ナーゲリング王国最大都市、王都ドラッケングラブ。王が住まうお膝元のその街で、暗部とされている場所がある。貧民窟、今日の暮らしにも困るような貧しい人々が集まっている場所だ。
犯罪者の巣窟でもあったその場所だが、近年はかなり様子が変わってきている。王都の治安を守る為に、王国がしつこく犯罪者の摘発を繰り返したことが成果を挙げたというのが一番だが、それとは別の事情もある。貧民窟への入口にある建物。フルモアザ王国時代にはなかったその建物は教会、正式名称は聖仁教会の施設だ。
フルモアザ王国の滅亡と共に生まれた教会は反バラウル家を訴え、そのバラウル家の王朝を滅ぼし、新たな王朝を立てたベルムントを聖王と教義で定めている。竜王とその家族が殺害された後で反バラウル家を訴え、その後に建国されたナーゲリング王国の王であるベルムントを称える聖仁教会の教義は、たんに権力者に迎合しているだけと受け取られることが多く、信者の数は少ない。
そんな教会だが、教義が人々から支持されないことは最初から分かっていたのか、ナーゲリング王国建国の二年後には貧民窟の入口に施設を持ち、そこで慈善活動を始めた。教会らしい、という表現が正しいかは別にして、活動を始めたのだ。結果これも貧民窟の治安改善に役立っている。生きる為に罪を犯す。教会の施しにより、そんな子供たちの数は減った。スリやかっぱらい等の、より凶悪な犯罪に続く入口に足を踏み出す子供たちが減れば、貧民窟の周囲の治安も良くなる。それが続けば、貧民窟全体の犯罪者の数も減るはず。未来の為に教会は地道な活動を続けている。こういった教会の姿勢は、徐々に評価されるようになってきている。
「失礼ですが、奥に何か用ですか?」
教会は食事の施しなどの活動以外にも、貧民窟の治安改善に繋がると思われる役割を果たしている。見知らぬ人物が貧民窟に入ろうとすると、入口でこうして声をかける。貧民窟をアジトにしようとする他所から来た犯罪者を監視、出来れば追い返す為だ。
「用はない。久しぶりに生まれ育った場所を見てみようと思っただけだ」
「ここの出身ですか……ここで、いつまで暮らしていたのですか?」
相手の言葉を鵜呑みにすることはしない。犯罪者が真実を語るはずがない。疑ってかかることになっている。
「十年前? まだ幼い頃」
「そんなに前ですか。それでは住んでいた場所はもうないかもしれませんね?」
「その当時から家なんてなかったから……えっ? もしかして、今って、皆、家を持てるくらいに金持ちなの?」
住んでいた場所は貧民窟全体。他人に邪魔されない、安全な寝床を探して、あちこちを転々としていた。そんな暮らしが当たり前だった。
「さすがにそこまでは……」
そこまで改善はしていない。日々の食事に困らなくなった程度で、それも完全ではない。本当に暮らしが良くなるには仕事が必要で、その仕事は貧民窟で暮らす人々全員に行き渡るほどない。貧民窟暮らしとなると、雇用主に嫌がられ、さらに働ける場所が減ってしまうのだ。
「だろうな。それで? 貴方は何者?」
「私はそこの教会施設で働いている者です」
「教会施設……その教会の人が何の用?」
「困っている人がいれば助けるのが我々の義務です。それで声をかけさせてもらいました。それにこの奥は、出身者であればお分かりでしょうけど、危険ですから」
素性を探るだけでなく、何も分かっていない人が貧民窟に迷い込んでしまうことを防ぐ目的もある。もっともらしい理由だ。
「危険……確かに。そうだな。ここで暮らしていた頃のようにはいかないか」
「十年前よりは、かなり治安は良くなっているとは思います」
「そうだとしても、十年も経てば、俺もよそ者だからな。よそ者が格好の獲物であることは変わらないはずだ」
何も知らない、土地勘もないよそ者は最高の獲物。地元の人間よりも奪うものを多く持ってもいる。
「そういう暮らしをされていたのですね?」
「孤児が貧民窟で生きるのに、品行方正ではいられない。それとも教会はそれを認めない?」
「……時には見て見ぬふりをしなければならないことは理解しています」
犯罪を全て否定するのは、死ねと言っているのと同じ。貧民窟で生きる人たちの言い分を彼は知っている。それでも罪を犯すなと言うなら教会が全ての面倒をみろ、という自立とは真逆な要求をされることも。
「知っている人がいればな……いや、いても俺の顔を覚えていないか……」
「どうでしょう? 貴方の瞳の色は印象的です。それを覚えている人はいるかもしれません」
貧民窟を訪れようとしている男はまだ若い。十年前の幼かった彼から今を想像するのは難しいかもしれない。だが男の、光の加減で青みが強くなったり、赤に近く見えたりする瞳は特徴的だ。同じような瞳を持つ人は少ないはずで、それを記憶している人はいるかもしれない。
「そう? じゃあ、少し、その辺で様子を見てみる。俺に気付く人がいるのを期待して」
「そうですか。分かりました」
男は向き先を変え、教会施設のすぐ前に移動していく。監視しやすい場所に移動してくれた相手を追いかける必要はない。教会の男は、少し移動した先、元いた場所に戻ることにした。
教会施設の道を挟んで反対側にある建物の壁に寄りかかるようにして立つ男。教会施設の中から監視されていることなど、気付いていない様子だ。
「……どうだった?」
問いかけてきた声は建物の中からのもの。かなり前から建物の中で待機していたハーゼの声だ。
「善人面しているけど、あれは悪党だな。今も別の奴がこちらを見張っているみたいだから、何か悪だくみをしているのは間違いない」
気づいていない様子を見せていただけで、実際にはソルは自分を見つめている視線に気付いている。もともと教会施設に注意を向けていた。教会を探ることがソルたちの目的なのだ。
「疑われたか?」
「どうだろう? 少なくとも、近づいてきた男は騙せた自信はあるけどな。悪党だけど、あれはちょろい」
話をしているのを気付かれないように小さな口の動きで、時々、さりげなく口元を隠しながら、会話を続けるソル。聞きづらい部分はあるが、ハーゼには十分だ。ソルの話し方はハーゼたち、元ティグルフローチェ党の者たちに教わったもの。ハーゼは聞くのに慣れている。
「ちょろい?」
ただ言葉そのものが分からないのは、どうしようもない。
「たいしたことないって意味。貧民窟の話をしていたから、ちょっと昔に戻ったかな?」
「本当に貧民窟で暮らしていたのか?」
「言っていなかった? シュバイツァー家に拾われるまで俺は貧民窟で暮らしていた。ここではない別の街だけどな」
街は違っても、貧民窟と呼ばれるような場所の暮らしは同じ。ソルは自分の経験に基づき、教会の人間と話をしていた。相手が騙されるのも当然だ。
「……なんとも波乱万丈な人生だな?」
「人生が終わったような言い方は止めてくれ」
「この先も波瀾万丈が続くわけだ」
「……それもなんか嫌だ」
普通の人生ではないことはソルも分かっている。自らそういう生き方を選んでいるのだ。だがそれを人から言われるのは、理由もなく嫌だった。
「それでどうする? 分かったのは怪しいってだけだ」
「十分だろ? 怪しい奴をとっ捕まえて吐かせる。それで真実は明らかになる」
「お前……貧民窟でどういう暮らしをしていた?」
いつもよりもソルの思考は過激。そうなるのも貧民窟の話をし、昔を思い出したからだとハーゼは考えた。
「どういう……寝て起きて、まず最初に生きていることに安堵する暮らし」
「どんな暮らしだ?」
「これ以下はないだろうと思うくらいの最低の暮らし。そこから……いや、最低なのは今もか」
そこから救ってくれたのはシュバイツァー家。捨て石にする為だとしても、それは紛れもない事実。ずっと否定してきたそれを、ソルは思わず口にしそうになった。口にしそうになったことに気づき、慌ててまた否定した。シュバイツァー家はルナ王女を、バラウル家を滅ぼした敵。そうでなければならないのだ。
◆◆◆
聖仁教会施設への襲撃は白昼堂々、行われた。ソルたちは近衛特務兵団、とまでは名乗らず、王国軍の特務部隊として施設の責任者との面会を求めた。貧民窟に公国から犯罪者、もしくは犯罪者を装った工作員が侵入している形跡がある。その調査に協力をお願いしたいという用件を伝えて。
王国軍所属であることは事実。それを証明する書類もある。かくして責任者を名乗る者が現れ、面談が行われることになった。ソルたちに面談を行うつもりなどまったくなかったが。
「貴様ら! 何者だ!?」
責任者を名乗る人物をソルはいきなり拘束。それと同時に施設の制圧にハーゼたちが動き出す。
「何者って、もう名乗った。王国軍だ」
「馬鹿な! 王国軍が何故、こんな真似をする!?」
王国軍にこのような無法な真似をされるはずがない。こんな事態にならないように教会は様々な働きかけをしてきたつもりなのだ。
「こんな真似をする理由を見つける為。心当たりはあるだろ?」
「……あるはずがない」
「今答える必要はない。本当のことを答えたくなるようにしてから、改めて聞くから」
素直に白状してくれるとは思っていない。そう思っているから、このような手段を選んだのだ。
「……もう良い。こいつらは偽物だ! 討ち取ってしまえ!」
ここで教会側は反撃を決断した。交渉は通用しない。そうであれば力づくで排除するしかない。それが出来る備えを教会はしている、つもりなのだ。
部屋の扉が開き、武器を持った男たちが入ってきた。そのままソルたちに襲い掛かってくる男たち。
「がっ……」
その中の一人、先頭の大男が吹き飛び、壁に背中を打ちつけて、崩れ落ちて行った。
「……異能? 貴様ら、異能者か!?」
「察しが早い。異能について、良く知っている証だ」
大男を吹っ飛ばしただけ。確かに普通の人に出来ることではないが、それをすぐに異能と結びつけるのは、そういう力を良く知っている証。だからといってどうというわけではないが、自分の判断が間違いではなさそうだということは分かった。
「……調子に乗るな。異能者だからといって万能ではないのだ!」
「そんなことは知っている」
「拘束具を使え! 一網打尽だ!」
「こうそくぐ……?」
教会に異能者と戦う手段がある。それはなんとなく分かったが、その手段までは「拘束具」の言葉だけでは分からない。ただ、それもわずかな時間だ。教会側が実際にそれを見せてくれることになる。
教会の男たちが取り出したのは鞭。実際にどうかは分からないが、鞭であるように見える何かだ。
「……何だ、それ?」
ハーゼにもそれが何かは分からない。初めて目にする物だった。
「今に分かる」
教会側に余裕が生まれた。その何か分からない物が、彼らの切り札であることは、ソルたち全員が理解した。理解したが、ずっと突っ立っていては事は進まないのだ。
目の前から消えた、と思った次の瞬間にはハーゼは間合いを詰めて、攻撃を仕掛けていた。そのハーゼに向かって近くにいた教会の男たちから鞭、のようなもの、が振るわれる。
「こんなもので止まるか!」
ハーゼの腕に絡みついたヒモ。だが痛みはなく、動けなくなることもない。絡みついたそれを無視して、ハーゼは攻撃を続けた。
だがわずかに生まれた間を使って、相手は間合いを外していた。その相手にまた一瞬で追いつく、はずだったのだが。
「……力が使えない?」
ハーゼは思うようには動けなくなっていた。
「他の者たちも拘束しろ!」
命令を受けて教会の男たちが一斉に鞭を振り回す。それを避けようとするソルたちだが、狭い部屋の中に広がる鞭の先を完全によけきるのは困難。しかも鞭の先のヒモは、少し触れると、意思があるかのように動き、体に巻きついてきた。
「魔術か?」
「そうだ。お前らのような異能者の力を封じ込める魔術具だ。馬鹿な奴らだ。自ら檻に飛び込んだ愚かさを悔やめ」
この魔術具が教会の切り札。異能者を無力化し、捕らえる為に作りだした対異能者用武器だ。
「異能を封じ込める魔術……だから、何だ?」
「何だ、だと?」
「馬鹿はお前だろ? 俺たちは王国の軍人だ。異能がなくても戦う力はある。そのために毎日訓練している。こんな感じで」
一瞬で移動する、なんてことはソルはしない。する必要がない。それでも並の人よりは遥かに速い動きで、間合いを詰めると相手に剣を叩き込む。異能など使わなくても、相手にそれを避ける力などない。異能などなくてもソルの力は、並の騎士を超えているのだ。
「やっぱ、お前は面白い。確かにな。普通に戦っても、こんな奴らに負けるはずがない」
力を使えなくなって動揺していたハーゼも、ソルの言葉で平常心に戻った。他の人たちも同じだ。再び動き出す近衛特務兵団第二隊の隊員たち。彼らは第二隊の中でも精鋭といえる人たちだ。少し戦う力を持っている程度の教会の男たちが、正面から戦って、太刀打ちできるはずがないのだ。
「……貴様ら……調子に乗るなよ!」
膨れ上がる気は、責任者だと名乗った男のものだった。
「教会の責任者が異能者? 何かの笑い話か?」
それが異能者が発する気であることは、ソルにはすぐに分かった。
「知られたからには生かしておけない。貴様ら、皆殺しだ!」
「げっ!」
一瞬で視界から消え去った男。ソルが大きく跳んで離れたその場の空気がうなりをあげた。男が振るった剣が巻き起こした風のうねりだ。
「並の人間相手に戦えても、私とではどうかな?」
「どうだろう? やってみないと分からない」
「やってみなくても分かる。貴様は私には勝てん!」
踏み込んだ男の足が床にめり込む。そこから一気に男は加速した。
「がっ……」
それを避けようと動いたソルだが、完全には避けきれず、男が広げた腕にかかってしまう。それだけで大きく吹き飛ぶソルの体。二転、三転、床をころがり、壁にひびが入るほどの勢いでぶちあたったところで、ようやく止まった。
「……痛ったぁ」
首を軽く振りながら立ち上がるソル。
「よく避けたな? だが、次はない」
「……それはどうかな?」
「強がっても無駄だ!」
ソルの逃げ道を塞ぐように大きく腕を広げて、足を踏みだす男。また床が沈み、男の体が加速……しなかった。
「なっ、何だ?」
男の動きを止めたのは足に刺さっている矢。どこからか飛んできた矢だった。
「……矢ごときで私が! ぐっ、がっ!」
さらに、隙を見て懐に飛び込んできたソルの拳が男の体に叩き込まれる。苦悶の表情を浮かべる男。ソルの攻撃はそれだけでは終わらない。拳が、蹴りが、次々と男の体にめり込んでいく。
その攻撃に耐えきれず、膝から崩れ落ちていく男。
「これ、失敗作だな? 火に弱い」
ソルの腕に絡んでいたヒモは、ほんの少しを残して、あとは燃えていた。
「……そ、そんな……そ、その、瞳は……あ、貴方は……バラウル家の、人間……な、の、か?」
男が見上げた視線の先には、赤い瞳のソルがいた。男はその瞳の色がバラウル家のものだと知っているのだ。
「……違う」
「……そ、そうか……」
男の顔に笑みが浮かぶ。その笑みに少し遅れて、口からこぼれだす血。
「……おい? おい!? お前!」
ゆっくりと床に倒れていく男。その意味にソルは気が付いた。命を奪うほどの攻撃ではなかったはずなのだ。だが、男は死んだ。自ら命を絶ったのだ。