ハインミューラー家のヴィクトール公子がツェンタルヒルシュ公国を訪れたのは、以前から計画していたからではない。王都に滞在している間にいくつか疑問が生まれ、その疑問を解くにはツェンタルヒルシュ公国の公主であるクレーメンスに話を聞くのが良いかもしれないと考えた。そう考えると他にも確かめたいことがあると思ったからだ。
だがクレーメンスの王都滞在は思いの外、短かった。ヴィクトール公子が話し合いの必要性を強く感じるようになった時には、帰途についてしまっていたのだ。それを慌てて追いかけてきた、というのが実態だ。
無駄な移動、とはヴィクトール公子は思わない。時間の余裕はあり、ルシェル王女に伝えた「見聞を広めたい」というのはまったくの嘘ではない。見聞には、将来、戦場になるかもしれない場所を自分の目で見ておくということも含まれているのだ。
さらにツェンタルヒルシュ公国まで来たことで、話を聞ける相手も増えた。クレーメンスの妹、ビアンカ。竜王の後妻だった女性だ。
「王都ではろくに話せなかった。ヴィクトール公子とはいつ以来か。御父上はお元気かな?」
王都では意識してヴィクトール公子と話す機会を作らなかった。ノルデンヴォルフ公国と結んだとはいえ、王国が思っているほどクレーメンスには野心はない。ユーリウス王には取り付く島もなかったから、娘の結婚相手はエルヴィンに変えただけで、王国との関係をどうするかは決めていないのだ。そういう状況で、王国と敵対関係になるのが明らかなハインミューラー家との関りを持ちたくなかったのだ。
クレーメンスにとってはヴィクトール公子の訪問は迷惑な話だ。だからといって追い返すわけにもいかない。
「それが、私が公国を発つ時にも体調は優れませんでした。ツェンタルヒルシュ公は大丈夫ですか? お体に異常はありませんか?」
ただの挨拶に聞こえるが、これもヴィクトール公子がクレーメンスに確かめたかったことなのだ。
「なるほど……それは心配だな。私にも心が荒む時期があった。だが、ベルムント王の死が落ち着きをもたらしてくれたようだ。近頃は異常はない」
クレーメンスはヴィクトールの意図を正確に読み取った。読み取った上で、正直に話した。彼が知りたいのは自分の父親と同じ、竜王の血を浴び、その力を得た者のこと。ヴィクトールの父であるオスティゲル公は、それによる異常が出ている。どういう状況なのかまではクレーメンスには分からない。クレーメンスが、自分が病んだと思ったのは、体ではなく心なのだ。
「そうですか。それは良かった。しかし、ベルムント王の死ですか……」
クレーメンスは正直に答えたのだが、ヴィクトールには理解出来なかった。ベルムント王の死と身心の異常がどう関係するか、想像も出来ないのだ。
「常人を超える力を得た。それに驕り、その力を試したくなり、無用な殺生を求めるようになった。だが得た力は絶対ではない。人として当たり前に死ぬ。ベルムントはそれを教えてくれた。彼の死を思うと、虚しくなったのだ」
「虚しく……それは父にはなさそうです」
「元々、心に抱いていた野心の強さが違う。私にはただの思い上がりだったと思えたことも、同じようには受け取れないのだろう」
得た力に意味はない。そう思うと心がざわつくことは減った。完全になくなったわけではないが、抑え込めるようになった。正しいかどうかはクレーメンス本人にも分からないが、自分には得た力で何かを成し遂げたいという思いがない。だから落ち着けたのではないかとクレーメンスは考えている。
「……人としての心を失ってしまうのでしょうか?」
「人としての心というのが、どういうものかは定まっていない。悪逆無道と評されていたバラウル家も人とされていた」
「父は鬼王の再来になるかもしれないということですか……」
ハインミューラー家が大陸の覇者になっても、その未来はフルモアザ王国の再来となってしまうかもしれない。この思いは、ヴィクトール自身の覇気を弱めてしまうものだ。
「それも思い上がりだ。ハインミューラー家が覇権を奪えると決まったわけではない」
「……そうでした」
「ベルムントが亡くなってから、様々なことを考えた。意味があることではない。とりとめもないことが頭に浮かんでくるのだ」
「…………」
それもまた心に異常をきたしている証ではないか。そう思うと、ヴィクトールは何も言えなくなった。
「バラウル家が城に引きこもっていたのは、彼らなりに自分たちの悪い性質を押さえ込もうとしていたのではないか、なんてことも考えた。もし、本当にそうであるなら、彼らには人としての心があったということだ」
バラウル家が城に篭って滅多に人前に出なかったのは、自分たちの身を守る為ではなく、周囲の人の命を守る為。無用な殺生をしてしまわないように、人を遠ざけていた可能性をクレーメンスは考えたことがある。憎き一族ではあるが、せめてそうであって欲しいと思ったのだ。
「自制は出来るということですか」
「出来ない者もいる。歴史がそうであることを証明している」
過去には虐殺を繰り返した王もいた。「バラウル家は悪逆無道」という評価を確立した王たちだ。
「……仰る通りです」
「実際にどうなのかは分からない。分かる者がいるとすれば、バラウル家の人間だろう」
竜王の血を浴びる、体内に入ることで、その力を得られることも知らなかった。その結果、そうなった人の心身にどういう影響を与えるかなど分かるはずがない。時の経過を待ち、死の時が来て初めて分かるか、そうなっても分からないままかもしれないことだ。
「ビアンカ様はいかがですか? 何かご存じのことはありませんか?」
ヴィクトールは問いをビアンカに向けた。竜王の後妻であった彼女であれば知っていることがあるかもしれない、とは思っていない。知っていることがあれば、それは兄であるクレーメンスに伝えているはずなのだ。
「……いえ、私は何も。そういった話を一切していませんから」
「そうですか。では、話は変りますが、小竜公についてご存じありませんか?」
ビアンカに、本当に聞きたかったのはこちらだ。バラウル家の血について聞いたのは、これに繋げる振りに過ぎない。
「しょうりゅうこう、ですか?」
「小さな竜。公は公国の公です。竜王の子という意味だと考えています」
「竜王の子でしたらクリスティアン王子かルナ王女のことではありませんか?」
答えはこうなる。ビアンカは何も知らない。城で暮らしていた時の話ではないのだ。
「そうなのですが……他にそう呼ばれるような人物に心当たりはありませんか?」
「他に……他に奥で暮らしていたのは……イグナーツくらいです」
「イグナーツ? それは何者ですか?」
ようやく新しい名が出てきた。小竜公の正体に辿り着けるかもしれないと、ヴィクトールは期待した。
「……ルナ王女の婚約者です。シュバイツァー家の、ベルムント王の子、庶子だと聞いていました」
「そういえば、そういう話がありました。しかし、シュバイツァー家……ベルムント王の子ですか。その彼は今も城にいるのですね?」
今も城にいてルシェル王女の影に隠れて、近衛特務兵団を率いている。そういうことだったのかとヴィクトール公子は理解した。ほとんど正解だ。正解なのだが。
「死んだ」
「えっ?」
ヴィクトールの膨らんだ期待は、クレーメンスの言葉で、一気に萎むことになる。
「聞いていないのか? 城の奥に侵入する際に隠し通路を使った。そこを通り抜けてすぐのところにいたルナ王女と一緒に殺された、いや、殺されたという表現は逃げか。私たちが殺した」
「殺した……? ベルムント王の子だったのですよね?」
「実際に殺したのはツヴァイセンファルケ公だ。ベルムントは、婚約者として送り込んだ時点で覚悟はしていたとは思うが、殺してしまったことを悔やんでいたな」
ベルムント王の「殺す必要はなかった」という言葉をクレーメンスは現場で聞いている。謝罪の言葉も。
「そうでしたか……」
「ただ、死体は見つかっていないはずだ。ベルムントがそう言っていた」
「それは……生きている可能性があるということですか?」
「どうだろうな? 致命傷だったのは間違いなかったと現場にいた私は思っている。ただ、生きていて欲しいと願う気持ちはある」
クレーメンスの視線がビアンカに向く。無関係の人間を巻き添えにした。そうなるように導いたのはビアンカだ。彼女が二人に庶民の祭りの楽しさを、実際には経験したことなどないのに、教え、城を出るという冒険に乗り出すことをそれとなく勧めたのだ。イグナーツの死に、ビアンカはずっと心を痛めている。罪の意識に苦しんでいることをクレーメンスは良く知っている。生きていてくれたら、ビアンカは苦しみから解放される。そう思っている。
◆◆◆
近衛特務兵団は二部隊に編制されることになった。人数が増えたからというのが表向きの理由だが、本当のところは、別の理由だ。
反乱勢力とされていた人々が入団することになったのだが、ティグルフローチェ党の時とは異なり、彼らは近衛特務兵団と戦っている。戦って近衛特務兵団は多くの犠牲者を出している。そのわだかまりは、簡単には消えるものではない。多くの犠牲を生み出す作戦を実行した司令官であったルッツを恨むと同じくらい、お互いにお互いへの消せない悪感情があるのだ。そんな事情を考えての措置だ。
兵団長がルシェル王女であることはそのままで、第一隊の隊長はヴェルナー、第二隊はソルが隊長を務めることになった。ソルはいつものように抵抗したが、後から加わった人たちとティグルフローチェ党の中でも、実際に呼ばれているわけではないが、過激派とされている人たちで編成される第二隊の隊長はソル以外には務まらない。周囲が皆そう言う状況で拒否し続けることは出来なかったのだ。
「第二隊の単独任務ですか?」
「はい。第二隊にしか出来ない任務です」
早速、新たな、それも第二隊だけが出動する任務が決まった。それを告げるルシェル王女の顔は明るい。彼女も納得の任務なのだ。
「どういったものなのでしょう?」
「未だ王国に対して不信感を抱いている集団がいくつかあります。その彼らを説得し、王国軍への入団を勧めるという任務です」
「そういうの……手のひら返しと言うのですよね?」
討伐から一転、味方に引き込むという方針に王国は転換した。良い変化だとソルも思うが、百八十度の方針転換には呆れる思いが湧いてしまう。
「そうであっても正しい判断です」
「それは否定しません。その交渉相手の情報はあるのですか?」
「はい。これが資料です」
テーブルの上に置いていた任務に関する資料をソルのほうに押し出すルシェル王女。すぐにソルはその資料に目を通し始めた。交渉相手がいるとされている目的地、情報量が少ないがどういう集団であるのか等々。中身の濃さは別にして、書類の枚数は多い。
「……貴方のおかげです。貴方のおかげで多くを救うことが出来ました」
「まだ救えるとは決まっていません。交渉が失敗する可能性も低くはないと思います」
「いえ、これからの話ではなく、これまでのことです。すでに貴方は大勢を救っています。仲間たちの犠牲は少ないとは決して言えませんが、彼らの死に、貴方に感謝している人たちは大勢いるのです」
前回任務において近衛特務兵団は多くの犠牲を出した。別動隊として戦いに参加していなかった別動隊の数を除けば、壊滅的と表現するべき犠牲者の割合だ。
だが、その犠牲のおかげで救われた人たちがいる。王国正規軍の人たちだ。彼らの声がルシェル王女に届いたのだ。
「……それは私ではなく、身を犠牲にして他の人たちが逃げる隙を作った人たちへの感謝です」
多くの人を救ったと言われても、ソルは喜べない。彼にはその意識はなく、この先、その何倍、何十倍もの死者を生み出す戦いを行うつもりだ。他人に恨まれることはあっても感謝されるような人間ではないと考えているのだ。
「……ずっとソルを名乗り続けるつもりですか?」
イグナーツに戻る気はないのかとルシェル王女は思う。ソルがイグナーツ・シュバイツァーを名乗れば、それを心強く思う人たちがいる。メーゲリング王国の未来に期待を抱く人が増えるかもしれない。こんな風にルシェル王女は思っている。
「ソル以外の名は私にはありません」
イグナーツを名乗るつもりはソルにはまったくない。そもそもイグナーツもソルの本当の名ではない。思い入れなどないのだ。
ただ一番の理由は、そんなことには関係なく、ソルとしての生き方以外を選ぶつもりはないということだ。
「そうですか……分かりました」
王女としては残念な答え。だが一人の女性としてはどうか。彼が弟に戻ることを自分は本当に望んでいるのか。こんな思いがルシェル王女の心に浮かぶ。浮かんだ思いを、慌ててかき消すことになった。