期末試験が終わり、王立中央学院は夏季休暇に入った。一か月の長期休暇だ。王立中央学院における長期休暇はこの夏季休暇だけ。年末年始も連休があるが、五日くらいなのだ。
それを知った時、この世界の人たちは勤勉だとアリシアは思った。元の世界の学校では、もっと休暇がある。それと比べてのことだが、「もっと休みたい」とレグルスに愚痴った時に、必ずしもそうではないかもと思い直した。
レグルスは「たった三年も我慢出来ないのか?」とアリシアに言った。「授業を受けられないほうが嬉しいのか?」とも聞いてきた。彼の言う通りだ。この世界で学校に通うのは、同年代全体から見ると、極一部だけ。それも三年間だけだ。それで「この世界の人は勤勉だ」と評価するのは間違いだと思った。勤勉な人もそうでない人もいる。この世界の人々が特別というわけではない。
最初に深く知ったのがレグルスであったから。自分の考えはこれも影響しているとアリシアは思う。異常ともいえる勤勉さを発揮しているレグルスを基準に物事を考えてはいけないとも思った。
「毎日毎日、よく飽きないね?」
レグルスに比べてしまうと、これを聞いてくるクレイグは怠け者ということになってしまう。だが、そうではない。文句を言いながらも、毎日一緒に鍛錬を行っているクレイグは勤勉だ。
「飽きるという思いはまったく湧きません。私はもっと強くなりたいので」
アリシアは「鍛錬に飽きた」なんて思ったことは一度もない。そんな余裕はない。レグルスもまた日々、自分を鍛えているはず。自分だけが怠けるわけにはいかないのだ。
「アリシアはどうしてそんなに強くなりたいのかな?」
一緒に鍛錬を行っている中では、アリシアの実力はまだ一番下だ。だが、実力差は急速に縮まっている。それが分かっているから、クレイグもこうして毎日、鍛錬を行っているのだ。
そんなアリシアの強くなりたいという想いはどこからくるのか。クレイグはこれが気になっている。
「それは……負けず嫌いなので」
「負けず嫌いって……かなりのものだね?」
負けず嫌いというだけで、ここまで頑張れるものなのか。クレイグは、感心するよりも少し呆れている。
その感想は正しい。負けず嫌いは嘘なのだ。負けず嫌いであることは事実だが、それだけがアリシアのモチベーションではない。アリシアが強くあらねばならないと思っているのは、レグルスを止めるのは自分の使命だと考えているから。この先、レグルスがゲームストーリー通りに、悪事を働くようになっても必ず自分が止める。それも大事にならないうちに止める。それがレグルスを救う道だと思っているからだ。
「クレイグはどうなのですか?」
自分の動機について、これ以上、追及されたくない。そう考えてアリシアはクレイグに同じ質問を行った。
「僕は、比べられる相手がいるからね?」
他の守護家に負けられない。クレイグは、西方辺境伯家を背負っているのだ。それはタイラーも同じ。お互いに同学年の相手には負けるわけにはいかないと思っている。
「良いライバルですね?」
「……そうは思っていなかったけどね。でも、今はまあ、そうかな?」
良いライバルなんて思ったことは一度もなかった。相手を強く意識しながらも、正面から競うことは避けていた。今のように、一緒に鍛錬を行う日が来るなんて考えたこともなかった。
その、あり得なかったことが現実になったのは、アリシアのおかげ。クレイグはこう考えている。不思議な女の子だとクレイグは思う。彼女を見ていると自分も頑張らなければならないと思う。努力を隠すことが馬鹿らしく思えるのだ。
「私も、もっと頑張って、皆に認めてもらえるようにならないと」
「……頑張って」
とっくに認められている。クレイグはあえて、これを伝えることをしなかった。伝えたからといってアリシアの熱意が変わることはない。これは分かっているが、ただひたすら強くなることを追及している彼女には「頑張って」の言葉のほうが相応しい。こう思ったのだ。
「……クレイグが人を応援するところを初めて見た」
「私も」
そのクレイグの言葉が耳に届いて、タイラーとキャリナローズは驚いている。二人が知るクレイグは、人を子馬鹿にしたような態度を見せていることが多い。熱血漢なタイラーはそれをまともに向けられていた一人。情熱や根性というものを、素直に認めるような人物ではなかったのだ。
「まあ……悪いことではない」
「良いライバルと認めてもらえたみたいだものね?」
「……悪いことではない」
クレイグが自分をライバル視してくれたことが、タイラーはたまらなく嬉しい。タイラーも相手を強く意識しながらも無視していたのだが、クレイグに比べれば、心に熱いものを持っていた。同じ辺境伯家というより、同い年の一人の男として、絶対に負けられないと思っていたのだ。
「でも、少し残念なのはアリシアは私たちをライバルとして見ていない」
「そんなことはないだろ?」
「じゃあ、言い方を変える。私たちよりも、もっと意識している相手がいる」
「……レグルスか」
タイラーは少し前から、レグルスのことが気になるようになっていた。レグルスはかつての彼とは違う。自分たちの彼への評価は古いのではないかと考えていた。
「十歳の頃からね。彼が姿を見せなくなったのは」
「……そうだったか。ああ……赤い月の夜。あの日の奴は、奴だったな」
いつの間にか自分自身の誕生日パーティーを抜け出していた。それに気づいたブラックバーン家の人たちは大慌て。パーティーが中止になったことをタイラーは覚えている。帰り道、夜空に浮かぶ月が真っ赤だったことも。
「それからは滅多にイベントで姿を見ることはなくなって、その間に、会っても分からないくらいに痩せていた」
「そうだな」
「毎日、郊外を走っていたそうよ。恐らくは今も」
キャリナローズはこの情報を手に入れた。難しいことではない。ブラックバーン家にとって隠すようなことではないのだ。
「それで痩せたのか」
「その程度の話かしら? 朝食前に屋敷を出て、戻ってくるのは昼過ぎ。そのうち、帰ってくるのは夜になり、今はもう屋敷に顔を見せることは滅多にないみたい」
「……その生活を十歳からずっと……それも鍛錬の為にだと言うのか?」
強くなる為の努力では誰にも負けないとタイラーは思っていた。だが、もしレグルスが鍛錬の為にそれだけの時間を費やしてきたのだとすれば、努力という点では、自分は及ばないかもしれないと思ってしまう。
「それは分からないわ。彼がどこで何をしているのか、使用人たちは分かっていないみたい。遊びまわっている可能性もあるわね?」
「そんな風には思っていないくせに。そんな男をアリシアが意識するはずがない」
「……アリシアは彼がどこで何をしているか、知っているのかしら?」
ブラックバーン家の使用人も知らない情報を、アリシアは知っているのか。知っているのだろうとキャリナローズは思う。知っているから、レグルスを認めているのだろうと。少し間違っている。アリシアも、レグルスの全ての動向を把握しているわけではない。
「君はどうしてレグルスが気になるのだ?」
キャリナローズはレグルスについて調べた。それをする必要性を感じたということだ。その理由がタイラーは気になった。自分とは違う理由であれば、それを知りたいと思った。
「……もう隠す必要はないか。私が溺れた日、レグルスはあの場所にいたの」
「それは……?」
驚きに目を見開いているタイラー。ただこれは勘違いだ。
「私を溺れさせる為ではなく、アリシアを守る為よ。彼はその可能性に気づいていた」
「そうだとしても驚きだ。あれは、事故ではなかったのだな?」
「ええ。間違いなく、水中から足を引っ張られた」
「どうして話さなかった?」
事実だとすれば暗殺未遂だ。犯人を見つけ出し、処罰しなければならない。そうであるのにその事実を隠していたキャリナローズの考えが、タイラーは理解出来ない。
「だって……アリシアを狙ったというのはレグルスがそう言っているだけ。証拠はないわ。だとすれば、あの場にいた誰かが犯人かもしれないでしょ?」
「……そうか。そう考えたのか」
東方辺境伯家令嬢であるキャリナローズを暗殺する。タイラー自身は暗殺なんてことを考えたこともないが、自家の南方辺境伯家ではどうかとなると完全に否定できない。東方辺境伯家を継ぐのは、一人娘であるキャリナローズの息子。ではキャリナローズが息子を生む前に死んでしまったらどうなるのか。
これくらいのことはタイラーも考えつく。東方辺境伯家弱体化の為に、他の守護家がこういうことを考える可能性があることも。
「でも、その可能性は薄いみたい」
「どうしてそう思う?」
「レグルスが何もしないから。もし、私たちの中に犯人がいるとすれば、レグルスは放っておかない。こう思うくらいに、あの日の彼は怖かったの。私は彼に恐怖を感じたの」
「……そうか」
レグルスが強いことを示す具体的な証拠は何もない。それでもタイラーは自分の考えは間違いではないようだと思った。キャリナローズが恐怖を感じる何かがレグルスにはある。それを知られただけで、十分だと思った。
◆◆◆
実際のレグルスは、キャリナローズが思っているような生活をしていない。彼は鍛錬に全ての時間を費やせるほど、暇ではない。鍛錬以外にも色々とやらなければならないことがある。しかもそれは少しずつ増えているのだ。
今日も午後は鍛錬ではなく、別のことに時間を取られている。
「……稼ぎ頭を奪った俺には、お前を雇う責任があると……理屈としては分かる」
「だったら俺を今すぐに雇ってください」
レグルスが相手にしているのは客ではなく、求職者。何でも屋で働きたいと言ってきた人がいるのだ。
「それで本当に良いのか? 俺はお前の父親を殺した相手だ」
問題はその求職者がワ組の関係者であること。レグルスが殺した男衆の息子なのだ。
「だから責任を取って欲しいと言っているのです」
「……たとえば、俺が受け入れたとする。そうすると俺はお前の主人だ。お前は使用人として俺に仕えることになる。耐えられるのか?」
「それは……でも……」
抵抗はある。強い抵抗感だ。だが、それを押し殺してでも彼は職を得たいのだ。
「特別扱いはしない。仕事もさせないで金を払えば、それを施しだ。父親を殺した奴から施しを受けて、嬉しいか?」
レグルスには罪の意識がある。だからといって遺族を特別扱いするつもりはない。遺族全員に生活に困らないだけの施しを与えられるなら、とっくにそうしている。だがそれは無理なのだ。無理である以上、誰か一人だけを特別扱いするわけにはいかないと考えている。
「ちゃんと働きます」
「ちゃんと働くとしてもな……」
では遺族全員を雇えるのかとなるとそれも出来ない。
「働くというのですから働かせれば良いのではありませんか?」
バンディーは雇うことに前向きだ。レグルスの懸念は分かるが、だからといって仕事を求める彼を拒絶するのは忍びない。そう思ってしまうのだ。
「じゃあ……話はあとで」
「そんな!」
「バンディー! こいつを連れて奥に下がれ! 急げ!」
話を先延ばしにしようというのではない。話を続けることが出来ないことをレグルスは知ったのだ。敬語も忘れて命令するレグルス。それが事態が逼迫していることをバンディーに分からせた。
「こっちだ! 早く来い!」
腕を引っ張って、無理やり奥に連れて行くバンディー。その二人と入れ替わるようにして店に入って来たのは、剣を持った男たちだった。
無言のまま、レグルスに斬りかかってくる男たち。剣を躱したレグルスは、警戒しながら後ずさる。相手は何者か分からない。分からないが、ワ組の男衆たち相手のようには行かないことは分かる。明らかに訓練を受けた者たちなのだ。
「……誰かと間違っていませんか?」
相手の正体を探るレグルス。
「間違っていてもかまわん」
だが相手の答えからは正体を示すようなものは得られなかった。唯一、言葉遣いが、相手はその辺にいる街の悪党ではなく、騎士であろうことを裏付けただけだ。
レグルスを囲もうと動く乱入者たち。そうはさせまいとレグルスも動く。だが、それは容易ではない。乱入者たちは、統制の取れた動きで、確実にレグルスの逃げ道を塞ごうと動いてくる。
「……勿体ないけど、仕方がないか」
今の状況は圧倒的に不利。そんな状況でレグルスは無理をするつもりはない。命を惜しむ気持ちはないが、こんな訳の分からないことで捨てるつもりもない。命は別のことで使わなければならないのだ。
床が鳴る。天井から落ちてきた物が音を立てたのだ。何事かとそれに視線を向ける乱入者たち。その視界を、真っ赤な炎が塞いだ。
「なっ!?」
「気を付けろ!」
「まさか、魔道具か!?」
無言だった乱入者たちが、次々と驚きの声をあげる。彼らにとってはまったくの想定外。武器として使える魔道具など庶民が持っているはずがない。予測することなど出来なかった。
「逃げた!」
「追いかけろ! 逃がすな!」
彼らが魔道具に驚いている隙に、レグルスは逃げ出していた。その目的で、貴重な魔道具を使ったのだ。実際に使ったのは、天井裏に隠れていたエモンだが。
「何者でしょうか?」
そのエモンもレグルスと同時に建物から離脱している。
「あれを一発で魔道具だと判断できるのだから騎士で間違いない。分からないのは、俺が誰か分かっていないのに騎士が襲ってきたということ」
「分かっていませんでしたか?」
「断定は出来ない。でも俺が魔道具を持っていたら、『まさか』かな?」
ブラックバーン家のレグルスであれば、魔道具を持っていてもおかしくない。ただ、まだ学院生の公子と考えれば、魔道具なんて物騒な物を常備していることに驚くのは理解出来る。断定できないと思うのは、これが理由だ。
「ミッテシュテンゲル侯爵家の筋はないと?」
「具体的な名は出すな。誰がどこで聞いているか分からない」
今この瞬間、何者かが聞き耳を立てているかもしれない。自分たちが出来ることは、他にも出来る者がいる。それに気付けるほど、自分たちは優れているわけではない。レグルスはこう考えるようにしている。実際にその程度だと考えている。
「そうなると……」
「雇った奴がどの程度の実力か、これで分かるな」
「騎士相手に尾行を気づかれる未熟者を勧誘したつもりはありません」
レグルスは何でも屋以外でも人を雇っている。普段は決して表に出ることのない者たちだ。自分とエモンだけでは、この先、不十分。そう考えて、エモンに人材を探させていた。エモンと同じ泥棒を雇っていた。その新しい使用人たちが活動を始めているのだ。