早朝の訓練場で自主鍛錬を行っている騎士や兵士は、以前とくらべると、かなり増えた。近衛特務兵団の準騎士だけでなく兵士も多くいる。兵士のほうが多くなった、がより正確な表現だ。その理由は、元ティグルフローチェ党の人たちの入団。加わった二百の中には準騎士、どころか、それ以上の実力を持つ人たちがいる。さらにその彼らには劣るが、なんとか追いつこうと頑張っている兵士たちも早朝の自主鍛錬に加わることで、数が増えたのだ。
そしてまた一人。早朝鍛錬に参加する人物が増えた。
「……手加減はいらない」
「そういうの無用です。加減しないと怪我します。怪我したら鍛錬が出来なくなり、強くなれませんから」
ミストだ。ハインミューラー家の騎士にまったく歯が立たず、そのせいで事を大きくしてしまったと思い込んでいる彼女は、ソルに自分を鍛えてもらうことにした。
事が大きくなったのは、揉め事をハインミューラー家の騎士たちを殺すことに利用しようとしたソルたちのせいなのだが、彼女にはそんなことは分からない。
「……分かった」
「じゃあ、もう一度」
向かい合う二人。ミストが攻め、ソルが受けるという形は最初だけ。すぐに攻守が入れ替わり、ミストは防戦一方になる。今のところ、二人の実力には差があり過ぎるのだ。
「もう一度」
「…………」
「悔しがっている時間が勿体ないと思います。それに今の実力はミストさん自身の責任です」
ミストはルシェル王女の護衛という役目を全力で努めようとしてきた。可能な限り、側にいてルシェル王女を守ってきた。だがそれでは自分を鍛える時間がない。強くなれるはずがないのだ。
「……分かっている。悔しいのではなく、情けなくなっただけだ」
「時間を使うのは同じだと思うけど……はい。気合いを入れて、もう一度」
こんな調子で何度もやり合う二人だが、結果は同じ。ミストが一方的に追い込まれて終わりだ。当たり前の結果。鍛錬を始めたばかりで、いきなり驚くほど成長するようなら、誰も苦労はしない。
「そろそろ代わってもらえないか。一晩中楽しんだのだから今日はもう良いだろ?」
ソルと立ち合いを行いたいのはミストだけではない。ハーゼを始めとした元ティグルフローチェ党の面々もそれを望んでいるのだ。
「一晩中って……さっき始めたばかりだ」
そう言われても、まだ鍛錬は始まったばかり。ミストとしてはまだ譲りたくない。
「またまたぁ。昨日の夕方、抱き合っていたじゃないか。そのまま、あれだろ? 朝までお楽しみ」
「……ば、馬鹿か!? 抱き合ってなんていない!」
抱き合ってはいない。ソルの肩を借りて、少し泣いてしまっただけだ。
「恥ずかしがるなよ。俺は積極的な女は嫌いじゃない」
「積極的って……」
「自分からソルの胸に飛び込んでいっただろ? なんだろう、若さか? 若い女の熱情は恥じらいを超えるんだな?」
「……見てたのか?」
心当たりは嫌になるほどある。「胸に飛び込んでいった」という表現には不満はあるが、自らソルに体を預けた自覚は、ミストにもはっきりとあるのだ。
「見てた。俺の他にも何人もいたな」
「あれは……あれは……」
どう言い訳すれば良いのか考えたミストだが、すぐには浮かんでこない。逆に、どうしてあんな真似をしてしまったのかと考えて、自分自身に戸惑ってしまう。自分にとってのソルはどういう存在なのかを思ってしまうのだ。
「コテンパンにやられて悔しくて、それで泣きそうになっていたところに、たまたま俺がいただけだ」
代わりに言い訳を考えてくれたのはソルだった。ソル自身は嘘をついているつもりはないが。
「いやいや。そうだとしても情けないだろ? その状況なら、一気に女をその気にさせるのが一人前の男というものだ」
「……俺、振られた」
「えっ……?」
ソルを振った覚えはミストにはない。口説かれた覚えもない。
「なんだ、振られたのか? 大胆な真似をした割には、彼女は純情なんだな?」
「そうだろ? 俺もこれは絶対に誘われているのだと思って、その気になったのか聞いたのに、凄い怒られた」
まったく何もなかったわけではない。体を預けてきたミストが少し落ち着いたタイミングで、ソルは「これは考えた結果、その気になったということで良いですか?」と尋ねた。ミストに全否定される結果になったが。
「…………」
「あれ? 違った?」
「全然、違う。その気になったって……それでその気になるはずないだろ?」
それで上手く行ったとしたら、それはもう口説くとかいう話ではない。ミストは完全にその気で、本当に自ら誘っていたということだ。ミストがそういうタイプの女の子ではないことは、これまでの反応で、ハーゼには分かっている。
「台詞の問題か」
「違うから。私を何だと思っている? どんな台詞だろうとその気にはならないから」
本気で自分を何だと思っているのかミストは聞きたくなった。あの台詞から良い雰囲気になると思うソルのほうがおかしい。それともすでにそうなって当然の関係だとソルは思っているのか。そうではなく、たんに軽い女に見られてしまったのか。
「ええ……それってもう結論が出たってこと?」
「結論……あっ、いや、そうじゃない。別にまだ、お前とはそうならないと決めたわけでは……まだ、その……」
こんな反応をされては絶対に自分のことが好きなのだと思う。そんなミストがおかしいのか。これで気付かないソルがおかしいのか。恐らくは両方だろうとハーゼは考えた。
「お前たちの話は面白すぎるが、このままでは昼になってしまう。話はまた今度にして、立ち合いをさせてくれるか?」
「あっ、ああ。じゃあ、一度交替」
とてもソルと厳しい鍛錬を行える雰囲気ではない。自分の気持ちが緩んでしまっているのを感じているミストは、交替を受け入れることにした。また気合いを入れ直してから行えば良いのだ。
二人の邪魔をしないように距離を取るミスト。それを確かめたソルとハーゼの二人は剣を持って向かい合った。
「面白い子だが、物になるのか?」
面白い女の子ではある。だが強くなれるかという話になると、ハーゼは疑問を感じている。
「えっ、物にする?」
「おい? 気合いを入れ直せ。俺は真剣にやりたいんだ:
「悪い……彼女は……まだ分かっていないだけだ。自分の本質と真逆の方向に進もうとしている。良く分からないけど、そういう方向に進むことを強制されてきたのだと思う」
ソルは、ミストはもっと強くなれると考えている。ただ戦い方が彼女に適したものではないだけだと。詳しくは聞いていないが、彼女は自分を一族の中の落ちこぼれのように言っていた。それが影響しているのだとソルは考えている。
「……それ教えたのか?」
「人に教わることじゃない。自分が何者かは、自分で気づくべきだ」
「何者……それっていうのは……」
ソルには自分が、恐らく他の人たちにも見えないものが見えている。ミストが何者であるかが見えている。何者とソルが表現しているのはどういう意味を持つものなのか。それがハーゼは気になった。
「時間が勿体ないのでは?」
「……そうだな。始めよう」
他にも順番を待っている人たちがいる。雑談を続けていれば、その人たちが黙っていない。それが分かっているハーゼは立ち合いを始めることにした。詳しいことを聞こうとしても、どうせソルは答えない。それも分かっている。
◆◆◆
ツェンタルヒルシュ公、ラングハイム家のクレーメンスが王都に到着した。護衛として連れてきた軍勢は二千。ハインミューラー家の倍だ。その他、王都に滞在している小諸侯の軍勢を合わせると三千五百ほどが王都周辺に集まったことになる。脅威となる数ではない。ナーゲリング王国に誤算があるとすれば、ラングハイム家とハインミューラー家の二家が同時に王都に滞在することになったことくらいだ。
「この度のご即位、誠におめでとうございます。陛下の治世が末永く続くことを心から願っております」
玉座に座るユーリウス王に向けて、祝賀の言葉を述べるツェンタルヒルシュ公。
「ありがとう。ツェンタルヒルシュ公には王国の発展の為、これまで以上の尽力を期待している」
あらかじめ用意されていた言葉で返すユーリウス王。その表情に感情の色は薄い。ツェンタルヒルシュ公が内心で何を考えているのか。どうしても、こういうことが気になってしまうのだ。
「さて早速ですが、ご報告がございます」
「何かな?」
話の内容は分かっている。ツェンタルヒルシュ公にはユーリウス王に、王国に報告すべきことがある。エルヴィン、現ノルデンヴォルフ公と自分の娘との結婚のことだ。
「ノルデンヴォルフ公との婚約式が無事に執り行われました。半年以内には娘はノルデンヴォルフ公国に嫁ぐことになります」
ツェンタルヒルシュ公の話はユーリウス王をはじめとした王国の重臣たちが思っていた通り。ノルデンヴォルフ公家との結婚についてだ。ただ王国の人たちにとって意外なのは、ツェンタルヒルシュ公の語り口に、まったく後ろめたさが感じられないこと。ユーリウス王にも喜んでもらえることのように話したことだ。
「……王国への事前の連絡がなかったようだが?」
「それは何かの間違いではないですか? 外務局には伝えております」
「婚姻が決まってからだと認識している」
「はい。王国に正式に伝えるのは両家の合意が成った後という決まりですから」
交渉前に王国に伝える必要はない。まだ未確定の段階で、いちいち伝えられても意味はない。正式に決まったあとでも、本来、王国は何をするわけでもないのだ。よほど王国にとって望ましくない婚姻でなければ。
「……いつから話が進んでいた?」
「エルヴィン殿がノルデンヴォルフ公を継いで、すぐの頃からです」
実際はもっと早い。エルヴィンがノルデンヴォルフ公国に向かう途中で話を持ち掛けている。それをノルデンヴォルフ公を継いだ後だと嘘をつくのは、そのほうが王国が、ユーリウス王が文句を言えないから。ユーリウス王がノルデンヴォルフ公ではなくなった後でなければならないからだ。
「私の耳には届いていなかった」
「そうでしたか。陛下の祖父、アードルフ様は個人的に伝えておくと、おっしゃられていましたが」
ユーリウス王に情報が届かなかったのは、シュバイツァー家内部の問題。ツェンタルヒルシュ公はそういうことにしようとしている。
実際にそうだ。ユーリウス王がまだ国王ではなく、ノルデンヴォルフ公の地位はエルヴィンに渡り、シュバイツァー家当主でもない状況では、ツェンタルヒルシュ公に報告する義務はないのだ。その状況では、であって、実際は違い、違うことをツェンタルヒルシュ公は誤魔化しているのだが。
「……そうか。では機会があれば祖父に文句を言っておこう」
ユーリウス王の表情に怒りが浮かんでいる。ツェンタルヒルシュ公の言い方は、ユーリウス王とノルデンヴォルフ公家、シュバイツァー家を切り離している。ノルデンヴォルフ公国とナーゲリング王国は別物で、ユーリウス王の影響力はノルデンヴォルフ公国には及ばないと話をしているように聞こえるのだ。
「ほどほどに。私が告げ口したと恨まれてしまいますので」
「そうしておこう。さて、ツェンタルヒルシュ公はいつまで王都に滞在する予定だ?」
「今回はすぐに公国に戻る予定です。娘と過ごす時間を少しでも長く持ちたいと考えておりますので」
ツェンタルヒルシュ公に長く王都に滞在するつもりはない。彼はすでにナーゲリング王国は滅びるという前提で、動き出している。滅びゆく王国との関係を深めるつもりはなく、周りに関係性が深いと思われるのも避けたいのだ。ツェンタルヒルシュ公の目的は、まずは生き残ること。情勢を見極めるまで、出来るだけ争乱に関わりたくないと考えている。
「……父親とはそういうものか」
「亡き先王も子煩悩であったと記憶しております」
「そうか……」
ユーリウス王にはその記憶がない。可愛がるのは弟と妹ばかり。自分だけには厳しい父親だったと思っている。実際にそうだった。だが厳しくされたのは、ユーリウスが次期当主であり、ノルデンヴォルフ公を継ぐ身であるから。厳しくはあっても冷たくはなかった。弟と妹だけが可愛がられたのではなく、下の二人は少し甘やかされていただけだ。
だがそんな微妙な違いは、まだ幼かったユーリウス王には分からなかったのだ。
「陛下のご即位を祝う場で口にするべきではないかもしれませんが、先王の早過ぎる死が残念でなりません。まだご存命であれば、長く王国を統治されていれば、未来は良きものになったことでしょう」
即位を祝う場で父王の死を悼む。父王の治世が続いていていたことを望む。ユーリウス王の機嫌を損ねることになるのを承知で、ツェンタルヒルシュ公はこれを口にした。口にしないではいられなかった。