対抗戦に向けて、部隊のメンバーもそれなりに気合いが入っている。負ければ失業だというのだから、理不尽さに憤りを覚えながらも、気合いを入れて頑張るしかない。とはいえ、特別なことを行っているわけではない。訓練の内容は、ほぼこれまでと同じ。走り込みの時間が長く、そして間の休憩時間が短くなったくらいだ。
大きく変わったのは準騎士となった人たち、それとソルだ。彼らはルシェル王女と共に、対抗戦で勝つための方策を考えなければならない。その為に使う時間が多くなっている。
「とりあえず、演習が行われる場所の地形を頭に叩き込んでください」
まだ作戦などは決まっていない。それを考える為の準備期間。必要と思われる情報を集めて、それを理解することから始めることにしている。
「……広いな」
ソルが配った演習場所の地図が描かれている紙を見て、ヴェルナーが呟きを漏らす。高低差も分かるようになっている地図で、端に書かれている距離の縮尺を見ると、かなり広い場所であることが分かる。
「実際に演習に使われるのは地図に描かれている場所の一部です。どこが使われることになるかは、当日にならないと分かりません」
「作戦が立てづらいな」
「それは相手も同じです。確率が高い場所はなんとなく分かりますけど、まあ、山を張る必要はないですね」
どこに陣を置くことになるか当日にならないと分からないのは、公平性を確保する為。とはいえ、実際には短い時間で作戦を組み直す必要が出てくることは、経験のないルシェル王女の側に、かなり不利になる。
「覚えるといっても、どう覚えれば良いのですか?」
指揮官の経験がないのは従士だったトビアスたちも同じ。地形を覚えろと言われても、どうするのが正しいのか良く分からない。
「地形を頭に思い浮かべられるように」
「ですから、それをどうやって行うのですか?」
「……トビアス様は言葉遣いが丁寧な方ですね? ルシェル殿下もそうですけど」
いつもとは異なり、遠回しに言葉遣いを注意するソル。トビアスにとって自分が敬語を使わないではいられない相手であることを、ヴェルナー他、素性を知らない人たちに隠す為だ。
「ああ、気にしないでくれ。敬語のほうが楽なので」
「そうですか。地形の話でしたね? 言葉通り、頭に浮かべられるようにですけど……もっと具体的な説明が必要ですか?」
もしかするとトビアスたちは、自分が竜王に求められたようなことを学んでいなかったのかもしれない。ソルは、それに気が付いた。
「そのほうがありがたい」
「では、そうですね……たとえば、この部分。ここは実際には……これくらいの距離で、高さは私の背丈くらいになります。隣の丘との距離は……ちょっと待ってください……これくらい。ここから五歩で私の膝くらいの高さ」
「…………」
歩き回りながら説明するソルを啞然として見ているトビアス。アルヴィたち、他の三人も同じような顔だ。
「今、言葉で説明したことを頭の中にイメージ出来るようにしてください」
「どうしてそれが必要なのだ?」
問いを返したのはトラビスではなく、イゴル。取り組む理由を知らなければ、出来ると思えないことに挑戦する気にはなれないと考えての問いだ。
「どうしてと聞かれても……たとえば、ここから東四十五度、百メートル先の地点に移動する時の最速ルートが分かります」
「…………」
そのイゴルも、無言になってしまう。
「急坂よりもなだらかな坂のほうが走り易いですよね? 距離としては遠回りでも時間は短くて済みます」
「お前はそれが出来るのか?」
次の問いはヴェルナーのもの。答えは分かっている。ソルは、出来て当然という言い方をしているのだ。
「……自分が出来ないことを人にやらせるのはどうかと思います」
逆にヴェルナーの問いはそれが出来ないこと、少なくとも、これまでは行ってこなかったことを示している。トラビスたちが従士だったから知らないのではなく、竜王が自分にだけ求めたことである可能性をソルは知った。
「そうか……確かに最初に陣地を確保するのには役立つ」
戦場で無駄な移動時間を使わないことは意味がある。それは間違いないことだ。
「戦闘が始まってからも移動時間を計算できることは役に立つはずです。それには味方の走力を把握しておく必要もあります」
「だから走り込みか……なるほど、気を付けよう」
走り込みの時間が長くなったのは、体力を上げるという基本的な目的だけでなく、これも理由。それをヴェルナーは、他の人たちも理解した。
「……最終的には地図全部を覚えるとしても、優先順位をつけましょうか?」
「そのほうが良いな」
「選ばれる可能性が高いのは、地図のこの辺りです」
地図上の一定範囲を指で囲むソル。
「そう思う理由は?」
「少なくとも軍の上の人たちは見学するだろうと考えて、それにもっとも適した場所は、ある程度広さがあって、他より高い位置にあるここ。全体を見渡せる範囲を絞るとこの辺りということです」
観戦席の場所を特定できれば、演習場として定められる範囲もおおよそ分かる。わざわざ遠く離れた、観戦しにく場所を選ぶはずがない。
「……ここを演習で使うのは初めてなのか?」
「いえ、違います。一般人立ち入り禁止にしなければなりませんので、演習はいつも同じ場所で行われています」
つまり対戦相手は、その場所で演習を行った経験があるということ。いつもどこで行われているか、知っているということだ。
「軍政局も敵か」
対抗戦に関する資料は事務方である軍政局から提供されている。わざわざ広い範囲の地図を用意したのは、自分たちへの嫌がらせだとヴェルナーは考えた。
「それ口にしますか? それに、敵というより命令に従っているだけだと思います」
「そうだとしても同じことだ」
「分かっています。ただルシェル殿下がいる場所では、口にしないほうが良いと思います。また自分のせいだと落ち込まれても困りますので」
軍政局にクレームを入れても変わらない。軍政局の担当者が、板挟みになって、困るだけだ。
「何を考えているのだろうな?」
これらが本当に全てユーリウス王子の差し金であるとすれば、仕えるに値する主君なのかという疑問が生まれてしまう。実際に、ヴェルナーの心には、すでにそういう思いが浮かんでいる。
「さあ? ただ権力者には権力者にしか分からない苦悩があるのではないですか?」
「……家族さえも信用出来ないと?」
「それは個々人で違うと思いますけど。ですが、家族が一番の競争相手というのは普通にあることだと思います」
王位でも爵位でも継承争いは家族間で行われる。兄弟、叔父と甥なんていうのもある。過去の歴史で、数は少ないが、女王が立った時代もあるので妹を警戒する気持ちも分からないではない。野心などまったく感じられないルシェル王女個人を考えると馬鹿げたことだとソルも思うが。
「外との戦いが始まっていないうちから、内での争いか」
「それ多分、逆です。外との戦いが始まっていないから、内で争っていられる余裕があるのです」
「確かにそうかもしれないな」
「そんなに不安に思わなくても、即位してしまえば内での継承争いは終わりです。外との争いも始まるはずです」
よほどのことがない限り、ユーリウス王子の即位は揺るがない。そのよほどのことは起きそうにない。即位してしまえば、シュバイツァー家内での争いは無用なものとなるはずで、外との戦いが始まれば、三百という大隊にも満たない数でも、貴重な戦力となるはずだ。
「まずは対抗戦に勝つことか」
「そんなに思い詰めなくても。演習では、よほど当たり所が悪くなければ死にません。生きてさえいれば、活躍出来る場はあります」
「……どことは言えないが、か?」
「はい。その通りです」
この先、王国のあちこちで戦いが起こることが予想される。戦う力のある人間には、いくらでも働き口がある。ナーゲリング王国軍だけが軍ではないのだ。なんてことは、この場所で口にすべきではない。これは、この場にいる全員が分かっていることだ。
◆◆◆
敵を知り己を知れば百戦危うからず。己を知ることは日々の訓練の中で行われている。あとは敵を知ることを始めなければならない。
ということでルシェル王女とソルは二度目の敵情視察だ。他の準騎士たちは、己を知ることを優先して、部隊の訓練。もっとも時間がある、という理由はソルには納得いかないのだが、二人が担当することになったのだが。
「……えっと、こちらの方は。どなたですか?」
もう一人、ソルが初めて会う女性がルシェル王女に同行してきた。肩より少し下まで伸びた黒髪を後ろで束ね、翠色の瞳でソルを睨んでいる敵意丸出しの女性だ。
「私の侍女です」
「侍女の方でしたか……物騒な侍女ですね?」
ソルが感じているのは敵意だけではない。殺意、としては弱いがそういう物騒な感情も見えている。
「えっ?」
「なんでもありません。供の方を連れているのは珍しいですね?」
「近頃は何かと物騒だからな。それに王女殿下を、いくら取るに足らない雑兵風情とはいえ、男と二人にしておくわけにはいかない」
「敬語……いえ、別に良いですけど……雑兵風情ですので」
侍女とは思えない乱暴な言葉遣い。ただの侍女だとはソルも思っていないが、城内でこれが許されるのかと疑問に思った。
「ごめんなさい。ミストは仕事熱心なのですけど、たまに行きすぎるところがあって。ミスト、さすがに無礼ですよ」
「失礼しました。以後、改めます」
謝罪はルシェル王女だけに向けたもの。改めるつもりはないのは明らかだ。
「……物騒なのですか?」
ソルにとっては、どうでも良いことだ。侍女にどういう態度を取られても気にならない。それに彼女の態度は間違いではない。ソルはルシェル王女の敵なのだから。
「具体的に何かがあったというわけではありません。ただ、王都に人が増え始めていますので、王国全体が警戒しているのです」
「……ああ、すでに諸侯の方たちが集まっているのですね? その家臣の人たちも」
「お前のように、どこの馬の骨か分からないような奴らもだ」
「ミスト!」
まったく態度を改めていない侍女。分かっていたことだ。
「ミスト様はそういうことを知る立場にあるのですか?」
王国全体が本当に警戒を強めているのであれば、ルシェル王女には護衛がつくはず。もしくは侍女と称しているミストが護衛であるはず。ゾルは後者だと考えた。彼女に戦う力があることは、なんとなく分かる。
「……様はいらない。私はお前とそう変わらない身分だ」
「では、ミスト。ミストはさあ」
「…………」
「冗談です。ミストさんで。ミストさんは……何の話でしたっけ?」
戦う力はあるかもしれないが、感情が表に出過ぎる。ソルの知るその手の人たちとは違う。彼女は、見た目を作っているのでなければ、まだ若い。あえて彼女のような半人前を付けている可能性もソルは考えた。ソルでは気配を感じられないほどの本物が周囲に潜んでいる可能性だ。
「ルシェル王女の護衛に必要な情報は教えてもらっている」
侍女ではなく護衛であることも、あっさりと認めてしまった。
「そうですか……私には関りのないことですね。今の私の仕事は対抗戦に勝つことです」
ルシェル王女にそうした護衛がいるのであれば、当然、国王となるユーリウス王子の側にいるはず。そして、王都を訪れる諸侯、全ての諸侯ではなく有力家だけだろうが、にも影日向にそういう存在がいる可能性が高い。襲撃を成功させるには、そういった者たちを躱して、対象に辿り着かなければならないのだ。
「勝てるのか?」
「それをミストさんが聞きますか? ルシェル殿下に仕える身であれば、勝利を信じるべきです」
「疑うのが私の仕事だ」
「……なるほど。私と同じですか」
あらゆることを疑って、それへの対処を考える。今のソルの仕事はそういうものだ。
「同じにするな。私は失敗しない」
「それはまだ失敗していない私に言うことではないですね? それと、自分を疑うことも必要なはずですけど?」
「…………」
失敗しない、なんていうのはただの思い上がり。ソルの言葉でミストはそれに気が付いた。
「最後の最後は出来ると信じないと駄目なのでしょうけど……それはやるべきことを全てやった後ですね」
「分かっている……つもりだ」
「私も同じです。言葉で言うのは簡単。でも実際にそれを出来るかとなると……」
超えるべき壁はいくつもある。全てが超えられるものなのかも分からない。絶対に失敗しない、なんて言葉は口に出来ない。
「やはり、勝つのは難しいですか?」
「対抗戦であれば千にひとつを、百にひとつに出来そうです」
「えっ?」
ミストと対抗戦にはまったく関係のない話をしていただけ。それでどうして対抗戦での勝利の確率をあげられると言えるのか。ルシェル王女には、まったく思いつくことがない。
「あとはその百にひとつを最初に持ってくること……いや、最初でなければ無理か。そうなると、失敗しないになるな。思い上がっているつもりはないですけど」
「何か思いついたのですか?」
「思いついたのではなく、相手にやるべきことをやるつもりがないことが分かっただけです。一言にすると隙がある。その隙を突く方法はこれから考えます」
完璧ではないが、敵を知ることが出来た。その結果、見つけた敵の隙をどう勝利に結びつけるか。これはまだこれからだ。