周囲のざわめきが収まらない。収まるはずがない。「ベルムントを殺したのは、お前か?」というクレーメンスの問いは、それを聞いた者たちに大きな衝撃を与えていた。問いの意味を良く理解していない者も少なくない。ソルの名はイグナーツ・シュバイツァーだと分かっている。事情を知らない者はソルとベルムントを親子だと思っている。何故、父を殺したのか。王家内の継承争い、なんて勘違いも生まれているのだ。
「……だったら」
「否定しろ!」
肯定しようとするソルの言葉を遮る声。
「えっ?」
「否定しろ! そんなことはしていないと言え!」
それはルッツの声だった。何故、ルッツがこんな言葉を発するのか、ソルには理由が分からない。
「ルッツ。お前、何を言っている? 疑いが真実であれば」
バルナバスもルッツの反応に戸惑っている。ルッツは先王バルナバスをソルが殺した事実を有耶無耶にしようとしている。王国騎士が行うことではないとバルナバスは考えているのだ。
「真実であるはずがない! そんなことはあり得ない! バルナバス、どうしてそれが分からない!?」
「分からないのはお前だ! お前は何を考えている!?」
どうしてルッツはソルを庇おうとするのか。嫌いであったはずのソルの味方に立とうとするのか。王国騎士としての立場を完全に忘れて。バルナバスには理解出来ない行動だ。
「……ソルはお前の秘蔵っ子のはずだよ?」
「それは……だが、それ以前に私は王国騎士だ。私情で国への忠誠を濁らすわけにはいかない」
傍若無人な振る舞いが多く、騎士としての資質に疑問を持たれることが多いバルナバスだが、本人は王国騎士という立場に拘りを持っている。騎士の勤めは礼儀作法を身につけることではなく、剣で国を守ること。これを、極端に、徹底しているだけなのだ。
「……そうか。そうだろうね。王国最強の騎士であるサー・バルナバスには分からないのだね?」
「はっきりと言え、私が何を分かっていないと言うのだ?」
ルッツが自分を王国最強だなどと本気で認めているはずがない。皮肉だとバルナバスは受け取った。
「……三倍の敵に戦いを挑む恐怖」
「何?」
「フルモアザ王国の残党狩りとは訳が違う! 自信に溢れた! 士気の高い! 勝つ気満々の三倍の敵と戦う恐怖など! 最強のお前には分からないのだろうねっ!?」
「ルッツ……」
予想外の答えに驚くバルナバス。ルッツの言葉は自分がその恐怖を知っていることを示すもの。その恐怖を感じていたことを認めるものだ。自信過剰と思われるほど、いつも強気なルッツの言葉とは思えないものだった。
「それでも戦いに挑めたのは、付いて行ける背中があったからだ。この人がいれば大丈夫だと思えたからだ」
ルッツが経験していた、すでに滅亡が決まった後のフルモアザ王国軍掃討戦とは、敵の数も勢いも違っていた。そんな敵軍を目の当たりにして、恐怖に震えた。上辺だけの自信は吹き飛んだ。
それでも指揮官として先頭に立って戦わなくてはならない。同じか、自分以上に怯えている兵を奮い立たせなくてはならない。それを助けてくれたのがソルだった。わずか二百という数で敵中を突破した時には、恐怖ではなく、興奮で心が震えた。
「兵たちの心だけでなく、実際に命も救ってくれた。ソルは絶対に王国に必要な人間なんだよ」
「……だからといって、罪をなかったことには出来ない」
「何の罪? 彼はシュバイツァーだ。王位をめぐって親子が争ったこと、兄弟が殺し合いをしたことなんて過去にいくらでも例がある。その結果、王になった者は裁かれたか?」
ルッツは確かにいつものルッツではない。自分の気持ちに正直になったというだけでもない。頭の仲が混乱し、ソルを守ることしか考えられなくなっているのだ。
「お前……自分が何を言っているのか、分かっているのか? お前まで罪に問われるぞ?」
「……それが何だ?」
「ルッツ!?」
現国王、ユーリウス王への反抗。それは許されないこと。反逆罪は無条件で死罪。それほど重い罪なのだ。バルナバスの立場では、これ以上の暴言を許せない。力づくでも止めなくてはならない。
二人の間に緊迫した空気が流れる。ルッツに引く気はない様子だ。
「悪いのは全て私なのです。イグナーツ、私の命で終わらせてください」
その空気を払ったのはビアンカの行動。彼女はソルの前に進み出ると、その場に跪いて、頭を垂れた。
「……終わらせるのはお前の命だけだ」
「止めろ! 止めてくれ! 仕方がなかったのだ!」
剣を振り上げたソルを、クレーメンスが止めようとする。ビアンカが自ら望んだことだとしても、見過ごすことは出来ない。出来るはずがない。
「仕方がなかった?」
剣は止まった。ソルの怒りの炎に油を注ぐ言葉だったとしても。
「それは……言い方が悪かった。だが……ああするしかなかったのだ……あの時は」
竜王アルノルトは倒さなければならなかった。それは絶対に必要なことで、正しいことだった。そう信じて、クレーメンスは行動を起こした。ビアンカを動かしたのだ。
「……それで?」
「それで?」
「それで何か変わったか? 王国は平和になったか? 人々は安心して暮らせるようになったのか!?」
なってはいない。今また戦争の時代が訪れた。多くの人が死に、さらにこの先も死者は増え続ける。バラウル家の人々の死に何の意味があったのか。何もない。この数年でソルは、そうであることがはっきりと分かった。その理不尽さに、怒りが増した。
「竜王はどれだけの人を殺したっ!? その数は、この戦いで死んだ人よりも多いのかっ!?」
初めて吐き出した思い。身近な人も含め、多くの人の死を見つめてきたことで膨れ上がった憤り。だがこの想いをぶつけられる相手は、これまで誰もいなかった。
「…………」
ソルの怒りは真っ当なものだ。クレーメンスには否定できない。多くの人が死んだ。これからも死のうとしている。その死者の前では、竜王を殺害したことは正しかったなんて言えない。
「お前はどうだっ!? 殺した側の人たちは幸せになったのか!? なったなんて言わせないっ! だって、母上はこんなに苦しんでいるじゃないかっ!?」
「…………今……なんて?」
「…………」
クレーメンスの問いに、大きく目を見開いて黙り込むソル。自分で自分が口走ってしまった言葉に驚いているのだ。
「……イグナーツ……まだ私を……私を母と呼んでくれるのですか?」
大粒の涙が溢れ出る瞳で、ソルを見つめているビアンカ。母と呼ばれたのは、これが初めてではない。城で暮らしていた時、いつからか、そう呼ばれるようになった。ソル、そしてルナ王女だけは、自分を母と認めてくれていた。辛い城での暮らしの中で、そんな二人の存在が唯一の救いだった。
「……本当の母親だと思おうとしていた。家族になろうとした。でもお前は、そんな俺たちの気持ちを裏切った」
ソルは母の愛情を知らない。少なくとも記憶にない。ルナ王女も同じだ。彼女を生んですぐに実の母は亡くなった。そんな二人にとって、ビアンカは初めて「母」と呼べる存在だったのだ。二人はそれが嬉しかったのだ。
「……そう……私は……貴方たちを」
「違う! そうじゃない! 妹は私に騙されていたのだ! 妹はお前たちを逃がすつもりだったのだ!」
ソルの言葉を肯定しようとするビアンカ。クレーメンスはそれを否定した。事実をソルに告げた。隠すつもりはなかった。ソルが生きていたら、絶対に伝えなければならないと思っていた。
「……逃がす?」
「城の外に出ていれば、我々の計画に巻き込まれないで済む。そのまま二人で逃げれば、生き延びられる。妹は、こう思っていた。いや、私が思わせた」
「…………」
クレーメンスの話を聞いて、呆然となるソル。ソルがもっとも恨んでいたのはビアンカ。ルナ王女と共に親しみを感じていたからこそ、裏切りが許せなかった。だが、その裏切者は、かつて思っていた通りの女性だった。
それをただ喜ぶことは出来なかった。恨みを抱いていた年月の虚しさ。信じてやれなかった情けなさ。言葉には出来ない複雑な感情が、ソルの思考を停止させている。
「悪いのは私なのだ。妹に罪はない」
「……最低だ。やっぱり、お前たちに正義なんてない。初めからあるはずない」
クレーメンスに対する怒りが、ソルに思考を取り戻させる。だからといって心に湧いた感情、虚しさは消えない。それは長い年月抱き続けていた感情なのだ。復讐の虚しさ、生きることの虚しさ。ソルの心にはいつもそれがあった。
「……その通りだ」
「だったら、何故……」
そこまでして竜王は殺さなければならない存在だったのか。家族を苦しめてまで、行わなければならない殺害だったのか。やはり、ソルには納得出来ない。
「ソル。お前、本当は何をしたいのだ?」
バルナバスが問いかけてきた。ソルの行動は、何かがおかしい。軍事においては先を読み、緻密な計画を立てるソルが、こと復讐になると無計画。行き当たりばったりで行動しているように、バルナバスには見えるのだ。
「何を……分かりませんか? 彼女と同じ。死にたいのです」
ソルは復讐に関わることでは、もっともリスクが高い選択を行っている。無意識に失敗を望んでいる。それがバルナバスには危うく見えたのだ。
「死にたい、か…………ふざけるなっ!!」
いきなり振るわれたバルナバスの拳が、ソルの顔面をとらえる。手加減のない全力の拳。受けたソルは、大きく吹き飛ぶことはなかったものの、その場に倒れることになった。
「……痛っ」
「いい加減に自覚しろ! 貴様の命は自分で思っているほど軽くない! 大勢の人間がお前を求めているのだ!」
「……そんな奴はいない」
「ここにいる! 今この場にいる何百、いや、何千の人間がお前を必要としている! お前の為に命を捨てる覚悟を持つ者もいるはずだ!」
ソルはバルナバスが思っていた以上の存在だった。何があったのか、詳しいことは現場にいなかったバルナバスには分からない。だが、共に戦った者たちはソルの存在を心の支えにしていた。ルッツがそうであることを教えてくれた。英雄なんて言葉は、バルナバスは嫌いだったが、ソルはそう呼ばれることになる人間だと知った。
「お前に無意味な死は許されない。同じ死ぬなら生きている人の為、何千、何万の生きている人の為に死ね。それがお前の、宿命だ」
「…………」
人に殴られたのは初めてではない。だがこれほど痛い、心が痛く感じる拳は初めてだった。
「お前を拘束する。王都で陛下のご裁可を仰ぐ」
「……それが意味のある死?」
そうなれば間違いなく自分は死罪。それ以外の決定がなされることは、絶対にないとソルは思っている。それはユーリウス王でなくても変わらないはずだ。
それを恐れるソルではない。元々、望んでいた死だ。ただ、バルナバスの言っていることは矛盾している。それが、こんな状況でもおかしくて、口元が緩んでしまう。
「死なせない。もし陛下が死罪を申し渡した時は、私は王国の為の剣を捨てる」
「……そんなことは望んでいない」
王国の為の剣を捨てる。王国騎士であることを辞める。それがバルナバスにとって、自己否定と変わらないことであることをソルは分かっている。
「私が望むのだ。それが私の責任の取り方だ」
「…………」
「ルッツ。お前は私と同じことをする必要はない。ただソルの拘束に同意しろ。これがこいつを生かし、王国に引き留める唯一の方法だ」
「……分かった。今は信じてやる」
バルナバスの覚悟。今はこれを信じることにした。バルナバスはやると決めたことはやる。それこそ命を捨ててでも。そういう男だということはルッツも認めているのだ。
「……第二隊を引かせろ」
「別に指示していない……けど、まあ」
軽く手をあげて、近衛特務兵団第二隊の人たちに合図を送る。ソルを救い出す為に、いつでも戦える体勢になっていた彼らに。
それを見て、緊張を緩める彼ら。諦めたわけではない。今ソルには逃げる気がない。それが分かって、ここでは引いたのだ。
「……サー・バルナバス。私は、こんなことを頼める立場ではないが、彼のことを頼む」
「出来ることは全て行います」
「ただ、それでも事が望まない方向に進む場合は、こちらにも覚悟がある。失うはずだった命を彼に救われた者たちも、私の覚悟を理解してくれるはずだ」
ツェンタルヒルシュ公国は再び、今度こそ、本気でナーゲリング王国に反旗を翻す。それで滅びることになってもかまわない。元々、滅びる公国で、失う命だ。そして戦場でソルに命を救われた公国の騎士と兵も、同じ思いを抱いているとクレーメンスは信じている。
「……承知しました」
クレーメンスの覚悟を知ったバルナバスは、ため息が漏れそうになった。ソルを戦場に送り出した結果、ツェンタルヒルシュ公国は降伏を決め、ツヴァイセンファルケ公国との戦いにも勝機が生まれた。ナーゲリング王国は最初の危地を脱した。
だがソルの処遇がどうなるかで、それはひっくり返るかもしれない。そんな影響力を持つ存在は、今の王国にはソルしかいない。王国全土で見ても、一人かもしれないとバルナバスは思う。
原石は、思いもよらない早さで、輝きを放ち始めた。「ソルは戦場でこそ輝く」とディートハルトに伝えた自分の言葉が虚しくなるほどに。