緩やかな起伏が広がる丘陵地帯。それがフーバー家が戦場として選んだ場所だ。占拠していた用水路近くからこの地に移動してきたフーバー家の軍勢は、辺りで最も高いと思われる丘に陣取っている。対するバルナバス率いるナーゲリング王国軍は丘の下。高所を取られており、 位置関係としては不利な状況だ。とはいえ、そんなことは現地に到着する前から分かっていたこと。待ち構えていたフーバー家は、自軍に有利な場所を選んで陣取るに決まっている。そもそも、どのような状況であろうと、ナーゲリング王国軍に戦わずに退却するという選択は許されていないのだ。
丘の下に陣取ったナーゲリング王国軍は、大きく三つに部隊を分けた。中央に二百、右翼にも二百で、残った百は左翼に配置された。ソルたちの伍は右翼の部隊で開戦を待っている。それはもう間もなくのはずだった。
「おい? ソル、てめえ、何をしている? さっさと隊列に戻れ」
開戦間近だというのに隊列を離れ、前に歩き出したソル。その彼を止めようとマルコが声をあげている。
「何している? 速く戻れ」
だがソルはマルコの言うことを聞こうとしない。左右に視線を巡らせたかと思えば、指を舐めて、風向きを調べるような仕草を見せている。
「早く戻れ! 怒られるだろ!?」
とうとうマルコは怒鳴り始めた。ソルの行動に苛立ちを覚えるのは、いつものこと。だが今は苛立つだけでは済まない。これから戦いが始まるというのに、ソルは部隊指揮官の指示なく、勝手な行動をとっているのだ。
「貴様! 何をしている!? さっさと隊列に戻れ!」
結局、マルコの大声が部隊指揮官の騎士にソルの行動を知らせてしまった。だからといってマルコが悪いわけではない。悪いのはソルだ。
「戻らないか! 軍令違反で罰せられたいのか!?」
戦場において指揮官の命令は絶対。それを無視しては、重い罰を与えられても文句を言えない。しかも伍の連帯責任となってしまうのだ。
「待て。俺が話す」
「司令官!?」
ソルを引き戻そうと動き出した部隊指揮官を止めたのはバルナバス。司令官であるバルナバスが自ら動こうとしていることに、さらに開戦間近であるのに彼が右翼に来ていることに、部隊指揮官の騎士は驚いている。
その驚いている部隊指揮官を置いて、バルナバスはソルに近づいていく。
「何をしている?」
「……ちょっと確認したいことがありまして」
「何だ? 言ってみろ」
ソルの行動には理由がある。バルナバスはそう思っている。奇抜な行動が多いソルであるが、意味なく、罰を与えられるような行動を起こすはずがないと考えている。
「伏兵がいるのではないかと」
「ほう。どうしてそう思った?」
ソルの答えは、ある意味、バルナバスの予想通り。そうなると、そう考えるに至った理由も知りたくなる。
「時間があったはずなのに、陣地らしきものが作られているように見えません。数の不利は分かっていたはずなのに。それとも私たちが訓練を終えたばかりの新兵だということまで分かっているのでしょうか?」
「なるほど。正面は誘いだと考えたか」
バルナバスに驚きはない。彼も同じことを考えていた。司令官である自分と、一兵士に過ぎないソルが同じことを考えたことには驚くべきだが、それもバルナバスの予想の内なのだ。
「ということで、左翼に移動しても良いですか?」
「なんだと?」
このソルの要求は、バルナバスの予想外のものだった。
「楽なほうに逃げるというわけではない、つもりです」
「……伏兵は左翼の側にいると思っているのか?」
バルナバスは右翼の側に伏兵が潜んでいると考えている。少し距離はあるが、右側には林がある。伏兵を潜ますには恰好の場所だ。だから自軍の右翼の数を左翼よりも多くしているのだ。
「怪しいのが、あの林であることは分かっているのですが……匂いが」
「匂いだと?」
「風は右から吹いています。あの林に人や馬が潜んでいれば、その匂いがするはずだと思うのですが」
わざとらしく、本人にわざとらしくしているつもりはないのだが、くんくんと匂いを嗅ぐ仕草を見せるソル。
「あの距離の匂いが分かると言うのか?」
「森で暮らすには匂いに敏感でなければなりません。危険を避ける為にも、獲物を狩る為にも」
「……自信があるのだな? あの林には伏兵がいないという」
「司令官!?」
すでに部隊指揮官も近くに来て、二人の話を聞いていた。バルナバスの問いはソルの、部隊指揮官にとってはだが、まったく根拠のない話を真に受けたことを示している。そんなことを黙って見ているわけにはいかないと思った。
「全てを入れ替えるわけではない。そうだな……四十ばかり移動させるだけだ」
「四十、ですか?」
それはそれでどうかと部隊指揮官は思ってしまう。万一、ソルの考えが正しかった場合、右翼を百から百四十に増やしたくらいでは対処出来ないのではないかと思ってしまうのだ。
「四十連れて、左翼に行け」
「連れて……そういう権限を私は持っていないと思います」
「では今、与える。好きな伍を連れて行け。自分が指定しても構わないが」
新兵に四十の部隊を率いる権限を与える、というつもりはバルナバスにもない。人選を任せようとしているだけだ。その結果は、自分が行う選抜と同じになると考えているのだ。
「……分かりました」
右翼の隊列に近づき、何人かに話しかけるソル。すぐに八つの伍、四十人が選ばれた。それが終わったところでソルは、バルナバスに視線を向けたが、顎で左翼を示されたのを見て、何も話すことなく、そのまま左翼に向かった。
「……どういうことですか?」
「敬語」
選ばれた一つは、トビアスがいる伍。同じくクリスティアン王子の従士であった三人が所属している伍も選ばれている。
「……どういうことだ? 事情を説明してくれ」
「お伝えした通りです。司令官の命令で左翼に向かいます」
「左翼に何がある?」
「分かりません。今、分かっているのは右翼には伏兵がいないということ。左翼より多く人を配置する必要がないということだけです。正確には、百人も増やす必要があるほどの伏兵はいない、ですけど」
右の林にも伏兵はいる。ただその数は戦況に影響を与えるほどではない。偵察を送った時に、わざと発見される為の囮だとソルは考えている。
「左翼にはいると?」
「ですから、まだ分かりません。戦いが始まるのを待たないと」
「偵察……いや、偵察に見つからないように距離を取っていると考えているのか?」
「馬鹿でなければそうするのではないですか?」
開戦を前にナーゲリング王国軍も周囲の偵察は行う。通常は、であって今回、バルナバスはわざと伏兵の存在を見逃そうとしていた。いることが分かっていれば、対処できる。こう考えているのだ。
「やはり、貴方は」
ソルは、イグナーツとしてだが、竜王からしごきか虐めかと思ってしまうくらいの厳しい指導を受けていた。それは個人としての武だけではない。竜王が何を考えてそうしていたのかは知らないが、戦術の類まで叩き込もうとしていたのを従士であった彼らは知っているのだ。
「そういうのいらないです。一応、言っておきますと、かなり厳しい状況に追い込まれるかもしれません」
「……敵が動員できる数は把握できているはずでは?」
想定を超える伏兵がいる可能性。ソルはそれを示唆しているが、そんなはずはないのだ。フーバー家については王国は多くを把握している。軍の最大動員人数も。そうであるはずだとトビアスは考えていた。
「それがどれだけか知りませんが、王国と戦って勝てるほどではないのは間違いありません。それなのに、敵は最初から戦う以外を考えていません。一兵士の私では知っていることに限りはありますけど」
ソルが知る限り、フーバー家は言い訳の使者を送ってきていない。追い込まれて戦おうとしているわけではない。勝てるはずのない相手と、初めから戦う覚悟を決めている。ソルはそれを疑問に思っていた。
「……敵には勝てる算段がある?」
「死にたい理由があるのでなければ、そうなのではないですか? そして一族全員が死にたい理由は、私には思いつけません」
「この戦いは罠か?」
フーバー家には勝てると思える何かがある。自分たちは誘い込まれたのだとトビアスは思った。
「さあ? それを考える義務は私にはありません。私がやるべきことは頑張って戦って、手柄を上げることです」
「……真剣に戦うつもりなのだな?」
ナーゲリング王国の為にソルが戦う理由はないはず。だが、彼は危険だと思っている左翼に、自ら向かうことを選んだ。それがトビアスには不思議だった。
「当たり前です。職を失うわけにはいきません。それに稼げる時に稼がないと。それは私以外の皆さんも同じではないですか?」
「稼ぐといっても……」
「では言い方を変えます。兵士ではなく騎士として働けるようになれる機会を逃す手はないと思います」
「……なるほど。そういうことか」
トラビスも、他の三人もずっと兵士でいようとは思っていない。いつかは騎士に昇格出来ることを期待しているのだ。この戦場での戦功が、それに繋がるのであれば、危険な左翼も望むところだ。
そしてそれは彼ら以外の何人かも同じ。トラビスも、もう気付いている元騎士であったであろう人たち。よく見ればその人たちは皆、一緒に左翼に向かっていた。
司令官のバルナバスが四十人という中途半端な数を指定した理由が、トラビスにも分かった。
◆◆◆
戦いが始まろうとしている。実際はすでに始まっていて、ナーゲリング王国軍は前進を開始している。まだ両軍は接触していないというだけだ。もう間もなく、その時が訪れる。
フーバー家は陣形を変化させている様子は見られるが、その場にとどまったまま。有利な位置を自ら手放すはずはないので、当然といえば当然。だが、伏兵の存在を考えている者たちにとっては、それさえ誘いに思えてしまう。
左翼も前進を続けているが、正面の敵に集中出来ていない状態だ。
「……もうすぐ、ですか」
「何だって?」
ソルの呟きに反応したのはマルコ。常にソルを気にしているわけではないのだが、いつも真っ先に反応するのはマルコだ。他の人たちが一度、ソルの言動を飲み込んでから反応するのに対し、マルコは反射的に言動を返すからだ。
「だから、もうすぐです。これは、どうすれば良いのでしょう? 部隊指揮官に伝えますか?」
「……それは新手が来るということか?」
「他に何かあります?」
「さっさと伝えろ! この馬鹿が!」
「信じてもらえるかな?」
なんて呟きを漏らしながらも、ソルは言われた通り、部隊指揮官の元に向かった。ただその時にはすでに部隊指揮官もソルのほうに視線を向けている。当然、部隊指揮官は伏兵に気を付けるようにバルナバスから言われているのだ。
二言、三言話すとすぐに伝令役の従士が中央の部隊に向かって、馬を駆けさせていった。
「全体停止! 左半数は二列縦隊、左! 右は正面を警戒しろ! 方陣!」
部隊指揮官は部隊は半分に分けて、陣形を組ませた。ソルの忠告に素早く反応したのは正しい。ただ対応はやや中途半端だ。結果論としてだが。
「……これは……騎馬隊か!?」
聞こえてきたのは馬が駆ける音。それも一騎、二騎ではない。その程度であれば、まだ聞こえてこない。
「全体二列縦隊、左! 急げ!」
部隊指揮官は右半分も加えた縦列陣形に変更する判断を行った。騎馬の突撃を受けきるというより、受け流すつもりだ。
「槍構え!」
すれ違いざまに、どれだけの騎馬を倒せるか。中央の部隊に大きな損害を与えるようなことになるのも不味い。
「おい……あれは?」
敵騎馬隊が姿を現した。まだ丘の間を駆ける騎馬の影が見え隠れしている状況だが、それでもその数が予想していたよりも遥かに多いことは分かる。
「中央に伝令! 敵騎馬隊! 数は……百!」
数は自部隊のほうが多いが、敵は騎馬。百騎という、騎馬隊としては少なくない数だ。それが分かった時点で部隊指揮官は左翼だけで勢いを止めることは無理だと判断した。それどころか敵の突撃で、自部隊が大打撃を受けることを覚悟しなければならない状況だ。
「……何?」
ここで、部隊指揮官にとって、予想外の事態が起きる。接近してくる敵騎士が馬から落ちていく様子が見えたのだ。さらにもう一騎。その隣も。全体から見れば、わずかな数ではあるが敵騎馬が自陣に辿り着く前に倒れていく。
「あれは……槍、なのか?」
空を切り裂く影は槍。自部隊から、もの凄い勢いで飛んでいく槍であることが部隊指揮官にも分かった。何が起きているのか。心の疑問はわずかな間。自部隊から飛び出していった人影が、その疑問を部隊指揮官の頭から消し去った。別に、「あれは誰だ」という新たな疑問が湧いただけだが。