昼休みが終わり、教会の活動は再開された。エリザベス王女も桜太夫と百合太夫に別れを告げて、店を出て現場の視察を始めている。華やかに彩られた表通りを離れ、横道を奥に進んでいくと周囲の様子は一変する。狭い路地に連なる長屋。表通りとは比較にならない安価で遊べる遊女たちが働く場所だ。
このような場所にまでエリザベス王女を連れまわって良いのかという議論はあったが、教会の活動はこういった場所で働く女性たち、より悪環境の場所こそを対象としている。視察をするとなれば、連れてくるしかないのだ。
「では俺も仕事に戻ります。親分さん、後はよろしくお願いします」
レグルスはここでエリザベス王女とはお別れだ。教会の活動は、ここよりも更に酷い環境の場所でも行われている。そこに手を入れなければ意味がないのだ。ただ、さすがにそこは、エリザベス王女を連れていけるような場所ではない。
「アオはどこに行くのですか?」
そういった裏事情は当然、エリザベス王女には伝えていない。レグルスがどこに行くのかを尋ねてきた。
「清掃作業を行いに。案内しているだけだと楽していると周りに責められるので」
エリザベス王女の問いに、レグルスは具体的な場所を告げることなく、答えた。もっと酷い場所があると知れば、エリザベス王女は付いてきたがる。そう思っているので、誤魔化そうとしているのだ。
「そう……分かりました。大切なお仕事ですね。励むのですよ」
「…………」
ハッとした顔をして、エリザベス王女を見つめるレグルス。
「……どうしました?」
その視線にエリザベス王女は戸惑っている。レグルスにこんな風に見つめられることなど、初めてなのだ。
「いえ……では、これで失礼します」
エリザベス王女の問いに答えることなく、レグルスは軽く頭を下げて挨拶すると、そのまま歩き出した。レグルスもまた戸惑っているのだ。自分の心の動きに。
頭に浮かんだのは亡くなったリーリエの言葉。勉強していると、いつもリーリエは「アオはいつも熱心ね。何事も励むのは良いことよ」と褒めてくれた。エリザベス王女の言葉は「励む」が重なるだけ。それだけであるのにリーリエの面影を、レグルスはエリザベス王女に見たのだ。
(……何だ? なんか変な感じ)
胸がざわざわする。そんな自分の心の動きがレグルスは不思議だった。
(……立ち居振る舞いは雰囲気あるけどな)
王女として幼い頃から、その地位に相応しい立ち居振る舞いをエリザベス王女は叩き込まれている。常に気品を感じさせる動きは、リーリエに通じるものがある。
(……いや、そういうことじゃなくて)
エリザベス王女とリーリエの共通点を考えてどうするのか。何故、そんなことを考えようと自分はしているのか。説明出来ない自分の心の動きを、レグルスは否定する。
(多分、あれを聞いてしまったせいだな)
エリザベス王女が、桜太夫と百合太夫に告げた言葉。レグルスはそれを廊下で聞いていた。聞こえてしまったのだ。
(どうして、あんな…………いやいや、仕事、仕事)
これから清掃作業だ。上の空で作業していては、本当に周りに怒られる。作業には花街の男衆も参加している。教会関係者と違い、彼らにレグルスへの遠慮はないのだ。
実際にすぐにレグルスに声を掛けてくる人たちが現れた。現場に到着したのだ。
「奥のほうが人手が足りないみたいだ! アオをそっちに行ってくれ!」
「了解!」
「あまり奥に行き過ぎるなよ!」
「あ? ああ……分かった」
忠告の意味は良く分からないが、とにかく言われた通りに狭い路地を奥に進む。そこはもう居住地域。一定間隔で作業をしている人たちがいる。建物の中の掃除をしている人もいれば、路地の下水道掃除をしている人もいる。
(……古いけど……造りはしっかりしているような……ああ、もしかして軍事施設だった時からのものかな?)
路地の横に掘られている下水道。汚水を流す為のものだが、泥やゴミで詰まっている場所が多い。そういった場所が悪臭を放っているのだ。
流れを本来の状態に戻すだけで、匂いはかなり改善されるはず。事前調査の結果、絶対に行うべき作業とされていた。
「……駄目だな。もっと初期に診られていれば」
建物から出てきた医師が、教会の人間と話している。その表情は暗い。病人の診察を行ったものの、すでに手遅れ。そういう病人は、この医師が診た人だけではないことを、レグルスはすでに知っている。
(普段から店で手配してやれば良いのにと俺は思うけど……ケチだからな)
店が働いている人たちの健康管理をもっと行ってあげるべきだとレグルスは思う。だが、それを言う資格はレグルスにはない。彼は花街の人間ではない。人との関りはそれなりに深くても、よそ者なのだ。
(花街全体で……結局は店の負担になるか……難しいな)
花街のこの在り方を悪だと断定することもレグルスは出来ない。酷い扱いだと思うが、店主はすべての従業員にそうであるわけではない。稼げる女性、男衆は大切に扱っている。店への貢献度によって扱いを変えているのだ。
「借金を返さない奴に、どうしてさらに金を使わなくてはならない?」は、レグルスがこういう状況を放置している店主に向かって文句を言った時に返ってきた台詞だ。これが花街の常識なのだ。
(……不衛生な状態をなんとかすれば、病気になる人も減るとは聞いているけど……どうなのかな?)
その為の今回の慈善活動だ。病気になってからでは遅い。少しでも病気になる人を減らすことが重要なのだ。
(客が病気ってこともあるよな……それはどうにも……いや、まず風呂に入れて、清潔にして……これも金か。そもそもそれで防げるか分からない)
エリザベス王女のことは頭から離れたが、考え事は続いたまま。レグルスは周りに作業している人がいなくなったことに気が付いていない。
(…………)
だが、ひとつの気配がレグルスの思考を止めた。感覚が危険を告げたのだ。風切り音が、体を沈めたレグルスの頭上を通り過ぎる。
「……鎌って草を刈る為の道具だって知っているか?」
頭上を通り過ぎたのは鎌。レグルスよりも若い男の子が、一瞬、獣かと見間違うような恐ろしげな顔をした男の子が、鎌で襲ってきたのだ。
「知らねえな。鎌は、てめえみたいな奴を殺す為の物だ」
「無知だな」
「うるせえ! さっさと死ね!」
一瞬でレグルスとの間合いを詰めてきた男の子。その速さは、レグルスも驚くほどだ。年下の男の子にしては、というだけだが。
「ぐっ」
飛び込んできた男の子の腹に拳を叩き込む。うめき声をあげて、地面に崩れ落ちる男の子。その後頭部に、さらにレグルスは蹴りを放った。年下とかは関係ない。相手は命を狙ってきたのだ。殺されたくなければ倒すしかない。
「……まあまあ。素人にしては、だけどな」
それでもレグルスは殺すまではしなかった。花街の、おそらくだが、住民を問答無用で殺すことを躊躇ったのだ。地面に落ちた鎌を取り上げ、男の子を見下ろす。
「う。うるせえ。俺はまだやれる。てめえをぶち殺して、ぐあっ……」
なんとか立ち上がった相手に、容赦なく蹴りを叩き込むレグルス。”問答無用”で殺すことを躊躇っているだけで、絶対に殺さないわけではないのだ。
「……それで? お前、どうして俺を殺そうとした?」
「……こ、殺す。殺す……殺す」
殺すと言っているが、男の子は地面に倒れたまま、動けないでいる。レグルスの、全力ではないとはいえ、攻撃をまともに受けたのだ。魔力を使えない、鍛錬を行っているわけでもない男の子が、無事でいられるはずがない。
「……何か隠しているのか?」
「……や、止めろ。な、何も、隠して、ない」
「隠しているな」
男の子が潜んでいた建物の扉を開けるレグルス。それを見た男の子は、地面を這いずって、近づこうとしている。それではレグルスを止められるはずがないのに。
何かを隠している。それも建物の中に。男の子の行動はレグルスにそれを確信させることになった。
「臭っ!」
中から漂ってくる悪臭。レグルスにとっては未知の悪臭だ。
「良くこんなところにいられたな……いや、いられるな、かな?」
レグルスの視線が部屋にある唯一の家具、クローゼットに向く。かすかに何者かの気配を感じたのだ。クローゼットに忍び寄り、一気に扉を開けるレグルス。
「いやぁーっ!」
「あれっ?」
可愛い掛け声と共に短刀が突き出されてきた。クローゼットの中に潜んでいた女の子が、攻撃してきたのだ。レグルスの体にかすらせることも出来なかったが。
「んん?」
「んん、じゃなくて。どうして攻撃してくる?」
大きな黒目でレグルスを睨んでいる女の子。攻撃される理由がレグルスには分からない。
「お兄ちゃんのかたき! しねえ!」
「……えっ? 兄妹なの? 似てないな」
また短刀を突き出してきた女の子だが、レグルスには、まったく脅威にならない。軽く女の子の手を掴んで短刀を取り上げると、そのまま体を抱き上げた。
「は、はなせ! ひとさらい!」
「いや、違うから。俺は人さらいじゃない。分かるか?」
「はなせ! はなせ!」
人さらいではないと説明しても女の子は大人しくしてくれない。それはそうだろうとレグルスも思って、嫌々をしている女の子を抱きかかえたまま、兄がいる外に出ることにした。
「い、妹を離せ! 殺してやる!」
「兄妹揃って、同じ台詞を……まあ、仕方がないか。お前、妹を守ろうとしていたのだな?」
これだけ可愛い女の子が花街で暮らしていれば、良からぬことを企む者もいるだろうとレグルスは考えた。襲われた理由がそれで分かった。
「俺はお前の妹を攫いに来たわけじゃない。別の用で花街に来て、たまたまお前たちの家の前に辿り着いただけだ。少し先で騒がしくしている人たちがいるのは分かるだろ?」
「…………」
無言のままレグルスを睨んでいる男の子。簡単には信用しない。そういう気持ちを抱いているのが、良く分かる。
「いきなり襲ってきたお前のほうが悪いと思うけど、妹の為だと分かったから謝っておく。悪かったな。それと、良く頑張ったな」
「えっ……」
レグルスは「頑張った」と声をかけるだけでなく、倒れている男の子の頭をなでた。素直に感心し、その気持ちをそのまま行動にしただけだが、男の子のほうはそんなレグルスに驚いている。
「妹さんも頑張った。でもお兄ちゃんは死んでいないだろ? 少し痛い思いをさせてしまったけど、すぐに元気になるから」
「……お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
「あ、ああ。大丈夫。すぐに動けるようになる」
妹の問いかけに優しい声で応える兄。レグルスに向けた声や態度とは、まったくの別物だ。
「さてと……両親は?」
「……死んだ」
「だろうな」
親がいるとは思えない。生きてはいても一緒には暮らしていない。そう思う場所で、兄妹は暮らしているのだ。
「じゃあ、お詫びというのもなんだけど、しばらく俺が面倒みてやろうか?」
「いらない」
「強がるな。今までお前は頑張ってきた。それは立派だ。でも、今日、俺に負けた。明日、俺と同じくらい強い奴が大切な妹を攫いにきたらどうする? 守れるか、守れないかを冷静に考えてみろ」
「…………」
答えはすぐに出る。守れないだ。今、このままレグルスが妹を連れ去ろうとしても、男の子はそれを止めることが出来ない。気持ちだけではどうにもならない力の差を、すでに思い知らされている。
「追いつめるようで悪いけど、お前は負けるところを見られた。あそこで見ている奴らが全員、善人であるなんて思わないだろ?」
離れた場所でレグルスたちを見ている人たちがいる。男の子がいるのを知って、近づこうとしない人たちだ。その中の誰かが、男の子がレグルスに負けたのを見て、どう思うか。妹を奪う機会はあると考える者がいないとは限らない。
「少し考えてみろ? お前の家も含めて、この辺りを綺麗にしている間に」
「必要ない!」
「必要だ。俺の誘いを断るつもりなら尚更な。ずっとあんな場所に妹を住まわせておくつもりか? 病気になってからでは遅いからな」
「…………」
妹の為と言われると拒絶はしづらい。だが、男の子は受け入れているわけでもない。
「花街の人たちには知られないようにする。俺の想像している通りであれば、そうじゃないと困るのだろ?」
「…………」
答えはない。だが男の子の目が泳いだのを見て、自分の想像は正しいのだろうとレグルスは思った。
「掃除はする。良いな。さて……すみませーん! 誰か俺の仲間を呼んできてもらえませんか!? 何でも屋の従業員です!」
離れた場所で様子をうかがっている人たちに、バンディーたちを呼んでもらうように頼むレグルス。まだ男の子が動けない状況で、この場を離れるわけにはいかないと思ってのことだ。
レグルスの頼みを聞いて、顔見知りが一人、駆けて行く。バンディーたちを呼びに行ってくれたのだ。
「仲間を待つ間に俺のことを話しておくか。花街の外で商売をしている。酒場、ただ飲み食いをするだけで、女性がいるような場所じゃない。あと「何でも屋」。仕事は色々。掃除、洗濯、荷物運び。頼まれれば何でもやりますって商売だ」
男の子の信用を得る、は無理でも、少しでも安心を与えなければならない。そう考えてレグルスは自分のことを話すことにした。あくまでも、アオとしての自分だけだ。
「中には犯罪すれすれの危険な仕事もある。ただお前には関係ないな。お前が出来るとすれば、掃除、洗濯とか、ああ、鎌を使って草刈りも出来るか。稼ぎは少ないけど、最初は仕方がない」
「……働けるのか?」
「働かないでどうやって生きていく? 面倒みてやると言ったが、施しをしてやるつもりはない。仕事は紹介してやるから、生きていく為の金は自分で稼げ」
「そうか……」
働く場所などなかった。妹とは違って醜い兄は、周りから忌み嫌われていた。雇ってくれる人などいなかった。レグルスは働く機会を与えてくれると言ってきた。まだ完全に信じる気にはなれないが、心惹かれる提案だ。
「ああ、来た」
話している間にバンディーたちがやってきた。レグルスがここにいると知って、かなり急いできたのだ。
「……無事でしたか。それもそうですね?」
「やっぱり、知っていましたか? とりあえず、大人しくはなりました。掃除を始めてください」
「ここも掃除するのですか?」
元花街の男衆であるバンディーは兄妹のことを知っていた。近づいてはいけない危険人物として認識していたのだ。その兄妹の住居まで掃除すると聞いて、驚いている。他人を寄せ付けない兄妹、というより兄がそれを許すと思えないのだ。
「かなり大変な掃除です。部屋の中にあるだろうものは、他の人には見られないようにしてください」
「部屋の中にあるものとは何ですか?」
「それは……多分、腐った死体。妹を攫いに来た者たちだと思います」
声を潜めて、自分の想像をバンディーに説明するレグルス。その視線は兄に向いている。自分の言葉に、兄がどういう反応を見せるか確かめているのだ。結果は予想通り。動揺して目を泳がせている。
「……噂は耳にしたことがありますが……そうですか……」
「そういう奴らがいたから、これまで生きてこられたのかもしれませんね」
働くことの出来ない兄妹は、これまでどうやって食事を手に入れていたのか。生ごみを漁る、というだけではない。妹を攫いに来た者たちを殺し、その者たちが持っていた金を生活費にしていたのだ。
このレグルスの想像が正しいことは、家の中で見つかった幾体もの腐敗した死体が証明した。それを処置した「何でも屋」の人たちにとっては、似た仕事を過去に経験している人も中にはいたが、かなりの試練だった。
教会の慈善活動の裏で起きていた、この出来事が、公になることはなかった。