「えっと……正気ですか?」
会議の場に呼び出され、説明を受けた後のソルの第一声がこれ。当たり前の反応だ。一応は正式な騎士になっているソルだが、王国軍の最高意思決定会議という位置づけの場に呼ばれ、これからの戦いに向けての作戦計画を考えろと言われたのだ。相手の正気を疑う。節度ある人間は王国騎士の頂点に立つ四人に向かって、「正気ですか?」なんて言葉は口には出さないとしても。
「何から何まで全てを考えろと言っているのではない。意見を聞きたいと言っているだけだ」
「そう聞こえませんでしたけど?」
実際にバルナバスがソルに告げたのは「対ツヴァイセンファルケ公国戦の戦い方を考えろ」だ。これについてはソルの言い分のほうが正しい。
「状況はある程度、理解しているのだろ?」
「サー・バルナバスは私を何者だと思っているのですか? 中隊よりも少し数が多い程度の部隊の隊長が知っていることなど限られています」
「……テーブルの上の地図、その上に置かれている駒は部隊配置だ」
イグナーツ・シュバルツァーだと思っているとは口にしない。
「地図だけ見て状況を把握しろって……」
地図に視線を向けるソル。その目つきは真剣なものだ。文句を言いながらも、地図上の情報で状況を把握しようとしているのだ。
「……駒の大きさは?」
「一番小さい駒が大隊以下。それより少し大きいのが大隊。ひとつの駒で一大隊だ。一番大きい駒は一軍、一万の軍勢を示している」
「そうですか……ツヴァイセンファルケ公国の軍勢の数が少ないのは、所在が分からないということですか?」
「何故、そう思った?」
バルナバスはソルの質問にすぐに答えを返すことなく、質問で返した。答えを持たないわけではない。ソルの思考の流れを確かめながら話をしようとしているのだ。
「何故と聞かれても……少ないと思ったからです」
「公国の常備軍はおよそ一万だ」
「その答えには何か意味があるのですか? これから戦争を行おうという公国が戦力を増強していないはずがありません。私で分かることです」
「そうだな。お前の問いの通りだ。ツヴァイセンファルケ公国軍の全部隊の所在は把握出来ていない。西に配置されている部隊の居場所も正確とは言えない」
王国はツヴァイセンファルケ公国軍の動きを把握しようと試みているが、成功しているとは言えない。
「それで戦争を?」
これから戦争を始めようという国が、そんなことで良いのかとソルは思う。情報を軽視する軍が、勝利出来るとは思えないのだ。
「情報局は、他の組織も、本来の活動が出来ていない。その理由はお前も良く知っているはずだ」
「……なるほど……なんか、まんまと嵌められている気がしますけど?」
情報収集が上手く行っていないのは人手が足りないから。元々、各地に人を送り込んでいたところに、聖仁教会と繋がっている裏切者がいることが明らかになった。信用出来ない組織が集めた情報もまた信用出来ない。ツヴァイセンファルケ公国軍の情報を集めたくても、今は出来ないのだ。
「わざと裏切者の存在を知らせることで、王国を混乱させようとしたと言うのか?」
「可能性はあります。それでも今、戦うのですか?」
聖仁教会とツヴァイセンファルケ公国が繋がっている可能性。これは王国も考えていることだ。そうであるのに、あえて敵の策略が上手く行っているこの時期に戦いを仕掛ける理由が、ソルには分からない。
「それが陛下のご命令だ。もう少し説明を加えると、すでに事は動き出しているということだ」
すでに事は動き出している。王国はヴェストフックス公国の手を握り、ツェンタルヒルシュ公国の手を振り払うこと決め、すでに実行している。宣戦布告を行ったも同然の状況で、何もしないではいられないのだ。
「全然、説明が具体的ではないですけど、止めるに止められない状況なのだと理解しておきます。それで……何を企んでいるのですか?」
「ツヴァイセンファルケ公国軍をこちらが望む戦場に引きずり出す」
「それは分かっています。敵戦力も把握出来ていないのに、敵地に乗り込むのは自殺行為です。私が聞いているのは、どうして私をこの場に呼んだのか、です」
「そうか。分かっているか……」
バルナバスの顔に笑みが浮かぶ。彼はソルに「作戦を考えろ」と伝えただけ。どういう作戦を求めているとは説明していない。そうであるのにソルは、求めているものが何かを理解していた。実際に使える作戦を思いつくかは分からないが、少なくともこの場に参加する資格があることは示せたとバルナバスは考えたのだ。
「問いの答えは頂けていませんけど?」
「何故だと思う?」
「それも答えではありません。それとも、その問いの答えを得ることが目的ですか? そうであれば……ああ、ひとつ聞きたいことがあります」
自分がこの場に呼ばれる意味。バルナバスだけであれば、いつもの無茶振りだと思えるが、この場には他に三人のナイトがいる。その彼らが、特に自分を良く思っていないルッツが、納得する理由があるはずだとソルは考えた。
「聞きたいこととは何だ?」
「作戦を考えるだけですか? 私もその考えた作戦に参加するのですか?」
「……参加する予定だ」
「そうですか……それなら良いか……作戦は、こうです」
テーブルの上に広げられている地図の一点に、ソルは駒をいくつか重ねて置いた。
「……お前……本気か?」
駒が置かれた位置はツヴァイセンファルケ公国とツヴァイセンファルケ公国の間、最初にディートハルトが置いた駒よりも更に先の、両公国の支配地域が接する場所だった。ソルはそこに三つの駒を重ねて置いた。三千の軍勢で敵のど真ん中に侵攻すると言っているのだ。
「敵を引き出そうにも相手にその気がなければ無理です。まずは敵の状況を把握すること。敵が動かないではいられない状況を作ることです」
「……敵戦力も把握出来ていない状況で敵地に乗り込むのは自殺行為と言ったのは、お前自身だ」
わずか三千の軍勢で敵地のど真ん中に向かうなど、敵戦力が把握出来ていても自殺行為だとバルナバスは思う。
「だから、まずは敵戦力を把握するのです」
「なるほど……」
バルナバスはこの一言で口をつぐんでしまう。ソルの作戦に納得したわけではない。ソルが何故このような提案をしてきたのか、考え始めたのだ。
「威力偵察部隊だとしても、その位置まで進むのは危険すぎる。無理せず、危険だと思えば途中で引き返すのだとしても……それで目的は果たせるのか?」
考えに集中し始めたバルナバスに代わって、ディートハルトがソルに質問を投げてきた。彼はただ作戦のことだけを考えている。作戦案に疑問があればそれを口に出して尋ねる。当たり前のことだ。
「この位置が危険なのは、ツヴァイセンファルケ公国とツェンタルヒルシュ公国が同盟関係にある場合です」
「……両公国も王国と敵対関係にある」
ソルの説明はディートハルトには納得できないものだ。
「えっ、そうなのですか? ツェンタルヒルシュ公国もすでに軍を動かしているとは知りませんでした。だとすると、少し危険かもしれません」
「まだそういった情報は得ていない。得ていないが……ツェンタルヒルシュ公国は自ら動くことはないと考えているのか?」
宣戦布告も同然、ではあるが宣戦布告を行ったわけではない。ツェンタルヒルシュ公国が王国に攻め込む理由はないのだ。あくまでも野心を持っていないという前提で、ディートハルトたちはそう思っていないが。
「それは一騎士である私に分かることではありません。それにそういう状況を作りだすのも、私ではありません」
「……言いたいことは分かる。だが、先ほど、サー・バルナバスが説明した通り、事はすでに動き出しているのだ」
外交で、時には策謀に近い外交で、味方に有利な状況を作りだす。そうすべきであることはディートハルトにも分かる。だが、すでにそれを行う機会を逸していると思っている。
「……勝つつもりなのですよね?」
「なんだと?」
当たり前の答えをわざわざ問うソル。それを受けて、ディートハルトの表情にわずかに不快さが浮かんだ。勝つ気がないと思われるのは、心外なのだ。
「ツヴァイセンファルケ公国とツェンタルヒルシュ公国両国と同時に戦って、勝つつもりなのですよね? であれば負けない為の作戦ではなく、勝つための作戦が必要なはずです」
「……これが勝てる作戦だと?」
浮かんだ不快さはすぐに消えることになった。無意識のうちに「負けない」ことのほうを重視していた。そうであったことにディートハルトも気付いたのだ。
「可能性はあるとは思っています」
「その根拠を説明してもらいたい」
「……まずツェンタルヒルシュ公国ですが、背後のノルデンヴォルフ公国は王国を攻めるツェンタルヒルシュ公国に協力するでしょうか? 協力を約束したとして、ツェンタルヒルシュ公国はそれを完全に信用出来るでしょうか?」
ノルデンヴォルフ公国とメーゲリング王国は同じシュバイツァー家。ユーリウス王とノルデンヴォルフ公であるエルヴィンの仲がどのようなものだとしても、家臣の中には王国攻めに強く反発する者がいるはずだ。
そして、そうであることはツェンタルヒルシュ公国も分かっているはず。味方として完全に信用することなど出来ないとソルは考えている。
「……ツェンタルヒルシュ公国は積極的な攻勢には出られないな」
「という前提で行くと、ツヴァイセンファルケ公国との共闘はどうするか。共闘を躊躇う、もしくは積極的に共闘を求める二つの真逆の可能性があります。そのどちらを選んだかは、この軍勢に対して、どう出るかで分かります」
王国との戦いを躊躇うのであれば、ツヴァイセンファルケ公国との同盟にはすぐには踏み切れない。王国との戦争に引きずり込まれることになるからだ。一方で、ノルデンヴォルフ公国の代わりになる頼れる味方が欲しいと考えれば、共闘に積極的になる。どちらの可能性もある。
「……両軍が攻めかかってくるようであれば、すでに共闘関係にある。そうでなければ……お互いに牽制し合うことになる。なるほど、それが狙いか。両国の戦力はその為に、割かれることになる」
ツヴァイセンファルケ公国もツェンタルヒルシュ公国も領境に軍を展開せざるを得なくなる。共闘の約束が出来るまでは、一時的であるとしても、王国との最前線に割ける戦力は減る。王国軍が覇権する三千よりも、多い数だ。ツヴァイセンファルケ公国は王国軍三千とツェンタルヒルシュ公国軍の両方に対応できる数が必要で、ツェンタルヒルシュ公国も同じだ。
これは当初のディートハルトの考えと同じ。それをもっと大胆に、ソル自身が言ったように、敵が動かないではいられないような状況にまで、踏み込もうとしているだけだ。
「他にもありますけど、それも全て推測です。絶対ではありません」
「……戦いに絶対はない。勝利の可能性に一番近いと思われるものを選択するしかない。君の提案を選択するか、しないか……」
ソルはひとつの勝利の可能性を示した。まだ作戦の入口ではあるが、方針はすでに明らかだ。敵戦力を分散させた上で、主力で最前線を突破する。まずはツヴァイセンファルケ公国。動きが鈍いであろうツヴァイセンファルケ公国は後回しだ。
これはディートハルトの考えとも一致した。あとは方法の選択だ。ソルの提案を選ぶか、別の方法を考えるか。
「その前に、ひとつの条件を満たすことが必要です。さすがに今のままでは、私も自殺行為だと思います」
「その条件とは?」
「もっと詳細な目的地点までの地図が必要です。それが入手出来るかどうかで、成功確率と生き残りの可能性が大きく違ってきます」
「それはこの地域全体のものか? そうであれば、これ以上、詳細な地図はない」
軍が使用する地図だ。出来る限り、詳細なものが用意されている。特定の戦場、重要地域の地図であれば、もっと精緻なものもあるが、広域地図となると今、テーブルの上に広げられているものがそうなのだ。
「いえ、あります。いや、ありましたか。今もあるかは調べてみないと分かりません」
「……それはどこに?」
「城に。ルシェル殿下のご協力が必要です。サー・ディートハルトでも許可がないと入れないと思いますので」
「……そうか……良いのか?」
城の奥、王家の居住区域だ。そこにあるはずだというソルの言葉は、自分が何者であるかを暗に示している。それがディートハルトにも分かった。イグナーツ・シュバイツァーはフルモアザ王国のルナ王女の婚約者だった人物。ディートハルトはこの事実も教えられているのだ。
「皆さん、すでに、ご承知のことだと思ったのですけど? 企みはそれ絡みだと」
「……その通りだ」
「では、問題ありません。王女殿下には、軍からの依頼にされますか?」
「ああ、そうさせてもらう。君の名を借りることになるとは思うが」
「かまいません」
自分も同行するという意思。ディートハルトの答えはそういうことだとソルは受け取った。そう考えるだろうと思ったから「軍からの依頼にするか」と尋ねたのだ。
さすがに、この場にいる全員が同行するとは思っていなかったが。
◆◆◆
城内の廊下を慣れた様子で歩くソル。本来の道案内はルシェル王女の役目のはずなのだが、目的の場所はソルしか知らないので、彼が前を歩くことになってしまうのだ。
ソルを先頭に、ルシェル王女が続く。その後をディートハルトたち四人が歩いている。他に同行者はいない。
「不用心ですね?」
「人払いをしました。変な風に噂が流れても、皆さんが困ると思って」
上級騎士が勢ぞろいで城の奥を、それもルシェル王女の下を訪れている。それに対して余計な詮索をさせないように、ルシェル王女は人払いをしていた。
「いえ、そのことではなく、造りが変わっていないことです。部屋の中身が違っているのであれば、問題ないのかもしれませんけど」
こうして久しぶりにこの場所を訪れる自分でも迷わず歩くことが出来る。同じようにこの場を知る、悪意を持った人の侵入も容易だろうと、ソルは考えたのだ。
「……そうですね」
「着きました。鍵は?」
「掛かっていません。でも……ここですか?」
この場所はルシェル王女も何度か訪れている場所。一人で考え事をするには丁度良い大きさの、喫茶室として使っている部屋だった。
「記憶ではここですけど……合っているかどうかは中に入れば分かります」
「そうですね」
扉を開けて中に入る。ルシェル王女にとっては見慣れた、テーブルと椅子が置かれているだけの部屋。ソルの言う地図など、どこにもないはずだった。
「……家具以外は変っていないですね?」
これを口にするソルの表情は曇っている。この場所はルナ王女との談笑の場。二人だけの時間を過ごすのに使っていた、想い出の場所なのだ。
その胸を痛くするような想い出を頭に浮かべながら、ソルは部屋の一角に向かう。なでるように壁に手を這わしたかと思うと、壁の一部を押した。さらに別の場所でも同じようなことを繰り返している。
「……ああ、何というのが正しいか知りませんけど、からくり細工みたいなものです。正しい順番で動かしていくと……」
何をしているのかと不思議そうに見ているルシェル王女たちに説明しながら、ソルは壁を動かしていく。最後は、壁の一部を引っ張りだしてしまった。
「この通り……どうやら残っていました」
「地図が?」
「はい。これです」
ソルが取り出したのは紙の束。かなりの量だが、それで全てではない。壁の一部、引き出しの中にはまだ多くの紙が入っている。その全てが地図なのだ。
「……これは……フルモアザ王国の地図ですか?」
「サー・ディートハルト。言葉遣いが変わっていますけど?」
ソルは間違いなくイグナーツ・シュバイツァー。ルシェル王女が、王国が知らない隠し場所を知っていたことで、それは証明された。その事実が、ついディートハルトの言葉遣いを改めさせてしまう。
「……失礼。これはフルモアザ王国が作成した地図なのか?」
「正確には私が模写したものです。ですから、原版があるはずなのですが、どうやらそれは今の王国にはない」
貴重な地図を破棄するとは思えない。もし本当に王国が所有していないのだとすれば、誰かが盗み出したということだ。それがツヴァイセンファルケ公でも、ツェンタルヒルシュ公でも、おかしくない。オスティンゲル公の可能性もある。
「……分かっていたことだが、その時から事は始まっていたということか」
公国は竜王アルノルトが倒れた時から、この日の為の準備を進めてきた。そういう相手とメーリング王国は戦わなければならない。戦い、勝利しなければならないのだ。厳しい状況であることをディートハルトたちは、改めて、思い知らされることになった。
「それでも、戦いに絶対はありません。違いますか?」
「……ああ、その通りだ」
だがソルの一言が、その心に広がった不安を払ってくれる。イグナーツ・シュバイツァーであると分かった相手の言葉であるから、そう感じるのか。そんなことは関係なく、周囲を奮い立たせる何かがソルにはあるのか。それはディートハルトには分からない。彼はもう、ソルをイグナーツ・シュバイツァーとしてしか見られないのだ。