ソルは王都に戻っている。王国軍で働くことを受け入れてくれた人の数は少ない。王国の期待を超える働きにはならなかった。期待に応えようなんてことは最初から考えていないので、ソルにとってはどうでも良いことだ。本来、ナーゲリング王国軍が強くなっても、ソルにとって良いことなど何もないのだ。
「彼らが特別なのではなく、それが普通ということです」
ただ個人的に期待していた人には、上手くいかなかった事情を説明しなければならない。これも義務ではない。相手はミストなのだから。
「そうなのか?」
「それこそ普通に考えてください。戦争に出たいなんて人が多くいると思いますか? 誰だって命は惜しい。軍人にならなくても生きられる道があるなら、そちらを選ぶのは当たり前のことです」
「……そうか……そう考えると私がおかしいのか。命の大切さなんて教わってこなかったからな」
それどころか、使命の為には躊躇いなく命を捨てるように教え込まれてきた。ミストの感覚は普通の人たちとは違うのだ。
「それは彼らも同じです。ただ、そう思い込むように押さえ込んでいた存在がいなくなって、心が解放されたということです」
竜王に命じられれば、その場で自ら命を絶つ。縛りは彼らも同じだった。彼らからはその縛っていた鎖が消えただけだ。ただ、解放されたはずの人たちの中にも、まだ心を縛られている人は決して少なくない数いる。
「心が解放……」
「ミストさんはまだ解放されていないみたいですね?」
一族の一員という縛りからミストはまだ解き放たれていない。ソルにはそう感じられる。
「……心に決めたつもりなのだけど、実際にどうすれば良いか分からない。ずっと求められても出来なかったことを無理してしないと決めても、それで何かを得られるわけではないだろ?」
「ああ……それはそうかもしれないですけど……」
頭で考えてどうにかなることではないのだろうとソルは思う。だが、ではどうすれば良いのかとなるとソルも答えは持っていないのだ。
「ただ話しているだけでは強くなれないのは間違いない」
「そうですね。始めますか」
朝の鍛錬時間を話だけで終わらせるわけにはいかない。ミストの言う通り、何もしないで強くなれるはずがないのだ。
「手加減するなよ?」
ソルの実力は、王国騎士ルッツとの戦いで明らかになった。ナイトの称号を持つ五人の一人、ルッツよりソルは強い。立ち合いを見ていた人たちはそう思っている。ミストも当然そうだ。
「手加減していられないくらいに、ミストさんが頑張るのが先では?」
「……そうだな。行く」
ソルに本気を出させるほどの実力をミストは持たない。それが出来るようであれば、こうして悩んでいない。ソルの挑発に反発することなく、素直に受け取った。ソルには、少し物足りない反応だ。
鍛錬用の剣を持って向かい合う二人。攻撃を仕掛けたのはミストのほう。いつものことだ。二手、三手と途切れることなく攻撃を続けるミストだが、ソルに有効打を与えることは出来ない。ソルはミストの攻撃全てを躱してしまう。
「緩んだ」
この言葉と同時にソルが攻撃に転じる。その初撃も、ミストは躱すことは出来ない。ソルの剣を体に受けて、地面に倒れることになった。
「大丈夫ですか?」
「……手加減するなと言った」
打撃はそれほど強いものではなかった。それは受けたミストも、はっきりと分かっている。
「怪我をさせるわけにはいきません。それに加減したのはミストさんのほうです」
「加減なんてしていない」
「じゃあ、言い方を変えます。諦めた」
「あっ……」
ソルの指摘に、ミストの表情が曇る。言われた通りなのだ。何十手、繰り出しても自分の攻撃は当たらない。その事実に、ミストは途中で心が折れた。
「実戦で諦めたら、結果は死です。実戦の為に行う鍛錬で諦めてしまうなんて、あり得ません」
「…………」
ソルの言葉に自分の甘さを思い知らされたミスト。恥ずかしさで顔をあげられなくなっている。
「と、昔ある人に言われました」
「えっ……?」
「心も鍛えないと強くなりません。鍛錬では心を鍛えることも必要です。どんなに辛くても挫けない心を育てなければなりません。ということで、次は今よりも少し頑張ってください」
「……分かった」
後半は自分を慰める為の言葉。ソルの優しさを感じて、暗く沈んでいた自分の心が温かくなるのがミストには分かった。押さえ込まなければいけない想いが、また膨れ上がってしまうのを感じてしまった。
だが、それは許されない。消し去らなければならない想いなのだ。
「……ありがとう。また明日頼む」
「えっ? 今の話、聞いていました?」
「明日は今日のような情けない真似はしない。でも今日は終わりだ。私たちの鍛錬が終わるのを待っている人がいる」
「待っている人なんて……あ、ああ、王女殿下」
少し離れた場所でルシェル王女がソルたちのほうを見ている。ミストの言う「待っている人」はルシェル王女のことなのだと、ソルにも分かった。
「殿下がお待ちだ。早く行け」
「ミスト、さん?」
早く行け、はおかしい。ミストの仕事はルシェル王女の護衛。一緒に行くのが普通で、これまではそうだったはずだ。
「物足りないという気持ちは、私にもある。だから、少し一人でやっている」
「ああ。じゃあ、殿下との話が終わったら続きをやりましょう」
「えっ……あっ、いや」
「少し待っていてください」
戸惑うミストを置いて、ルシェル王女がいる場所に向かうソル。
「待っていろって……そんなこと言われたら……」
この場から離れることなど出来なくなる。ルシェル王女の想いに気付いて、自分の気持ちは押し殺さなければならないと決めたのに、それが出来なくなってしまう。
ソルと話すルシェル王女を見ていると、心に影がさしてしまう。絶対の忠誠を向ける人。自分の人生を変えてくれた恩人。誰よりも大切な、命に代えても守るべき相手。ルシェル王女に対する、この想いに変わりはないはずなのに、揺らぎを感じてしまう。
「それが恋だな」「恋ですね」
「はっ……えっ!? 何!?」
いつの間にかハーゼとヒルシュが近づいてきていた。ハーゼに関しては、いつものことだ。ソルと立ち合いをしたくてミストの邪魔をしてくるのだ。
「そんな切なそうな瞳を向けられたら、普通は気付くと思うけどな」
「彼は普通ではありませんから」
「ち、ちょっと……ハーゼはともかくセルシュまで?」
ハーゼが揶揄ってくることは珍しいことではない。だが理知的で、大人な雰囲気を持つセルシュまで、こういう話題に加わってくるとはミストは思っていなかった。
「恋愛というものは、私たちにとって縁遠いものでしたから。ミストのように素直に感情を露わにしている様子は、とても微笑ましく思えます。羨ましいと言っても良いくらいです」
「それって……褒められているのか? 馬鹿にされているのか?」
「褒めているつもりですよ。応援もしています」
「応援されても……」
嬉しいという思いがないわけではないが、戸惑いのほうが強い。叶えられる想いではない。応援されても応えられないとミストは思っているのだ。
「自分の気持ちがどうかです。彼の想いは関係ないのではないですか? それと、主を思って身を引こうというのであれば、それは無用です。彼の想いは」
「おい。話しすぎだ」
「……そうでした。ミストはなんだか応援してあげたくなるタイプなので。それに、健全です」
亡き人を想い続ける。素敵なことかもしれないが、はたしてそれで良いのかという思いがセルシュにはある。ソルが、殺されたルナ王女の復讐の為に生きていると知っていれば、尚更、その思いが強くなる。
「それって……ソルには……」
セルシュの言葉はソルには他に想う相手がいることを示している。ミストもなんとなく気付いていたことだ。一緒にいても、遠くにいるような気がすることが時々ある。ソルの想いがどこか遠くに向いていると感じることが、何度かあったのだ。
「大切なのは貴女の気持ち。私は応援していますよ」
「……ありがとう」
何故、セルシュは自分を応援するのか。それを自分に告げるのか。何か意味があるのだとミストは考えているが、それがどのようなことかまでは分からない。セルシュは自分の知らないソルの何かを知っている。それを思うと少し胸が痛くなった。応援すると言ってくれているセルシュにまで嫉妬してしまう自分が、ミストは少し嫌になった。
◆◆◆
ツェンタルヒルシュ公国領からまっすぐに北上すると、いくつかの小貴族の領地を挟んで、ノルデンヴォルフ公国がある。シュバイツァー家が昔から治めている土地だ。ファントマ大陸を南北に分断する大山脈地帯に近いノルデンヴォルフ公国は王国内では標高が高く、寒さ厳しい冬は領土のほとんどが雪に覆われてしまう。他の地域に比べ、暮らしにくい土地だ。そういう環境が、結果として、シュバイツァー家による統治の継続をフルモアザ王国が許す理由のひとつとなった。冬季に戦う不利をバラウル家が考えた結果だと、記録には残されているのだ。
「……大歓迎、というわけではないかな?」
そのノルデンヴォルフ公国をヴィクトール公子は訪れている。ツェンタルヒルシュ公国で滞在した後、そのまま足を北に向けたのだ。国境を超えて五日。まだノルデンヴォルフ公国の公都ヴォルフスネストに辿り着く前に、軍勢に迎えられることになった。
「どうでしょう? 私の記憶違いでなければ、あの御仁は先々代のノルデンヴォルフ公。シュバイツァー家のご隠居だと思います」
これをヴィクトール公子に伝えるヴァイスもユーリウス王の祖父アードルフに会ったことがあるわけではない。ハインミューラー家がかき集めた王国の有力者の肖像画を記憶しているだけだ。
「ご老体がわざわざお出迎えに? そうだとすれば歓迎されているのかな?」
「お分かりのはずです。歓迎ではなく警戒です」
「だろうね。とりあえず、軍勢に囲まれることにはならなそうだ」
三百ほどの軍勢の中からアードルフと騎士五人が馬に乗って、前に出てきている。騎士五人がよほどの手練れでなければ、戦っても負けることはない。相手がそれを分かっているかは知らないが、三百の軍勢にいきなり襲い掛かられる恐れはなくなった。
「ハインミューラー家のヴィクトール公子とお見受けする。間違いありませんか?」
シュバイツァー家の騎士の一人が素性を確認してきた。形式的なものだ。ヴィクトール公子だと分かっているから、軍勢を率いて出てきているのだ。
「ええ。私がヴィクトールだ。そちらはアードルフ・シュバイツァー殿で間違いありませんか?」
「ああ。アードルフ・シュバイツァーだ。会うのは初めてだな?」
「お会い出来て光栄です。わざわざ北の大地を訪れた甲斐があったというものです」
このヴィクトール公子の挨拶も建前だ。ヴィクトール公子は、アードルフに会って話を聞きたいから、ノルデンヴォルフ公国にやってきたのだ。
「東の公国の公子が、我が土地を訪れた目的は何かな?」
「国を出るのは初めてですので、見聞を広める為にあちこちを巡っております。ツェンタルヒルシュ公国でクレーメンス公にお会いする機会があり、そのまま北に足を延ばしてみました」
目的はあくまでも見聞を広める為。きちんと話が出来ると分かるまで、それ以上のことを伝えるつもりは、ヴィクトール公子にはない。
「なるほど……若いうちに冒険するのは良いことだ。儂はそれが出来なかったから貴殿を羨ましく思う」
「アードルフ殿は若い頃から北の大地を治めてきました。そのご経験に比べれば、気軽な私の旅など、どれほど役立つことか」
「まだまだ御父上はお元気か?」
「ええ。代替わりはまだまだ先になりそうです」
アードルフには父親の不調を教えるつもりはない。アードルフに伝えても得られるものはない。いずれ戦うことになるかもしれない相手に、自家が抱えている問題を知らせるわけにはいかないのだ。
「羨ましいことだ。こちらはすでに孫が公国主となっている」
「アードルフ殿の存在は、後を継いだばかりのノルデンヴォルフ公にとって頼もしいことでしょう。良い形だと、私は思います」
これはヴィクトール公子の本心からの言葉だ。自分もオスティゲル公の後継者という立場。だが今の父親は、生きていても頼れる相手とは思えない。それどころか自分に害をなすかもしれない存在なのだ。
「そうだと良いのだが。そのエルヴィンも貴殿に挨拶したいと考えていたのだが、あいにくと今、動ける状況にない」
「何か問題が?」
「特別大きな問題というわけではない。北の蛮族が暴れるのは年次行事のようなものだ」
「蛮族、ですか?」
アードルフが言う蛮族が、どのような集団を指しているのかヴィクトール公子には分からない。彼の知識にはない情報だった。
「知らないか? 山岳民という言い方なら分かるかな?」
「大山脈地帯に住む者がいるのですか?」
山岳という言葉で、ヴィクトール公子もどういう集団か少し分かった。ノルデンヴォルフ公国の北にある大山脈地帯に暮らす民ということだ。だが、大山脈地帯は人が暮らせる場所ではない。ヴィクトール公子の知識ではそうなのだ。
「人というのは逞しいものだ。どのような環境にも適応できる。だが、より良い環境があれば、そこに移りたいと思うことになる。そこが他人の土地であっても」
「そういうことですか……では戦いになっているのですか?」
「戦力が違う。負けるはずのない戦いだ。ただエルヴィンには初めてのこと。少しは苦労するだろう。苦労したほうが良いのだ」
「何事も経験ですか」
はたしてアードルフは真実を語っているのか。ヴィクトール公子には読めない。山岳民というまったく知識にない存在を使って語られてしまうと、判断が出来ないのだ。
「そのような状況なので、申し訳ないが歓待は出来ない。これを伝えにきた」
「いや。謝罪は無用です。勝手に来たのですから」
公都に入ることは出来ない。歓迎ではなく追い払いに来たことが、これで分かった。
「では、旅の無事を祈っている」
「ありがとうございます……あっ、そうだ」
「……何かな?」
「もしご存じでしたら教えてください。イグナーツ・シュバイツァー殿について」
ゆっくりと話す機会は得られない。そうであれば最低限知りたいことは、この場で聞くしかない。
「イグナーツ……あれの何を知りたいのだ?」
アードルフの表情にわずかに警戒の色が浮かぶ。それをヴィクトール公子は見逃さなかった。警戒するということは、何かがあることを示す証。悪くない反応だ。
「その方は亡くなったとクレーメンス公にお聞きしました。アードルフ殿はその最後をご存じですか?」
「……詳しくは知らない。竜王討伐に巻き込まれてしまったということくらいだ。どうして、あれのことを知りたがる?」
「ルナ・バラウルの婚約者だったとツェンタルヒルシュ公国で知りました。私はそのような方がいたことも初耳で。悲劇の運命を迎えたその人が、どのような方か気になりまして。アードルフ殿はご存じなのですよね?」
イグナーツは生きているのではないか。この疑問は口にしない。聞いてもアードルフが真実を語るとは思えないからだ。
「……悲劇の運命で終わったのは、ベルムントの愚かさのせいだ。あのような馬鹿な真似をしなくても……」
「しなくても? 何ですか?」
「……あれはな、狼だ。我が家の紋章を知っているか?」
「……月を食らう狼」
イグナーツは狼。そんなことを聞かされても、何も分からない。
「あのような愚かな企み事を行わなくても、いずれ狼は月を食らった。悲劇では終わらなかった」
「あの、それはどういう意味なのでしょうか?」
アードルフが語る言葉の意味が、ヴィクトール公子には、まったく理解出来ない。年老いておかしくなってしまっているのではないかと思うくらいだ。
「……もう終わったことだ。これ以上、儂に語れることはない。語る意味もない。では、また会うこともあろう。次は戦場かもしれないが」
「アードルフ殿? アードルフ殿!?」
馬首を返して軍勢に戻ろうとするアードルフ。それを引き留めようとヴィクトール公子が名を呼ぶが、それに反応することはなかった。
「……月を食らう狼? まったく意味が分からない」
「分かったこともあります。イグナーツという男は、アードルフ殿にとっては使い捨てにして良い存在ではなかったということは分かりました」
「父親であるベルムント王は、結果として使い捨ての道具にし、祖父であるアードルフ殿はそれを愚かな行為と非難する……どういう存在なのだ?」
ノルデンヴォルフ公国に来て分かったことは、イグナーツという人物には、自分たちが思っていた以上に何かがあるということ。謎が深まっただけだ。
それでもノルデンヴォルフ公国に来た意味はあった。それをヴィクトール公子が知るのは、まだ先のことでがあるとしても。