教会による慈善活動の手伝いを終えたレグルスたちは店に戻った。酒場は今日は休みだ。慈善活動は結構な重労働になることを予想して、あらかじめ休むと決めていた。疲れて動けないからというより、打ち上げを店で行う為という理由のほうが強い。
贅沢にお湯を使い、汗と匂いを洗い流した彼らは早速、店で飲み食いを始めた。ただ一人、働く羽目になった酒場の店長は大忙しだ。その店長も一通り料理を出し終えれば、宴会に参加することにはなっている。
「とりあえず、今日の飯はタダ。店の打ち上げだからな」
レグルスは花街から連れてきた兄妹の相手。彼以外だと、兄妹の警戒心が強すぎて、会話にもならないのだ。
「……本当か?」
ただレグルスも信用されているわけではない。自分よりも強い相手ということで、少し従順さを見せているだけだ。
「こんなことで嘘をついてどうする? 妹さんも遠慮しないで食べな」
「…………」
レグルスに声を掛けられた妹、大きな瞳を兄に向けている。食べて良いのか、目で問いかけているのだ。それに対して、うなづきで応える兄。それを見て、妹は目の前の料理に嬉しそうに手を伸ばした。
「ああ、せめてフォークは使おうか?」
「ん?」
「手掴みは駄目。そのフォークを持って、こうやって、突き刺して、口に運ぶ」
妹は自分の言っていることが分かっていないと判断して、レグルスは実際にやってみて教えようとする。
「……ん」
教えられた通り、妹はフォークを使って、食事を始める。それを見たレグルスはフォークとナイフを使って、妹の前に並んでいる料理を小さく切り分けていく。ナイフまで今教えることは、やる前から諦めたのだ。
「お前も食え」
「あ、ああ」
レグルスに促されて、兄も食事を始める。ぎこちなくフォークを扱う様子は、兄妹ともにこれまで使ってこなかったことをレグルスに教えた。
「名前は?」
「……ナイ」
「名前ないのか?」
「違う。ナイ……だと思う。名前はナイって一度だけ言われた」
兄の名前はナイ。だが自信なさげだ。母親からは「お前」「おい」、機嫌が悪い時は「グズ」等で、名前で呼ばれたことがないのだ。
「名前はナイ……本当にナイなのか? 名前なんてつけていないって意味……いや。これはお前が傷つくか」
「何とも思わない……そんな屑みたいな人間だ」
母親のことで今更傷つくことはない。いなくなる前は毎日、顔を見るたびに傷つけられていたのだ。
「そうか……ちなみに妹さんは?」
「妹は……アカちゃんと呼んでいる」
「いや、それ赤ちゃんだろ? 妹も名がないのか? 本当、でたらめな親だな? そのでたらめな親は……生きているのか?」
母親について、少し躊躇いを覚えながら、レグルスは尋ねる。腐敗死体の中のひとつが母親である可能性を考えているのだ。
「知らない。妹を生んですぐにいなくなった」
「いなくなった……そうか。まあ、そんな親とは言えないような相手はどうでも良いな」
さりげなく視線をバンディーに向けたレグルス。バンディーも兄妹と話しているレグルスのほうを見ていた。そのバンディーの顔が軽く横に振られる。レグルスの視線の意味を分かっているのだ。
借金返済を終えていない遊女が、花街を出ることは許されない。あるとすれば身請けされた場合だが、バンディーはそれを否定した。兄妹の母親は花街から逃げ出そうとした。そして失敗した。後にレグルスは詳細を教えられることになる。
「名前がないのは困るな。こういう名前が良いとかあるか?」
「……分からない」
名前について考えたことはない。母親が名を呼ぶことはなかった。母親がいなくなった後、唯一の話し相手である妹も「お兄ちゃん」と呼べばそれで事足りた。
「分からないって……分からないか。う~ん。俺がアオで、妹さんがアカだから……キイロ? いや、妹さんのアカも名前じゃないか」
兄妹の名前を考え始めるレグルス。その彼を兄は不思議そうに見つめている。ずっと周りから避けられてきた。話すどころか近づくことも嫌がられた。だがレグルスは普通に話してくる。嫌悪感をまったく感じない。母親でさえ、自分を嫌悪していたというのに。
兄にとってレグルスは、他とは違う特別な人間だった。これまで関わる人が少なすぎて、そう思う人間に初めて会ったというだけなのが、今はそう思える唯一の相手だった。
「……どうして俺たちの面倒を見ようと思った?」
「ん? ああ、本当に変なことは考えていない」
「変なことじゃなくても理由はあるはずだ」
妹目当て、ではないと少し思えるようにはなった。だが、そうなるとレグルスの目的がまったく分からなくなる。
「ああ……そうだな。ちゃんと話した方が良いか。俺には血は繋がっていないけど、家族と思える人たちがいた。男として憧れる父親と女性として理想の母親だ。でも、その二人は亡くなった……殺された」
「…………」
「俺は大切な人たちを守れなかった。死に追いやってしまった。俺は馬鹿で、何の力もなかった」
マラカイとリーリエの死は避けることが出来た。そもそも自分は二人と関わるはすではなかった。死ななくても良い二人を、自分の浅はかな行動により、殺してしまった。レグルスはそう思っている。
「それでもまだ、俺には守りたい人がいる。姉だけど妹のような奴だ。俺とお前は同じなんだ」
「……その姉って?」
「ここにはいない。会うことはあるけど、一緒にはいられない。離れていることが、そいつを守る為に必要なんだ」
自分の側にアリシアを置いておくわけにはいかない。本来のアリシアと自分は敵対関係にある。その関係を完全に崩してしまえば、彼女の人生を狂わせることになってしまう。彼女の両親にそうしてしまったように。
アリシアには輝く未来が待っている。その未来を自分が奪うようなことに絶対になってはならないと、レグルスは考えている。
「……俺とは違う」
「ああ、違う。お前は大切な妹を守り続けてきた。守れなかった俺とは違う。お前は、俺と同じになっては駄目なんだ」
「…………」
自分とこの男の子は似ている。見た瞬間に、レグルスはそう感じた。世の中の全てを憎んでいる。かつての自分と同じ感情に触れた気がした。
男の子が妹を守る為に自分を殺そうとしたのだと知った時、また、最初とは少し違う想いだが、似ていると思った。そうなると、放っておけなくなった。
「大切な人を守れなかった俺だが、今のお前よりは力を持っている。かつてはなかった支えが今の俺にはある。お前にも大切な人を守る為の支えがあるべきだ。そう思った」
「その支えってのがお前?」
「とりあえずは。お前はもっと力をつけなくてはならない。戦う力だけじゃない。金も必要だ。他人をもっと知ることも必要。そうでなければ妹を守りきることは出来ない。その手助けを少しだけしてやるってだけだ」
支えに頼りっきりになるようでは意味はない。自立する力がなければ、守りたいものを守れない。それは兄妹関係も含まれる。ずっと妹の為だけに生きていくわけにはいかない。妹も兄に頼りっきりではいられない。いつかはどちらも自立しなければならない時が来る。ここまでのことを今、話すつもりはレグルスにはないが。
「……分かった」
全てを理解したわけではない。全てを信用したわけでもない。それでも、なんとなく、自分はこの男の背中を追わなければならないのだと兄は感じた。それが妹を守る為に必要なことなのだと。
「何でも屋」に新しい、当面は見習いだが、従業員が加わることになった。
◆◆◆
表通りから一本、奥に入るとそこはもう迷路のような細く、右に左に曲がりくねった路地が続く。王都の中では比較的、古くからある住宅街。区画整理も含んだ王都拡張工事から漏れた旧市街をレグルスたちは歩いている。
花街で暮らしていた兄妹にとっては初めての場所。慣れた様子でどんどん先に進むレグルスの後を、少し不安な顔をしながら付いて行っている。
「ここだ。入るぞ」
扉の前に立ち止まり、兄妹に声をかけるレグルス。二人の反応を待つことなく、扉を開けて中に入っていく。兄妹もそれに続いた。
「失礼します! 「何でも屋」です!」
壁の内側は庭。兄妹が想像していたのとは異なり広い、花畑などがある、きちんと整備された庭だ。そもそも兄妹は、こういった庭を見たこともないので、想像など出来るはずがない。
「ああ、来たのね? 待っていたよ」
家の勝手口から老婆が姿を現した。
「今日は新人を連れてきました。至らないところがあれば、料金を値引きしますので、よろしくお願いします」
「ああ、聞いているよ。聞いているけど……若いね? それに、その女の子も働くのかい?」
レグルスが兄妹を連れてきたのは「何でも屋」の依頼人の家。兄に仕事をさせる為だ。
「すみません。女の子はただの付き添いです。二人は兄妹で、妹を一人にしておくのはまだ不安なので」
「そうだね。可愛い女の子にやらせる仕事ではないからね」
「では、お願いします。俺は用があるから一旦、失礼します。仕事が終わる頃に二人を迎えに来ます」
「ああ、分かったよ」
依頼人との話を終えたレグルスは、兄に「あとは任せた。真面目にやれよ」と声をかけて、庭を出て行った。
「今日がまったくの初めてかい?」
「……はい」
「大丈夫かねぇ。まあ、あんたが駄目なら他の人がやってくれるから良いけど」
不安そうな依頼人。だが、兄の不安は依頼人以上だ。どのような仕事かまだ聞かされていない。自分で出来る内容なのか、失敗するとどうなってしまうのか。緊張が高まっていく。
「こっちだよ」
歩き出した依頼人の後についていく兄。仕事の場所はすぐそこ。庭の隅にあるトイレの掃除だった。ただ掃除といっても。
「先日の大雨で溢れてしまってね。汚くて使えたものじゃない。汚物はその、ほら、その先にある穴の中に移して、トイレの中を磨いておくれ。住めるくらいにピカピカにね」
「……あ、ああ」
トイレの中に入らなくても悪臭が鼻を刺激してくる。与えられた仕事がトイレ掃除、それもかなり汚いトレイ掃除だと分かって、兄の気持ちはひどく落ち込んだ。
「国がなんとかしてくれないから、無駄な出費をする羽目になっちまう。困ったものだよ」
密集した住宅地である旧市街は、下水道整備も十分に進んでいない。汚物の汲み取りをこまめに行っておかないと、大雨の時にこんなことになってしまうのだ。兄の知ることではないが。
「じゃあ、頼んだよ。妹さんは、あっちのほうで座ってな。ここは臭いだろ?」
「……へいき」
「いや。言われた通り、あっちで座ってろ。仕事の邪魔だ」
汚物にまみれてトイレ掃除をする自分の姿を妹に見られたくない。そう思って兄は、妹を遠ざけようとした。
「……わかった」
邪魔、とまで言われてしまうと、不満はあっても従うしかない。言われた通り、妹は離れた場所に移動していった。
「……やるか」
自分に与えられる仕事など、こんなもの。贅沢を言える立場ではないことは、兄も分かっている。妹の為だと思えば我慢できる。まっとうな方法で金を稼ごうと思えば、レグルスに従うしかないのだ。そしてこれが、普通の生活を得られる最後の機会かもしれないのだ。
悪臭を我慢して、兄はトイレの中に足を踏み入れた――
「……あの、終わりました」
仕事を終えたことを依頼人に告げる兄。
「……く、臭い! それになんだい、それ!? 汚いね!? あたしは綺麗にしてくれって頼んだんだよ!?」
だが汚物にまみれた兄を見た依頼人の反応は冷たかった。鼻をつまんだまま、文句を言ってくる。
「で、でも! トイレは綺麗に!」
「本当に綺麗になったのかい? 怪しいね」
疑いの目を兄に向けながら、仕事の結果を確かめようと歩き出す依頼人。
「……あら? ほんとだ。住めそうだね、は冗談だけど」
汚物で汚れていたトイレは綺麗になっていた。床も壁も汚れは一切残っていない。「住めそう」という冗談を口にしてしまいそうになるくらいの状態だった。
「……トイレは綺麗になったけど、あんたはそれかい?」
「……仕事はした」
「そうだけどね……ちょっと、そこで待っていな」
兄をその場に置いて、歩いていく依頼人。兄は言われた通りにその場で待ち続けた。そうするしかない。レグルスが迎えに来なければ、買えることも出来ないのだ。
兄がその場に立って、待っていたのは、それほど長い時間ではない。すぐに依頼人が戻って来て。
「えっ……つ、冷た……」
兄に冷水を浴びせかけた。全身を濡らした水。秋風は兄の体ではなく、心を冷やした。
「……まだ汚い。もう一回だね」
「ちょっと!」
何故、仕事をしたのに、それも真面目に仕事をしたつもりなのに、この様な仕打ちを受けなければならないのか。野良犬を追い払うかのように、水を撒かれなければならないのか。
花街の外でも、こんな仕打ち。妹の為にと辛抱していた兄であったが、屈辱がその想いを揺るがせてしまう。
「くそ婆……殺してやる」
自分を獣のように扱う奴は許さない。人扱いしない奴は、そいつも人でなくしてやる。物言わぬ、動かぬ物に変えてやる。花街で暮らしていた時と同じ暗い怒りが、心に広がっていく。
また水桶を持ってきた依頼人。その彼女に殺意を抱いて近づいていく兄、であったが。
「ふうふう……はあ、重い重い。ああ、来てくれたのかい。助かったよ。年取ると、この程度の物を運ぶのも難儀でね」
「…………」
息を切らせて、苦しそうにしている依頼人。その様子が、兄を躊躇わせた。
「手を出して……早く両手を出しな」
「……こうか?」
「そうそう」
伸ばされた兄の手に運んできた水をかける依頼人。
「少しは綺麗になったかい? だったら、体は自分でやってくれ。あたしはお湯を運んでくるから」
「えっ……」
一度、大きく息を吐いて、呼吸を整え、また家の中に入っていく依頼人。その背中が消えたのを見て、兄は桶を持って、自分の体にかけた。依頼人の意図を勘違いしていたことが分かったのだ。
体をこすりながら水をかけ、汚れを落とす。そうしている間にまた依頼人が姿を現した。
「大体、落ちたかね? そうしたら今度はこれを使いな」
「お湯?」
「そうだよ。さすがにこの季節じゃあ、水だけだと寒いだろ? お風呂でも用意してやれたら良いのだけど、時間がかかるからね。とにかく、すぐに綺麗にしないと」
「あ、ああ……」
戸惑いながらも、依頼人が運んできた湯に手をつける。
「温かい……」
お湯で体を洗ったことなど一度もない。お湯を沸かしたことさえ、数えるほどしかない。その温もりが、冷えていた心まで温めてくれた。
「タオルと着替え。着替えはサイズが大きいだろうから、後で調整してあげるよ。まずは体を綺麗にしな」
「……あ、あ、あ」
「何だい、あああって?」
「……あ、ありがとう」
兄は生まれて初めて他人に「ありがとう」と言った。言い慣れない言葉に、かなりたどたどしい様子だが、御礼を言えた。
「……『ありがとう』は、あたしの台詞さ。トイレを綺麗にしてくれて、ありがとうね」
そして初めて、妹以外から御礼を言われた。人生の記念すべき一日になった。
◆◆◆
「トイレ掃除に来たのに、自分が綺麗になってどうする?」
迎えに来たレグルスが、笑みを浮かべながら、兄を揶揄ってきた。着ている服が変わっているのだ。一目見て分かる。
「あ、ああ」
「『あ、ああ』じゃないから。まあ、良いや、仕事は無事に?」
「ああ、とても綺麗にしてもらえたよ。良い仕事だった」
依頼人も、笑みを浮かべながら、兄の仕事を褒めてくれた。お世辞ではない。実際にトイレはこれ以上ないほどに綺麗になっている。
「それは良かった。では、またよろしければ依頼を。スカルと指名して頂ければ、この者が来ます」
「ああ、スカルって名前だったのかい?」
「”だった”というか、ちょっと前に決まりました」
「はい?」
名前が「ちょっと前に決まった」というのはどういうことなのか。依頼人に分かるはずがない。
「お前の名前はスカルな。悪いが拒否は出来ない。教皇様に考えてもらった名前だからな。悪い名前じゃない。戦神マスカルポーネの一部を使った名前だ」
レグルスの用件は教会に行くこと。花街で行った慈善活動について、成果や改善点などについて打合せを行ってきたのだ。
「スカルが俺の名前……せんしんますかるぽーねって?」
「戦の神様だ。強い神様だから良いだろ? 教皇様が言うには、神様とまったく同じ名というのは、逆に良くないそうだ。過ぎた力は身を亡ぼすって言うからな。一部くらいが丁度良いのだと思う」
神と同等であることは良いこととはされていない。レグルスが言った通り、「過ぎた力は身を亡ぼす」と教会でも考えられているのだ。
「妹さんはココ。慈愛の神ナタデココから名づけられている。慈愛っていうのは、とても優しいってことだ。美の神とも呼ばれているらしいから良いよな?」
「ココ……かわいい?」
「ああ、とても可愛い。可愛い妹さんには、ぴったりだな」
「ふふ」
妹はココの名が気に入ったようだ。名が気に入ったというよりも、レグルスが可愛い名で、自分にぴったりと言ったので、喜んでいるのだ。
「教皇様が名づけ親って……まあ、でも良かったじゃない。きっと縁起が良いよ」
教皇が名付け親になる相手は王家など、かなり上位の身分にある人くらい。平民が与えられることなど、まずあり得ない。そのあり得ないことに呆れている依頼人であるが、兄妹にとっては良いことだろうと喜んでもいる。
「じゃあ、我々はこれで。またのご依頼をお待ちしております」
「ああ、また頼むよ」
出口に向かって歩いていく三人。手をつなぐようにねだる妹、ココに応えてスカル、そしてレグルスも、左右から手を伸ばす。
「……三人兄弟だね」
その背中を見て、依頼人が呟いた。