三か月の訓練期間を終えて、兵士候補たちは候補が取れて兵士になった。 だからといって日常は変わらない。訓練の日々が続き、その内容もほぼこれまでと同じだ。候補が取れたからといってそれで一人前となったわけではない。末端とはいえ職業軍人である彼らは強くなり続けることを求められ、休日と戦場に出る時以外は、ずっと訓練を行うことになる。
そんな中、はっきりと変わったこともある。給料を貰えたことだ。兵士候補の間は雇用されていたわけではない。雇用するかどうかを決める試験期間という位置づけで、彼らは無報酬で訓練を行っていた。ただ王国側から言わせれば、「使いものになるかどうかも分からない者たちに衣食住を与えてやっていたのだ。ありがたく思え」ということになる。
給料を手にした彼らは休日の過ごし方を変えた。手に入れた金で外食をするようになった。王国軍の施設内では、基本、飲酒禁止。酒を飲みたければ、外に出るしかないのだ。
もちろん全員がそうするようになったわけではない。ソルのように酒を飲むことに、外で食事をすることにも価値を感じられない人たちは、休日もこれまでと同じ時間を過ごしている。
「……真面目だな。休みの日くらい遊びに行けよ」
自分のことは棚に上げて、ソルは不満そうにつぶやいている。訓練場に来てみれば、他にも人がいた。いつもは行えないような鍛錬をしてみようと考えていたソルにとって、彼らは邪魔者だ。
「城の外に出るという手もあるか……いや、遠出出来なければ、却って目立つな」
訓練場が駄目であれば他の場所で。こう思ったソルだが、一日の自由時間では行けるところは限られている。少なくとも、誰にも邪魔されない場所として頭に浮かんだ腐死者の森は絶対に無理だ。
「また後で考えよう。今は時間が勿体ない」
鍛錬場所の確保は今考えてもすぐに答えが得られるものではない。こう考えたソルは、とりあえず鍛錬を始めることにした。
訓練用の槍二本を、用意してきた縄をぐるぐる巻きにして縛って繋げる。さらにもう一本繋げたところでそれを持ち上げる。ソルが始めた鍛錬は、兵士候補の時から行ってきた訓練と同じ。ただ上下に振るだけだ。だが槍三本を長く繋げたそれは、結構重い。負荷は普段の訓練とは比べものにならない。
ソルはその槍を両手で持って、いる振りをして、実際は片手だけで動かしている。
(長くて重い槍を振り回すのって悪くないと思うけど、持ち運ぶことが出来ないな)
ただの力技。だが戦場ではそれで良いのではないかとソルは考えている。ただ問題は、兵士であるソルは自分の武具は自分で運ばなければならない。一人だけ異常に長い槍を持ち歩いていては、邪魔に思われてしまう。というか絶対に目立つ。
(ただの馬鹿力で納得してもらえないかな?)
自分の素性が知られれば、今の立場ではいられない。最悪は捕らえられ、殺されてしまう可能性もある。命の危険は覚悟の上でこの選択を行っているので良いのだが、ナーゲリング王国軍にいられなくなるのは困る。
(……正しい選択だったのか? 意外とルシェル王女は自由に行動しているからな。でも、ここも城内といえば城内か……)
ただ、ナーゲリング王国の兵士になるという選択は本当に正しいのか、ソルには自信がない。復讐対象がいる場所に行き、機会を待つほうが良いのではないかと思うようになっている。
竜王とその家族は城から一歩も出なかった。公国の頂点にいるであろう復讐対象たちもそうであれば暗殺は困難。という理由だけでなく、ベルクムント王の死に際の頼みも影響しての選択だったが、三か月ただ訓練をしているだけの毎日を過ごしていると、時間を無駄にしているように思えてしまうのだ。
(焦っても仕方がない。それに、俺にはもっと強くなる為の時間が必要だ)
ベルムント王は殺せた。ダメ元の策にまんまと乗って誘い出されてくれ、腐死者の森に仕掛けた罠にも嵌ってくれた。ソルの期待を遥かに超えて、計画は上手く行った。
成功はたんに思いがけない幸運が味方してくれただけ。戦場はベルクムント王の時のような罠も使えない。多くの敵を倒して戦場の一番奥にいるであろう対象まで辿り着き、自分と同じバラウル家の血から受け継いだ力を持つ相手を倒さなければならないのだ。
(……よし。ちょっと、やる気出てきた)
訓練も個人の鍛錬もマンネリ化していて、やや気持ちが沈んでいた。強くならなければならない、ということを改めて考えることで、気持ちが引き締まるのをソルは感じた。
強くならなければ復讐を果たせずに、ルナ王女に与えられた命を活かすことが出来ずに死ぬことになる。そんな結果はソルには受け入れられないのだ。
(出てきたのに……)
鍛錬を邪魔する存在が現れた。こう考えるのはソルだけだ。他の人たちは、ルシェル王女に頑張っていることを知ってもらおうと、さらに鍛錬に熱が入っている。
ただソルの考えが間違っているというわけではない。ルシェル王女は間違いなく、ソルに向かって歩いてくる。それに焦ったソルは、とりあえずその場に跪いて、頭を垂れた。
「……立ってください。鍛錬の邪魔をするつもりはありません」
「そう言われましても。私は王女殿下にお目通りがかなうような身分ではありません」
そのつもりがなくても実際に邪魔をしている、という言葉をソルは飲み込んだ。面倒ごとは起こしたくない。ルシェル王女は許したとしても、彼女に同行してきた侍女らしき女性と騎士が黙っていないはずだ。
「……身分について言いますが、貴方はそのような作法をどこで覚えたのですか?」
まだ若い、兵士になったばかりの人間が、どこでこのような作法を身につけたのか。ルシェル王女の心に疑いが、期待かもしれないが、広がっていく。
「もともと育ちが悪くて礼儀知らずなので、伍の先輩たちに無理やり叩き込まれました。失敗すると連帯責任ですので」
「先輩たちに……そうですか」
「これ以上は、ボロが出ると思うのですけど?」
用件があるのであれば、それを早く終わらせて欲しい。それがどのようなものであれ、長引くことはソルは望んでいない。
「……実は、貴方に良く似ている人を私は知っています」
「それ、他の人にも言われました」
ルシェル王女の用件は、ほぼ予想通り。あらかじめ考えていた答えで対応出来るものだった。
「他の人というのは、どなたですか?」
「別の伍の人ですが、知っているのはそれだけです。顔を見れば分かります。伍は違いますけど訓練は同じ場所、ここでやっていましたから」
トビアスが告げ口した可能性を考えて、ソルはこう答えた。追及されてもまずはトビアスの勘違いだと誤魔化すつもりだ。
「その人は誰と貴方を間違えたのですか?」
「誰? それはその人に聞いてください。どういう人と間違えたのかまでは聞いていません。ただ名前は……確か……」
意外と面倒。ソルはルシェル王女のことをこう思っている。ソルが知っているのは、七歳だった頃の彼女。二人ともまだ子供だったのだ。当時の印象など役に立たない。
「もしかして、イグナーツですか?」
「ああ……そんな名前だったかもしれません。はっきりと覚えていませんけど」
ルシェル王女も確信を持って、自分と話をしているわけではない。これまでの会話からソルはこう判断した。そうであれば、ひたすら惚けるまでだ。
「貴方はイグナーツではないのですか?」
「あっ、申し訳ありません。名乗っていませんでした。私はソルという名です」
「ソル殿……ソル殿は生まれは、どちらですか?」
直球の質問は空振りに終わった。ルシェル王女は、それで諦めず、ソルと名乗る彼が真実を言っているのかを確かめることにした。
「この街です、多分。物心ついた時にはこの街にいました」
「それは、どういう意味ですか?」
ソルの答えは少しおかしい。自分の出身地について、多分、なんて答える人をルシェル王女は知らない。
「意味と言われても……?」
「どうして自分の出身地が、はっきりと分からないのですか?」
「答えた通りです。生まれた時の記憶なんてないのが普通です」
ソルはまったくの出鱈目を答えているのではない。彼は実際に自分の出身地を知らない。母親の記憶はおぼろげにあるが、はっきりとした記憶はノルデンヴォルフ公国の公都ヴォルフスネストで孤児として生きている時から。どこで生まれたかを教えてくれる人はいなかった。
「ご両親は?」
「死んだか、私を捨ててどこかで生きているか。どちらかです」
「……ごめんなさい」
ソルの嘘を暴くつもりだったルシェル王女だが、話を聞いて、同情心のほうが強くなってしまっている。ソルも嘘をついているわけではないので、同情されてもおかしくないのだが。
「謝罪されるようなことではありません」
「ずっと一人で生きてきたのですか?」
「仲間がいた時もありますけど、一人が多かったです。街を出て、森で暮らすようになったのは……いつからだったかな? 覚えていませんけど、かなり長いです」
これは半分以上が嘘。真実は森で暮らしていたという点だけだ。竜王弑逆事件のあと、ソルは長く森の中に潜んでいた。近づく者さえいない腐死者の森で。
「子供が森で一人で暮らしていたのですか?」
「そんなに驚くことではありません。森の中には、探せば結構、食べ物があります。手に入れた食べ物を奪う人もいません。誘拐する奴も、悪事に利用しようとする奴も。獣という別の怖い存在はいますけど」
この話は半分真実で半分は嘘。普通の森であればソルの言う通りかもしれない。だが彼が暮らしていたのは腐死者の森。獣以上に恐ろしい存在がそこにはいたのだ。ルナ王女の血の力がなければ、確実に死んでいたであろう恐ろしい存在だ。
「……そうですか」
街には悪人が大勢いる。そういう危険な場所でソルは最初暮らしていた。この事実が、それに対する強い憐みがルシェル王女の思考を止めてしまっている。
「成長して獣を狩る方法も身につけました。失敗することのほうが多いですけど、なんとかなるものです」
「狩りですか……亡くなった父も狩りは好きでした」
「多分、同じ狩りでも全然違うと思いますけど……」
このやり取りに、ずっと難しい顔をしていた侍女と騎士の顔にも笑みが浮かぶ。苦笑いだとしても笑みは笑みだ。
「……ソル殿は、やはり、私の知っている人に似ています」
「えっ?」
上手く誤魔化せている。手応えを感じていたソルにとって、ルシェル王女の言葉は驚きだった。
「生まれも育ちも、きっと考え方も違う。近いのは年齢くらいしかなかった彼と過ごす時間は、とても楽しいものでした。何もかも違うのに、何故か近く感じるのです」
「…………」
「……邪魔をしました。また機会があったら、お話を聞かせてください。貴方との時間も、楽しい話だったとは言えませんが、興味深いものでした」
「……こういう時、何と言えば良いのですか?」
ソルは問いをルシェル王女の斜め後ろに控えている侍女に向けた。自分自身の考えで答えを返したくなかったのだ。
「光栄に思います。殿下のお望みですと、私のような者でよろしければ、でしょうか?」
侍女はソルの問いに答えてくれた。下手に次の約束をされるよりも、当たり障りのない返答で終わらせたほうが良いと考えたのもある。
「じゃあ、光栄に思います」
ルシェル王女の望みに応えるという意思が薄いほう。ソルはそれを選んだ。侍女にとっても好ましい答えだ。
「……では、また」
ルシェル王女は小さな抵抗を示す。それでどうにかなるものではないと分かっていても、次の機会があることを示しておきたかった。
振り返って歩き始めるルシェル王女。その背中に視線を向けることなく、ソルは立ち上がる。
(……貴方は私の家族の仇で、私は貴方の父親の仇。近く感じられるような相手ではない)
昔とは違う。お互いに心を許せる相手ではない。それを分かっているのは、ソルの側だけだ。
「……お前は王女様とも知り合いなのか?」
話しかけてきたのはヴェルナーだ。彼も、ソルに少し遅れてだが、訓練場に来ていたのだ。
「知り合いだと勘違いされたみたい」
「一兵士と間違うような相手なのか?」
王女が一兵士のことを知り合いと思う。普通に考えれば、そんな間違いは起こらない。王女の知り合いであれば、それなりの身分にある人物であるはず。そういう人物が兵士として、それも三か月前に募兵に応じたばかりの兵士としているはずがない。その相手を知っているルシェル王女であれば、尚更こう思うはずだとヴェルナーは考えた。
「知りません。誰と勘違いしているのか、聞けないで終わりましたから」
「勘違いなのか?」
「勘違い以外の何がありますか? 私は兵士になったばかり。王女と知り合う機会なんて、これまでありません」
「……それはそうだな」
ヴェルナーはソルの話に納得したわけではない。すでにソルが只者ではないことは分かっている。王女の知り合いであってもおかしくないと考えている。だが、しつこく追及するのは間違った選択。ソルから必要以上に警戒されるのは得策ではないとも考えている。まだ命は惜しいのだ。
ソルのほうも、これくらいの関係を望んでいる。疑いを持っているが、深く追及することは避けてくれる。そういう相手には使い道がある。かつてそう教えてくれた人がいたのだ。