ルッツを総指揮官とした侵攻部隊、正式名称は臨設第九〇一北東方面治安維持部隊は王都を発った。任務は王国北東方面の視察。王国民の暮らしを阻害する問題が起きていないか、巡回視察を行い、必要があれば問題排除を行うというもの。公国向けの建前だ。
部隊編成は王国軍第二〇七大隊、第二〇八大隊、第二〇九大隊に近衛特務兵団を加えた約三千三百名の戦闘部隊に、輜重部隊五百を加えた総勢三千八百名だ。
華々しい出陣式などは一切省いて、いくつもの小部隊に分かれて、合流地点に向かった臨設第九〇一部隊。そこからは三部隊に分かれて、北上していく。ツェンタルヒルシュ公国の支配地域から目的地に向かうのだ。
当然その動きは、ツェンタルヒルシュ公国に気付かれる。
「……治安維持部隊? どうして今、そんな部隊が活動しているのだ?」
報告を受けたツェンタルヒルシュ公、クレーメンス。内容は信じられるものではない。戦争が始まろうかという今、治安維持を目的とした部隊など、王国が編成するはずがないのだ。
「偽装だと思われます。ですが、公式の命令書だというものを提示されました」
中身は嘘でも命令書は、ユーリウス王の名で発せられた公式なものだ。それを見せられたツェンタルヒルシュ公国の家臣には命令書の真贋は判断出来ないが。
「……公式は公式なのだろうな。問題は、王国が何を企んでいるか……数は四千を少し切るくらいだと聞いたが?」
「はい。そのうち、輜重部隊が五百ほどいたようです。かなり多くの物資を運んでいるものと思われます」
「長期戦の備えか……後続はまだ確認出来ていないのか?」
「五千の軍勢が向かってきております。ただ、後続軍はほぼ真北に進んでおりますので、距離があります」
バルナバスが率いる軍勢だ。臨設第九〇一部隊とは少し間を空けて、王都を発していた。
「合流する気はない? そうなると二方面から攻めてくるつもりかもしれんな……ヴェストフックス公国に動きは?」
確認出来ている二部隊、九千相手であれば数の上では互角以上。十分に戦える。だが警戒すべき相手はナーゲリング王国だけではないのだ。
「三方面から攻められますと正直かなり厳しくなります」
「そうだな。まずは先行している四千を叩くか……」
ヴェストフックス公国軍が参戦してくれば、敵のほうが数で上回ることになる。王国西部に領土を持つヴェストフックス公国には他に警戒すべき相手がいない。全軍を投入出来るのだ。
「別件のご報告があります」
「別件? 何だ?」
これからの戦略を考える重要な時間。そこに別の話を割り込ませようという家臣に、クレーメンスは少し苛立ちを覚えた。
「ノルデンヴォルフ公国がオスティゲル公国に攻め込んだようです」
「……なんだと?」
だが家臣は知っておく必要がある情報だと考えたから、割り込ませたのだ。実際にノルデンヴォルフ公国の動きは、戦略を考える上で、重要な要素だ。
「オスティゲル公国の反応はまだ掴めておりませんが、すぐに迎撃に動くものと思われます」
「……どう受け取るべきかな? 後背の憂いがなくなったと見るか、味方の助力を得られなくなったと考えるか」
ナーゲリング王国との戦争となった場合、ノルデンヴォルフ公国が味方してくれる保証はない。同じシュバイツァー家だ。味方どころか、敵に回る可能性のほうが高い。望みは嫁いだ娘とエルヴィンの野心だったのだが、野心のほうはクレーメンスの望まない方向に行ってしまった。
「いずれにしろ、当面、ノルデンヴォルフ公国は考慮する必要はなくなったかと」
「そうだな……四千の部隊を無力化するのに、どれほどの期間が必要か……率いる将は誰だ?」
ヴェストフックス公国が動き出す前に、一方面の脅威を取り除く。時間との勝負だ。他方面が手薄になっている状況になるので、長引けば、逆に窮地に陥ることになる。
「サー・ルッツ。王国五将の一人です」
「五将の一人か……ただ、確か、序列では一番下だったな?」
「はい」
悪い情報ではない。少なくとも、王国最高の騎士であり、将であるディートハルトでなかったことは味方にとって良いことだ。
「……後続軍の将は誰だ?」
だがクレーメンスはそれだけでは決断しない。ルッツの将としての実力が序列通りだとして、何故、最下位の将を選んだのか。それが気になってしまうのだ。
「サー・バルナバスのようです」
「バルナバスか……」
バルナバスの悪評はクレーメンスの耳にも届いている。それが実力とはまったく関係のない評価であることも。バルナバスの悪評を気にしない人たちは、王国最強の騎士と評価していることも。
この情報がクレーメンスの判断を迷わせることになる。
「かき集めて、二万。先行している軍に倍以上の一万をあてても、一万が残ります。これも敵の倍です」
「職業軍人である王国軍に、寄せ集めの軍でどれだけ戦えるかだな……私はどちらに向かうべきか……先に進む軍を捨て石と割り切っているのであれば、後続軍だが……」
徴兵により集めた兵では、王国軍に練度で敵わない。数は倍でも戦力に同じだけの差は生まれない。そうなるとツェンタルヒルシュ公国における、個としての、最強戦力である自分自身がどこに向かうか。クレーメンスはこれを考え始めた。
王国が考える決戦戦力は、バルナバス率いる軍勢である可能性が高い。そうであれば自らはそれに向かうべき。バルナバスの軍を食い止め、先行する王国軍を殲滅させた味方が合流するのを待つというのが良い策のように思えるが。
「王国軍は、偽情報の可能性は高いと思われますが、侵攻ルートも伝えてきました」
「……どこに向かうと言っている?」
誤った情報を与えて、こちらを混乱させようという策。そうであろうと思っていても、無視するわけにはいかない。情報を得た上で真偽を判断しなければならない。偽情報であっても、それが分かることで、相手の意図が読めることはあるのだ。
「我が国の支配地域の外縁を北東に進むと言っております。ツヴァイセンファルケ公国との領境付近です」
「…………そう来たか。どうやらディートハルトを見誤っていたようだ。もっと正攻法を好む軍人だと思っていた」
ディートハルトは正統派の武人。クレーメンスはこう考えていた。正統であることを高く評価しているわけではない。その逆でもない。思考がそういうものだと考えていただけだ。
「ツヴァイセンファルケ公国の領内に我が軍を引き込む策ということですか?」
「恐らくは違う。我が軍が攻めようとすれば、ツヴァイセンファルケ公国に逃げ込み、ツヴァイセンファルケ公国に攻められそうになれば我が国に逃げ込んでくる。そうして、戦いを避けようという考えだ」
「逃げ続ける作戦ですか? そんな卑怯な作戦を王国が行うとは……」
「引き込むも有りか。ツヴァイセンファルケ公国領内に引きずり込まれ、それでツヴァイセンファルケ公国軍と衝突するような事態になれば、王国の思う壺だな」
ツェンタルヒルシュ公国とツヴァイセンファルケ公国のつぶし合い。王国は、それにより両国が消耗するのを待っていれば良い。そこまでいかなくても、三国が全て他方面作戦を強いられることになる。本来、もっともそうなるリスクを背負っていたのは王国。ツヴァイセンファルケ公国とツェンタルヒルシュ公国は、王国のその状況を利用できる優位性を失うことになってしまうのだ。
「お考えは?」
「さらに敵を増やすわけにはいかない。ツヴァイセンファルケ公国と手を組むべきだな。それしかない……はずだが……」
本当にそれで良いのか、という思いが浮かんでしまう。王国軍の意味不明な動き。そうであったはずが、きちんとそれには意味があることが分かった。それに対して、どうすべきかも分かる。他に選択肢がない。その選択肢がないことが、クレーメンスは気になった。
「……考え過ぎか」
自分は王国の望む通りに動こうとしているのではないか。ツヴァイセンファルケ公国との同盟も、王国の策なのではないか。頭に浮かんだこの思いを、クレーメンスは否定した。ツェンタルヒルシュ公国とツヴァイセンファルケ公国が同盟を結ぶことで得られる利など、王国にはないのだ。
「使者を送る。護衛隊の編成を」
「はっ」
「作戦計画が決まったらすぐに動けるように、軍の出動準備も急ぎ整えるように。頼むぞ」
◆◆◆
ナーゲリング王国軍、臨設第九〇一部隊の動きはツヴァイセンファルケ公国にも伝わった。これは王国が想定していたよりも、かなり早い。部隊がツヴァイセンファルケ公国の支配地域を移動しているというだけでなく、その後の予定進路までツヴァイセンファルケ公国には伝わってしまったのだ。ツヴァイセンファルケ公国が整えていた情報網が機能した結果だ。
「……目障りな位置にいるものだ」
偵察から届いた報告を聞いたツヴァイセンファルケ公、レアンドル・アズナブールは苦い顔だ。王国軍の、臨設第九〇一部隊の動きは、公国にとって想定外のものなのだ。
「総勢四千、戦闘部隊は三千を少し超えるほどとのことですので、大きな脅威にはならないかと」
「少ないと無視出来る数でもない。作戦の目的は分かっているのか?」
「我が軍とツヴァイセンファルケ公国軍を引き寄せ、軍を分散させた上で、前線の突破を図ることと聞いております」
ツェンタルヒルシュ公国とは異なり、作戦目的もツヴァイセンファルケ公国には伝わっている。これは軍の偵察とは別ルート。諜報組織の成果だ。
「王国から攻め込んでくるつもりか……予想が外れたな」
「申し訳ございません。ディートハルトの思考は十分に研究したつもりだったのですが」
これはツェンタルヒルシュ公国と似た考え。ディートハルトは、もっと堅実な、負けない戦い方を選ぶと考えていた。自ら敵地に踏み込んでくることは避けると。そう思わせる為にも、公国領内の情報が王国に渡らないように苦心してきたのだ。
「諜報部の調べでは、作戦を考えたのは別人である可能性があるようです」
割り込んできたのは、その諜報部の人間。ツヴァイセンファルケ公国の通常の諜報部とは違う。公国主であるレアンドルの直轄であるということで諜報部内の組織となっているが、実態はまったくの別物だ。
「その別人とは何者だ?」
「イグナーツ・シュバイツァーである可能性を伝えてきています。根拠は、軍の重要会議に参加資格のない彼が呼び出されていたこと。その直後に作戦が決定したこと。そして、近衛特務兵団も参戦していること」
「……それは、その目障りな部隊にか?」
ツヴァイセンファルケ公はイグナーツ・シュバイツァーを知っている。ソルがイグナーツ・シュバイツァーであることを、王国軍近衛特務兵団にいることを知っているのだ。
「はい、そうです。殺しておくべきだったかもしれません」
そしてこの男はソルと会っている。プリミイバシでルシェル王女襲撃を行った聖仁教会のメンバーの一人なのだ。王国の予想通り、聖仁教会の関係者の多くが、ツヴァイセンファルケ公国に逃げ込んでいる。逃げ込んでいるなどと言われるのは、彼らにとって心外だろうが。
「そこまでの脅威ではない。少し邪魔なだけだ」
「でも、邪魔であるのは事実」
不敵な笑みを浮かべて、ツヴァイセンファルケ公に視線を向ける男。家臣が主に向けるような顔ではない。この男にとってツヴァイセンファルケ公は、忠誠を向ける相手ではない。目的の為に行動を共にしているだけなのだ。
「……今は他に優先すべきことがある。ツェンタルヒルシュ公国の動きはどうだ?」
ツヴァイセンファルケ公が問いを向けたのは最初に報告していた騎士。彼は公に忠誠を向ける騎士だ。
「まだ確証はございませんが、使者らしき一行が公都ヴィルデルフルスを発ったようです」
「使者が向かっているのは、ここだな?」
「そう考えております。王国に向こうとしても、ノルデンヴォルフ公国であったとしても、わざわざ遠回りする必要はないはずです」
ツェンタルヒルシュ公国の公都からどの方角に向かったかで、目的地は推測出来る。東に向かっているのであれば、ツヴァイセンファルケ公国だ。ツヴァイセンファルケ公国を突き抜けて、オスティゲル公国に向かう可能性はゼロではないが、今、ツェンタルヒルシュ公国がそれをする可能性は低い。
「……使者を途中で捕まえて、目的を聞き出せ。こちらが思う通りであれば、いや、そうでなくてもかまわない。ツェンタルヒルシュ公国が使者を送ってきた事実を証明出来れば良いのだ」
「承知しました。すぐに手配します」
「使者を捕えたら、すぐに動く。戦争の始まりだ」
「はっ!」
ツェンタルヒルシュ公国も動き出す。もっとも早く行動を起こしながら、その後はまったく動きを見せなかったツェンタルヒルシュ公国が、いよいよ軍を動かす。
時が来たのだ。動乱の始まり、そして大陸制覇の始まりの時だ。