王都に戻って来たアリシアだが、彼女には住む場所がない。レグルスとの婚約が解消となり、ブラックバーン家に貸し与えられていた屋敷を出た後は、ジークフリート王子が用意してくれた屋敷に住んでいたのだが、今はそこも出ている。好意に甘え続けているのは図々しいという思い、それとそういった甘えが周囲の誤解を生んでいると考えたからだ。騎士として稼げるようになったから可能となった決断ではあるが。
王都では、基本、宿暮らしをしている。任務で王都を離れている期間が長いので、それで問題なかった。だが、しばらく王都にとどまらなければならないとなると、宿に泊まり続けているわけにもいかない。実際は安宿であれば経済的にはまったく問題にならない給料を貰っているのだが、アリシアにはホテル暮らしはお金持ちが行うことだという意識があり、自分がすごく贅沢をしているようで罪悪感を覚えてしまうのだ。貴族家の屋敷で暮らしていた時のほうが余程贅沢なのだが、自分の稼ぎで支払うとなるとまた違うのだ。
では、どうするか。アリシアが選んだのは「何でも屋」に居候することだった。それも傍から見れば図々しい話だが、「家族に甘えて何が悪い」という言い訳がアリシアを納得させていた。
それに「何でも屋」に居候することを選んだのは、経済的な問題だけではない。そこにいれば会いに来る人がいたとしてもそれはタイラーやキャリナローズ、あとはリキくらい。別の言い方をすると、ジークフリート王子と顔を合わせなくて済むと考えたからだ。
「……えっと……お久しぶりです。サマンサアンさん」
だが、サマンサアンがこの場所を知っていることをアリシアは忘れていた。覚えていたとしても、まさか会いに来るとは思わなかったので、選択は変わらなかっただろうが。
「久しぶりですわね。アリシア。元気そうで良かったわ」
第一印象は上機嫌。だがゲーム設定のサマンサアンを知っているアリシアにとっては、その上機嫌な様子が恐怖であったりする。裏があるのではないかと思ってしまうのだ。
「でも、少し残念。私のことはアンと呼ぶようにお願いしていたはずだわ」
「そうでした。アンもお元気そうで」
「ありがとう。貴女の活躍は聞いているわ。頑張っていることを嬉しく思う反面、心配もしていた。危険な任務ばかりですもの」
さらにアリシアを心配する気持ちを伝えてくるサマンサアン。それも素直に喜ぶことが、アリシアは出来ない。ゲームでのイメージと、実際に命を狙われたという事実が、それを許さない。
「……大変であることは確かですけど、それが私の義務ですから」
この言葉が正しいのか、今はアリシアは疑問に思うようになっている。ゲームとは異なり、自分はこの世界の主人公ではない。王国に平穏をもたらす義務は自分にはないのではないかと。
「レグルスとは会っているのかしら?」
「いえ、彼が領地に行ってからは一度も」
「まあ、それは寂しいわね? 騎士団の仕事で忙しいだろうから、仕方がないのでしょうけど……これを聞くのは残酷かもしれないけど、大丈夫? 今、エリザベス王女は彼の領地にいるわ」
「それは……」
残酷というより、返答に困ってしまう話だ。エリザベス王女のことは気になる。だが、だからといって自分に何が出来るのか。どんな資格があって二人のことをどうこう言えるのか。こんな風にアリシアは思ってしまう。
「ごめんなさい。やっぱり、言わなければ良かったわ。貴女を困らす為に、今日ここに来たわけではないの。ジークとの話が進みそうで、それを伝えに来たの」
「結婚、ですか?」
「そう」
王国からジークフリート王子の結婚について具体的に進めたいという話が届いた。それを受けて、サマンサアンはアリシアに会いに来たのだ。
「おめでとうございます! 待っていた甲斐がありましたね!」
「……やっぱり、喜んでくれるのね?」
アリシアの反応は、心から自分の結婚を喜んでくれていると思えるもの。心に残っていた疑いが、このアリシアの反応を見て、消えていくのをサマンサアンは感じた。
「もちろんです。ようやくですか……楽しみですね? 二人の結婚式は、きっととても素敵ですね。かなり盛大に行うことになりますよね?」
「盛大……そうね。王家の結婚ですから、王都全体で祝ってもらえると思うわ」
盛大という言葉では足りない。第二王子とはいえ、王家の人間の結婚だ。サマンサアンが言った「王都全体で祝ってもらう」も遠慮した言い方で、王国全体で祝賀されることになる。
「こういう時だからこそ、大切にしなければならないイベントですね? 皆が笑顔でお祝い出来る素敵な結婚式になると思います」
「ありがとう。なんだか、貴女のほうが楽しそう」
「そうですか? そう見えるとしたら、心から笑える話題に飢えていたからかもしれません」
「アリシア……」
何気なく発せられた言葉。その言葉の重みをサマンサアンは感じた。自然に口からこぼれ出てしまうほど、アリシアは辛い思いをしているのかと思った。
「あっ、ごめんなさい。やっぱり、任務で少し疲れているのかもしれません。王都に来てからは、のんびりしているつもりだったのですけど」
「何もしなければ疲れないわけではないわ。特に心の疲れは、癒してくれる何かが必要よ」
「癒しですか……そうですね。そういうのは必要ですね?」
では何が自分にとって癒しになるのか。王都近くに温泉でもないかとアリシアは考えてみる。それは考えているようで、本当に考えるべきことから逃げているのだということを、自分では気が付いていない。
「レグルスに会いに行きなさい」
「えっ?」
「自分のことが上手く行きそうだから、途端に貴女を応援するなんて。ずるい女だと自分でも思うわ。でも、これは言うべきことだと思う。レグルスに会いに行きなさい。それが何よりも貴女にとって必要なことだと思うわ」
「…………」
アリシアの両の瞳に涙がたまっていく。ずっと考えることを避けてきたこと。考えてはいけないと自分を戒めていたこと。レグルスに会いたいという気持ちが、サマンサアンの言葉で、心に湧き上がってきている。
「簡単ではないと分かっていて、あえて言うわ。アリシア、戦うことはもう止めなさい。周囲の思惑から逃れて、自分がしたいことをしなさい。幸せになりたければ」
王国の、国王の思惑をサマンサアンは知っている。ジークフリート王子ではなく、次期国王になるはずのジュリアン王子の妃にしようとしていることを。それは全て王家の人気取りの為。政治に利用しようとしていることを。
貴族家の人間であれば、そうされても当たり前。サマンサアン自身のジークフリート王子との結婚も政略結婚だ。だが、それでもアリシアは別の道を歩むべきだとサマンサアンは思う。命を危険に晒して王国の為に戦った結果が、望まない結婚というのは憐れ過ぎると思っているのだ。
「……ありがとう、アン」
サマンサアンからこんな言葉を与えられるとアリシアはまったく考えていなかった。自分のことをどうしてここまで心配してくれるのかと疑問にも思った。
サマンサアンの言う通りにしたいという想いはアリシアの心にある。だが彼女が言うように簡単なことではない。この世界がゲームストーリーから外れているとしても、アリシア・セリシールが重要人物であるという事実は変わっていないのだから。
◆◆◆
サマンサアンとジークフリート王子の結婚が進展する。それは兄であるジョーディーにとっても、とても喜ばしいことだ。元々、ジョーディーの活動は愛おしい妹、サマンサアンを処刑という残酷な悲劇から守る為、そしてその後のミッテシュテンゲル侯爵家の没落を防ぐ為に始めたこと。今はそれにもう一つの目的が加わっているが、サマンサアンの幸せが一番大切であることに変わりはないのだ。
だが、これでもう全てが上手く行く、なんていう楽観的な考えはジョーディーにはない。何度も「今度こそは」と思いながら裏切られ、失敗に終わる人生を繰り返しているのだ。楽観視など出来るはずがない。
今も実際に別のことで、誤算が生じていた。
「いきなり襲撃された? 本当にそうなのか?」
「はい。間違いありません。シャドウが拠点としていた屋敷を黒色兵団に奇襲されました」
新たな企みを動かそうとしていた影の軍団の部隊のひとつが黒色兵団、レグルスたちの奇襲を受けた。この一報が届いたのだ。
「被害状況は?」
「まだ敵が残っている可能性がありますので、現場への接近は慎重に行われており、報告してきた一人を除いた他は生死も定かではありません」
届いたのは第一歩のみ。得られた情報はまだ少ないのだ。
「……すぐに使者を送って、調査を止めるように伝えて」
「よろしいのですか?」
「罠の可能性がある。生き残った一人が立ち寄った拠点があるなら、そこも撤収。他の部隊との接触は尾行がないことが明らかになるまで禁止するように」
「そういうことですか……承知しました」
逃げた一人はわざと逃がされた可能性がある。その一人を尾行することで他の拠点も、そしてそこにいる組織の人間も暴くことが出来る。さらにそこから先を辿ることで、多くを知ることが出来るのだ。
特別な方法ではない。だが、影の軍団の諜報組織は、強化を試みているものの、まだまだ脆弱。軍団の人間はそういうことに気を配る知識、経験が乏しいのだ。
「計画が知られていた。さらに問答無用で襲撃か……レグルスを甘く見ていたね」
自分の企みを、ある程度は、レグルスは知っている。知っているのに、王国にそれを伝えることなく、傍観してきた。その事実が自分の油断を生んだとジョーディーは反省した。
探りを入れることなく部隊を壊滅、されたかもまだ分かっていないのだが、させるような行動に出るとは考えていなかった。
「傍観していたわけではなく、次の準備を進めていた一年であったのだろうね」
「申し訳ございません。きちんと動向を調べておくべきでした」
「いや、それを止めさせたのは私だ。結果として、レグルスが自由に動ける隙を作ってしまった」
諜報組織においては、レグルスのほうが優秀。その状況で領地を探るような真似をしても、自組織に被害を与えるだけ。さらに諜報能力に差がついてしまうとジョーディーは考えていた。
完全に間違った考えではないが、それによってレグルスの動きを把握出来なくなり、今回、一部隊を喪失してしまったかもしれない被害を受けたのは事実だ。
「他の計画も知られている可能性があるとなると、かなり厳しい状況になります」
計画は未然に防がれた。さらに別の場所での計画も知られているとなると、かなり大きな問題だ。ジョーディーたちにとって一番の問題は、全体計画が止まってしまうことなのだ。
「……まだ計画は止められない。もう一つの動きが現れるまで、あと少しだと思うけど……」
「こちらから攻撃を仕掛けますか?」
「……黒色兵団が以前のままであれば、それもありだね? だが、果たしてそうかな?」
黒色兵団の戦力は以前のままなのか。拡大している可能性をジョーディーは考えた。一年という期間は、それを行うのに十分な時間だ。新たに黒色兵団に組み込める戦力を、レグルスは元々持っているのだから。
「ゲルメニア族ですか……」
「他にもいるかもしれない。集めたのは文官だけとは限らない。サイリ子爵家軍だった者たちも組み込まれている可能性がある」
レグルスにはゲルメニア族と領地軍という、黒色兵団とは別の軍事力がある。レグルスが、それらを別のままで置いておくとはジョーディーには思えない。公的には暁光騎士団はエリザベス王女の騎士団となっているが、実態は間違いなくレグルスの部隊なのだ。
「潰し合いになりますか……」
影の軍団も組織規模では負けていないとは思っている。だが両勢力が衝突すれば、どちらも無傷ではいられない。無傷どころか、双方、甚大な被害を出す可能性が高い。それはジョーディーたちも避けたい。
「……時間稼ぎ……レグルスを任務から引き離す策が必要だ」
レグルスがどこまでの情報を得ているか分からない。計画を実行に移す前に潰される事態は避けなければならない。とにかく事が動けば、それで目的は半ば達成となるのだ。
「すぐに別の計画を実行に移させます」
「……いや、別は別でも……少し考えてみる。当面は当初予定通りで。ただし黒色兵団の動きには気を付けるように全部隊に通達してくれ」
「承知しました」