弟が羨ましく、妬ましかった。
自分は二人とは違う。特別な存在。こう思うことで自分を納得させ、二人との間に壁を作った。だが、二人と距離を取っても、何かが変わるわけではない。孤独感が強まり、気持ちが荒れるだけだった。
それでも父の後を継ぐことは自分の義務。無理やり、そう自分を言い聞かせて、それに相応しい人間になろうと努力したつもりだった。
だが、いざ、ノルデンヴォルフ公の座を継いでみれば、誰もそれを望んでいないことが分かった。誰も自分に忠誠を向けていない。誰も自分に従わない。名ばかりの公主だった。その状況に、孤独感に、心を痛めていた中、さらにナーゲリング王国の王という立場に引き上げられることになった。「ふざけるな」と思った。
それでも放り出すことは許されない。ナーゲリング王国の王になった。ノルデンヴォルフ公の時と同じ。信頼出来る者などいなかった。
自分の人生に何の意味があるのか。こんなことも考えた。ずっと耐え続けてきたことに意味を見い出すことが出来なくなった。自分とは違う無責任な生き方を、実際は違うのだが、ユーリウス王にはそう見える生き方をしている妹と弟がさらに疎ましくなった。そんな二人に自分の地位を脅かされるなど絶対に許せなかった。
その結果が今だ。王都は、難攻不落と評されていた王城は、ヴェストフックス公国軍に落とされることになる。内から崩されることによって。信頼出来ないと思っていた臣下は、やはり信頼出来ない相手だった。
敵はもう、すぐ近くまで迫っているはずなのに、城内の喧噪は遠くに聞こえる。広い謁見の間の玉座に一人座っている虚しさがそう感じさせるのか。ユーリウス王本人にも分からない。
「……こちらでしたか」
リーンバルト軍務卿が謁見の間に姿を現した。たった一人で死ぬことも許されない。ユーリウス王はこう思ったが、これは捻くれた考えだ。敵が迫っている状況で、国王が一人でいることが異常なのだ。
「卿は逃げなかったのか?」
「陛下を置き去りにして逃げる……いや、これを言っても虚しいだけか」
すでに多くの臣下が逃げ出している。実際に無事に逃げられたかは分からない。逃げ道はない。こう考える状況だからリーンバルト軍務卿は、そしてユーリウス王も、ここにいるのだ。
「軍は?」
「必死の抵抗を続けているはずだ。サー・バルナバスは、たとえ自分一人であっても抗い続けるだろう男だ」
「……そういう男か……見誤っていたな」
命を捨てて王国の為に戦い続ける。そんな忠臣がナーゲリング王国にもいた。それで救われるわけではないが、自分の過ちを認める気にはなった。
「見誤っていたのではない。見ようとしていなかったのだ」
「……最後の最後でお説教か?」
「最後の最後でなければお説教も出来ないだろ? 私はお前の臣下だった」
今のリーンバルト軍務卿は、リーンバルト・シュバイツァーはユーリウス王の叔父として話をしている。臣下らしく振舞うことを止めたのだ。
「もう王国は滅びたのか?」
「いや、まだだ。お前が生きている限り、ナーゲリング王国は続く。私がお前の臣下であることを止めただけだ」
実際には、弟のエルヴィン、もしくはルシェル王女が王となればナーゲリング王国は続く。リーンバルトはユーリウス王に気を使って、こういう言い方をしているのだ。
「なるほど……私は何を間違ったのだと思う?」
「すでに話した。見るべき相手を見なかったことだ」
「サー・バルナバスだけの話ではないな……まさか、イグナーツのことを言っているのか?」
サー・バルナバス一人を重用したところで、今の状況を回避できたはずがない。他に誰がいると考えた時、ユーリウス王の頭に浮かんだのはソルだった。
「彼は疑っても仕方がない相手だ。実際、兄はあの男に殺されたのだろう。用いることはしても、信頼して良い相手ではない」
リーンバルトもソルに対して、ユーリウス王とは異なる悪感情を抱いている。証拠はないが、兄を殺した相手だ。良い感情など持てるはずがない。そこまで彼はソルを知らない。
「そうなると、ルシェルか?」
「ルシェルもそうだな。だが一番は、リベルト卿だと私は思っている」
「……彼は裏切っていなかったのか?」
「少なくとも王国は。彼はバルナバスに伝えていたそうだ。もし自分が死ぬことなったら、そうなるように仕向けた相手が裏切者だと。それを各地にいる将軍に伝えるようにと」
裏切者が自分を排除しようとする可能性をリベルト外務卿は考えていた。自分の能力に自信があるから、というだけでなく、ソルを逃がすなど、竜王にとっての計算違いを起こさせた自覚があってのことだ。
「つまり、真の裏切者はブルーノ卿、いや、ブルーノか」
証拠の有無など必要ない。真実を明らかにしたからといって、この先、何か出来るわけではない。自分で納得出来る情報であれば、ユーリウス王はそのまま受け入れているのだ。
「恐らく、彼と一緒にルシェルも逃げている」
「ああ……駄目だな、私は。兄であることを完全に捨て去ってしまったようだ」
ルシェル王女の安否を気にすることを忘れていた。妹に対しての想いが、そこまで薄れているということだと、ユーリウス王は思い知らされた。
「……さっきは、ああ言ったが、お前が王であり続ける為には、イグナーツを重用するべきだったのかもしれないな。文はリベルト卿、武はイグナーツ。良い組み合わせに思える」
「それは無理だ。私には人に全てを任せることなど出来ない。それが出来るのであれば……また違った人生だっただろう」
「……恨んでいるのか、父親を?」
ユーリウスは国王には向いていない。かなり早い段階で、リーンバルトにはそれが分かった。それでも彼は王にならなければならなかった。資質もないのに王の責任を背負わされる苦しみを与えられた。それは父であるベルムントのせいだと、リーンバルトは思った。
「恨んでいる」
「そうか……イグナーツと同じだな」
「……それには同意出来ない。確かに父を恨んでいるが、それは死んだことも影響している」
ソルに殺されなければ、ユーリウスが王になるのは、もっと先になった。王国の行く末が定まった頃、王になる必要もなくなっていたかもしれない。
「そうか。お前はそうだな」
「……お前は?」
「私は兄を恨んでいた、生きている時から。弟であるというだけで軍務卿など押し付けられた。いずれ戦争になるのは分かっていたのに……結果は予想通りだ。私は死ぬ」
リーンバルトは、自分には才能がないと考えている。軍才など皆無に等しいと。彼はユーリウス王が羨む跡継ぎではない存在。実際に、気楽に生きてきた。それがいきなりナーゲリング王国の軍務卿を押し付けられたのだ。
断ることは出来なかった。父親がそれを許さなかった。父、アードルフが許さなければ、ノルデンヴォルフ公国に居場所はなくなってしまうのだから、元々居場所がなかったから王国の重職を押し付けられた面もあるが、引き受ける以外の選択はなかったのだ。
「それでも、父を殺したイグナーツを、叔父上は恨んでいる」
臣下相手として話すことをユーリウスも止めた。知らなかったリーンバルトの苦しみを、自分と似た想いを知って、そうしようと思ったのだ。
「恨まないのは人の子としておかしなことだろ? 本音を言えば、軍務卿の地位を返上することが出来ていたら、兄の死を喜んでいたかもしれない。実際にそうなってみないと分からないが」
本心はリーンバルト自身にも分からない。兄を殺した相手を恨まないのはおかしい。こんな常識にとらわれ、恨んでいる振りをしているだけかもしれないとも思う。彼にとって軍務卿という地位の重さは、いずれ訪れる早過ぎる死への恐怖は、それだけ大きかったということだ。
「そういえば、イグナーツのことで聞きたいことがあった。知っているなら教えて欲しい」
「何だ? この期に及んで隠すことはない。知っていることなら全て教える」
「イグナーツは本当に私の弟なのか? 父が、あの父が外で子供を作っていた。しかもそれをずっと隠していたというのは、私にはかなりの衝撃で」
母に対する裏切り。それを父親が行うことなど考えられなかった。父であるベルムントには、複雑な想いがあったユーリウスだが、夫婦仲に関しては羨み、自分もこうありたいと無条件で思えていたのだ。そんなユーリウスにとって、別の女性との間に子供がいた、しかもその子供を認知することもしていなかったという事実は、大きな衝撃を与えていたのだ。
「ああ、そのことか。イグナーツはお前の弟ではない」
「やはり」
自分が抱いていた父への憧れは間違いではなかった。今となっては唯一、純粋に憧れと思えるその点が間違っていなかったことが、ユーリウスは素直に嬉しかった。
「私の弟だ」
「……はっ?」
ただ続く言葉が、異なる衝撃を与えることになった。
「ふっ、お前でもそういう顔をするのだな?」
幼い頃から考えても、ユーリウスの呆然とした顔はリーンバルトの記憶にない。子供の頃から気難しい、そうならざるを得ない環境だったのだ。
「……騙したのか?」
「騙してはいない。証拠がないだけだ」
「……彼は……私よりも、ルシェルよりも年下だ」
そんなソルが自分の叔父。ユーリウスには受け入れ難い事実だ。何か問題があるわけではない。理由もなく、ただ受け入れることに抵抗を感じるだけだ。
「分かりきっていることを言うな。私が父の子と疑うには訳がある。母を失くしたあと、父には親しくしていた女性がいた。これは間違いない。その女性と親しくしていた時期に、ルシェルが生まれた」
「……でも認知されていない。しかも私の父の子として届けられた」
「兄の子として届け出たのは、バラウル家対策だ。認知されなかったのは、分からない。相続争いを恐れたのか……まあ、真実は父のみが知ること。本当に私の弟かも分からない。私が勝手にそう考えているだけだ」
これ以上、ソルについての話を深堀すべきではない。リーンバルトはそれに気が付いた。ユーリウスのことを考えてのことだ。
「……私の父は知っていたのか?」
だがユーリウスは、すでに一つの可能性に気付いてしまった。
「知らない。考えても意味のないことだ」
「父が、イグナーツの存在を恐れた可能性は?」
ソルが、イグナーツとしてルナ王女の婚約者になった彼が、死ぬ運命にあったことをユーリウスは知っている。だからソルが選ばれたのではないかとユーリウスは考えた。ソルの存在をバラウル家に消してもらいたかったのではないかと。
「実の子を鬼王に渡したくないという気持ちは、私にも分かる。それに父も了承した上でのことのはずだ」
「……私とエルヴィンの為……そうか」
すでにノルデンヴォルフ公であった父、ベルムントの地位をソルが脅かすことはない。脅かすとすればその次、ユーリウスの後継者としての地位だ。バラウル家に渡したくないという理由であっても、後継者争いを恐れたからだとしても、ユーリウスの為であることに変わりはない。
「最後は、おかしな話になってしまったが、家族としての話はここまでだ。また私は臣下に戻ることにする」
「その必要はない」
「王に殉じる臣下が一人もいないなんて、ナーゲリング王国の、建国したシュバイツァー家の恥だ」
「……そういうことなら」
ユーリウスが了承すると、ほぼ同時に謁見の間の扉が大きく開いた。ヴェストフックス公国軍がいよいよ現れたのだ。
だが、部屋に入ってきたのは二人だけ。大柄の男と、その男よりも細身だが背の固い男だ。
「……なんとも手応えのない戦いだった。すべてイグナーツのせいだな」
開口一番、大柄な男が口にしたのはソルに対する文句。それでもう、ユーリウスとリーンバルトには相手が何者か分かった。竜王アルノルトだと。
「イグナーツのおかげ、ではないですか?」
それに応えたのはクリスティアン王子。フルモアザ王国が存在しない今は、王子の称号はないが。
「私はベルムントが王であるナーゲリング王国と戦いたかったのだ。それがその息子、しかも無能な息子の相手をすることになるとは……イグナーツのせい、で正しいではないか」
「そう思われるのであれば、ここまで周到の準備をしなければ良かったのです。普通に戦っていれば、この城は数か月は落ちないはずです」
ソルが何もしていなくても、王国内に数多くの内通者を仕込み、内から手引きされれば同じこと。誰が王であっても抗うことなど出来なかったとクリスティアンは考えている。
「……それは反省点だな。さて、さっさと終わらせて、次の戦いを考えるか」
「終わらせる前に、まず王に臣下の礼をとるのが先ではないか?」
「……なんだと?」
存在さえ無視していたユーリウスの言葉。それがアルノルトを刺激する。
「何者か知らないが、さっさと跪け。跪いて、名乗れ」
ユーリウスの最後の意地。竜王アルノルト相手であろうと怯むことはしない。最後まで王として振舞うと決めたのだ。
「……人の玉座に許しなく座っているだけで許しがたいのだがな」
「この玉座はナーゲリング王国の国王の物。つまり、私の物だ」
「跪いて許しを乞えば、考えてやっても良いと思っていたというのに」
これは嘘だ。ユーリウスの命を助けるつもりなど、アルノルトにはない。そうする価値を認めていない。価値を認めていても、それはそれで存在を許すはずはないが。
「アルノルトとクリスティアンだな。亡国の王とその息子が、何を偉そうにしている? 王の命に従い、さっさと床に跪け」
さらにリーンバルトも、ユーリウスが見せた態度に影響されたこともあって、強気な言葉を放つ。すでに死は決まっている。決まりきった死の恐怖よりも、意地が上回ったのだ。
「……もう良い。自分たちの無力さを知れ」
ただリーンバルトの挑発は、アルノルトの心を刺激することは出来なかった。アルノルトが求めるのは強敵との戦い。強敵とは認識出来ない相手の言葉は、心にまで届かないのだ。
腕を一振り。投げられた剣はユーリウスの胸を貫いた。それと同時にリーンバルトの首が宙を飛ぶ。クリスティアンが斬り落としていた。
二人の血が玉座を赤く染めていく。ナーゲリング王国は、この時をもって滅びることになる。