王立中央学院の武系コースの学院生は、猛獣相手に一対一であれば余裕で戦えるくらいには鍛えられている。強者であれば一対四、五であっても戦えるだろう。公平な条件下であれば。
今、彼らを苦しめているのは夜の闇。宿舎を燃やしていた炎はその勢いが衰え、砦の中は闇が広がっている。さらに獣の群れは建物を上手く利用し、その影から、屋根の上から、不意打ちを仕掛けてくる。統率された獣の群れの脅威を、彼らは初めて思い知らされたのだ。
「隙間を埋めて! 陣形を緩めるな!」
そんな獣たちの攻撃に学院生たちは円陣を組んで対応している。ジークフリート第二王子の指示だ。四方八方からの攻撃に対応する為で、決して間違った方法ではないが、問題もある。戦闘を行えるのは円陣の外側にいる学生たちだけ。中にいる学生は何もすることなく、ただ立っているだけになってしまっている。
「隙を見て交代を! 隙間を作らないように気を付けて!」
もちろん、それについてもジークフリート第二王子は考えている。外周に立つ人を交代させることで、負担を分散するようにしている。休憩を取れるという点で、良い方法だ。
「ちょっとアオ! ちゃんと戦ってよ!」
だが、中にはサボる人物も、いるわけではない。そう見られているだけだ。
「言われなくても戦う。でも、もう少し待て。今は忙しい」
「忙しいって……立っているだけでしょ!?」
「ちゃんと前見て戦え。油断しているとやられるぞ」
アリシアに怒鳴られても、レグルスは交代しようとしない。彼女に告げた通り、今は忙しいのだ。
「……とりあえず、こんなところか。アリス、前どけ! オーウェン、ジュード! 背中を頼む!」
「えっ?」
「どけ!」
ようやくレグルスは交代する気になった、わけではない。アリシアが空けた隙間を埋めるのではなく、さらに前に出て行ってしまう。
「ちょっと!? 危ないでしょ!」
そんなレグルスをアリシアは止めようとするが、それで言うことを聞くはずがない。こうする為にレグルスは、ずっと戦いに参加することなく、周囲を探っていたのだ。
群がる獣を斬り払い、包囲の突破を図るレグルス。そのあとをオーウェンとジュードも躊躇うことなくついていく。
「アリシア、そこをどいて。私も行くわ」
さらにキャリナローズもレグルスたちに続こうとする。
「俺も行く」
それにタイラーも同調した。レグルスの意図を完全に把握しているわけではないが、このまま持久戦を続けて良いのかという思いがある。レグルスが一点突破を図ろうとしていると見て、それに加勢しようと考えたのだ。
「……じゃあ、私も」
二人の意思が分かると、アリシアも付いて行きたくなる。もともとレグルスの後を追いたかったのだが、他の人に迷惑がかかると思って、我慢していただけなのだ。
アリシア、キャリナローズ、タイラーの三人も円陣を抜けて、前に出た。学院生たちの中でもずば抜けた戦闘力を持つ三人だ。群がる獣たちの攻撃を力づくで払って、突き進んでいく。
そして前を行くレグルスたちは。
「オーウェン。あそこ」
「はっ」
猛獣使いが潜んでいる場所をレグルスが示し、オーウェンが射る。これを繰り返している。ジュードもまた、彼は直接的に、潜んでいた猛獣使いを殺している。
そうはさせまいと襲い掛かってくる獣は、レグルスが対応している。だが、それは。
「あとは任せた」
追いついてきたアリシアたちに任せることにした。
「……あそこか」
手の空いたレグルスも猛獣使いを討つ側に回る。助走をつけて跳び上がると、窓や壁を蹴って、一気に屋根の上にあがっていくレグルス。
「……仲間は何人だ?」
「し、知らない」
「知らないはずはないだろ? あっ、知らない可能性はあるか……じゃあ、良い」
猛獣使いの首がゆっくりと屋根の上に落ちる。死の瞬間を気づかないまま死ぬことが出来た彼は、少なくとも、ジュードに殺されるよりはマシだ。だからといってそれを喜ぶことなど、決してないが。
「少しは乱れてきたか」
屋根の上から様子を確認するレグルス。操っていた猛獣使いが殺されたことで、獣たちの動きに乱れが見られるようになった。逃げ出す獣の姿もある。
それを確認して、下に降りるレグルス。
「……もう少しというところですか?」
「そのようね」
下で戦っていたキャリナローズも獣たちの変化に気付いていた。逃げる獣の数は増えていく。襲撃は撃退された。皆がそう思った、その時。
「……何だ?」
レグルスは何か分からない気配のようなものに触れた。
「獣がまとまっていくわ」
猛獣使いを殺されて、統率を失ったはずの獣たちが、また集まり始めている。
「他の猛獣使いが引き継いだ? そんな馬鹿な。魔道具の書き換えなしで、そんな真似が出来るはずがない」
猛獣使いについての知識が、自分自身も猛獣使いとして登録しているレグルスにはある。猛獣を従属するには魔道具が必要。簡単に言うと、その魔道具で誰が主かを獣に分からせるのだ。別の猛獣使いに奪われることのないようになっているのだ。
「どういうこと?」
「よく分からないことが起こっているってことです。近くに……いる気配はなし。なんかとんでもないのがいるみたいだ」
猛獣使いの所在も探知できない。気配を完璧に隠しているのか、探知できないくらい離れた場所にいて猛獣を操っているのか。どちらにしても普通ではない。気配を探知できないほどの微量の魔力で、これだけ多くの猛獣を操れるのも異常。遠くはなれた場所で猛獣を従わせられるのも異常なのだ。
「どうする?」
タイラーも状況確認の為に近づいてきた。
「……包囲ではない。その方向にいると考えて良いのか?」
猛獣たちは、レグルスたちを包囲することなく、一か所に固まっている。その意図をレグルスは考えた。
「……左右に散ってもらえるか? 俺はあの獣の群れの背後に回る。反応した先に、奴らを操っている猛獣使いがいる可能性がある」
「絶対ではないな……だが確かめてみるべきか。分かった」
事を終わらせには、動いてみるしかない。タイラーはそう思って、レグルスの指示を受け入れた。
「じゃあ……アリシア」
「何? 私は何をするの?」
「あとから来る奴らへの説明を頼む、じゃあ」
ジークフリート第二王子を先頭にこちらに向かって駆けてくる集団。また一から説明させられるのは面倒だと考え、レグルスはアリシアに振ることにした。
「ち、ちょっと!?」
否応を聞くことなく。アリシアを置いて、駆け出すレグルス。キャリナローズとタイラー、オーウェンとジュードもそれに素早く反応した。
反応出来なかったのは、呼び止めようなんて無駄なことに時間を使ってしまったアリシアだけだ。
◆◆◆
「等間隔を保って! 左右との距離を確認しながら進むんだ!」
ジークフリート第二王子の指示が森の中に響いている。彼らは砦を出て、森の中に入っていた。後退する獣たちを追ってきたのだ。
一定の距離を保って、前に進む学院生たち。獣は足止め程度の攻撃を行ってくるだけ。攻撃の脅威が薄れた今は、襲撃犯を追いつめるように後を追っているのだ。
「本当にこの先にいるのだろうか?」
「……少なくともレグルス様はそう思っています」
ジークフリート第二王子を納得させる台詞として適切か、という点では問題あるが、アリシアは正しいことだと思っている。
「闇雲に探し回っているだけではないと思っているのかい?」
「そうであるなら獣たちは放っておくのではないですか?」
獣たちの攻撃が散発的なのは、レグルスを追うことを優先しているから。追わなければならない理由が獣たちに、操っている猛獣使いにあるということだとアリシアは考えている。元はレグルスの考えで、それが正しいとアリシアは思っているのだ。
「……そうだね」
確かに理屈は通っている。そうであるからジークフリート第二王子も、こうして後を追っているのだ。
「キャリナローズさん!?」
「えっ? あっ……」
アリシアがキャリナローズの名を呼んだ。突然のことに驚いたジークフリート第二王子であったが、彼もすぐにキャリナローズの姿を見つけることになった。
「左は崖になっているわ。すぐ先がそうよ」
「先が狭まっているってことかな?」
「それは右側が……どうやら、そうみたい。タイラーが来たわ。ああ。クレイグもそっちにいたのね?」
キャリナローズの反対側を進んでいたタイラーも姿を現した。ジークフリート第二王子と行動を共にしていたクレイグも一緒だ。左右共に狭まっているということだ。
「ようやく追いつめたか」
「追いつめたは良いけど、レグルスは? 獣も一か所に集中したってことでしょ?」
「それは……アリシア! 慌てないでもっと慎重……に」
というジークフリート第二王子の呼びかけはアリシアには聞こえていない。聞こえていたとしても無視された。
「急いだほうが良いわね?」
「そうだな」
キャリナローズとジークフリート第二王子も全力で駆け出す。アリシアが危険の中に飛び込んでいったのだ。そうする以外の選択肢はない。
そのアリシアに、二人はすぐに追いつくことになった。前方もまた崖で、先に進めないようになっていたのだ。多くの獣の死体が地面に転がっている。その先にいるのは、まず間違いなく、その獣たちを操っていた猛獣使いだ。そうなのだが。
「……子供?」
その猛獣使いは驚くほど幼い、少なくとも見た目は幼く見えた。
「もう止めて。これ以上、抵抗しないで」
アリシアがその猛獣使いへの説得を試みている。子供だと分かって殺すことを躊躇っているのだ。子供でなくても、彼女であれば同じ選択をするだろうが。
「……やだ」
「やだ、じゃなくて。どうして、こんな真似するの?」
「ジークフリートは僕たち猛獣使いの敵だ」
「えっ……?」
襲撃者の目的はジークフリート第二王子の殺害。それにアリシアは、ジークフリート第二王子本人もだが、驚いている。
「やつは僕たちを滅ぼそうとしている。やつを殺さなければ、僕たち皆が殺される」
「……誤解よ。ジークはそんなことしないわ」
「嘘だ!」
「嘘じゃないわ。ジーク本人に聞いてみれば良い。そうよね、ジーク?」
ジークフリート第二王子がそんな真似をするはずがない。話せば分かるはずだとアリシアは考えた。人としては間違った考えではないのかもしれない。だが、今の状況では失敗だ。
「そいつがジークフリートか!?」
襲撃者に目的の人物の所在を教えてしまったのだから。一斉にジークフリート第二王子に襲い掛かろうとした獣たち。だが、その足は寸前で止まった。
「えっ……あ、あぁああああああっ!!」
主である猛獣使いの子供が、レグルスに斬られて、崖に落ちて行ってしまったからだ。それを知って、後を追う獣。ただ逃げ出すだけの獣もいる。わずかな時間で、獣たちはいなくなった。
「そんな……」
崖下をのぞき込んで、すぐに膝から崩れ落ちるアリシア。子供を殺してしまった。しかもそれを行ったのがレグルスであったことで、ひどく動揺している。
「……これで一件落着だな」
「……殺すことはなかった……殺すことはなかったじゃない! どうして!? どうしてこんなことしたの!?」
子供を殺したことに何も感じていない様子のレグルスに、アリシアの怒りが向けられる。こんなレグルスであって欲しくない。これではゲームでの悪役そのまま。冷酷非情なレグルスになってしまう。
「どうして? 王子暗殺未遂は重罪だ。ここで殺さなくても、捕まれば死罪。同じことだ」
「まだ子供だった」
「子供であれば死罪を免れるという法律はなかったはず。違いますか、王子殿下?」
レグルスはジークフリート第二王子に話を振った。
「……事情によっては死罪を免れることもある」
「事情……今回はそれに該当すると? それとも王子殿下が恩赦を下されるのですか?」
事情がなんであろうと暗殺未遂は暗殺未遂だ。王家の人間を対象としたものであれば、死罪は免れない。狙われても仕方がない王家の人間がいるなんて前提が、王国の法律にあるはずがない。
死罪を免れるとすれば法律を超えた理由が必要。国王の恩赦がそれだ。
「……子供の命を奪うなんて真似は、どんな理由があっても私には出来ない。彼の罪を私は許した」
これはアリシアを意識した言葉だ。私情だけで刑の軽重は決められない。それはジークフリート第二王子も分かっている。
「……それは事を起こす前に言って頂きたかったですね。罪を許すつもりがあると知っていれば、私だって、あんな真似はしませんでした……今更ですか」
軽くジークフリート第二王子に嫌味を言って、レグルスは歩き出す。
「どこに行く?」
「これ以上、この場所に残っている理由がありますか?」
理由はない。少なくともレグルスを残す理由は。ジークフリート第二王子は沈黙で、レグルスの問いに応えた。肩をすくめて、また歩き出すレグルス。その姿はすぐに木々の中に隠れてしまった。
「……止められなかった。私は……止められなかった」
レグルスを止めるのは自分の役目。だが、アリシアは今回それが出来なかった。彼女の決意はもっと大きな問題に対してのものだが、初めてそういった場面に遭遇して、何も出来なかった自分が情けないのだ。
「アリシア……君が気に病むことではないよ」
そんなアリシアを慰めるジークフリート第二王子。彼にはここにとどまる理由があったのだ。
「止められなかったな」
「それ、タイラーが言うこと?」
「アリシアとは意味が違う」
タイラーはレグルスの動きに反応出来なかったことを言っているのだ。不意を突かれたというのはある。だが、そうでなければレグルスの動きを追えたのか。出来たと言える根拠がタイラーにはない。
「よく分からないけど、勝手にどうぞ」
「引き返すのか?」
「女性を必死に口説いている自国の王子を見学していろと?」
「……いや。俺もそんなつもりはない」
そう言いながらもタイラーはこの場から去ろうとはしない。地面に倒れている獣の死体をひとつひとつ見始めている。本人はそれでレグルスの太刀筋を確かめようとしているつもりだが、それは説明してもらわなければ分からない。
キャリナローズがこの場を去り、少しタイラーの様子を見ていたクレイグも離れて行く。イベントはこれで終わり、ではない。
◆◆◆
「お願いだから邪魔しないで。助けてくれたことには感謝しているけど、僕は逃げなくちゃ」
レグルスに斬られ、崖から落ちた猛獣使いの男の子は生きていた。生きて、逃げようとしているのだが、それを邪魔する存在がいるのだ。
「君も一緒に逃げようよ。僕と君はきっと上手くやれるよ。仲良くなって、今度こそジークフリートを殺すんだ」
彼はまだジークフリート暗殺を諦めていない。そうしなければいけないと大人たちに言い聞かされ、それを信じているのだ。
「あの男は僕たち猛獣使いを滅ぼそうとする。君たちも大勢殺される。だから僕たちでそれを防ごう。仲間を守るんだ」
「それは無理だな。ケルは俺の友達だ。お前には協力しない」
「お、お前……」
突然、現れたレグルスを見て、動揺する猛獣使いの男の子。自分を殺そうした相手、そして目の前で多くの味方、獣たちを殺した相手だ。平静ではいられない。
「ケルはさすがだな。俺の考えていることを察してくれた。さすがは親友だ」
三つ首の状態のまま、レグルスにじゃれつくケル。レグルスに褒められていることが分かっているのだ。
「……親友……お前、猛獣使いか?」
自分たちを殺した相手も同じ猛獣使い。そう考えて、男の子は複雑な気持ちだ。仲間意識が生まれた一方で、敵に回ったことを恨む気持ちもある。そして何より、崖から落ちた男の子を助けたのはケル。そのケルをレグルスは親友と呼んでいるのだ。
「猛獣使いの登録はしている。でも、猛獣使いとは名乗れないな。俺はケル以外とは仲良くない。ケルは友達で、操っているわけじゃない」
「……魔道具を使っていないってこと?」
「そうだ」
「……僕と同じだ」
彼も魔道具を使っていない。まったく使っていないわけではないが、どうしても必要というわけでもないのだ。レグルスも自分と同じ、実際は少し違うのだが、と思って、仲間意識がわすかに強まった。
「やっぱり。その力、いつから?」
「多分、生まれた時から」
「天才ね。その天才くんに質問。ジークフリート王子が猛獣使いを滅ぼすってどういう意味だ? 彼は知らないところで、そんなことをしているのか?」
ジークフリート第二王子を暗殺しようと考えた動機。男の子が発した言葉だけではまだ、真相は分からない。
「この先にする」
「この先……それって、まさか未来の話? お前……何回目だ?」
男の子も自分と同じ転生者。レグルスはそう考えた。未来を知っているというのは、そういうことだと考えた。
「何回目って何?」
だが男の子の反応は、レグルスが思っていたものではなかった。
「誰かから聞いたのか? 王子のこと」
「そう。先輩から聞いた。自分たちは全員殺されることになる。それを防ぐには今殺すしかないって。だから僕たちは……失敗したけど」
「……その先輩……いや、良い。聞きたいことはもうない。さっさと逃げろ」
その先輩の話を聞きたいと思ったレグルスだが、恐らくは殺してしまっている。逃がした可能性もないわけではないが、ここでこの男の子を追及したところで行方が分かるとは限らない。その時間もない。
「逃げて良いの?」
「殺すつもりなら最初から殺している。ああ、一応、伝えておくと、王子は罪を許すと言った。無罪である可能性もある。ただ、王子が許すといっても国がどう判断するかは分からない。追われていないと分かるまでは、大人しくしているんだな」
ジークフリート第二王子は恩赦を口にした。だからといってそれが王国の正式決定になるわけではないことを、レグルスは分かっている。王子の独断で、たとえ自分の暗殺未遂であっても、決められることではない。二度と同じことが起こされないよう、見せしめの意味で処刑となる可能性のほうが高いのだ。
「……分かった。じゃあ……助けてくれて、ありがとう」
「無理して御礼を言う必要はない。俺はお前の仲間を大勢殺した。恨まれても文句は言えない立場だ」
「……恩は恩だから」
「じゃあ、受け取っておく。ああ、道案内としてケルをつけてやるから、それの御礼にしよう。じゃあ、もう行け」
すでに子犬くらいの体に戻っていたケルと共に去っていく男の子。実際にはそれほど危険ではないとレグルスは考えている。追手が動くのは、王都に戻ってから。早くても二日後だ。その二日は安全なはずなのだ。
「さてと……いつから覗き見の趣味を?」
「……これは覗き見とは言わないわ」
レグルスが男の子を急いで去らせたのは、キャリナローズの意図が分からないから。キャリナローズが男の子を本気で殺そうと動いた時、さすがにそれを止めるわけにはいかないのだ。
「でも付けてきた」
「貴方の飼い犬が崖から飛び降りたのが見えたから。何かあると思っていたら予想通りね。暗殺未遂犯を逃亡させていた」」
ケルの変体後の姿を見ていれば、これとは違った台詞になったかもしれない。だが、キャリナローズは見ていない。何者かが近づいてくる気配を察した時点で、ケルは元の体に戻っていたのだ。
「すでに恩赦されているから、逃亡ではないですね?」
強弁だと分かっていても、これを主張するしかない。
「そうかもね。でも逃がしたのは事実」
「そうですね……でも、貴女はそれを誰にも言わない。ですよね?」
キャリナローズとの距離を詰めるレグルス。それにわずかに戸惑いを見せたキャリナローズだが、彼女の強気が逃げ出すことをさせなかった。間違った対応だ。
「貴方には貸しがありました。それを返してもらいます」
「……脅しのつもりなら間違いよ。私は貴方に何の秘密も握られていないわ」
「脅しなんて。貸しを返してもらうだけです」
背後の木にキャリナローズを押し付けて、レグルスはさらに距離を縮めていく。さすがに逃げようとするキャリナローズだが、それをレグルスは許さない。彼女の腰に手を回し、その体を抱き寄せた。
「……婚約者の唇を奪われた恨みを晴らさせてもらいます」
「……や、止め…………」
抵抗を途中で止め、きつい目でレグルスを睨むキャリナローズ。ここで弱みを見せるわけにはいかない、と彼女は思っているのだが。
二人の唇が重なる、ぎりぎりのところで、レグルスはキャリナローズを離した。
「なんか、ちょっとゾクゾクしましたけど、その反応は間違いだと思います。普通の女性は、好きじゃない男を無理して受け入れないと思いますよ?」
「どうせ、私は……」
普通ではない。この言葉を最後まで口にしない冷静さはキャリナローズに残っている。
「ちょっとやり返すだけのつもりだったのに、キャリナローズさんが意地を張るから……貴女の心がどうであろうと、外見は美しい女性なのだから、人を惑わすようなことはしないでもらえますか?」
「私が悪いの? 違うわよね?」
「美しさは罪、と昔の誰かが言っていました。さて、砦に戻りますか。遅くなると森の中で何をしていたのだと疑われます」
「……私は困らないかも」
男性と噂になるのは悪いことではないのではないか。キャリナローズはふとそう思った。その相手がレグルスであるのはどうかと思うが、ある意味、もっとも安全な相手だ。挑発しているようで、決して一線は超えない。それが分かっている相手なのだから。
ゲームシナリオにない、この世界の歴史にも残らないイベントはこれで終わりとなった。