王国直轄領の東部。深い森のそのまた奥の山中にその砦はある。軍事拠点としての価値はほぼない。それがティグルフローチェ党を積極的に討伐しなかった理由のひとつでもある。公式記録ではフルモアザ王国の残党、反乱勢力となっているが王国としての実害はそれほどないのだ。
そうであるのに今回、討伐が決まったのはこれから他家との戦いが始まる、ということだけでなく、ユーリウス次期国王の意向が強く働いたから。近衛特務兵団への嫌がらせということではなく、自分に従わない勢力が直轄領内に存在することが、彼は許せないのだ。
その結果、困難な任務に挑むことになった近衛特務兵団にとっては迷惑な話だが、そうだとしても発せられた命令を無視するわけにはいかない。成功は難しいと分かっていても、任務に赴かなければならない。
「砦攻めで地形図を頭に叩き込む必要がありますか?」
「ないのか?」
「相手が砦の外に出てきて戦ってくれるのであれば意味はありますけど……その可能性はあるのですか?」
砦周辺の地形を頭の中でリアルに再現できるくらいにまで覚え込む。今回それを必要だとソルは考えていない。簡単に出来るのであればかまわない。ソル自身は地形図を見れば、ある程度それが出来る。だが他の人たちはそうではない。それに掛ける時間と得られる成果が見合わないのではないかと考えていた。
「可能性はなくはない」
可能性だけであれば、様々な選択肢がある。その中から敵が何を選ぶか。選ばないかだ。
「そうですか……地形図よりも砦内部の情報はないのですか?」
「古すぎてないようだ。あの砦はフルモアザ王国が造ったものでもない。征服戦争以前のものだ」
今は軍事的な価値がないが、その当時はあった。国と国の境界線が今とは異なり、森も今ほど深くはなかった時代だ。その当時、砦を造った国は当然だが存在していない。フルモアザ王国が砦の図面を所持していた可能性はあるが、書庫などからそれらしきものは見つからなかった。
「百五十年以上前……押したら倒れたりしないのですか?」
「補強くらいはしているだろ?」
「それはそうですね。砦を囲む防壁の高さは……五メートルくらいですか。簡単に乗り越えられる高さではない。砦正面までの道が整備されているはずもない。攻城兵器を運ぶのは無理」
百五十年以上、使われることはなかっただろう砦。砦に続く道は、かつては整備されていたかもしれないが、今は獣道よりはマシな程度。大型の攻城兵器を運ぶことは困難。それが分かっていたので、そもそも運んできていない。
「砦の周りに生えている木を使って、造りますか?」
「それを敵が許すとは思えない」
「別に許してもらう必要はありません」
「……砦の外におびき出す罠か」
攻城兵器を造るのを邪魔する為には砦の外に出てくる必要がある。外に出てきてくれるのは近衛特務兵団にとって好都合だ。砦攻めより野戦のほうが戦いようはある。ヴェルナーはそう思ったのだが。
「問題は戦って勝てるかです」
「勝てないと?」
「山の中、森の中でも良いですけど、木々が生い茂る場所で戦ったことがありますか?」
「きちんと陣形を整えてというわけにはいかない。敵がどこから攻めてくるかも分からない。遭遇戦となると個の力が重要になるな」
何が問題になるかはヴェルナーも分かる。見通しの悪い、多くの木々が生い茂る動きにくい場所での戦いは、平野部でのそれとは異なるものになる。ヴェルナーもそうだが、準騎士たちの中にはまだ戦い方が分かる者がいるだろうが、兵たちはそうではないはずだ。
「分が悪そうですね?」
「それはここに来る前から分かっていた」
「そうでしたね。そう聞いていました。そうなると……このまま戦うのですか?」
ソルの問いはルシェル王女に向けられたもの。今回の任務にはルシェル王女も現場に同行している。司令官であるのだから同行するのは当たり前なのだが。
「戦わずして王都に帰るわけにはいきません」
「王国に反抗的な勢力がいなくなれば、それで良いのではないですか?」
「そうです。その命令を果たす為に私たちはここに来たのです」
任務の失敗は仕方がない。だが何もすることなく王都に帰るという選択は、責任感の強いルシェル王女には出来ない決断だ。
「じゃあ、まずは降伏勧告からで良いですか?」
「えっ?」
「あの砦からいなくなれば、いえ、いなくなるだけでなく、反抗勢力ではなくなったと証明しなければならないのか……まあ、交渉してみてからですね?」
勝ち目がないのであれば戦わなければ良い。これがソルの選択だ。ソルにも上手く行く自信があるわけではないが、選択肢から排除するのは違うと考えているのだ。
「……分かりました。では、私が」
「いえ。私が行きます。いきなり王女殿下が行ったら、人質にされるだけです」
「でも……」
ソルの言う通りだ。自分が行けば人質にとられて、無条件で相手に有利な交渉が進む結果になるだけなのは、ルシェル王女にも分かる。だが他の人を危険な目に遭わせることには、強い抵抗を感じてしまう。これはルシェル王女の良さであり、甘さでもある。
「ああ、ミストさんをお借りしても良いですか?」
「えっ……?」
任務にはミストも同行している。ルシェル王女の護衛に割かれる人数を少しでも減らす為だ。
「私一人では相手は信用しない可能性があります。ミストさんは……あっ、そうか。王女殿下の信頼厚い人というのを証明出来ませんか。やっぱり、一人で」
「分かった。私も行く」
ソルに最後まで言わせることなく、ミストは自分も同行すると訴えた。そうすべきだと考えた。
「……言うまでもなく危険ですけど?」
「かまわない。危険を恐れていては、ルシェル殿下の護衛役など出来ない」
「……分かりました。では、一緒に行きましょう」
こうなったらミストは引かない。ソルが何を言っても無駄だ。もし彼女の意思を変えることが出来る人がいるとすれば、それは。
「ミスト……」
ルシェル王女しかいない。
「平気です。必ず交渉をまとめてまいりますので、ご安心ください」
「…………」
だが、そのルシェル王女もミストを止めることは出来なかった。彼女の瞳に宿る強い意思がそれをさせなかった。実際には、ルシェル王女がもっと強く言えばミストは引き下がることになっただろう。だが、彼女に対する自分の影響力をルシェル王女は認識していないのだ。
「……では行きますか」
「ああ」
ソルとミスト。二人は並んで、砦に向かって歩き始める。
「私のせいでこんなことになってすみません。無理しなくても良いですよ?」
ソルが口を開いたのは、声が残った人たちに届かない距離まで離れたところでだった。
「無理はしていない。貞操を奪われることになってもかまわない。ただ、死にたくはない。私はまだルシェル様に恩返しが出来ていない」
「……では砦の手前で待っていてください」
「そういう卑怯な真似は出来ない。私はルシェル様に交渉を成功させると約束した。試みることもしないで逃げては、ルシェル様を騙したことになる」
こういう、ルシェル王女限定かもしれないが、生真面目さはこの主従は似ている。ソルには頑固なだけとも受け取れてしまうが。
「……分かりました。ミストさんの貞操は俺が全力で守ります。俺のものになる約束もありますから」
「そんな約束はしていない!」
「考えるという約束はしました。考える前に失うのは約束破りです」
「それは……そうかもしれないけど……」
ということにしてしまうと、ソルの為に貞操を守り続けるということになってしまうのだが、ミストはそれに気付いていない。ソルもそういう約束をさせたいわけではない。こういう下らない話をしていれば、ミストの気持ちも少しは軽くなると考えているだけだ。
「楽観的になっているわけではありませんが、交渉が上手く行く可能性は無ではないと思います」
「それは、まったくないということはないだろ?」
「そういうことではなくて、五年という年月は人によっては、それなりに長いということです。少なくともヴェルナーさんたちにとっては、ナーゲリング王国に対する恨みを薄れさせるには十分な時間だった」
人によって、というのは自分自身は違うという意味。五年ではソルの恨みの思いは消えなかった。薄れることもなかった。ミストには分からないことだ。
「砦の中の者たちもそうである可能性か……」
「実際に会って話してみないと分かりませんけどね。とりあえずは、最初の反応ですか」
話しながら歩いている間に、もう砦は目の間に迫っている。中のいる者たちも近づいてい来るソルたちに気が付いているはずだ。まずは相手がどう出てくるかだ。
「止まれ!」
悪い反応ではない。問答無用で攻撃されることはなかった。ソルとミストは言われた通り、歩みを止めた。
「王国軍だな!?」
「はい、そうです!」
「王国軍が何の用だ!?」
これもソルは悪い反応ではないと受け取った。三百人の部隊が砦近くまで来ていることにも、当然、気が付いているはず。それで用件を尋ねるのは、戦い以外の可能性を求めている可能性が高い。
「交渉に来ました!」
「降伏はしない!」
「違います! 我々の仲間になってもらえないかの交渉です!」
「はっ……?」
思わずミストは驚きの呟きを漏らしてしまう。小さな声なので相手には聞こえなかっただろうが。
「……どういうことだ!?」
言われた相手もソルの意図が分からない。降伏勧告であると予想し、条件交渉を行おうと考えていたところに仲間になって欲しい。一緒に来たミストも分からないのだから分かるはずがない。
「我々は王国の募兵に応じて王国軍で働くことなり! 最近、ひとつの部隊として認められました!」
近衛特務兵団について語り始めるソル。事情を説明するには必要なことだ。
「ですがまだ三百人しかいません! 我々以後、募兵に応じる人もなく! 人数を増やすことに苦労しています!」
これは嘘ではない。ソルには人数を増やすことに苦労しているという気持ちはないが、軍としてはそうだ。ユーリウス次期国王が否定的であることが明らかになった今は、それを口にする軍関係者は少ないが。
「ここには二百人以上の人がいると聞きました! 我々の部隊に加わってくれる人はいませんか!?」
「……そんな嘘に騙されるか!?」
「嘘かどうかは、詳しい話を聞いてから判断してください! とりあえず、もっと近くで話をさせてもらえませんか!?」
面と向かって話をしなければ、相手の反応が読めない。こちらの反応も読まれることになるが、それはソルにとっては問題にはならない。
しばしの沈黙。やがてゆっくりと砦の入口が開いた。外に出てきたのは三人。といっても同時に扉の防壁の上には、弓矢を構えた多くの人が並んでいる。隠れていた者たちが威嚇の為に姿を現したのだ。
「……そちらの身分は?」
口を開いたのは痩せた男。王国打倒を志す軍事勢力というのとは、少し異なる印象だとミストは思った。
「私は一兵士です。隣の女性は我々の指揮官であるルシェル殿下の侍女です。一応申し上げますとルシェル殿下はナーゲリング王国の王女です」
「侍女が同行?」
「ああ、侍女兼護衛です。護衛という紹介のほうが良いですね? 侍女の仕事が出来るとは思えません」
「てめえ!」
はミストの声。確かに侍女は「てめえ」なんて言わない。それは砦側の人間でも分かる。
「……詳しい話を聞かせてもらおう」
「それは交渉の余地があると受け取って良いですか?」
「条件次第だ。それ以前にお前の話が真実であるという証明が必要になる」
つまり、交渉の余地はあるということだ。もちろん、ソルの言葉を鵜呑みにしてしまうほど相手は愚かではない。
「それは私では証明が難しいですね? 王女殿下を信じてもらえるかどうか。それには直接会って話してもらうしかありません」
「……では、ここに連れてこい」
「それを受け入れると思いますか? そもそもナーゲリング王国の臣民である貴方に、王女殿下に命令する権利などありません。あっ、臣民ではないなどとは言わないように。それを言えば、その時点でこの話は終わりです」
王国軍に入団するからには、最低限の資格として王国の民でなければならない。それを否定されては「仲間になる」という方法は使えない。
「……では、その女を置いていけ」
「そう言うと思いました。ですが、人質を取った状態で話される内容を信用出来ますか? それで貴方たちは判断出来るのでしょうか?」
「……少し待て」
こう告げて、砦の中に戻っていく三人。三人だけでは判断出来ない証だ。
「……お前、滅茶苦茶なことを言うな?」
「滅茶苦茶って……戦わずに降すというのは、こういうことです」
「ルシェル様はお前がこんな交渉をするつもりだなんて知らない」
ソルはルシェル王女の承諾を得ることなく、勝手に交渉条件を決めた。一兵士に許される権限ではない。
「事前に伝えていなくても、良い案であれば受け入れてくれるはずです」
「それはそうだな。あっ、出てきた」
相談を終えたようで、また砦から人が出てきた。最初の三人とは違う人物だ。
「俺が王女殿下と話をする」
「そうですか。では、行きましょう」
相手が何者か、砦の人たちの中でどういう地位にある人なのかを確かめることなく、ソルはミストと、その男と三人で歩き始める。知る必要などない。重要なのはその相手にルシェル王女の人の良さを見抜く力があるかどうか。それ以外にソルが提示した交渉条件が嘘ではないと証明する方法はないのだ。