タイラーはずっと亡くなった兄クリスチャンの屋敷に引きこもっている。心の整理が出来ないでいるのだ。そうであって欲しくはなかったが、やはり、クリスティアンは自分の暗殺を企んでいた。それはすでに明らかになっている。自分を殺そうとしたクリスティアンの家臣たちを討ち払い、首謀者であるクリスティアンに引導を渡す為にタイラーは部屋に踏み込んだ。兄クリスティアンを殺すつもりだった。
そんな自分がレグルスを責めるのはおかしい。これもタイラーは分かっている。頭では分かっているのだが、気持ちが納得してくれない。こうして兄の死を悲しんでいると、ますますレグルスに対する複雑な感情が膨れ上がる。どうして生かしておくことが出来なかったのか。こんなレグルスにとっては理不尽な問いを思い浮かべてしまう。
クリスティアンは何度も刺客を差し向けてきた。だが、タイラーの記憶にある優しい、尊敬する兄は消えなかった。兄の遺体は何も語らない。ただ昔の面影を残すだけだった。過去の良き想い出が頭に浮かぶばかりだった。
「ここに居たのですね?」
「……フランセス。どうして?」
クリスティアンの部屋に籠っていたタイラーに問いかけてきたのは妻のフランセス。南方辺境伯家屋敷に置いてきたはずのフランセスだった。
「どうしてって……貴方がいつまで経っても戻ってこないから」
タイラーはすでに南方辺境伯で、ディクソン家の当主だ。その座に就いたばかりのタイラーに、本来、クリスティアンの死を悼んでいる時間の余裕などない。やることは山ほどあるのだ。
フランセスはタイラー不在に困った家臣たちに頼まれて、ここに来たのだ。
「……何日が経った?」
「貴方……」
ゆっくりとタイラーに近づき、その体を抱きしめるフランセス。ここに来る前から分かっていたことだが、時を忘れているタイラーを知り、彼の悲しみの深さを改めて感じたのだ。
「……兄が死んだ」
タイラーもまたフランセスの体に腕を回して抱きしめる。彼女の温もりが自分の救いになることを、タイラーは分かっている。
「ええ。残念だわ」
クリスティアンはタイラーを殺そうとしていた。フランセスは、愛する夫を殺そうとしたクリスティアンの死を悲しむ気持ちにはなれない。
「殺したのはレグルスだ」
「えっ……?」
「あいつが兄を殺した。間違いない」
「……それが本当だとしても、それはきっと貴方の為よ」
フランセスは裏事情を知らない。レグルスにクリスティアン暗殺を頼んだ家臣はフランセスにも何も伝えていない。万が一失敗した場合、成功したとしても大きな問題になってしまった時、自分の独断ということにして責任を取るつもりなのだ。
「俺の為……本当にそうだろうか?」
「もし貴方の為ではないとすれば、私の為ね」
「どうしてそう思う?」
レグルスがクリスティアンを殺した動機。本当はそれほど重要なことではない。ただ、兄の死とそれを為したのがレグルスだという事実を受け入れきれないタイラーは、とにかくフランセスと話をしたいだけだ。
「……貴方には内緒にしていたけど、学院を卒業する直前にレグルスに会ったの」
「……それは……何の為に?」
すでにタイラーとの結婚が決まっていた時期。そういうタイミングで好きな男に会いに行く。兄の死を一瞬忘れてしまうほど、タイラーにとって驚きの、そして不安を覚える告白だ。
「自分の口から貴方との結婚を伝えたくて。それと、きちんとお別れを言いたかったから」
「そうか……」
「レグルスはこう言ったわ。タイラーは良い奴だ。こんな俺に、もし親友と呼べる相手が出来るとすれば、それはきっとタイラーだ」
「…………」
さらにタイラーを驚かせる告白が、フランセスの口から語られた。タイラーはレグルスに親友だと告げ、実際にそう思っている。だが、レグルスは同じ想いを抱いていない。自分の片想いだと考えていたのだ。
「フランセスさんは正しい選択をした。絶対に幸せになれると言ってくれたわ」
「そうか……あいつがそんなことを……」
「ちなみに、今言ったことは絶対に貴方には教えるなとも言われた。約束を破ってしまったわ」
フランセスの結婚を祝福する為、もう会うこともないと思っていたからこそのレグルスの言葉。レグルスは言ってしまった後で、タイラーに知られるのは恥ずかしいと思って口止めしたのだ。
「貴方を死なさないため。貴方を失って私が悲しまないように、レグルスは貴方の兄を殺したの」
「……そして、俺に兄を殺させないため、でもあるかもしれない」
自らの手で兄を殺すことになった時の苦しみ、悲しみは今以上のものであるはず。タイラーはこれが分かっている。頭だけでなく気持ちでも。
「そうね」
「逃げなくても良いのに」
「逃げる?」
「あいつ、何の釈明もすることなく逃げ出した。久しぶりに会ったのに挨拶もなしだ」
タイラーの心が少し晴れた。兄の死は仕方がないことと頭では分かっていた。気持ちが受け入れるきっかけが必要だっただけなのだ。フランセスはそのきっかけとして最上の人物。フランセスに迎えに行ってもらうという家臣たちの考えは正しかった。
「今度会った時に文句を言わないとね?」
「そうだな」
「……部屋を片付けさせましょう。故人の部屋を散らかしたままというのは良くないわ」
クリスティアンの部屋は亡くなった時のまま。タイラーは、クリスティアンの遺体を綺麗にする以外は、何もすることなく、させることもなく、心の中に閉じこもっていたのだ。
「……穏やかな顔ね?」
ここでようやくフランセスはクリスティアンの遺体に目を向けた。義理の兄であっても、愛する夫を殺そうとしたクリスティアンはフランセスにとって忌々しい存在。さらに死後もタイラーを苦しめていることに怒りを感じ、避けていたのだ。
「……そう言われるとそうだな。化粧を命じた覚えはないが、気づかない間に整えていたのか」
タイラーもクリスティアンの死を悲しみながらも、直視することは避けていた。死という現実を受け入れたくないという思いからだ。
改めて見たクリスティアンの死に顔はとても穏やかなもの。暗殺されたとは思えないものだった。
「本当にレグルスに……いえ、この話を蒸し返すのは止めましょう」
「苦しむことなく死んだというなら、そのほうが良い。それが分かっただけで良い」
レグルスが殺したという事実は間違いないことだ。殺したところを見たわけではないが、間違いなく部屋にいたのはレグルスだったのだ。レグルスがベッドのすぐ横の小さな机に座って、何かをしていたのをタイラーは、はっきりと見ている。
「…………」
レグルスはそこで何をしていたのか。ふとタイラーはそれが気になった。暗殺を終えたあと、何故、レグルスは部屋に残っていたのか。自分が来たのを知って、すぐに逃げ出したことから自分を待っていたわけではないのは明らかなのだ。
「……これは……何だ?」
机に近づいたタイラーはすぐにあるものを見つけた。びっしりと何かが書かれている紙。それが、開きかけの机の引き出しの隙間から飛び出していた。レグルス・ブラックバーンの名が書かれた紙だ。
◆◆◆
耳に届くのはテーブルを指で叩く音と、それによって揺れるテーブルの上に置かれているコーヒーカップと皿が鳴る、わずかな音だけ。報告を終えた後、ジョーディーの部下は、かなりの緊張を強いられている。伝えないで済むのであれば、そうしたい。こんな風に思ってしまうほどの最悪の報告なのだ。
「……残った者たちとの連絡は取れているのかな?」
ようやく口を開いたジョーディーの口調は、いつもと変わらない穏やかなもの。だからといって部下は安心出来ない。問いは、聞かれたくないことの一つなのだ。
「接触していた主な物たちは皆、討たれております」
「それは潜伏させていた者たちもという意味かな?」
「はい。クリスティアン支持者であることを隠していた者も含まれております」
南方辺境伯家での謀略は失敗に終わった。長い年月と莫大な経費を使って進めていた、もっとも重要な謀略が、またしてもレグルスによって無にされてしまったのだ。
「そこまで洗い出されるものなのか……」
レグルスの諜報組織の能力はここまで優れているのか。高く評価し、恐れてもいたジョーディーだが、さすがにここまでとは思っていなかった。
「恐らくですが、裏切者がおります」
「裏切者? それは誰だ?」
「まだ証拠は掴んでおりませんが、クリスティアン殿の屋敷で働いていたバトラーです。彼の者は屋敷に出入りしていた者をかなり把握していたはずです」
部下は黒色兵団の諜報組織だけで情報を掴んだのではないと考えている。心当たりがあるのだ。
「どうして、そのような人物の裏切りを見逃した?」
「申し訳ございません。屋敷から姿を消したことが分かった後、懸命に捜索していたのですが、未だに行方を掴めておりません」
部下が語っているのはアオグストのこと。だがまだ彼がレグルスの領地にいることまでは把握出来ていない。レグルスの領地内での諜報活動は禁止されているからだ。
「……裏切りの可能性があるというのかな?」
どこで何をしているか分からないということは、裏切りの確たる証拠もないということ。いなくなったから怪しい。まだこの程度の疑いだとジョーディーは部下の報告から判断した。早合点だ。まだ続きの話がある。
「その者はほんの短い期間ですが、ブラックバーン家に雇われ、レグルス殿の家庭教師をしておりました」
「なんだって?」
そんな人物を何故、クリスティアンは雇ってしまったのか。自分たちは雇うのを許してしまったのか。自分の迂闊さをジョーディーは反省することとなった。
「本当に短い期間、数日というような期間です。今回、改めて素性を徹底的に洗い直した結果、それもレグルス殿との関りを疑った上での調査だからこそ分かったことです」
「……そんなことがあり得るのか?」
レグルスとアオグストは初めから繋がっていた。アオグストはレグルスの命を受けてクリスティアンのところに行く、まんまとバトラーとして雇われた。
こんな都合の良い、ジョーディーにとっては不運でしかない、ことが起きるのか。あり得ないとジョーディーは考えた。世界を変えようという自分を邪魔する為に、あり得ないことが起きたと考え、心に不安が広がった。
「何の確証もありませんが、偶然だと私は考えます。家庭教師をしていたのは、まだ学院に入学する前。そんな時期にレグルス殿は今の状況を予測していたとは思えません」
「年齢は関係ない。過去の経験を有する我々には、実年齢とは異なる思考能力がある」
何度も死んでいるが、記憶は受け継がれている。徐々に失われていくので全てが記憶として残せているわけではないが、それでも普通の子供が持たない知識、経験があり、それに基づいて考える力がある。だからジョーディーもここまで組織を大きく出来たのだ。
「申し上げているのは、その時期にすでにレグルス殿が人生の目的を変えている可能性です」
「……クリスティアンを支援する為に……いや、これを考えることに意味はないな」
最初はクリスティアンを支援させるために部下を送り込んだのだが、人生の目的が違うものとなり、別の使い方に変えた。これだとしても都合が良すぎる。ただの偶然という事実はもっと受け入れ難い。ジョーディーは、世界はまた自分と自分の大切な人々を不幸にしようとしているなんて思いを抱きたくないのだ。
「ジョーディー様の仰られる通り、経緯がどうあれ、結果が最悪であることに変わりはございません。ここは計画の見直しを図るべきではないでしょうか?」
「どういう点を言っている?」
「南方辺境伯家を反乱側に組み入れることは失敗に終わりました。なにより、今のレグルス殿が王国に歯向かうとは思えません。南北から挟撃するという計画は、もう成り立たないのではないでしょうか?」
ジョーディーたちの計画は、対王国戦を想定して、作られている。いざという時は王国を倒す。それが出来る状況を作り上げようとしているのだ。
「確かに状況は依然とは異なる。アンはジークフリート王子の妃となった。恐らくレグルスは、現状を破壊する側に回ることはなく、守る側であり続けるだろうね」
レグルスの王国への恨みは、サマンサアンの死により生まれたもの。処刑台に追いやったジークフリート王子とアリシアへの憎しみからだ。
今回、サマンサアンはジークフリート王子と結婚した。婚約者ではなく、もう妃なのだ。レグルスが王国に刃向かう理由はなくなった。
「それでは……」
もう何もする必要はないのではないか。これ以上、ジョーディーが危ない橋を渡る必要はない。発覚すれば、その時こそ、ジョーディーだけでなく妹のサマンサアンまで処刑台に送られることになるかもしれない。
「現状維持は無理だ。それではジークフリートは王になれない」
「……そうしますと、レグルス殿と衝突することになります」
「もうしている。それが本格化するだけだ」
ジークフリート王子とレグルスの対立は、今の状況でも、過去と変わらず続いている。この人生でも二人は変わらず敵対関係にあり、戦うことになる。そして、まず間違いなくジークフリート王子の勝利で終わる。ジョーディーはそう確信している。
だからこそ、その後の備えが必要なのだ。失敗すれば死、という結果が待っているとしても止めるつもりはない。失敗して死ぬことなど数えきれないほど経験している。今更恐れることはないのだ。