城の奥にあるバラウル王家の人々が暮らす居住区域。城に来てからは、そこがソルの生活空間の、ほぼ全てだった。外出は許されず、城の中でも居住区を出ることは、ほとんどなかった。居住区以外でソルの記憶にはっきりと残っているのは、建国記念日などの王国の行事で、王家の人々が民衆に姿を見せる時に使う城のバルコニーまでの廊下とその部屋くらい。それもルナ王女に言われて、そこまで付いて行っていただけで、ソル自身がバルコニーに出ることなどはなかった。バルコニーから王都を眺めることもソルは出来なかったのだ。
そんな軟禁ともいえる暮らしで、ソルの日々は鍛錬と勉強に費やされていた。食事と寝る時間、そしてルナ王女との時間を除いた残りの全ての時間が、軍事に費やされていたと言っても構わないくらいだ。
「これは? どっちが勝ったと思う?」
勉強を教えられていた、といってもその中身は普通ではない。ソルに竜王アルノルトが見せているのは戦場の図。地形図の上に軍の配置が書かれているものだ。
「……左の軍勢です」
「右左ではない。方角で答えろ」
「西です」
こんなルールもある。上下左右ではなく、紙に書かれている方角で答えなければならないのだ。
「違うな」
「勝ったのは東の軍勢ですか……」
間違えた。こう考えて落ち込む様子を見せるソル。
「勝ったのは西の軍勢だ」
「はい?」
だが答えは合っていた。合っていたのに竜王は「違う」と言ったのだ。その理由が、この時はまだ、ソルは分かっていない。
「違うと言ったのはお前が頭で考えたからだ。もっと直感で答えろ」
「直感……」
それで当たったとして、何の意味があるのか。勘が研ぎ澄まされて、正解率が上がるとも思えない。
「直感は少し違うか。まずは地形を頭に思い浮かべろ。図に描かれているままではなく、本物を頭の中に展開するのだ」
「本物ですか……」
そんなことを言われても、どうすればそれが出来るのか分からない。竜王の教えは、今ソルに伝えている言葉の通り、論理的ではなく感覚的で、ソルには理解しづらい。
「戦場の広さ、丘の高さ、木々の高さ、林の深さ。そういったもの全てを具体的に頭に浮かべる。それが出来たら今度は、そこを動く軍勢を考える。どこをどれくらいの速さで移動するのか」
「ああ……でも、それで勝ち負けが分かるのですか?」
ようやく竜王が言いたいことがソルにも分かった。過去の戦場で起こったことを映像のように、この世界には映像なんてないので目で見ているようにだが、頭の中に思い浮かべることを竜王は求めている。
だがそれで勝敗が分かるというのが、ソルは理解出来ていない。
「正しい動きを正しい順番で行えば、よほどの戦力差がある場合や、初期配置が不利であった時以外は、勝てる」
「……失敗しないほうが勝つということですか?」
「そうだ。だが絶対に失敗しない戦場なんてものはまずない。敵より少なく、小さな失敗に抑えることが大切なのだ」
「そうか……分かりました」
なんて言葉を返したが、「言いたいことが何となく分かった」程度の理解。実際にそれが出来るということではない。そんな勉強をソルは続けていたのだ。
(……竜王様は出来たのか? あの頃は聞けなかったな)
昔のことを思い出してみれば、無茶なことを言われ続けていたことが分かる。教えていた竜王自身も、実は出来ていなかったのではないか。こんなこともソルは思った。
(バラウル家は出来るのか……だから勝者になったのかも)
バラウル家は征服戦争の勝利者だ。他家には出来ないことが出来たからこそ勝者となり、建国したフルモアザ王国は百五十年続いた。そうである可能性もないわけではない。
(だとすれば、とんでもないな。個の戦闘力がずば抜けているだけでなく、戦術においても他者を凌ぐ。そんな相手に勝てるはずがない……卑怯な手を使わなければ)
竜王弑逆の犯人たちは、その卑怯な手段を使った。卑怯な手で罪のない人たちを殺し、フルモアザ王国を滅ぼし、世の中に混乱をもたらそうとしている。ソルから見ると、こういうことになる。
(……さすがに一度に全員は無理。そうなると、どうするか……?)
ソルの思考が復讐計画に移る。王都に仇たちが集まる。その絶好の機会にどう動くべきかを考え始めた。
(ラングハイムは後回しだな。いや、同行してくるのか? 公主の妹って、国の行事に参加する資格があるのか?)
ラングハイム家における復讐対象は公主のクレーメンスだけではなく、妹のビアンカも含まれる。竜王の後妻であったビアンカは、ソルとルナ王女が城から抜け出すことを考えるように、隠し通路を使うように仕向けた人物。直接関りのあったソルにとっては、竜王弑逆の実行犯であるクレーメンスよりも憎むべき相手だ。
(あの女には他の協力者を教えてもらわなければならないからな。拉致するとなると……大勢がいる中での拉致は無理だよな。やっぱり、後回し)
城内の協力者はビアンカ以外にもいた。ソルはそう確信している。ビアンカにはその協力者が誰であったのかを白状してもらう必要がある。同じ城内にいた彼女であれば知っているはずだと、ソルは考えているのだ。
(そうなると、どちらかか……)
王都で狙うとすれば、ハインミューラー家かアズナブール家のどちらか。両方という選択肢は、ソルは除いている。二兎を追う者は一兎をも得ず、ではないが、確実に一人を殺すことに集中して、それでも成功するかどうかといったところだと考えているのだ。
(警戒が厳しいのは、普通に考えればハインミューラー。だからといってアズナブールが油断しているとも思えない)
ハインミューラー家はすでにナーゲリング王国、シュバイツァー家に向ける敵意を露わにしている。即位の儀に参加するかも怪しい。そうなると標的はアズナブール家、ツヴァイセンファルケ公ということになる。
(城内は無理。狙うとすれば……王都の外か、入口か。そうなるとな……)
ツヴァイセンファルケ公を殺してそれで終わりではない。ソルはその場から無事に逃げ延びなければならないのだ。襲撃場所は逃亡しやすい王都の外か、せいぜい入口近く。そうなると兵士でいることは難しい。王都の外に行ける行動の自由が必要なのだ。
(……対抗戦とやらは好都合だな)
襲撃事件が起きる前に王国軍から消えたとなれば、確実に犯人だと疑われる。ナーゲリング王国内だけで疑われるのは、まだ良い。ソルが恐れるのは、標的に自分の外見などの特徴を知られること。今、王国軍に潜り込んでいるように、何らかの形で軍などの標的が治める公国の組織に入り込むことが必要になるのは間違いないのだ。
その為には、行われることになった対抗戦は都合が良い。それに負けてしまえば、全員が解雇されることになる。ソルだけが疑われることにはならないはずだ。
(…………えっ?)
対抗戦について考えた途端に、あり得ない人影がソルの目に映った。あり得ないという表現は、ソルが勝手にそう思っているだけで、城の図書室に現れてもおかしくはない人物だ。
「ソル殿。お願いがあります」
「敬語、じゃない。えっと……王女殿下が私のような雑兵風情に何のお願いでしょうか?」
現れたのはルシェル王女。今、この国でもっとも会いたくない人物だった。
「模擬演習戦が行われることは、すでに知っていますね?」
「……はい。聞きました」
予想通りの話題。ただ、その為にルシェル王女がわざわざ自分に会いに来た理由までは、ソルには分からない。
「勝つために協力して欲しいのです」
「はい。部隊の人間として、精一杯、頑張ります」
「ありがとうございます。では、早速ですけど、一緒に来てもらえますか?」
「はい?」
上手く惚けて躱したはずだった。惚けたことはルシェル王女に気付かれたとしても、「ありがとうございます」の言葉が返ってくるはずではなかった。
「偵察です。相手の部隊が訓練している様子を見に行きましょう」
「どうして私が?」
「一緒に頑張りましょう!」
これは逆に上手く惚けられているのか、それともルシェル王女は実は天然だったのか。こんなことを悩みながらもソルは、彼女の勢いに押されて、言われた通りに付いて行くことになった。
◆◆◆
少し先では三百ほどの部隊が訓練を行っている。ナーゲリング王国軍、第一〇一大隊に所属する三百名だ。百一番目の大隊という意味ではない。王国軍には百番台、二百番台、三百番台の大隊がある。三百台は常設部隊ではなく、戦時に臨時徴兵が行われた場合に、増加する大隊に付けられる番号。常設部隊としては百番台と二百番台だけとなる。
その時々で数の増減はあるが、基本は一大隊千名、十大隊一万名で一軍となる。つまり第一〇一大隊は、第一軍の第一大隊、ナーゲリング王国軍でもっとも優秀な大隊ということになる。その第一〇一大隊の中から選ばれた三百が、新部隊の対抗戦の相手だ。
「負け決定ですね? 残念です」
その話を聞かされたソルの言葉。声に出したのはソルだけということであって、他の人たちも同じ気持ちだ。偵察はソルとルシェル王女だけでなく、準騎士の人たちも参加しているのだ。
「まだ結論は早い」
皆に説明しているのバルバドス。ルシェル王女は相手部隊の詳細まで把握出来ていないので。代わりに説明役を務めているのだ。
「勝ち目はあると?」
「指揮官は王国最高の騎士と称されているサー・ディートハルトだ」
ナーゲリング王国の騎士の中で、序列一番に置かれている騎士。第一軍の司令官を務める、将としてももっとも優秀とされている人物だ。
「それは良かったです。最強ではなく、最高ですからね?」
「……少し面白かったぞ」
「ありがとうございます。ただ冗談を言ったつもりはありません。最高より最強のほうが強いはずだと素直に考えただけです」
最強の騎士はバルナバスのもの。それはそのままディートハルトは最高であっても最強ではないということ。ソルは素直にそう受け取っただけだ。戦いは容姿や礼儀作法に優れた者ではなく、強い者が勝つ。こう考えているだけだ。
「ああ、それはまだ伝えていなかったな。お前たちの指揮はルシェル殿下が執られる」
「……はい?」
「対抗戦はルシェル殿下の指揮官としての適性を評価する場という意味もある。だから指揮官は俺ではなく、ルシェル殿下が務める」
「……えっと」
ルシェル王女が指揮官ということであれば、率いるのが目の前で訓練している王国最強部隊であっても負けてしまうのではないか。そんな思いを浮かべながら、ソルの視線は、思わず、ルシェル王女に向いてしまった。
「ごめんなさい。つい、売り言葉に買い言葉で……」
ユーリウス王子と話し合い、というより、ほぼ兄妹喧嘩のようになった結果、決まったことだ。ユーリウス王子に嵌められたということなのだろうが、ルシェル王女にはその意識はないのだ。
「指揮経験のない指揮官を戴いた、王国軍の中で、もっとも軍歴の少ない我々が、王国最高の指揮官が率いる最強部隊に挑み、勝たなければならない。こういうことでよろしいですか?」
「それでお願いします」
「お願いされても……」
どうにも出来ない。勝てると思うほうがおかしい。対抗戦は自分たちを王国軍が追い出す為のもの。確実にそれが実現する段取りを組まれたということだ。次期国王の意向で。
「ですが、もし勝てる可能性があるとすれば、貴方が本気になることだと教わりました」
「……どこの誰がそんな戯言を?」
聞かなくても分かっている。自分を過大評価している相手がいるとすれば、ソルがルナ王女の婚約者であったことを知っているトビアスたち、クリスティアン王子の従士だった彼らしかいない。ソルの視線はルシェル王女から彼らに移った、のだが。
「ここにいる全員です」
「はい?」
「先の任務で、圧倒的に不利な状況にあった戦いをひっくり返したのは貴方だと皆が教えてくれました。サー・バルバナスも同じ意見です」
「……あれとこれとは」
まさかここで前回の任務が話に出てくるとは、ソルは思っていなかった。トビアスたち以外も、そこでの活躍を評価していることも。
「必ず勝てとは言っていない。絶対に負ける戦いに百にひとつ、千にひとつでも良いから勝利の可能性を作れと言っているだけだ」
「最高の指揮官に最高の部隊ですよ?」
「お前が討った相手はハインミューラー家で最強の騎士と評されていた奴だ。可能性はある。百にひとつは無理でも千にひとつならどうにかなるだろ?」
実際はもっと確率はあるとバルナバスは考えている。ソルがどうかは関係なく、戦いに絶対はない。負けるはずのない戦いに負けた軍など、過去の歴史に数多く存在しているのだ。
「……頑張って、私に何の得があるのですか? 訓練では褒賞は出ないですよね?」
それでもソルは抵抗を試みる。軍で地位を得るメリットはない。可能であれば、今すぐにでも辞めたいくらいなのだ。
「褒賞の代わりに、文字を教えるのはどうですか?」
「えっ?」
「あの、さっき図書室で紙に言葉がいくつも書き出されていました。あれは分からない言葉なのではないですか?」
「…………」
ルシェル王女の言う通りだ。文字を習ったといっても、覚えたのは日常使われる言葉くらい。軍学書などに書かれているような難しい言葉は分からないものが多い。そういう言葉があった時は、あとで誰かに聞くために書き出しているのだ。昔のように。
そのやり方は文字を習い始めた時からのもの。イグナーツとしてルシェル王女と共に過ごしていた時からの方法だった。
「私が教えます」
昔のように、という言葉は続かなかった。続かなかったが、ソルにはその言葉が聞こえた気がした。もうルシェル王女には自分のことは知られている。誤魔化しが通用しないくらい、自分をイグナーツだと確信しているのだとソルは感じた。
「……分かりました、それで。ただ、結果は保証しません。出来ません」
「分かっています。私はやれることは全て、全力で行いたいだけです。そうしたとしても皆さんへの償いにはならないことは分かっていますが」
ルシェル王女は彼らをこのような形に追い込んだのは、自分の責任だと考えている。発案者である自分が悪いのだと。だがそうではない。ルシェル王女は彼らにチャンスを与えたのだ。生きる目的を失って苦しんでいた彼らを救おうとしているのだ。
「……償いが必要になるのは負けた時です。指揮官である貴女が今考えることではありません」
そうであることをソルは知っている。
「あの、それは?」
結果は保証出来ないと言ったばかりのソルの口から出た言葉。負けを今、考える必要はないという言葉は、最初の言葉とは矛盾しているとルシェル王女は思った。
「貴方は勝つことだけを考えていれば良いのです。我々を信じて」
「……それで良いのですか?」
「負ける為に戦う軍人なんているのですか? 我々は勝つつもりで戦うのです」
完全に前言を翻したソル。自信が生まれたわけではない。勝てる保証などないと今も思っている。だが負けると思って戦っては勝てるはずがないことは知っている。自分に自信がなくても、周りには勝てる可能性があると思わせなければならない。勝つためには。
もともと自分は不可能を可能にする為に生きているのだ。命を落とす心配のない模擬戦での勝利など、それに比べれば、遥かに容易いこと。ソルはこう自分自身に言い聞かせていた。