どうやってそこまでたどり着けたのか。ソルにはまったく記憶がない。王都から馬を四刻ほど駆けさせた場所にその森、「腐死者の森」はあるのだ。ソルはその森まで歩いて辿り着いた。即死していたはずの大怪我を負った体で、ルナ王女の亡骸を背負って。
どうして「腐死者の森」を目指していたのかは分かっている。「腐死者の森」はバラウル家の秘墓所。公にはされていないが、多くの祖先が埋葬されている場所だ。ソルはルナ王女の亡骸もそこに埋葬しようと考えたのだ。それが彼女に救われた自分の義務だと考えたのだ。
だが、いざ辿り着くと埋葬することに躊躇いを覚えた。肩口から胸にかけての大きな傷と喉の傷を無視すれば、ただ寝ているだけのように見えるルナ王女の亡骸を土の下に埋めることなど出来なかった。
何をするでもなく、ただルナ王女の亡骸の近くに座り、彼女の顔を眺めているだけで時間が過ぎていく。日が沈み、辺りを闇が覆い、そしてまた日が昇る。その間、じっと身じろぎもせず、ソルはルナ王女の亡骸の側に座り続けていた。
「……ルナ……もう起きても平気だよ。もうルナを傷つける奴らはいないよ」
バラウル家の力があれば、ルナ王女は生き返るのではないか。そんな期待もあった。こうして時々話しかけてみた。だが、彼女は目を覚ましてくれなかった。
「必ず生き返る。大丈夫。それまで俺がルナを守るから」
彼女が生き返るまで、そばにいて守り続ける。ソルはそう誓った。必ずまた会える。話が出来る。一緒に生きていける。そう信じたかった。
だが、現実は残酷だった。ソルが思っていた以上に。
「……えっ?」
いつの間にか眠ってしまったソル。彼を目覚めさせたのは、足音だった。
「……ルナ……ルナっ!! 待て! ルナを連れて行くな!」
ルナ王女の足音ではない。正体不明の男、であろう者たちがルナ王女の亡骸を運んでいた。
「待て!!」
正体不明の男たちを止めようと後を追うソル。その駆ける足を緩めることなく、最後尾の男に体当たりする。ソル自身が驚くような勢いで男は吹き飛んだ。吹き飛び、頭を木に打ちつけ、首が折れた。
人を殺した。その恐怖がソルの心に広がったが、それはわずかな間だった。ゆっくりと立ち上がる男。首は折れ、頭が垂れ下がっている状態で。
「……な、なんだ? ば、化け物、なのか?」
相手は普通の人間ではなかった。後にソルも認識するが不死者、森の名の由来となった「腐死者」だった。新たな恐怖がソルの心に広がっていく。恐怖で足がすくみ動けなくなった。
「……追わなきゃ……ルナを助けなきゃ……」
ソルが動けなくなっている間にも、ルナ王女の亡骸を抱えた腐死者たちは先に進んでいく。後を追わなければならない。ルナ王女の亡骸を取り戻さなければならない。そう思っているのに恐怖で体が動かない。
「……駄目だ……駄目だ……」
腐死者に怯え、大切な人を守れない自分が情けなくて、悔しくて、ソルは涙が止まらなかった。動かない足を全力で叩く。手に力は入るのに、足は動かない。ルナ王女の、彼女を抱える腐死者の姿が見えなくなる。
「動け……動け……動けぇええええっ!」
全身が燃え上がったかと思うような熱さを感じた瞬間、ようやく解けた呪縛。先に進んでいった腐死者の群れに追いつくのに、時間はかからなかった。ソルの速さだけではない。相手のほうも待ち構えていたのだ。
「どけぇええええっ!!」
行く手を塞ごうとする腐死者に拳を叩き込む。腐敗した肉がまとわりつく嫌な感触が手に残るが、それを気にしている場合ではない。躊躇うわずかな時間で、ルナ王女は先に行ってしまうのだ。
殴る、蹴る、突き飛ばすを繰り返すソル。だが腐死者の動きも止まらない。どれだけ攻撃してもソルに向かってくる。さらに一人、また一人とその数は増えていった。
「邪魔するな! 俺のルナを連れて行くな! どけ! どけぇええええっ!! ルナ! ルナァアアアアッ!!」
群がる腐死者の群れ。その群れに手を、足を掴まれて動けなくなるソル。また彼の瞳から涙が零れ落ちる。また自分はルナを助けられない。彼女の為に何も出来ない自分に怒りが湧いてくる。自分が憎かった。許せなかった。自分で自分を殺してしまいたかった。死のうと思った。せめてルナ王女を殺した奴らを道連れにして。
ソルの生きる目的は、償いの為に生き、そして死ぬことになったのだ――
◆◆◆
「…………夢?」
夢ではない。寝ている間に、思い出したくない記憶が浮かび上がっただけだ。すぐにソルはそう思い直した。
「…………」
嫌な汗が体にまとわりついている。忘れることは決してない、忘れることなど決して許されない記憶。だがそれが頭に浮かんだのは久しぶりのことだった。
「……まさか……怒らせたかな?」
ソルには心当たりがある。自分の罪をもう一度、思い知らされる理由。それはすぐ隣に寝ている女性、ミストの存在だ。
「……ん? 何?」
「あっ……えっと……おはようございます」
ルナ王女のことを考えている時に、ミストが起きてしまった。ソルは気まずさを感じ、そう感じてしまった自分を恥ずかしくも思ってしまう。自分がすごく駄目な男のように思ってしまうのだ。
「…………」
ソルの挨拶に対し、ミストは目を見開いたまま固まっている。今の状況を少し理解したのだ。そしてすぐに、全てを理解することになる。
「えっと……どうしました?」
「夢……じゃない?」
「それが昨夜のことであれば、そうです」
ソルとミストは初めての一夜を過ごした。成り行き、ではない。ミストが望み、ソルが受け入れた形だ。だからといってミストが一方的に望んだわけでもない。ソルもまたミストを求めたのだ。
「……そうか……正直、お前が受け入れてくれるとは思っていなかった」
ただの口約束。何もしなければ、ずっと二人の関係は変わらない。そう思っていた。それは寂しかった。だから勇気を出してみた。だが、そうしてもソルは受け入れないと思っていた。
「それはこちらの台詞です。ミストさんが本当に受け入れてくれるとは思っていませんでした」
「……変わらないな?」
「もっと馴れ馴れしくしたほうが良いってこと? それってなんだか嫌な感じじゃないですか?」
体の関係を持ったからといって、いきなり態度を改めるのはどうかとソルは思う。実際は、それを言い訳にして、ミストとの間にわずかな線を引こうとしているだけ。そうすることで、ルナ王女への罪悪感を薄れさせようとしているだけだ。自分で自分をズルい、嫌な男だと思う。
「どうでも良い。お前のしたいようにすれば。私は、お前を感じられただけで幸せだ」
「……そういうことを言うから」
最初に出会った時にはまったく想像出来なかったいじらしさ。ミストのこういう態度がソルの心を揺らしてしまう。罪悪感を覚えているのに遠ざけることが出来なくなる。遠ざけるどころか、引き寄せてしまうのだ。
「本当はずっとお前を感じている。思い上がりかもしれないけど、何かが繋がっている気がする。思い上がりじゃなくて、そうあって欲しいという願望か」
「……ひとつ伝えておかなければならないことがあります」
願望でも、錯覚でもない。それは事実なのだ。
「何……?」
ミストの表情が曇る。ソルの表情を映しているのだ。ソルの表情で、自分にとって良くないことを言われると分かったのだ。
「命は助かりました。でもミストさんはその代償を支払うことになるかもしれません」
バラウル家の血による悪影響は伝えておかなければならない。何も知らないまま苦しませるわけにはいかない。自分の責任だとソルは思っている。死なせたくないという自分の我儘で、ミストを苦しめることになるのだ。
「……代償って?」
「ミストさんは今のミストさんでいられなくなるかもしれません。今とは違って……残虐な人になるかもしれない」
「それって……もしかして自分のせいだと思っているのか?」
ソルの辛そうな表情がそれを示している。表情を見なくても、ミストにはなんとなく感じられるのだ。ソルの心が。そういう繋がりを持ったのだ。
「はい。俺のせいです」
「……良く分からないけど、それはきっと私の命を救ったからだな。人を助けたお前が責任を感じるのはおかしい」
「でも……生きていることが辛いと思うこともあります」
「……お前はきっと、そうなのだろうな。何故だか私には分かる。でも、私はそうは思わない。自分がどうなっても、お前の側にいられれば、生きていて良かったと思える」
ソルとミストは違う。ソルは大切な人を失った、殺してしまったのに、自分はおめおめと生き延びていると思っている。ミストは生き延びられたおかげで大切な人と一緒にいられると考えているのだ。
ただソルの言う「生きているのが辛い」は、今のミストには分からない。その時に、絶対にその日が訪れるとは決まっていないが、ならないと分からないことだ。
「……もしかすると……ミストさんが俺の救いなのかもしれませんね?」
「はっ? なんだよ? 恥ずかしいこと言うなよ」
「いや……でも、なんとなく……」
ルナ王女という大切な存在を失った自分は、本当はもっと狂っていてもおかしくないはずだとソルは思っていた。人を殺すことに躊躇いを覚えないところは、すでに少し狂っているのだと思う。だが、そんなものではないはずなのだ。歴史に名を残す残虐な王たちと同じになってもおかしくないはずなのだ。
だがそうはなっていない。それはミストのおかげかもしれないとソルは思った。彼女の存在が自分の心を支えてくれているのではないかと。
ソルの中でミストの存在が少しずつ、確実に大きくなっていく。ルナ王女への想いもそれを止められていない。
◆◆◆
王国からの通達は、クレーメンスにとって信じられないもの。何かの冗談か、誰かの企みではないかと疑ったほどだ。それはそうだ。何の罪もないのに、一部とはいえ、領土を明け渡せというのだ。そんな要求は、フルモアザ王国の王の話でも聞いたことがない、横暴で傲慢な要求なのだ。
まず本当にクレーメンスは、何者かの策略を疑った。何者かがユーリウス王と自分との関係を壊そうとしている。もともと良い関係ではなかったが、完全に決裂させようとして、あることないこと吹き込んで、ユーリウス王の悪感情を刺激したのではないかと考えた。
その誤解を解かなければならない。それには何者も介さず、直接会って話をするのが一番だ。こう考えて王国に使者を送ったが、それも拒否された。ユーリウス王は釈明の機会も与えてくれなかった。
「……愚かな王だ」
本気でそう思う。自ら関係を悪化させ、戦わざるを得ない状況に相手を追い込もうとしているのだ。平和ではなく戦乱を望む王など、愚かとしか言いようがない。
「何者かに騙されているのではないですか?」
「その可能性は考えたが、どうやら違うようだ。王は自ら決断したのだ。ヴェストフックス公国と手を握り、我らの手を払う決断を」
「どうしてそう思うのですか?」
クレーメンスはユーリウス王と会えていない。王都で何がどのように決められたかは分からないはずだとビアンカは思っている。
「伝えてくれた者がいた」
「その者こそ、謀を行っている人物ではないのですか?」
ユーリウス王は間違った決断を行ったかもしれない。だが、まだ諦めるのは早いとビアンカは考えている。何か根拠があってのことではない。戦乱の世の中など来て欲しくないのだ。
「その可能性はある人物だ。だが嘘で人を騙すような人物ではない。あの者の企みはもっと深い。何を考えているのか、誰の味方か、簡単には分からない」
「……リベルト卿ですか」
「お前の耳にまで噂が届いているのか? それは驚きだ」
表立って謀を行う人物ではない。謀なのだから当たり前、ということではない。全てが終わったあとも何があったか分からない。ただ最後まで残っているのはリベルト外務卿、というものなのだ。
それをビアンカが知っていることにクレーメンスは驚いた。一般的なリベルト外務卿への評価は勤勉で、誰に対しても親切な男、なのだ。
「奥の情報網は侮れないものです。城内での出来事はそれがどのようなものであれ、奥に集まります。ほとんどが侍女が楽しめる、面白おかしい話なのですが、そういう中にも真実は含まれているものです」
そういった情報を得られる伝手がビアンカにはある。女性同士の交流の中での情報の伝達を止める術を、王国は持たないのだ。
「……フルモアザ王国の時代もそうだったのか?」
そうであれば、よく竜王暗殺は成功したものだとクレーメンスは思った。ビアンカとの連絡、彼女自身の動きも竜王に筒抜けになっていてもおかしくなかったはずだ。
「まさか。奥の人間はほぼ監禁状態。外に出られる者はごく限られた者だけでした。奥の情報が漏れることも、外の情報が入ってくることもありません」
ナーゲリング王国は、奥で仕える人たちを監禁状態にするような真似はしない。入ることは制限されるが、出ることは自由。情報は外に持ち出されることになる。奥ではなく奥以外の城内であれば、罪にはならないという理屈で。
「そうか……」
「そういう人物です。味方のふりをして、兄上を騙しているのではありませんか?」
「だとしても情報は真実である可能性が高い。ユーリウス王が決断し、話し合いも拒絶された。その事実の上で我らはどうするか? 平和の為に領土割譲を受けいれてもかまわないが、それで平和は続くのか?」
続かないとクレーメンスは考えている。ユーリウス王は戦乱を求めているのだ。その為にヴェストフックス公国と手を結ぼうとしている。領土割譲は国力を落とすだけ。その後の戦いで不利になるだけだ。
「……続く、とは言えません」
「そういうことだ」
ビアンカもクレーメンスと同じ考え。反論は出来ない。ツェンタルヒルシュ公国も決断することになる。戦乱の時代を迎えることを認め、それに備えることを。生き残る為に戦うことを。