領地替えの準備で寝る間もないほど忙しくしている中、レグルスは意外な来客を迎えることになった。サマンサアンだ。彼女がこのタイミングで会いに来る理由が、レグルスには思いつかない。彼女との関係は過去の人生とは違う。特別なものはまったくない。そうなると兄、ジョーディーの差し金かと疑ってしまうのだが、そうだとしてもサマンサアンが会いに来る理由の答えは導きだせなかった。
「……お久しぶりです。卒業以来ですか?」
「そうとも言うけど、三年生の間、貴方はほとんど学院にいなかったわ」
「確かに」
レグルスの学院生活は実質、二年間だ。三年生の時に学院に行ったのは数えるほど。サマンサアンと話した記憶はない。
「忙しそうね?」
「王都を離れる準備がかなり大変で。いきなり領地を与えられても、何から手を付けて良いか分かりません」
「ブラックバーン家は支援をしてくれないの?」
「俺はもうブラックバーン家の人間ではありませんから」
サマンサアンの口調が以前に比べて柔らかくなったようにレグルスは感じている。成長なのか、何か理由があってのことなのかは、この時点ではまったく見当もつかないが。
「誰か貸しましょうか?」
「ミッテシュテンゲル侯爵家の人ですか? 気持ちは嬉しいけど、遠慮しておきます。他家に迷惑をかけるのは誰が相手でも気が引けて」
気が引けるのは嘘ではない。だがミッテシュテンゲル侯爵家の人間を、一時的であっても、自分の領地に入れることに抵抗を感じるというのが、断る本当の理由だ。
「そう……」
「何か話があるのでしたら、どうぞ。俺で役に立てるか分かりませんけど」
早めに本題に入って欲しい。一秒でも時間が惜しいレグルスなのだ。
「……実は……貴女とアリシアさんが復縁したという噂を聞いて」
「はい?」
「やはり、間違った噂かしら?」
「……最近は割と会うことも多くなりましたけど、復縁はないです」
どうしてそのような噂が立つのか、とはレグルスは思わない。レグルスが王都に戻ってからアリシアは頻繁に顔を出している。顔を出しては愚痴を言って、帰っていく。それだけ頻繁に会うのは貴族家の男女としては異常なことで、復縁したと思われるのも当然だ。
「そう……そうよね」
「もしかして……いや、これを言うのは失礼かもしれないけど……復縁していたらジークフリート王子との結婚話が進むと期待していました?」
サマンサアンとの話はいつもこれだ。学院時代からそうだったことをレグルスは思い出した。
「正直言うと、そう」
サマンサアンは正直に、レグルスの指摘を認めた。こういう素直なところも、以前とは少し違っているとレグルスは思った。
「まあ、俺も正直、何をグズグズしているのかとは思います。でもそれとアリシアは関係ないと思います。ジークフリート王子と婚約関係にあるのはサマンサアンさんだけなのですから」
「それは分かっているの。分かっているのだけど、どうしても彼女が気になって」
「これを言うとサマンサアンさんは怒るでしょうけど、いっそのこと婚約解消します? 悪いのはジークフリート王子だと俺は思いますよ? あの人がだらしないから」
サマンサアンの柔らかい雰囲気につられて、レグルスはつい言わなくて良いことを口にしてしまう。ジークフリート王子とサマンサアンの婚約解消など、本来、レグルスにとってあってはならないことなのだ。
「……婚約解消なんて恥を晒した私はどうすれば良いのかしら?」
「ごめんなさい。馬鹿なことを言いました」
案の定、サマンサアンを怒らせてしまった。レグルスは彼女の問いをそう受け取った。
「貴方が引き受けてくれる?」
「……えっ?」
だが続いたサマンサアンの問いは、まさかの問い。レグルスがまったく想定していなかった展開だ。
「婚約解消になった者同士。悪くない組み合わせだわ」
「人を揶揄わないでください」
「……ごめんなさい。本音を言うと、少し疲れてしまったの」
サマンサアンの雰囲気が変ったのは成長ではなく、心の変化がそのまま表に出ているから。
「待つことに?」
「そう。ジークに嫁ぐ私は、それに相応しい女性でなければならないと思っていた。王家に嫁ぐ女性として、気品というか、威厳というかそういうものを身につけていないといけないと思っていたの」
ずっと気を張っていた。そのせいで神経が高ぶることもあった。アリシアを殺そうなんて馬鹿なことまで考えてしまった。今はそう思っている。
「無理をする必要はない。そのままのサマンサアンさんは、とても魅力的な女性です」
「……以前も貴方はそう言ってくれた。何故だか分からないけど、その言葉は私の心にずっと残っている……もしかすると私は、また貴方のその言葉が聞きたくて、ここに来たのかもしれない」
サマンサアンの瞳から一筋の涙が零れた。レグルスはそれを美しいと感じた。今の自分の本当の気持ちか、過去の自分の想いが影響しているのかは分からない。だが、サマンサアンを泣かせるべきではないと思う気持ちは本物だと感じた。
「……本当に別の幸せが貴方にあれば良いのに。何も悩まなくて良い、貴女の心を温かくしてくれる人が、他にいれば良いのに」
「……それは……それは、レグルス……貴方ではないのかしら?」
どうしてこんなことを口にしてしまうのか、サマンサアンは分かっていない。これはジークフリート王子に対する裏切り。こういう思いが頭に浮かんでいるが、熱くなる気持ちが抑えられない。
どうしてレグルスではないのか。もっと早くこの気持ちに気が付いていれば。考えてはいけないことが頭に浮かんでしまう。
「サマンサアンさん。俺は」
「……分かっている。貴方が心を温かくしてあげたい人は他にいる」
「えっ、あっ、そういう人は特には」
別に想う人がいるから、なんて話をするつもりはレグルスにはなかった。サマンサアンの誤解を解こうとするレグルスだったが。
「そうなの? では、彼女の片想いかしら?」
「えっ?」
サマンサアンの視線はレグルスの背後に向いている。それに気づいて振り返ったレグルスの目に映ったのは。
「お前……忍び寄るの上手くなったな?」
「人を忍者みたいに言うな!」
アリシアだった。
「いや、でも気が付かなかった。不覚だ」
アリシアに背後を取られるなど、レグルスにとって屈辱でしかない。アリシアは魔力は強いが、その分、気配も強い。察知するのは簡単なはずなのだ。
「サマンサアンさんに夢中だったからでしょ? あ~あ、これだから男って」
「ほら、すぐに心が温かくなった」
サマンサアンが意味ありげな笑みを浮かべて、二人の会話に割り込んできた。
「えっ? あの、それって、どういう意味ですか?」
「私たちの会話を聞いていたでしょ? 今にも泣きそうな顔をして」
サマンサアンはそのアリシアの顔を見て、すぐに分かった。彼女が自分に嫉妬していることを。自分にレグルスを奪われると思って、彼女は泣きそうになっているのだということを。
「……してません」
「していた。でもそんな貴方がレグルスと一言、会話を交わしただけで笑顔になった。心が温かくなった」
「…………」
これがサマンサアン相手でなければ、全力で否定するところなのだが、どうにもそうしづらい。ジークフリート王子との関係を疑われるよりは良いか、と思ってしまう。
「どうするの、貴方たち?」
「どうするって?」
「彼女に話していないの? 領地の……あっ……ごめんなさい。言い訳するけど、わざとではないわ」
アリシアはレグルスの領地替えのことを、彼が王都を離れることを知らない。それは自分の言葉で知るべきではないことだった。サマンサアンは自分の失言を反省した。
「領地って?」
「……王国の北東部、国境に接するとこに領地をもらった。これまでとは違う、本当の領地だ」
「…………」
それは王都を離れるということ。それが分かったアリシアの大きな瞳に、見る見る涙が溜まっていく。
「……これ以上は私は邪魔ね? これで引き上げるわ」
この場に自分がいては二人は話すべきことを話せない。そう考えたサマンサアンは帰ることにした。ここに来た目的は、中途半端なようではあるが、きちんと果たされた。少なくとも心の鬱屈は今は消えている。
「あっ、サマンサアンさん!」
「何?」
「私はジークとサマンサアンさんは早く結婚するべきだと思っています。ジークの妃はサマンサアンさんだけで十分以上だと思っています。信じてもらえないかもしれないけど、これは本当の気持ちです」
「そう……でも、ごめん。それを聞いても私は貴女に嫉妬するわ。レグルスにとって特別な存在である貴方が羨ましいの」
「…………」
サマンサアンの言葉に顔を真っ赤にするアリシア。レグルスが絶対に言ってくれないことをサマンサアンに言われて、恥ずかしいのだ。
「……でも少し貴女の印象が変わった。良い意味で。じゃあ、また機会があったら」
「はい。また」
アリシアの顔に笑顔が浮かんだ。サマンサアンの言葉が嬉しかった。ゲームでどういう設定になっていようと、分かり合えない相手ではない。そう思えて嬉しかった。ただ、問題は。
「どういうことか、説明してもらえる?」
「……説明した。新しい領地を貰った。北東部の国境のところ。以上」
「……いつ行くの?」
レグルスに文句を言ってもどうにもならない。レグルスの人生を変える資格は自分にはない。すでにずっと前に変えてしまっている。その結果が良いか悪いかは関係ない。レグルスが思う生き方を肯定しなければならないとアリシアは思うようになっている。それで大丈夫だと思えるようになっているのだ。
「準備が出来たら。でも色々と大変で、まだいつになるかは分からない」
「そっか……じゃあ、今日はお祝いか」
新しい出発を祝福してあげなければいけない。どんなに寂しく思っていても。アリシアはそう考えている。
「……どうしてそうなる?」
「旅立ちは祝うものでしょ? ここにはお酒も沢山あるし」
だがレグルス相手には、自分の素直な気持ちを、そのまま言葉に出来ない。いつからかそうなった。姉弟という関係が煩わしく思うようにもなった。
「店の酒だ。飲むなら金払え」
「だから今日はアオのお祝い」
「ただ酒飲みたいだけだろ!?」
「いいじゃない、ケチくさいこと言うな!」
という感じの相変わらずのやり取りを一通り終えて、レグルスとアリシアは二人だけの宴会を始めた。他のメンバーも店にいたはずなのだが、宴会を始めようとなった時には、酒場の店長以外が誰もいなくなっていたのだ。
最近の任務の話から昔話まで、いざ酒が入って話し始めると二人の会話は留まることがない。それだけ長い時を一緒に過ごしてきたのだ。
深夜になり、店長が帰っても二人だけの宴会は続く。王都を離れた後、次に会えるのはいつになるのか。こんな想いが二人に宴会を終わらせることを許さなかった――
(……あれ? 寝てた?)
気が付いた時には、正面に見慣れた天井。レグルスは自分のベッドで寝ていた。
(……ああ、そういえば、あいつを運んで)
酔いつぶれたアリシアを寝かそうと、自分のベッドに運んだことをレグルスは思い出した。だがその移動で目が覚めたアリシアは、すぐに寝ることなく、まだ話を続けようとする。仕方なくそれに付き合ったレグルスだったが、いつの間にか寝てしまっていたのだ。
頭だけを動かして、視線を横に動かしてみれば、アリシアがすぐ隣で寝ていた。貧民区で一緒に暮らしていた時は、たまにあったことだ。ただその時と今では事情が違う。
長いまつげ、形の良いピンクの唇。幼い頃から美少女であったが、今は大人の女性を感じさせる。口を開けば、またレグルスの印象は昔に戻るのだろうが。
(…………)
いくつになっても昔と変わらず、こうして並んで寝ていられることを喜ぶべきか。こんなことがレグルスの頭に浮かんでしまう。家族なのだから当たり前。こんな風な思いで、それを消そうとしてしまう。
(……あっ)
ゆっくりと開けられたアリシアの瞳。無言のままアリシアは、まっすぐにレグルスを見つめている。レグルスもまた口を開けないでいる。心に沸いた思いを、二人とも、言葉に出来ないのだ。
躊躇いがちに伸ばされる二人の手。ゆっくりと近づくその手が絡み合う――
「ん?」
寸前に、柔らかい髪がそれを阻んだ。
「なでなで」
「ココ……」
いつの間にかココが、並んで寝ている二人の間に割り込んできていた。
「……はい、なでなで。ココちゃん、夜更かしさんね?」
アリシアはすぐに気持ちを切り替えて、ココの頭を優しくなでてあげている。
「よふかしさん?」
「遅くまで起きているってこと。ちゃんと寝ないと、大きくなれないよ?」
「大きくなれないの、嫌」
早く大人の女性になりたいココだった。
「じゃあ、早く寝ないと。このまま三人で一緒に寝る?」
「寝る」
ココを真ん中にして、ベッドの上で川の字になっている三人。ほのぼのとした、心温まる光景ではあるのだが、それでは納得出来ない人たちがいる。
「……あの小姑をなんとかしないと無理だね?」
「普段から常に側にいるからな」
廊下で、部屋の中の様子を探っているジュードとオーウェンたちだ。
「こじゅうとめって何だ?」
一緒にいるスカルは小姑という言葉を知らなかった。
「小姑は……旦那さんの姉、妹のこと。奥さんにとっては、ちょっと気を遣う、面倒な相手だね」
「えっ、でもアリスより王女様のほうが偉いのだろ? それでも気を遣うのか?」
この集団も一枚岩ではない。スカルはエリザベス王女派なので、アリシアがジュードの言う小姑だと思っている。
「ああ、そっちの可能性ね……それも否定しないけど……」
アリスではなくエリザベス王女がレグルスの妻となる可能性。それを否定するつもりはジュードにはないが、どちらかといえば、アリシアであって欲しいと考えている。お互いに気を遣わない雰囲気が、ジュードにとっても、楽なのだ。
「王女様のほうが偉いだろ?」
「偉い偉くないの問題じゃない。どちらがアオにとって良いかだから。それに偉い人だと一緒にいる僕たちが気を使わなければならなくなる。そういうの、スカルも苦手じゃない?」
「そうだけど……じゃあ、オーウェンは?」
自分はエリザベス王女派でジュードはアリシア派。ではオーウェンはどうなのかがスカルは気になった。多数決を採ろうというのではない。アオにとって良い、ということがどういうことが分からないので、意見を聞きたいのだ。
「それは……そうだな。私は誰が相手でも良いからアオ様が妻をめとり、子供を育て、という幸せの形も考えて頂ければ良いなと思う」
レグルスは戦いに一生を費やそうとしている。それもその戦いで命尽きてもかまわないと考えている。オーウェンにはそう思える。妻という存在がその考えを変えてくれるのであれば、相手は誰でもかまわない。そうレグルスに思わせてくれる女性であれば。
「余計なお世話だ」
「えっ?」「あっ」「アオ」
「俺の結婚話で勝手に盛り上がるな。そういう予定はまったくない。以上、解散!」
少なくとも今は、アリシアもエリザベス王女もレグルスの気持ちを変えられていない。