開け放たれた窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、それによって作りだされた隙間から、雲一つない青空に浮かぶ太陽の光が差し込んでいる。
心地良い午後。だが、その窓の近くに置かれている天蓋付きな大きなベッドの上にいる二人に、その心地良さを感じている様子はない。
服を脱ぎ、上半身裸でベッドに横たわっているソル。そのソルの肌の上を、腫れ物に触るように、ゆっくりとルナ王女は手を這わせている。
「くすぐったい」
「もう少しだから我慢しなさい」
「……分かった」
実際にすぐにそれは終わった。ソルの体から手を離し、じっと彼を見つめているルナ王女。
「……ありがとう」
御礼を言うタイミングが遅れてしまった。ルナ王女の視線は、それを批判しているのだと考えたソルだったが。
「まだ終わっていないわ。早く下を脱いで」
「ええっ!?」
それは間違い。ソルは、ルナ王女のまさかの要求に驚きの声をあげることになった。
「脱がないと薬を塗れないわ」
「い、いや。足は大丈夫だから。どこも怪我していない」
日課の鍛錬。今日もソルの体は、竜王アルノルトによる厳しいしごき、ではなく指導によって打撲だらけ。ルナ王女は手に入れた打撲に良く効くとされている薬をソルの体に塗ってあげていたのだ。
「本当に平気なのかしら? 確かめてあげるから、脱いで」
ルナ王女はソルの言葉を疑っている。鍛錬において竜王は容赦がない。ソルは全身を打ち据えられていた。ハラハラしながら鍛錬を見学していたルナ王女にはそう見えていたのだ。
「ルナ。恥ずかしいから」
「……別に裸になれとまでは言っていないわ」
ソルがはっきりと「恥ずかしい」と口にしたことで、ルナ王女にも恥じらいの気持ちが生まれた。ここまでは、ソルの痛みを和らげてあげようという思いだけで行動していた。男女のことなど、まったく頭になかったのだ。
「それは、そうだけど……」
二人はベッドの上。すでに上半身裸のソルと、そのすぐ横、息がかかるほどの距離で座っているルナ王女。まだ幼いと言える年齢のソルだが、彼女を異性として意識する気持ちはある。大人の男女がベッドの上でどういうことをするかを、商売としてのそういうことからの知識なので誤解も混じっているが、知っているのだ。
「……ソル」
ルナ王女のほうはもっと大胆だった。起き上がったソルの上半身にまた手を伸ばし、自らの体を預けていく。ゆっくりと近づく二人の顔。相手に聞こえるのではないかと思うくらい、鼓動の音が高まっていく。
青と赤が混じり合う二人の瞳が絡み合い、唇が触れ合う――
「ああ、すまない。邪魔するよ」
「えっ?」「あっ?」
かというその時に、二人を止めたのは部屋の入口から聞こえてきた声。ルナ王女の兄、クリスティアン王子の声だった。
「将来は夫婦になる君たちだけど、今はまだそういうのは早いかな?」
「……すみません」
クリスティアン王子の言う「そういうの」はどこまでのことなのか、という疑問を言葉にしない分別はソルにもある。必要な分別なのかは分からないが。
「ああ、謝ることではないよ。二人が仲が良いのは私としても喜ばしいことだ。少し驚いているけどね?」
「驚いて、ですか?」
ソルとルナ王女は婚約している。クリスティアン王子の言う通り、将来は結婚する。仲が良いのは当たり前ではないかとソルは考えた。
「だって、二人はまだ出会って二か月だ。それでルナが、なんというか、そこまで心を許すのは意外だ。そしてそれはイグナーツも同じ」
ルナ王女は人懐っこい性格ではない。真逆のかなり難しい性格であることをクリスティアン王子は知っている。婚約者だと言われても、それを受け入れるのは王女としての義務だと分かっていても、すぐに心を許すような彼女ではないとクリスティアン王子は思っていたのだ。
そして、ソルについてもクリスティアン王子は驚いている。ルナ王女は、兄であるクリスティアン王子から見ても美少女だと思うが、それと同時に人を寄せ付けない雰囲気も放っている。ルナ王女個人としての性質だけでなく、竜王アルノルトの娘、バラウル家の人間として、見る者に畏れを抱かせるところがある。だがソルからはそういった畏れは感じられないのだ。
「お兄様が二人ともを意外に思うのでしたら、そういうことだわ」
「……どういうこと?」
「お互いがお互いにとって特別ということですわ」
ルナ王女はソル相手だから、ソルはルナ王女相手だから、他とは違う反応を見せる。こう言いたいのだ。実際に彼女はそう思っている。ソルは自分にとって特別な存在、二人の出会いは運命だと、理由もなく感じるのだ。
「……悪いことではないか。さて、父上が呼んでいる。一緒に来てくれ」
「分かったわ」「分かりました」
婚約している二人がお互いを特別な存在だと思うのは悪いことではない。二人の関係がこの先もそのままか、予定通り、夫婦というそれ以上の関係になるのであれば。そうはならない可能性を、今ここで考えることは意味のないことだ。クリスティアン王子はこう考えて、話を終わらせた――
◆◆◆
「……考え事?」
「えっ? あっ、すみません。少し」
ミストの声でソルは過去の記憶から現実に戻った。未来に希望しか見えなかった、その希望が無残にも打ち砕かれる将来など、まったく考えていなかった時の記憶だ。
「謝らなくて良い。迷惑をかけているのは私のほうだ」
「まだ痛みますか?」
日課となった早朝鍛錬で怪我をしたミスト。午前中の訓練が終わったところで、ソルは様子を見に来ていたのだ。
「動かさなければ大丈夫」
「動かさなければというか、動かせないですよね?」
ミストの怪我は捻挫だ。その捻挫をした足首は包帯でがちがちに固められている。動かしたくても動かせないくらいに。
「……私は駄目だな」
「そうですね」
「…………」
見る見るうちに涙目になるミスト。
「ごめんなさい。冗談のつもりだったのですけど……」
ソルの想定外の反応だ。いつものように怒鳴られると考えていたのだ。
「私は……私は一族でも邪魔者だった。私の一族には特別な力があって、その力で実力者に仕えてきた」
怪我をしたミストはかなり弱気になっている。語らなくても良いことを語ろうとしている。ソルには聞いてもらいたいという、無意識な思いもあってのことだ。
「……隠密能力ですか?」
「知っていたのか?」
ミストはあえて力について具体的なことは言葉にしなかった。知る人は知っている情報だが、一応は秘密ということになっている。それはソル相手でも守らなければならないと考えていたのだ。
「誰かは忘れましたけど、そういう能力を持つ一族がいることを聞いたことがあります」
これは嘘だ。隠密能力と呼べるものを持っている人がいることはソルは知っていた。竜王アルノルトもそういう能力者を使っていた。だが、それが一族全体の能力であるということは、今初めて聞いた。他人から聞いたのは初めてだということであって、ミストの一族がそういうものであることは想像出来ていたが。
「だが私にはその能力がない。それどころか私は騒がしいらしい」
「騒がしいというのは?」
「私にも良く分からないけど、気配が強いらしい。潜んでいてもすぐに分かるみたいで、仲間の邪魔になると言われた」
いくら周囲が隠密の能力で気配を消しても、ミストが一緒にいては意味がない。彼女の気配で存在に気付かれてしまう。仕事にならないのだ。
「隠密の仕事が出来ない私は、姿を見せて仕事するしかない」
「そうですね。今の仕事がそうです」
「そうじゃない。私がやるはずだった本当の仕事は…………草と呼ばれる役目で……別人になりすまして対象に近づき、情報を得たり、場合によっては殺したりすることだ」
その仕事であれば気配を消す必要はない。実際には隠密能力がないと完璧な仕事は難しいのだが、なくても出来る部分はある。
「でも……駄目だった。私は……私は……」
零れ落ちる涙は、過去の出来事を思い出してのもの。仕事の成功率を上げる為には、女性であることを最大限に利用する必要がある。幸い、ミストの外見は良い。それは利点だった。
だが外見の良さだけでは仕事は務まらない。性技、男性を喜ばせる技を身に付けることを求められる。その為の訓練。好きでもない、技術指導役の年老いた男に抱かれるという訓練は、ミストには耐えがたいものだった。受け入れなければならないと頭では分かっていても、無理だった。
「……駄目だったということは、その仕事はミストさんに合っていなかったということです」
「そうだ。私は役立たずだ」
「そうではありません。人には個性というものがあります。ミストさんにもミストさんの個性があり、それが一族という枠に嵌らなかっただけです」
ミストには一族とは異なる能力がある。それは一族が求めるものとは違う。それだけのことだとソルは考えている。
「……だから一族の落ちこぼれ」
「こぼれれば良いじゃないですか。一族の仕事はミストさんには合わない。だったら自分に合う仕事を見つければ良い」
「……そんなものがどこにある?」
自分に合う仕事を見つけるなんてことは簡単に出来ることではない。それが出来ている人が世の中にどれだけいるのか。職業選択の自由など、この世界では保障されていないのだ。
「すでに見つけていると思いますけど?」
「……ルシェル様は私を助けてくれた。無理やり犯されるところだった私を救ってくれた。私に居場所を与えてくれた」
「……そうでしたか」
どうしてそのような場に王女であるルシェルがいたのか。王女になる前の彼女であったとしても公主の娘だ。そのような人が居合わせるような場面とはソルには思えないが、それを追及することはしない。今はそういう話は無用だと思っている。
「でも、私はルシェル様に甘えるばかり。恩返しが出来ない」
居場所は与えてもらえた。だが、自分がその場所で役に立っているとはミストは思えない。ソルの言う自分に合った仕事とは思えない。
「……それは、王女殿下にとって必要な力を伸ばそうとしていないからではないですか?」
「えっ? それって……」
「王女殿下を守るのに一族の力は必要ですか? あったほうが良いかもしれません。でも、別の力でも、別の力のほうが王女殿下を守れるはずです」
自分が何者かは自分で気づくべき。以前、ソルはハーゼにこう言った。その気持ちは今も変わっていないが、苦しんでいるミストを見ていると、手助けをしてあげたくなってしまう。
「別の力……」
「騒がしいのがミストさんの性質なのでしたら、もっと騒がしくなれば良いのです」
「もっと騒がしく? それってどういうことだ?」
ソルの言葉は漠然として良く分からない。それがどういう力であっても、ルシェル王女を守ることが出来る力であれば、ミストは手に入れたい。手に入れる方法を知りたいのだ。
「それは人から教わることではありません。自分で考え、いえ、自分自身に問いかけてみてください。自分の体に流れる血が、きっとそれを教えてくれます」
「そんなこと言われても……」
「まずは、ちょっと強めの言い方ですけど、一族の呪縛から逃れることです。自分は自分。一族はどのようなものであろうと関係ないと、心の底から思えるようになることです」
ミストを縛っているのは、一族の人間はこうでなければならない、という想い。出来るはずがないことを、追いかけてしまっているのだ。ソルはそう考えている。
「一族の呪縛……そんなことが私に出来るのか?」
「出来ますよ。ミストさんがミストさんであろうとするだけのことですから。自分が自分になれないはずがありません」
「私は私……か」
「そうです。ミストさんはミストさんです」
具体的なことはまったく分からないままだ。それでもミストは、先に進めそうな気がした。
「……ソル。これからも私を助けてくれるか?」
ソルが一緒にいてくれるのであれば、きっと不可能はないと思えた。
「もちろん。全力で手伝います」
「……ありがとう」
「ただ少し王都を離れます。ミストさんの怪我が治る頃にも、もしかしたら間に合わないかもしれません」
「任務か?」
近衛特務兵団に所属しているソルが王都を離れるとなれば、まず考えられるのは任務。それ以外の可能性はほぼない。
「はい、そうです。任務の内容は私の口からは言えませんので、知りたい時は王女殿下に聞いてください」
「こんな時に任務か……あっ、私の鍛錬じゃなくて、色々と揉め事がある時って意味だ」
オスティゲル公国、ハインミューラー家はまだ王都に滞在している。つい先日、揉め事があったばかりのハインミューラー家が王都にいる、この時期に、近衛特務兵団に任務を与えるのはどうかとミストは思った。そう思うくらい頼りに感じているのだ。
「揉め事があるからみたいです」
「……どういうこと?」
「我々が王都にいるとまたオスティゲル公国と揉め事を引き起こすと考えているみたいで。こういうの厄介払いと言うのですか?」
ソルにとっては忌々しいことだ。任務が与えられたことそのものは、仕事なのだから仕方がないと思える。だが、揉め事を避けようというのは、ハインミューラー家との対立を避けようと王国が考えている証。ハインミューラー家のヴィクトール公子とその部下たちを消すという選択を王国が選ばなかった可能性を示している。
「……どんな任務だか知らないけど、気を付けて」
「はい。怪我をしないように気を付けます」
「…………」
「あっ、違う。違いますから。今のは嫌味じゃありませんから」
内心のイライラも、こうしてミストと話していると少し薄れるような気がする。悪くない関係だとソルは思う。このままの関係が続くことはないと分かっていても。