レグルスが新たな領地を与えられたという噂は、少しずつではあるが、確実に人々の間に広まっていった。噂が広まるのに時間がかかったのは前領主サイリ子爵の死の真相を公に出来ない事情が王国にあるから。隣国から人を攫ってきて奴隷のように扱っていたなどという事実は解決した後も、たとえ国内であっても知られて良いことではない。誰にも気づかれないようにレグルスを送り出したかった、というのが王国の思いだった。
そんな事情がありながら情報が広がったのは、公募で家臣を雇うなんて真似をレグルスが行ってしまった為。それでレグルスは、あとから国王に叱られることになった。レグルスにしてみれば、だったら秘密にするように言っておけ、というところだ。
最初はすでに与えられている、ゲルメニア族の居住地でもある領地で仕える者を雇おうとしているのだと思われたのだが、募集職種とその人数が領地の規模に合っていないことに気付く人たちが出てきてしまい、新たな、もっと広い領地を与えられたのではないかという憶測を生んだ。そうなってしまうと噂話が乱れ飛ぶようになるのは止められない。レグルスは今、貴族夫人やご令嬢たちの間でもっとも注目されている人物の一人なのだ。
レグルスとエリザベス王女を引き離そうとする国王の策略、いや、そうではなく、アリシアと引き離す為にジークフリート王子が図ったことだ、などというゴシップネタに変化して、貴族たちの間に話は広まっていった。
そうなると王国も黙っているわけにはいかなくなる。サイリ子爵の病死を受けて、同じ王国北東部に領地を持つレグルスに任せることになったということ、そしてレグルスには引き続きエリザベス王女の騎士団の副団長を努めてもらうという公式発表を行うことになった。
だがこれは新たな憶測を生むことになる。エリザベス王女はレグルスの領地で暮らすことになるのではないかという憶測だ。これについては王国は肯定も否定もしない。レグルスとの仲を引き裂こうという国王の策略、なんて憶測よりは、このほうがマシという判断だ。
「ええ……もう花街にまで伝わっていたのか……」
自らの口で報告しようと花街を訪れたレグルスだったが、すでに貴族たちの間で広まった噂は親分の耳にも届いていた。遊びに来た貴族たちが酔いに任せて、面白おかしく話してしまったせいだ。
「本来であれば、お祝いを告げるべきなのだろうが、正直そんな気持ちにはなれない。寂しいという気持ちのほうが強いな」
親分は正直な気持ちをレグルスに伝えた。可愛がっていたリーリエとマラカイの子として幼い頃から見てきたレグルスは、親分にとって孫のような存在。花街を盛り立ててもらった恩もある。遠くに行ってしまうのは寂しかった。
「陛下の命令には逆らえない。でも、もう二度と花街に来ないというわけじゃない。仕事で王都に立ち寄ることもあるだろうから、その時はまた顔を出します」
騎士団としての任務を続けていれば王都に来る機会は何度もあるはず、これが今生の別れというわけではないのだ。
「近頃は王都を離れていることのほうが多かったな。それは分かっているのだが……儂も年かな?」
「またまた。まだまだ元気なくせに」
「体はな。だが二度と会えなくなった人の数はもう数えられないくらいになった。そうなると一つ一つの別れに心が大きく揺れるようになってしまうのだ」
マラカイとリーリエもそういう存在。二人を失ったあと、その悲しみを慰めてくれる存在だったレグルスがいなくなってしまうというのは、親分に特別な思いを抱かせてしまうのだ。
「そういうものなのか……今の俺にはまだ分かりません」
「お前は分かっている。分かった上で覚悟を決めているだけだ」
レグルスは突然の、予期せぬ別れを知っている。知っているから今この時を大切に感じている。これが今生の別れとなっても後悔しないという覚悟を決めている。親分はこう感じていた。
「……そうだと良いけど」
そうありたいとは思う。だが無理だとも思う。後悔のない別れなどない。全てをやり切ったと思える日は、きっと永遠に来ない。これが分かっていることを、親分は覚悟を決めていると言っているのだ。実際に後悔がない別れであることと、やり残したことはあってもそれを悔やまないというのは違うと。だが、レグルスはそう受け取らなかった。
「とにかく上がれ。部屋を用意している」
「あっ、今日はこれで帰ります。出発準備で馬鹿みたいに忙しくて」
その忙しい中、なんとか時間を作って、というか無理をしてレグルスは花街に来たのだ。ゆっくりしていくことは、そうしたいという強い気持ちがあっても、出来ない。
「ああ……しかし……百合太夫と朝顔太夫がすでに部屋で待機しているのだが?」
「ええ……そういう特別扱いを許すのはどうなのですか? それに一度甘えた俺が言うのも何ですけど、太夫はそんな軽々しく部屋に出てきたら駄目でしょ?」
何度も何度も花街に通い、場を作り、会話を重ね、その上で太夫に気に入ってもらえて初めて床入りというのが花街の決まり事。一度そうなった後も、すぐに部屋で二人きりなんていうのは、無粋とされて、許されない。
レグルスはすでに一度、花街の慣習を破っている。再び甘えるわけいにはいかないという気持ちがあるのだ。
「分かっている。だが、二人の気持ちを思うとな」
「……嬉しいことなのだけど……すでに関係を持っておいて、あれだけど……俺は二人とは幼馴染の関係でいたいと思っています」
二人の気持ちは、さすがにレグルスも気づいている。幼馴染としての親しさだけで、花街のしきたりを破って関係を持つことなどあるはずがない。レグルスは気持ちに気付いた上で、それに甘えてしまったのだ。
「……幼馴染は何があっても幼馴染ということか?」
「そう。一緒に暮らしたわけじゃないから、家族と呼ぶのは思い上がりだと思う。でも、楽しかった時も辛かった時も知っている二人は、俺にとって特別な存在です」
マラカイとリーリエと知り合い、家族の温かみというものを知り、花街の、そこに生きる人たちの面白さを教えられた時にはレグルスはまだ桜太夫の付き人だった二人と知り合った。マラカイとリーリエを失い、悲しみと憎しみで心が荒れ狂っていた時も二人は知っている。何事もなかったかのように接してくれていた。
「だから、これからも幼馴染として、二人に困っていることがあれば助けてやりたいし、困った時は助けてもらいたい。そういう関係でいたいと思う」
「……だったら今日も幼馴染として甘えていけば良いのに。こういう時、無駄に固いのだから」
レグルスが全てを語る前に、百合太夫は部屋から出てきた。朝顔太夫も一緒だ。
「太夫としてその口の利き方はどうなんだ?」
「今のは幼馴染としての文句だから良いの」
「そうか……」
百合太夫は幼馴染としての関係を守ってくれようとしている。自分の我儘に応えようとしてくれている。それがレグルスは嬉しかった。
「あの……体に気を付けてね」
朝顔太夫は、この言葉では気持ちまで分からないが、いつもと同じ。控えめな彼女が我を通したのは、レグルスと関係を持った時くらいなのだ。
「ありがとう。二人も元気で。元気で頑張って、花街を盛り上げて」
「任せて。王国の外れにいても、花街に百合太夫、朝顔太夫あり、と聞こえるくらいに名を挙げてみせるわ」
「私は……頑張ってみる」
花街を背負って生きる。初めて二人はこの想いを持った。付き人をしていた桜太夫の背中を追いかけていた二人が、初めてその前に出たいと思った。
「それじゃあ、なんだか私の時代が終わるみたいね?」
「ね、姐さん」「…………」
その前を走っている桜太夫が登場。彼女の言葉に二人は動揺を隠せないでいる。まだまだ並ぶことも出来ていないのだ。
「終わりだなんて。桜太夫もまだまだこれからです。桜太夫は当代一で終わる人じゃない。歴代一の太夫として花街に名を残す人です」
「……ありがと」
先代の百合太夫を超える。それどころか花街が生まれてからこれまでで最高の太夫になれとレグルスは言っている。まだまだ、もっと頑張らなければならない。頑張る必要が出来た。それが桜太夫は嬉しかった。
「では、これで。また、出来れば今度は、客として来ます」
「ええ、そうね」
「達者でな」
「元気で」
「またね」
四人の、短い挨拶を受けて、レグルスは振り返って、出口に向かって歩き出す。しみじみとした別れなどしたくなかった。四人もそれを分かってくれていた。
「アオ!」
「ん?」
あと一歩で外に出るというところでかけられた声は桜太夫のもの。
「良い背中になったわね? 父親そっくりよ」
「……ありがとうございます。でも、まだまだです」
桜太夫の言葉は最高の誉め言葉。嬉しくはあるが、レグルス本人はまだそんな風には思えない。永遠に思える日は来ないのだろう。死者に勝つことなど出来ないのだから。
ゆっくりと、大きく一歩踏み出す。見慣れた光景がそこにはある。そして。
「こら、アオ! てめえ、貴族様になんてなりやがって!」
「痛い! この馬鹿、離せ!」
いつもと変わらぬ人がいる。ブラックバーン家の公子であった時から、まったく遠慮することなく、こうして絡んできて首を締めてくる男だ。
「しかも、遠くに行っちまうだと!? てめえ、こら! この先、俺は誰の首を絞めればいいんだ!?」
「誰の首も絞めるな!」
その男の体を抱えて、地面に投げ飛ばすレグルス。もう何度繰り返したか分からない二人のやり取りだ。
「……まったく……寂しい思いをさせやがって」
レグルスは頻繁に花街に来ていたわけではない。それでも遠く離れた場所に行ってしまうことを男は寂しく思ってしまう。子供の頃から花街に来ていたレグルスには、近所の子供のような親しみがある。それだけでなく、花街の暗さを払ってくれる明るさを持つ人物でもあるのだ。
「永遠にお別れってことじゃない。また遊びに来る」
「そうか……それでも目出度い門出あることに違いはない。門出は祝わないとな」
「気持ちは嬉しいけど、俺、時間が」
その時間があるのであれば、もっと長く親分と太夫たちとの時間を過ごしていた。
「時間は必要ない。数秒で済む」
「数秒?」
数秒で済むお祝いとはどのようなものなのか。急いでいるレグルスだが、これについては興味を惹かれた。
「花街の華は美女と喧嘩! 当代一の喧嘩屋! 二代胆勇無双、アオのお通りだ! 道を空けやがれ!」
「お、おい?」
通りは、訪れた人々とその人々を誘い込もうという店の人たちなどで、それなりに込み合っている。その状況で、道を空けろなどと叫んでも無駄。無駄である上に恥ずかしいとレグルスは思った、のだが。
「えっ……?」
通りの中央から人が引いていく。戸惑っている人たちは大勢いるが、そういう人たちも店の者に促されて、中央を空けようと動き出している。
「……嘘?」
やがて大木戸橋に続く通りの中央が、ぽっかりと空く。レグルスの為に空けられた。
「さあ、行け。アオ、お前にはこうして見送られる資格がある。花街の人間が皆、それを認めた」
「……ありがとう」
太夫たちと話していた時は堪えていた涙が、零れそうになってしまう。多くの人が見ている中、泣きながら歩くのは恥ずかしい。この思いは強いのだが、込み上げてくる感情に負けてしまいそうだった。
「さあ、行け、アオ! もっと大きな男になって帰って来い!」
「……ああ」
ゆっくりと踏み出した一歩。それと共に、いつの間にか静寂に包まれていた花街に音が戻る。最初は一つの音だった。すぐ隣の茶屋から奏でられる曲だった。
その音が徐々に大きくなる。別の茶屋からも同じ曲が聞こえてくる。さらに別の茶屋、他にも。通り沿いの全ての茶屋が同じ曲を奏でているのだ。
その中を一人、大木戸橋に向かって歩くレグルス。左右から知った声が聞こえてくる。「元気で」「また来いよ」、次々と掛けられる声に、レグルスはもう感情を抑えることが出来なくなった。
レグルスの両目から零れ落ちる涙が、人々に彼の花街に対する想いを教えてくれる。掛ける声にさらに熱が込められ、それがレグルスの、人々の感情を震わせた。
「……彼は何者だ?」
当然、事情が分からない人もいる。遊びに来た人々は、よほどの常連は別にして、全員そうだ。
「アオ。花街の出世頭です」
「出世頭……」
「領主様になって王都から遠い場所に行ってしまうのです」
「領主? そんなことがあるのか?」
花街の人間が領主、つまり貴族になる。そんなことがあり得るのかと、話を聞いた客は思った。
「実際にはありません。アオは元々貴族です。それもとんでもなく偉い貴族の家に生まれています」
「なんだ、そういうことか」
「それでもアオは、この街の人間です。俺たちは皆、そう思っています。そしてあいつは、花街の表だけでなく裏も、深い闇も知った上で、花街を好きでいてくれている。だから俺たちは、あいつのことが好きなのです」
「……そうか」
この時は、店の者の説明を聞いても「そんな人もいるのか」くらいにした思わなかったこの客だが、後にアオが何者かを知って、大いに驚くことになった。
貴族の中でも知る人は知っているのだ。花街でアオと呼ばれている人物が、元ブラックバーン家公子であるレグルス・ブラックバーンであることを。