王都には教会の総本山とされている建物がある。本当の総本山は別の場所。言葉の通り、王都から遠く離れた険しい山にあるのだが、大国アルデバラン王国に敬意を表するという意味で、そうすることで王国内の布教活動が円滑に進むという目的で、王都にある教会を総本山と定めている。教会のトップである教皇がそこにいるのだから、実質的にも総本山と呼んで差支えはないのだろう。
さすがに王城よりは小さいが、それに次ぐ大きさの建物である教会。王城よりも小さいという点が、教会の今の実力を示している。教会の勢威は最盛期に比べると、かなり衰えている。小国が乱立していた激しい動乱の時代が教会の最盛期で、多くの小国を飲み込んでアルデバラン王国のような大国が生まれ、戦乱が落ち着いて行くにつれて勢威が衰えていったのは、少し皮肉なことだ。
その教会をレグルスは訪れている。オーウェンも一緒だ。
「ああ、来た」
レグルスがいるのは広大な礼拝堂。奥の扉から礼拝堂に入って来た人物が、かなり小さく見える。それでもレグルスはそれが誰か分かった。その人を呼び出したのだから、当たり前だといえば当たり前だが。
「……本当に貴方でしたか」
「聞きたいことがあって来ました」
「それはつまり、分かっていて、ここに来たということですね?」
「ええ。聞きたいのは俺たちを襲った理由ですから」
相手の言葉で、自分の考えが間違っていなかったことがレグルスには分かった。さらにそれをはっきりと確かめることにした。
「無事に帰れると思っているのですか?」
これで間違いない。相手はレグルスたちを襲ったことを認めた。
「無事に帰さないと、大問題になりますので」
「……脅しですか?」
「いえ、事実です。もしかして分かっていない?」
ただ少し相手の反応に予想外のことがある。それもまたレグルスは確かめることにした。
「何のことですか?」
「今日の俺は、レグルス・ブラックバーンとして、ここに来ました」
「えっ……?」
この反応は相手がレグルスの素性を知らなかったことを示している。教皇は自分が何者か気付いていた。窓口となっていたこの男、ロイも知っているとレグルスは思っていたのだ。
「北方辺境伯家の公子である俺が教会にお祈りに来ました。当然、このことは我が家の者たちにも伝えています。護衛騎士も連れてきました」
「……そういうことですか」
北方辺境伯家の公子が教会に行ったまま戻ってこないなんてことになれば、確かに大問題になる。教会に入ったのは間違いないと証言する者もいることは、ロイにも想像出来る。安易に手出しは出来ない。
「さて、話を本題に戻しましょう。どうして俺たちを襲った? 秘密を守る為か?」
「……そうです」
誤魔化しても意味はない。レグルスは秘密を知っている。実家の北方辺境伯家に守られている。もう教会の側に打てる手はない。これ以上、事態を悪化させるほど、ロイは馬鹿ではない。
「仕事として請け負った以上、客の秘密は守る。それを疑うのは侮辱だと思いますが?」
レグルスのほうも教会と大きな揉め事を起こすつもりはない。これ以上、手出しをされなければ、それで良いのだ。
「どの口がそれを言うのですか? 秘密をばらすと脅してきたくせに」
「……それは誰が?」
レグルスにはまったく身に覚えのないこと。何でも屋で得た情報を脅迫に使うつもりはない。使うとしても、もっと意味のあることで使う。教会を脅しても、何も良いことはないのだ。
「惚けないでください! 貴方です!」
「聞いて良いですか? 俺は何を要求したのですか?」
「それは……金銭を」
レグルスの問いを受けて、ロイも少しおかしいことに気が付いた。北方辺境伯家の公子であるレグルスが金銭を要求する。そんなことがあるのだろうかと思ったのだ。
「金額はどれくらいですか? 北方辺境伯家の公子である俺が、将来、北方辺境伯そのものになるかもしれない俺が手に入れられないだけの金額なのでしょうね?」
「……いえ、そうは思えません」
庶民にとっては大金だ。だが王国貴族の最上位である北方辺境伯にとっては、その公子であっても、教会を脅してでも手に入れようと思う金額ではないのは明らかだ。
「はした金の為に、俺は教会を脅したのですか……それをして俺に何の利があるのでしょう?」
「……貴方ではない?」
「俺にはまったく身に覚えはありません。正直に話しましょう。依頼人が誰か俺は分かっています。一目見て俺が誰か分かった様子で、それでこちらも分かりました」
「お会いしたことがあるのですね? それはそうでしょう」
北方辺境伯家の公子であれば教皇に会っている。逆にロイは、会っていたとしても遠くから眺めていた程度。レグルスの顔は認識出来なかった。出来ていればそもそも依頼などしていない。
「ただどうして会いたいと思ったのかは知りません。推測していることがあるのは認めます。でも、推測で教会を脅すほど俺は馬鹿ではありません」
「……では、どうして秘密が?」
「それを調べる、もしくは推測できる人物は誰でしょう? 俺の身内を除いて。身内にはナラさんも含まれていますから」
ナラズモ侯爵も、もしかすると教皇であることを見破ったかもしれない。だがやはり教会を脅す動機がない。守護家ほどの力があればまだしも、ナラズモ侯爵では自らを破滅させてしまうだけだ。
「……ま、まさか」
「心当たりがあるようだ。こちらにも心当たりがあります。それを擦り合わせるのは、この場所でよろしいですか?」
「……告白室であれば」
人に聞かれて良い話ではない。教会の人には特に。誰にも聞かれないで話が出来る場所。それを考えてロイが思いついたのが告白室。誰にも言えない悩みや罪を告白する為の部屋。話す人とそれを聞く人、二人だけにしか話していることが聞こえないようになっている。
「では、そこで。彼は顔を知られていないはずなので、見張りに立たせておきます」
さらにレグルスはオーウェンに見張らせることにした。オーウェンは顔を見られていない。ブラックバーン家の騎士であることは分かっても、何でも屋のアオがいるとは思われないはず。こう考えてのことだ。
「すぐそこです」
「ああ……何故か、薄っすらと記憶が……」
告白室には、教会に来る度に入れられていた。日頃の行いを反省しろと言われて。反省などすることなく、聞き役の聖職者相手に毒づいていたレグルスだが、さすがにその記憶はない。そもそも告白室の記憶があること自体が、普通ではない。
礼拝堂の外れのほうにある告白室に入った二人。今は無用のことだが、中はお互いの顔も見えないようになっている。
「では、こちらから。疑っているのは当日、護衛として付いてきた騎士。彼は何者ですか?」
「……教会騎士団長です」
「思っていたより大物。どうして……他に話した人はいないということですか?」
何故、教会騎士団のトップである騎士団長を護衛などにしたのか。教会内でも極一部にしか知らせていない可能性をレグルスは考えた。
「騎士団長にも護衛を頼んだだけです。花街に行った目的を知るのは私、だけです」
「貴方とご本人だけ、ですね。では脅されたと言ってきたのは誰ですか?」
「……騎士団長です。道を歩いていたら貴方が近づいてきて、脅してきたと聞きました」
この騎士団長の話が嘘であったことは、すでにロイも分かっている。分かっていてそれを話したのは、レグルスに騎士団長を疑う証拠を示す為だ。
「では騎士団長は黒ですね。さらに騎士団長は口封じのために俺たちを殺すべきだと言った。違いますか?」
「その通りです」
「それなりに考えられています。騎士団長は秘密を俺から聞いて知ったことにした。その上で、俺の口封じをして、自分の嘘がバレないようにした。失敗しましたけど、貴方が俺に確かめようとしなければ、それで良いわけです」
「……はい」
騎士団長を疑う気持ちなどまったくなかった。今も、黒なのだろうと思っていても、信じられない気持ちが残っている。信頼出来る人物だと思っていたから、護衛を頼んだのだ。
「分からないのは騎士団長の目的です。何か思い当たることはありますか?」
「……いえ、ありません」
「何かあるはずですけど? 俺の口封じに成功していれば秘密が外部に漏れることはない。そういう形にした上で、秘密を騎士団長が知ったことで起きる何かがあるはずです」
わざわざ自分たちを殺した上で、金銭を要求するとはレグルスには思えない。簡単に始末出来ると考えて、失敗した時のリスクを考えなかった可能性はあるが。
ただ、そんな馬鹿な人物が騎士団長になれるのかとレグルスは思う。襲撃は騎士団長だけで行われたものではない。他の騎士が参加したからには、それを行ったという事実は残ってしまったのだ。
「……猊下は引退を考えておられます」
「それで得する人は?」
「……まさか……ここまでのことをして……」
「偉そうに言えるほどの立場ではありませんけど、まさかが起きるのが権力争いというものではありませんか?」
教皇にはその座に相応しくない秘密がある。それを教会内に知らしめ、教皇を引退に追い込むことが目的。騎士団長が行うことではないとレグルスは思う。もっと、その結果によって利を得る者がいるはずだと。
「そんな……私のせいで……」
ひどく動揺した様子のロイ。顔は見えなくても震える声がそれをレグルスに伝えている。
「なんとか、なんとかしなくては……私のせいで猊下が……そんなことは絶対に許されない!」
外に漏れてしまうのではないかと思われるほどの大声で叫ぶロイ。ここまでの反応を見せるのをレグルスは不思議に思った。
「……ずいぶん教皇猊下を慕っているのですね?」
教会の最高位に立つ教皇。教会で働くロイが忠誠を向けるのは当たり前かもしれないが、レグルスにはちょっと理解出来ない。
「えっ……あ、ああ、それは……」
「自分のせいとも言っていた。どういう意味でしょう?」
「…………」
答えは返ってこない。それは話せない事情だということ。教会騎士団長に護衛を頼んでしまった程度のことではないということ。
「私にも少しくらいは真実を知る権利があると思いますけど? 依頼としては成功している。その上で命を狙われたのですから。あの店ももう使えなくなります」
「……分かりました。お話します。猊下に、その、桜太夫のことを伝えたのは私なのです」
「貴方が……どうやって、その事実を知ったのですか?」
教皇が知らなかったことを、どうしてロイは知ることが出来たのか。教皇に孫がいて、その孫が花街で働いているなんて事実を知ることが出来るのか、レグルスには分からない。
「……桜太夫は……ルビーは、私の妹です」
「それは……」
言葉を失ってしまうほどの衝撃の事実。さすがにレグルスも、一瞬、思考が止まってしまった。
「父が過労で亡くなって、残った借金を返す為にルビーは売られました。母は望んでそうしたわけではないのですが、借金取りに追い込まれて……もう死ぬしかないとまで思い詰めて……そんな時、死ぬくらいならと説得してくれた人がいて……」
「……そうですか」
その説得した人は借金取りとグルですね、という推測は話さない。そこまでレグルスも無神経ではない。
「でも母は、やっぱり強く後悔して……心を病んで……死ぬ前に、私に全てを話してくれました」
「お母上は知っていたのですか……ちなみにお婆様は?」
ロイの祖母が教皇のお相手。全てを知っている人物だ。だがロイの話からは祖母の存在が見えてこない。
「……分かりません。私は顔を見たこともないのです」
「そうでしたか」
「私はなんとか教会に潜り込み、何年もかけてようやく猊下と言葉を交わすことが出来る立場になれました。さらに猊下に信じてもらえると思えるまで自分なりに頑張って、それで……そのせいで……」
妹を花街から救い出せるのではないか。ロイが教皇に近づいたのはその為だ。ロイにとっても祖父ということになるので、ただ会いたいという思いもあった。
「……太夫は貴方に気付いていたのですか?」
ロイも花街に行き、同席している。兄妹であれば、桜太夫は気が付いていたのではないかとレグルスは思った。
「覚えていないと思います。離れ離れになったのは妹が六歳になったばかりの頃。それからさらに二十年ですから」
「そんな早く……」
六歳ではさすがに付き人としても若すぎるように思う。働くことも出来ない若い女の子を、花街が抱えているという事実にレグルスは驚いた。まだまだ自分の知らない面があると思った。
「私は妹のおかげで救われました。借金を返してもまだ余るお金を手に入れられたのは妹が犠牲になってくれたおかげ。そのお金で私は生きられました。今度は私が妹を救いたいと思ったのですが……救うどころか……猊下まで……」
母とロイが、母が亡くなったあと一人になったロイが、教会で働けるようになるまで、苦しいながらもなんとか生きてこられたのはその金のおかげ。その恩をなんとか返したいとロイは考えていた。だが、教皇が今の座を追われてしまえば、桜太夫をどうにかすることなど出来なくなる。ロイはそう思っている。
「……それで……我々へのご依頼はどのようなものになりますか?」
「えっ?」
「人が出来ないことを引き受けるのが『何でも屋』の仕事ですから。お困りのことがあれ是非、我々にお任せください」
「……なんとか出来るのですか?」
ロイにはこの状況を解決する方法が思い浮かばない。なんとかしなければならないと強く思っていても、何を行えば良いのか分からない。
「もちろん出来ることと出来ないことがあります。さすがに教会の中で人を殺すのは問題ですよね?」
「…………」
教会の外であれば出来る。レグルスが言っているのはそういうことだ。それをロイは正しく受け取った。
「どうされますか?」
「どうしてそこまでのことを?」
教会の人間を殺す。これはレグルスが北方辺境伯家の公子であるとしても、かなりのリスクを伴うことだ。事が発覚すれば、ただでは済まない。最盛期に比べればかなり衰えたとはいえ、それくらいの権威、というより不可侵は、保証されている。
「……正直申し上げれば、教皇がどうなろうと俺はどうでも良いのです。ただ、太夫は正しく評価されるべき人です。くだらない醜聞のせいで、好奇の目に晒されるような状況になるのを許すわけにはいきません」
「妹の為、ですか」
「そうであっても、かなりの報酬を頂くことになります。それなりに準備が必要でしょうから」
教会騎士、さらにその上にいる黒幕を全て殺害するなんてことは簡単ではない。これはあくまでもアオとしての仕事。ブラックバーン家どころか、何でも屋の人たちを使う気もレグルスにはない。多数で実力的も上であろう教会騎士たちを確実に殺れる。そんな場を作るのに、かなりの準備が必要になることは、詳細を考えなくても分かる。
「……ではお願いします。貴方たちでやれる全てのことを。それでもし、残った人間がいたら……その時は、私が始末します」
「……貴方が?」
「教会は貴方が思うほど清く正しいものではありません。それは過去の歴史が証明しています」
教会の聖職者、そこで働く人々全てが清廉潔白などということはない。今の状況もそれを証明している。過去においてはもっと残忍な所業が行われたこともある。大勢の人が、教会の大儀という建前の下で、命を落としているのだ。
「過去の歴史は知っています。でも、貴方個人はどうなのですか?」
「……まさかが起きるのが権力争いというものではないのですか?」
権力を手に入れる。それがどれだけ困難で、罪深い行いだとしても、それをやり遂げるとロイは心に決めた。妹を救う為であれば手を汚すことなど厭わない。その覚悟を決めた。
「……分かりました。我々が受け取る多額の報酬の為にも、貴方には頑張ってもらわなければなりません」
「お任せください」
「では、こちらもお仕事を頑張らせていただきます。失礼します」
結局、自分はこういう役回りしか出来ないのだろうとレグルスは思う。それが嫌だというわけではない。大切な人を守る為であれば、どんな悪行も躊躇わずに行う。この覚悟は、とっくの昔に固まっている。ただ、そういう機会が、望まなくても近づいてくることに、少し呆れているだけだ。