戻って来た王都は、ヴィクトール公子がツェンタルヒルシュ公国に向かう前とは、かなり雰囲気が変わっていた。道を歩く人々の顔は、どこか不安そうに見える。そう見える原因も明らかだ。十人、二十人の王国軍の小隊が荷車を引きながら、道を行き来している。それが出動準備であることは、聞かなくても、ヴィクトール公子には分かる。王都の住民たちにも分かっている。戦争が始まりそうだということが。
「……噂は本当だったようですね?」
戦争の噂は、すでに王都の外にも広がっていた。ヴィクトール公子たちは、王都に戻る途中で、その噂を耳にしている。
「そうだな。しかし、ツヴァイセンファルケ公国か。先を越されたということなのかな?」
「どうでしょう? 詳細を知るまでは、なんとも言えません」
「背後をがら空きにしても大丈夫と思える何かがある可能性か……」
ツヴァイセンファルケ公国の東にはヴィクトール公子たちの国、オスティンゲル王国がある。ツヴァイセンファルケ公国が王国側に軍勢を集結させれば、東の備えは手薄になる。その状況を父であるオスティンゲル公が見過ごすとは思えない。ツヴァイセンファルケ公国もそれは分かっているはずだと、ヴィクトール公子は考えた。
「もし密約が結ばれているのだとすれば、目標はノルデンヴォルフ公国ということになります。私には良策とは思えません」
ツヴァイセンファルケ公国がナーゲリング王国に攻め込むのを、ただ大人しく見ているだけで終わるはずがないとヴァイスは考えている。オスティンゲル公国も動くはずだ。
では、どこに攻め込むのかと考えると答えはひとつしかない。東に進めなければ北、ノルデンヴォルフ公国だ。
「そうだな。戦いが長期化する可能性がある」
北のノルデンヴォルフ公国は、冬になると領土のかなりの部分が雪で覆われる。攻める側がどれだけ準備を整えていても、その状況で全土を制圧するのは容易ではない。守るノルデンヴォルフ公国側は、とにかく侵攻の足を遅らせて冬の訪れを待てば良いのだ。
「王国とツヴァイセンファルケ公国の戦いも長引けば良いですが、そうでない場合、我が国は厳しい状況に置かれることになります」
オスティンゲル公国がノルデンヴォルフ公国攻めで、もたついている間に、ツヴァイセンファルケ公国が王国との戦いで勝利を収めてしまうと大きく差がつけられることになる。逆に王国の勝ちとなれば事態はより厳しいものになる。王国がそのままオスティンゲル公国に攻め込んでくる可能性は十分にあるのだ。
「国に戻るべきか……」
「お考えになる必要はあると考えます」
戻らなければならないとはヴァイスは言わない。簡単に戻れるのであれば、とっくに帰国している。そう出来ない事情があるから、調べることがあるという理由を作って、他公国を回っているのだ。
「……殿下」
「どうした、ブラオ? 言いたいことがあるのであれば、遠慮なく言え」
「いえ、そうではなく……今、小竜公という言葉が聞こえました」
ブラオが伝えたかったのは耳に届いた言葉。特別な能力を持つブラオにしか聞こえない声だ。
「なんだと?」
「……あちらです。あの角を曲がった先……離れて行こうとしています」
「行くぞ!」
自国を離れる口実に使ったとはいえ、小竜公と呼ばれている人物が何者か知りたいのは事実。ツェンタルヒルシュ公国でクレーメンスに、ノルデンヴォルフ公国でアードルフから話を聞いて、さらにその思いは強くなった。
その目的の人物を探し当てることが出来るかもしれない。その機会を逃すつもりは、ヴィクトール公子にはない。
「ブラオ!」
「大丈夫です! 完全に捉えました!」
普通の人には決して聞こえない小さな音を拾えるブラオの耳だが、それでも限界がある。距離が離れるとその対象に意識を集中させなければ、聞こえなくなってしまう。その意識の集中をブラオは「捉える」と表現しているのだ。
「どこだ!?」
「右に!」
さらに角を曲がるヴィクトール公子たち。その先には人がいた。多くの人が。
「ヴィクトール公子? 王都に戻っていたのですか?」
「ルシェル殿下……小竜公は誰です?」
そこにいたのはルシェル王女。ルシェル王女と近衛特務兵団だった。それを知ったヴィクトール公子の表情には、わずかではあるが怒りの感情が浮かんでいる。ルシェル王女に騙されていたと思ったのだ。
「私はそう呼ばれている人は知らないとお答えしたはずですけど?」
「惚けないで下さい。私の部下が小竜公という言葉を話す声を聞きました。貴方たちの中にそう呼ばれている人たちがいるはずです」
「ですから、私は――」
「違う……ヴィクトール様! 小竜公と言ったのは、あの男です!」
さらに否定しようとするルシェル王女の声をブラオが遮った。彼女はまた、「小龍公」という言葉を発した人の声を捉えたのだ。ルシェル王女たちがいる、さらに先で。
「どの男だ!?」
「路地に!」
その相手が路地に逃げ込むのがブラオには見えた。彼女が大声で叫んでしまったせいで、気付かれたのだ。後を追うヴィクトール公子と部下たち。常人を超える速さで駆け抜けるヴィクトール公子たちだ。余裕で追いつく、はずだったのだが。
「……いない?」
「そんな馬鹿な?」
逃げた相手を見失ってしまった。あり得ない事態にヴィクトール公子の部下たちは驚きを隠せないでいる。
「……ブラオ?」
「…………外れました」
対象から意識が外れてしまった。駆ける足音も聞こえない。ブラオも見失ってしまっていた。
「能力者だな」
「恐らくは」
わずかな時間で自分たちを振り切り、ブラオが音を捉えることも出来ない。常人に出来ることではない。何らかの特別な能力を持っているということだ。
「……今逃げた男は誰だ?」
逃げた相手を見失っても素性を調べることは出来る。近衛特務兵団の人間であるはずなのだ。男がいた場所、その近くにいる近衛特務兵団の団員たちに、ヴィクトール公子は尋ねた。
「誰だと聞いている」
「さあ? 道を聞かれただけですので」
だが相手から返ってきた答えはこれだった。
「なんだと? 白々しい嘘をつくな」
ヴィクトール公子が素直に信じるはずがない答えだ。
「嘘と言われても……事実ですから」
「……どこかで会ったことがあるな? ……分かった。謁見の間にいた兵士だ」
ヴィクトール公子は答えた相手を知っている。ソルを認識しているわけではない。ユーリウス王との謁見の席で、偽物を見破られるきっかけを作った兵士として覚えていた。ソルはまた前髪で顔半分を隠しているが、その時もそうだったのだ。
「正直に話せ」
「そうしているつもりです」
「……他の者でも良い。逃げた者が何者かを教えろ!」
ソルを相手にしていても惚け続けられるだけ。そう考えたヴィクトール公子は周囲の人たちに問いを向けた。
「王都の住民だと、すでに彼が答えています」
だが答えは同じだった。この場にいるのは第二隊の人たち。ソルに都合の悪い情報を伝えるはずがない。
「……ルシェル殿下。部下に正直に話すように命じて頂けますか? 正体を知ったからといって、危害を加えるつもりはありません。聞きたいことがあるだけです。本当です」
「それは……ソル?」
この時点でルシェル王女は、「小竜公」と呼ばれている人物がソルであることに気付いている。ソルと第二隊の人たちが頑なに隠そうとするということは、そういうことだと考えたのだ。
「ヴィクトール公子殿下の問いには正直に答えています」
「そうですか」
「ルシェル殿下……?」
そんなはすはないのだ。ヴィクトール公はブラオの能力を信頼している。彼女が聞いたと言うのであれば、間違いなく「小竜公」の言葉を発しているはず。それは道を聞くだけの人が使う言葉であるはずがないのだ。
「ヴィクトール様、分かりました」
そしてブラオは特別な耳を持つだけの人物ではない。ヴィクトール公子が直属の部下にするに相応しい能力が別にあるのだ。
「面倒な女」
このソルの声はブラオ以外にも聞こえた。その動きも。
「……貴様、私の部下に何をする?」
ブラオに向けられたソルの剣はヴィクトール公子によって防がれた。彼だからこそ反応出来たのだ。
「彼が小竜公です。訓練場でヴィクトール様に槍を突き付けたのも、あの場を支配していたのも、きっと彼です」
「……そういうことか」
訓練場でヴィクトール公子が感じた違和感。ルシェル王女の命令に近衛特務兵団は従っていなかったのではないかという疑問が同時に解けることになった。
「くだらない詮索は必要ないのでは?」
「先ほども言った通り、危害を加えるつもりはない」
「こちらにはある」
「なっ!?」
一瞬で視界から消えたソル。ヴィクトール公子が次にその姿を捉えたのは、グラオの剣がブラオに向けられた剣を防いだ時だった。
「貴様!」
ソルは自分の部下を殺そうとしている。そうなればヴィクトール公子も殺意を抑える必要はなくなる。背中を向けているソルに向かって、剣を振り下ろそうと動いた。
「後ろ!」
「くっ!」
だが剣を振り下ろすことは許されなかった。ブラオの警告で矢が迫っていることに気が付いたヴィクトール公子。一瞬で振り返ると飛んできた矢を斬り払う。二の矢、三の矢も同じだ。
だがソルが必要としたのは、その間。剣を受け止めたグラオの腹に蹴りを叩き込んで、体勢を崩したところで、またブラオに向かって剣を振るう。
「次から次と」
だがその剣もヴィクトール公子の部下、グリュンに防がれることになった。
「そいつ手強いぞ! 油断するな!」
近衛特務兵団の一部の者たちが、かなり手強いことは知っていた。だが矢の支援はあるとしても、それで止められているのはヴィクトール公子だけ。たった一人で自分たちと渡り合えるほどとは考えていなかったのだ。
「私に任せろ!」
それを見てヴィクトール公子が動いた。矢はそれほど脅威ではない。ひとつ、ふたつ刺さっても影響はない。それよりも、ソルを倒すことを優先するべきだと考えたのだ。
実際には飛んでくる矢は部下が対処することになる。それくらいの判断は命じられなくても、彼らは出来る。
「うぉおおおおっ!!」
雄たけびをあげながらソルに襲い掛かるヴィクトール公子。声をあげるのは気持ちを高める為。能力を最大限に引き出す為だ。ヴィクトール公子の瞳が赤みを帯びていく。
空気を切り裂く剣。それを受け止めたソルは体ごと吹き飛ばされることになった。
「ソル!」
それを見て、声をあげたのはルシェル王女だった。動揺している人は他にも大勢いるが、一番大きな反応を示したのはルシェル王女だったということだ。
「止めて! もう止めてください! 私が話します! だから止めて!」
「……やはり、知っていたのですね?」
「言い訳に聞こえると思いますが、分かったのはつい先ほどです」
「そうですか……後ろだ! まだ終わっていない!」
戦いの手を止めようとしたヴィクトール公子だが、ソルのほうはそうではない。またブラオに向かって、剣を振るおうとしている。それを防げたのは部下たちに油断がなかったから。ヴィクトール公子に警告されるまでもなく、彼らはソルの攻撃に備えていたのだ。
「ソル!?」
「……王女殿下が話すのは勝手ですが、それと、この人たちの口を塞ぐのは別です」
「……小竜公と呼ばれることは、それほど大事なことなのですか?」
小竜公とソルが呼ばれていることは分かっても、その意味はルシェル王女には分からない。相手を殺してまで隠そうとする理由は、まったく思いつかないのだ。
「どうでしょう? 分かる人には分かるというだけです」
「……他言は無用ということでお願い出来ますか?」
ルシェル王女は交渉で秘密を守ろうと考えた。争いを好まない彼女らしい考えだ。
「父と重臣たちには話す可能性がある」
「ソル?」
「それだけで終わる保証がありません。ただの口約束ですから。ただ……そうですね。こちらも危険を犯して口止めするのは避けたい。別の条件を出します」
絶対に全員を殺せる。近衛特務兵団全体が協力してくれれば可能かもしれないが、ルシェル王女がいる今は、それは期待できない。第二隊だけでもなんとか出来るかもしれないが、それはソルが望まない。巻き込みたくないのだ。ソルも交渉という選択を選ぶことにした。
「条件とは?」
「口外しないと約束するのであれば、そちらが求める情報を与えます。今、貴方が期待している以上の情報です。役に立つかは分かりませんが」
「……私が何を期待しているか分かっているのか?」
ソルの言い方だとそうだ。そうだとすれば、ソルはヴィクトール公子側が口外されたくない情報を知っているということになる。
「貴方がいつまで経っても国に帰れない原因を解決出来るかもしれない情報」
「…………」
続くソルの言葉もその可能性を示している。ヴィクトール公子はどう反応するべきか、すぐに判断出来なかった。
「御父上であるオスティンゲル公の体調不良を治せるかもしれない情報、とまで話すことになりましたけど? まだ続けますか?」
「……分かった。交渉に応じる。詳細は別の場所で話そう」
間違いなくソルは知っている。だが、それで良いのだ。ヴィクトール公子が知りたかったことは、正にソルの言った通りのこと。それを聞き出す為には伝えなければならない情報。先に知られていたからといって問題ではない。どうしてそれをソルが知ることが出来たかによっては、大きな問題になるとしても。