ソルとヴィクトール公子が交渉を行う場所として用意されたのは、城の奥。王家の人々の居住空間に近い場所だ。王家の人々の日常がある奥での出来事を外部に漏らすことは絶対に許されない。王家の人々の素が必ずしも王国の人々に受け入れられるものであるとは限らないというのが理由だ。国王が特殊な性癖を持っているなんて情報はもちろんのこと、夫婦仲が悪いなんてことも外部に知られるわけにはいかない。その程度の情報でも、場合によっては、国の乱れに繋がることがあるのは歴史が証明している。奥の情報を漏らすことは重罪。内容によっては死罪となることもある。それくらい情報秘匿が徹底されている、密談を行うには最適な場所なのだ。
「……まずは私から話します」
交渉の席についたものの、ソルもヴィクトール公子のどちらも話を切り出そうとしない。仕方なくルシェル王女は、自分から話を始めることにした。
「ソルの本名はイグナーツ・シュバイツァー。私の弟になります」
ソルの反応を見ながら、これを話すルシェル王女。ソルはまだ自分がイグナーツであることを認めていない。どう反応するか気になるのだ。
「ツェンタルヒルシュ公国でイグナーツ殿の存在を知りました。ですがツェンタルヒルシュ公はイグナーツ殿は亡くなったと言っていました。自分たちが殺したと」
だがソルは無反応のまま。応えたのはヴィクトール公子だった。
「えっ……?」
しかもルシェル王女にとっては衝撃の事実だ。
「殿下はご存じありませんでしたか? それは……困ったな」
イグナーツを殺害した人たちの中には、ルシェル王女の父、ベルムント王もいる。彼女にとって、かなりショックな事実であることはヴィクトール公子にも分かる。迂闊に話してしまったことを、少し反省することになった。
「ソル……そうなのですか?」
「……今更、惚けても仕方ありませんか。はい。私は以前、イグナーツを名乗っていました。そしてルナ王女の婚約者になり、竜王殺害事件の時に殺されました。殺されかけました、と言うべきですか」
「そんな……」
ソルの口から語られてしまえば、「何かの間違いだ」などと気持ちを誤魔化すことは出来なくなる。ルシェル王女の顔から血の気が引いていく。父親の、まさかの、悪行を知ってひどく動揺しているのだ。
「ツェンタルヒルシュ公はベルムント王には殺すつもりはなかったと言っていた。実際に手を下した相手を非難していたそうです」
「……そうだとしても、いえ、今はこの話は止めましょう。本題からは逸れています」
今はこれ以上、この件について話をしたくない、が本音だ。ひどく動揺している上に、ソルに何を話せば良いかも分からない。ソルが父親のことをどう思っているかも分からない。
「そうですね。それで、小竜公と呼ばれている理由は?」
「ルナ王女の婚約者、竜王の義理の息子であったから。さらに言えば、私自身は過大評価だと思っていますが、そう呼ばれるに相応しい能力があると思われたからです」
この場で全ての真実を語るつもりはソルにはない。ベルムント王を殺し、復讐を果たしたからなんてことを話せるはずがない。
「その能力とは?」
「さあ? 何を評価しているのかは分かりません。恐らく、彼らの命を、結果として救ったような形になったから、そう呼んで持ち上げているのだと思います」
「命を救った?」
「今、兵団の団員になっている人たちの中には、元々討伐対象だった人たちがいます。私は交渉役として戦うことなく彼らを降伏させました。王国で生きる場所も与えた。実際は王女殿下のおかげなのですが、彼らは窓口となった私のおかげだと思い込んでいるのです」
交渉の席につくにあたって、それらしい嘘は用意してある。それほど練ったものではない。ベルムント王を殺したという事実が明らかにならなければ良いのであって、疑われるくらいは許容範囲内なのだ。
「……それで? 君は何を知っている? 条件とは具体的にはどのようなものだ?」
実際にヴィクトール公子はソルの話を疑っている。だが、ソルが提示する条件次第では、それも含めて口外しないということになる。真実を追及することで交渉が打ち切りになるような事態は、この時点では避けたかった。
「まずはバラウル家の力について。色々と虚実が混じった情報が世の中には広まっていますが、バラウル家の人たちは自家に伝わる能力を病気のように考えていました」
「……そうか」
これは驚きの事実ではない。自分の父親の状態を考えれば、納得できる話だ。
「常人を遥かに超える身体能力、治癒能力を得る代わりに、精神に異常を来たします。極端に攻撃的な性格になり、戦いを、いえ、血を好み、他人の命を軽んじるようになる。さらに悪化すると、自分の力を確かめる為だけに人を殺すなんていうことになる」
「…………」
「ヴィクトール公子の御父上、オスティンゲル公はすでにこの状態になっている。違いますか?」
「……その通りだ」
ソルは思っていた通りの情報を得ている。ヴィクトール公子の父親はソルが言った通りの状態になっているのだ。
「殺戮対象は無差別。息子であろうと関係ありません。自分の力を誇示するという目的であれば、跡継ぎという存在により強く殺意を抱くこともあるかもしれません」
「……ああ、その通りだ。父は私を、自分の座を奪う存在と考えている。明らかな殺意を感じたこともある。その時はまだ自制心が働いたようだが」
ヴィクトール公子の話を聞いて、ルシェル王女は悲痛な表情を浮かべている。父親に命を狙われてるという、あり得ない状況に置かれているヴィクトール公子に同情しているのだ。
「さらに悪化すれば、それこそ無差別。バラウル家の歴史に刻まれている悪逆無道の王と同じ存在になってしまいます」
「治す方法は? ツェンタルヒルシュ公は、今は落ち着いていると言っていた。王女殿下の前では言いづらいが、ベルムント王の死のおかげだと言っていた」
「王の死のおかげ、ですか?」
ソルには理解出来ない説明だ。他人の死が精神を正常化させるなんて知識は、ソルにはない。
「自分が得た力に価値を感じなくなったからだと言っていた」
「力を誇示する気持ちがなくなったからということですか……あり得るかもしれません。ですが、それはきっとヴィクトール公子の御父上には当て嵌まらない。元々のその人の素養も影響していると私は思います」
「ツェンタルヒルシュ公も同じ考えだった。父は、父は元には戻らないのか?」
竜王の子と呼ばれるような人物であれば、治す方法を知っているかもしれない。ヴィクトール公子はそう期待していた。無に近い可能性だと分かっていても。
「治す方法を私は知りません。知っているのは治す為に研究されてきた資料があるという事実だけです」
「なんだって?」
「最初に言ったではないですか? バラウル家は病気だと考えていたのです。そうであれば治す方法を見つけようとするのは当たり前のこと。私が知る限り、発見はされていませんが、それに繋がるかもしれない貴重な研究資料があるはずです」
その資料の存在をソルは、ルナ王女に教えられて知った。実際にその資料を見てもいる。ルナ王女の精神がおかしくなるなんてことは受け入れられなかった。万が一そんなことになった時は、絶対に治す方法を見つけようと思った。その覚悟を知った竜王が、閲覧を許可してくれたのだ。
「その資料はどこにある?」
「それが条件です。場所を教える代わりに、私についての情報は近衛特務兵団に入団する前の情報は一切、口外しないと誓えますか?」
「口約束は信用しないのでは?」
条件を受け入れるつもりはある。ヴィクトール公子が求めていた情報に、今現在、もっとも近い貴重な情報だ。拒否することはあり得ない。だが、ソルの真意はもう少し確かめたいと思った。自分と対等か、それ以上に交渉を進めるソルをもっと知りたくなったのだ。
「バラウル家の力の真実と共に、御父上のことを話します。ヴィクトール公子ご自身のことも。さて、オスティンゲル公国の人々はこの事実を知っても、変わらずハインミューラー家に忠誠を向けてくれるでしょうか? 大量虐殺を行うかもしれない施政者を受け入れるでしょうか?」
「なるほど、そう来るか。問題ない、とは強気に出られないな」
その程度のことで公国民は揺るがない、とはヴィクトール公子は言わなかった。ここで強がっても意味はない。交渉はソルのほうが優勢なのだ。
「では条件を受け入れるということで良いですか?」
「ひとつ聞きたい。どうして素性を隠している?」
交渉をまだ終わらすつもりはヴィクトール公子にはない。実際は交渉そのものは終わっているも同じだが、話し合いは続けたいのだ。
「素性……イグナーツ・シュバイツァーという名のことですか?」
「そうだ」
ユーリウス王と謁見した時のことを考えれば、ソルのほうが優秀であるように思える。戦闘力も高い。そういう存在がシュバイツァー家にいるということを、どうして隠そうとするのか。その理由がヴィクトール公子は気になっている。
「もしかして内輪もめを期待していたりしますか? それは中々、ユーリウス王の為人を良く理解しているようですが、その期待は無駄です」
「……何故だ?」
ソルにはユーリウス王に対する敬意がない。それは「ユーリウス王」と国王を呼んでいることで分かった。あくまでもヴィクトール公子の常識からの判断だが、この場合は正解だ。
「私はシュバイツァー家の人間ではありません。赤の他人を書類上だけシュバイツァー家の人間にして、バラウル家に送り込んだのです」
「……赤の他人」
「だから継承権なんてありません。イグナーツ・シュバイツァーは死んだ。それは私自身にとっても都合の良いことです。運よく得られた残りの人生を他人として生きたくはありませんから」
半分以上は本当の気持ちだ。イグナーツとして生きるつもりはソルにはない。ルナ王女に貰ったソルとしての人生を奪われたくないのだ。
「……もう一つ。アードルフ殿との関係は?」
ソルの話が真実だとして、ひとつ疑問が残る。アードルフはどうして赤の他人であるソルに。特別な思いを抱いているのかという疑問だ。アードルフの話からは、誰でも良かったはずはないのだ。
「……王女殿下の祖父殿のことですか? 会ったこともありません。あっ、分かりません。記憶にないだけかも?」
ソルの視線がルシェル王女に向く。自分の記憶にはないが、もしかすると会う機会はあり、それをルシェル王女は覚えているかもしれないと考えたのだ。
「……会っていないと思います」
「ということです」
「そうか……もうひとつ、いや……ルシェル王女。申し訳ありませんが、少しだけ席を外して頂くことは出来ますか? 彼と二人だけで話したいことがあるのです」
これ以上の話はルシェル王女がいる場では話せない。話してしまっては意味のないものになってしまう。そういう話をヴィクトール公子はソルとしたいのだ。
「……分かりました。私は自室にいますので、終わったら廊下にいる侍女に伝えてください」
強い疎外感を感じてしまうが、拒絶するわけにはいかない。拒絶すれば、ヴィクトール公子はその話をしないだけだ。
「ありがとうございます」
ルシェル王女は席を立って、部屋を出て行った。
「……さて、答えたくなければ答えなくても良い」
「言われなくてもそうします」
ルシェル王女がいなくなってしまえば、ヴィクトール公子に対して礼儀を保つ気にはなれない。殺そうとした相手なのだ。今更、取り繕う理由がない。
「そうだな。君はナーゲリング王国、いや、バラウル家をどう思っている?」
「それ聞く必要ありますか? 分かっているから聞いているのですよね?」
「それが答えであるなら、それで良い」
きちんとした答えを得られるとは思っていない。どういう反応を示すか確かめたかっただけで、それは成功した。
「勝手に思い込まれても困ります。家族だと考えています」
「……はっきりと口にするのか」
「分かっている人に対して嘘をついても意味ありませんから」
「はっきりと口にすることで、秘密としての価値を低くすることは出来る」
ソルにとっては隠さなければならない秘密ではない。はっきりと言葉にしたのには、そう思わせる意味がある。ヴィクトール公子はこう考えた。
「確かに。でも、この場合は違います。条件は私が近衛特務兵団に入団する前の情報は口外しないこと、ですから」
それ以前のこと、復讐を果たす為にベルムント王を殺したという事実も口外してはいけないことに含まれる。
「なるほど……どうして王国軍に?」
「ひとつは頼まれたからです。無関係な娘は助けて欲しいと。それ以上に守って欲しいと」
「……そんなことがあったのか」
その頼んだ相手はベルムント王。ソルははっきりと娘と言った。ルシェル王女の親はベルムント王と元王妃。どちらからとなれば、ベルムント王しか考えられない。元王妃とソルが会う機会があったとは思えないのだ。
「もうひとつの理由は、こうして貴方のような人に会えるから。予定では戦場で会う予定だったのですけど。言うまでもありませんが、会いたかったのは御父上のほうです」
「……今の話は入団する以前の情報ではない」
「はい。別に今の話は口外されてもかまいません。ハインミューラー家は王国の敵ですから。書類上だけとはいえ、シュバイツァー家の人間が、ハインミューラー家と戦おうと考えていることに問題がありますか?」
「宣戦布告ということか」
ハインミューラー家に知られてもかまわない。ソルは堂々と敵であることを宣言したのだとヴィクトール公子は考えた。
「どうでしょう? 御父上は私と会うまで生きていられる可能性は少ないと思います。そして私に無差別殺人をするつもりはありません」
「……貴様という奴は」
その父親を殺すのは、息子であるヴィクトール公子。そうしなければヴィクトール公子が殺されることになる。彼自身が無事でも多くの臣民が虐殺されるかもしれないのだ。
そこまでソルは読んで、話をしていると知って、ヴィクトール公子の心に苛立ちが湧いた。
「なんなら私がやりましょうか? 協力してくれとは言いません。邪魔しないでいてくれれば、勝手にやります」
「……必要ない。お前がそうしようとすれば、私は全力でそれを防ぐ」
「残念」
「そういう男なのだな? この事実を知れば、血の繋がりはないと分かっても、ユーリウス王はお前を警戒するだろう」
油断のならない相手、というだけでなく、ユーリウス王は恐らく敗北感を覚えることになるとヴィクトール公子は考えている。その敗北感が嫉妬となり、ソルの排除に動くことも十分に考えられる。直に接する時間は少なくても、ユーリウス王についての多くの情報を得ているのだ。
「普段からこうではないつもりです。ここは思い出させるので、平常心ではいられないのです」
こう言いながら席を立ち、窓際に向かうソル。
「……何の話だ?」
「私はここに住んでいたのです。家族と共に、仲良く。その時の想い出です。そして思い出してしまうのは。楽しい記憶だけではありません」
ソルが窓から眺めているのは、この部屋に入った時から意識して視線を向けるのを避けていた風景。多くの蔦が垂れ下がる岩場。ルナ王女が殺された場所だ。
「……そうか」
「今の貴方なら少しは分かるのではありませんか? 周囲からどう見られていようと、家族の大切さは変わらないということを」
「…………」
悪逆無道のバラウル家。そう評価されていた人たちをソルは大切な家族だと思っている。彼の言う通り、その気持ちはヴィクトール公子にも理解出来た。
日に日に変わっていく父親。父親に向けられていた臣民の信頼と忠誠は、ただの恐れに変わっていった。自らに殺意を向けられたこともある。それでも、いつかは憧れであった父に戻ってくれると信じていた。排除するという決断は出来なかった。だから逃げた。
「……私からも、ひとつ聞いて良いですか?」
「なんだ?」
「貴方は息子であることと、臣民の為に優れた施政者であること、どちらを選ぶつもりですか?」
「……選べていない。だから私は、ここにいる」
だがいつまでも迷っていることは許されない。決断の時は迫っている。ヴィクトール公子も、それは分かっているのだ。