見上げる空には青空が広がっている。真っ青な空に浮かぶ白い雲。のどかと表現できる光景だ。それを眺めて、ソルは体の中を流れる血を落ち着かせていた。
空の下、訓練場には「のどか」とは真逆な雰囲気が漂っている。強弱はあるが人々から放たれている殺気が、ソルを刺激している。ソルに向けられている殺気ではない。対戦相手であるルッツに向けられたものだ。敵として、味方であったのに無慈悲な作戦で、仲間を殺された人々の想いが、ソルの血をざわつかせてしまうのだ。
「いつまで待たせるつもりなのかな? それとも怖気づいた?」
苛立った様子でルッツが文句を言ってきた。挑発も含まれているが、それがソルを苛立たせることはない。頭で考えて生まれる感情など、周囲の殺気による刺激に比べれば、影響はないに等しいのだ。
「お待たせしました。では、やりましょうか?」
「……いつでも攻めてくれば良い」
「そうします」
間合いを詰める為に足を踏み出す、と思われたソルの動きだが、それは途中で違う動きに転じた。蹴りを放ったかのように見える動き。だが、ルッツに届く距離ではない。
そのはずだったのだが。
「ちっ」
舌打ちしながら剣を振るうルッツ。その剣が払ったのは石。彼に向かって飛んできた石だ。そうであることを周囲の人々が認識した時には、ルッツは大きく後ろに飛んでいた。間合いに入ったソルの剣を避けたのだ。
「……貴様」
「騎士にあるまじき卑怯な振る舞い、ってやつですか? すみません。つい先ほど、騎士になったばかりですので」
「……問題ない。かかってこい」
ソルの挑発に反応することなく、立ち合いの継続を促すルッツ。戦いの場で感情的になるほど彼は愚かではない。そういう人物であれば、ナイトの称号など与えられない。
「では、行きます」
ソルは一瞬で間合いを詰め、下から剣を振り上げる。剣と剣が打ち合う金属音が響く。それとほぼ重なるような、一瞬の間で打撃音が続いた。
大きく横に跳んで間合いを外したルッツは、脇腹の痛みに顔をしかめている。ソルが放った拳を避けきれなかったのだ。
「……私の時とは全然、動きが違うな?」
その様子を見ていたディートハルトは、やはり自分の時は手を抜いていたのではないかと思った。動きが明らかに違うのだ。
「騎士の頂点に立つ男に、さすがにあれは出来なかったのではないか? さっきも言った通り、指導を受けている立場だ」
バルナバスもここまで動きが変わるとは思っていなかった。ただ変わったのは動きそのものというより、攻撃手段だ。手段を選ばずといったところなのだろうと理解している。
「さきほど言っていた意識、か……本人も言った通り、騎士としてとなると批判はあるだろうが、あの攻撃力はかなりのものだな」
「鍛錬では奴は受け身になる。実戦以外では見られない動きだ。それを見せてくれたルッツには感謝したほうが良いな」
「感謝されても喜ばないだろう」
「喜ばそうとは思っていない」
ルッツがバルナバスに悪感情を抱いているのと同じくらいに、バルナバスもルッツを良く思っていない。元々はルッツのほうが意味なく突っかかってくるからだが、今ではもう悪感情が定着してしまっているのだ。
「ただ、ルッツもこのままでは終わらないだろう」
「当たり前だ。このまま終わってはナイトの称号が地に落ちる。せめて、もう少し善戦してもらわないとな」
「……負けると思っているのか?」
バルナバスはルッツが負けると考えている。ディートハルトの考えとが違う。今はソルが押しているが、それは戦い方に慣れていないだけ。最終的に勝利するのはルッツだとディートハルトは考えているのだ。
「この立ち合いの勝敗は分からない。ただ、忘れているようだから教えておくが、小僧が討ち取ったハインミューラー家の騎士ズィルバーンは、まあまあ強かったぞ」
ルッツに対してバルナバスは「まあまあ強い」とは言わない。「まあまあ」が外れるわけでもない。一般的には強者であっても、バルナバスの基準では、強い部類には入らないのだ。
「あれは不意打ち……いや、そうだな。忘れていた」
不意打ちによるものだとしても、それは初撃だけだったはず。その後、何十人もの騎士と戦い、多くを討ち取る実力がソルにはあるのだ。詳細不明の報告で、ソルは瀕死の重症だったという情報だけが残っていたせいもあり、ディートハルトはその認識を持っていなかった。
「それに……どうやら、あいつは分かり易い。感情ではなく。自分よりも相手が強いか弱いかで、強さが変わるようだ」
「それは強さが変わるわけではない」
「もっと、きちんと見ろ。小僧の守りのほうだ」
「守り?」
攻撃に比べるとソルの守りはかなりレベルが落ちる。自分とルッツとの立ち合いから、ディートハルトはそう判断していた。
その苦手な守りに、どのような変化があるのか。バルナバスの指摘を受けて、立ち合いに意識を集中させてみれば。
「……見切っている?」
大きな動きが消えていた。
「サー・ディートハルトの見切りには遠く及ばないがな」
「……どういうことだ?」
バルナバスには自分には見えないものが見えている。やはり、個の戦いにおいて自分は彼には及ばない。そう素直に認められるディートハルトに、答えを聞くことを恥じる気持ちも、躊躇いもない。
「想像だが、攻撃に恐れを感じていないのだろう」
「……反射的に体が動くことにはならない。だから相手の動きをぎりぎりまで見て、反応が出来る? それが事実だとすると、とんでもないな」
勝てる相手には、戦いに絶対はないとしても、確実に勝ち、負ける相手との戦いでは生き残る為に体が勝手に反応して戦いを避けようとする。こういうことだとすれば、とんでもない能力だと思う。
引いてはならない時には、命を捨ててでも戦い続けることが求められる軍では、不適格な能力かもしれないが。
「便利ではないか? 騎士全員を小僧と立ち合わせてみれば良い。まだ開花していない、小僧が恐れを抱くような才能が見つかるかもしれないぞ?」
「面白い考えだ。検討してみよう」
「さて、そろそろ我らにも小僧にも得るものはなくなりそうだ。止めたほうが良いのではないか?」
ソルの戦いがどういうものか知れた。これが全てだとバルナバスは思っていないが、これ以上は得られるものはないと考えている。ソルの動きがそれを示していた。
「……なるほど。そうしよう」
ソルの動きが受け身になりはじめている。ルッツとの立ち合いでは、これ以上、得られるものはない。勝ちを確信したのだとディートハルトは見た。そうであれば、ソルが冷静に、「ここで王国の五人のナイトの一人を負かして良いのか?」と忖度している間に戦いを終わらせるべき。それが出来るのはディートハルトしかいないのだ。
結果、立ち合いは、ルッツを除いて、多くがまあまあ満足する結果で終わった。途中で止めてもルッツの敗色濃厚であったのは見ていた人全員が分かっている。それで仲間を失った悲しみや口惜しさが消えるわけではないが、少しは溜飲が下がったといったところだ。
◆◆◆
ツヴァイセンファルケ公国との関係は、公主襲撃事件の真相が明らかにならないままで、緊張関係が続いている。恐れていたオスティゲル公国が抱えている襲撃犯の証言は、王国はそれが嘘であることは分かっているが、公にはなっていない。それはそうだ。王国が襲撃に関わっていることの証人がいるなんていうヴィクトール公子の話は嘘なのだから。偽証人を仕立てるにしても、王国が反論出来る決定的な証拠を持っていないということが確実でなければ、効果はない。逆に偽物であることを暴かれ、オスティゲル公国こそ真犯人なんてことにされても困る。ただこれは、王国とオスティゲル公国の間での話。ツヴァイセンファルケ公国はあずかり知らぬことで、王国への疑念を払拭するには、何の役にも立たない。王国とツヴァイセンファルケ公国との緊張関係は続くことになる。
一方で、いきなり戦いが始まるかと思われたオスティゲル公国との関係は良く分からない。ヴィクトール公子は王都に長く滞在し、ようやく去るかと思えば、ツェンタルヒルシュ公国に向かうと言う。何の密談だと疑う気持ちは王国にはあるが、嫡子であるヴィクトール公子が長く公国を離れている状態が、どういう意味を持つのか分からない。少なくとも当面は戦う気がないのか、それともそう思わせておいて、着々と準備を進めているのか。公主の動向も含め情報が足りなくて、判断出来ないのだ。
それでもなんとか現状を正しく把握しようと、毎日のように会議が行われている。現状が分からなくては方向性が決められない。何を優先的に行うべきかの判断が難しいのだ。
「ツェンタルヒルシュ公国がオスティゲル公国と軍事同盟を結ぶ可能性は低いと考えております」
「理由は?」
リベルト外務卿の発言に対して、ユーリウス王は理由を尋ねた。本当にその通りであれば、王国にとって一安心というところだが、楽観的な考えを無条件で受け入れるわけにはいかないのだ。
「ツェンタルヒルシュ公国はすでにノルデンヴォルフ公国と結んでおります。そこに更にオスティゲル公国を加えて、三国の目的が一致するとは思えません」
「ノルデンヴォルフ公国には領土拡張の野心はない」
弟のエルヴィンはどう考えているか分からないが、祖父のアードルフは北の大地を守れればそれで良いと思っているはず。その考えを、ノルデンヴォルフ公であった時に祖父と真正面から対立したユーリウス王は良く知っている。
「ハインミューラー家が覇権を手にするのを受け入れるということですか?」
「それは……分からない」
「可能性はあるということですか……それでも積極的な参戦には二の足を踏むのではないですか? 陛下と血の繋がりがあるのです」
兄が治める国、孫が治める国を亡ぼす為に軍を動かす。それを正義の戦いとは誰も認めないだろう。悪名を受け入れる覚悟があるのか。ないことを祈りたいリベルト外務卿だった。
「……元々、戦いになる可能性は想定していた。ここで楽観論を持ち出す意味はあるのか?」
ユーリウス王自身は北と東の二方面との戦いを覚悟していた。そうなっても勝利を掴めるという自信があるわけではない。可能性がある以上は、それに備える必要があると考えているのだ。
「……いえ、ございません」
楽観論を述べているつもりはリベルト外務卿にはない。ユーリウス王が必要以上にツェンタルヒルシュ公国とノルデンヴォルフ公国を敵視しないようにしたいだけだ。ツェンタルヒルシュ公国とノルデンヴォルフ公国との関係が良好であれば、南北が繋がる。当然、動員兵力も増える。それにより他公国の決起を抑制出来るかもしれない。その可能性を、王国自ら無にするのは愚かな選択だ。ユーリウス王には「愚かな選択」などという言葉を使って、話せないが。
「ブルックス家との話し合いは進んでいるのか?」
北と東と戦うとなると西は味方にしなければならない。その為のブルックス家、ヴェストフックス公国との交渉は始まっている。両家の結びつきを確かなものにする為の政略結婚も含めての交渉だ。
「ブルックス家は交渉に積極的で、思いの外、順調に進んでいると言えます」
ブルックス家は、竜王の妻であり、クリスティアン王子とルナ王女の生母である女性の実家。竜王殺害には関わっておらず、孫を殺された恨みを抱いていると考えられていた。交渉の場についてくれるかも危うんでいたのだが、予想とは違い、積極的に話し合いに応じてくれている。王国にとって良い誤算だ。
「話はまとまりそうか?」
「話し合いには積極的ですが、要求も色々あります。それをどこまで受け入れるかのご判断が近く必要になると思います」
ブルックス家からの要求内容をリベルト外務卿はまだユーリウス王に伝えていない。大小様々、明らかに無理というものもあり、それを知ったユーリウス王が交渉を止めさせてしまうのを恐れてのことだ。そのような人物にユーリウス王は、リベルト外務卿には見えているのだ。
「……どのような要求だ?」
「たとえば、領地」
「北と東で奪い取った領地を与えてやれば良い」
領地を要求するのは当たり前のことだとユーリウス王は思う。それを拒絶する必要もない。こう考えていた。
「……奪い取る前に割譲を約束することを求めています。北部の土地を」
「奪い取る前……それは……」
無理、という言葉をユーリウス王は口にしない。本来、王国の土地は全て国王の物であり、公国の領土であっても国王が公主に貸し与えているにすぎない。この建前を否定したくなかったのだ。
「求めている領地は広大です。ヴェストフックス公国と、ツェンタルヒルシュ公国とノルデンヴォルフ公国二国のどちらを取るか。極端に申し上げれば、そういう選択になってしまいます」
「そうだな」
領土をヴェストフックス公国に渡せ、なんて命令を発してもツェンタルヒルシュ公国、ノルデンヴォルフ公国の両国は受け入れるはずがない。受け入れるどころか、王国と戦う決意を定めるはずだ。公国は王国全てを自家の物にしたいのだ。そこまでの野心はなくても領土を守りたいのだ。それを奪う王国を認めるはずがない。
ヴェストフックス公国は交渉の場についた。だが、それがまとまるには王国はかなりの覚悟を決めなければいけない。
当たり前だ。王国が存続するか、滅亡するか。ひとつひとつの選択がそれを決めるのだ。それはユーリウス王も分かっているはずだ。