週末、レグルスは剣術教官のレイフの家を訪れた。剣術を教えることは出来る。だが、それは授業としてではなく、別の時間に道場であればという条件付きであることを説明され、その道場とやらを訪れることになったのだ。その道場は結局、レイフ教官の自宅。それが分かったレグルスは少し驚いた。剣術には流派があり、その流派は代々受け継がれるものであることは知っていたが、レイフ教官がそういう家の人間であるとまでは思っていなかったのだ。
しかも、その道場は、レグルスは違和感が少ないが、普通とは少し違っていた。靴を脱ぐというしきたりは、普通の家にはないものだ。
道場には壁を背にして、二人が座っていた。そこまでレグルスたちを案内してきたレイフも、その並びに座る。
「よくぞ、参られた。当主のロジャーと申す。左にいるのは息子のレオン。この道場の師範代、当主代理というべきですか」
真ん中に座っている老人、ロジャーが自己紹介をしてきた。それを聞いたレグルスは、ロジャーたちと同じように床に、あぐらで座る。花街の座敷で慣れているので、レグルスは慣れたものだが、ジュードとオーウェンは戸惑いを隠せないでいる。
「レグルス・ブラックバーンです。後ろに控えておりますのは、オーウェンとジュード。私の部下といったところです」
挨拶を返すレグルス。それに少し驚いた様子のロジャーだが、レグルスの、ロジャーたちの基準でだが、礼儀正しさに感心した。
「息子のレイフに剣術を習いたいと申し出られた聞いております。今もその気持ちに変わりはありませんかな?」
「変わっていません。だから、ここにいます」
「そうですか。当家で検討した結果、その申し入れを受け入れ、弟子入りを許すことに決めました。弟子入りについてご存じですかな?」
ロジャーには懸念がある。北方辺境伯家という大家に生まれたレグルスが、弟子という立場を受け入れるかという点だ。師弟関係は厳しい。一定の配慮はするつもりでいるが、甘い指導では技の継承など出来ないのだ。
「……弟子入りがどのようなものかは知っています。ただ、こちらでのそれが私が知る弟子入りと同じかは分かりません」
「なるほど。一言で申せば、師の教えは絶対。弟子に反論は許されません」
「……それは知っています」
師弟関係がそういうものであることを、レグルスは知っている。知っているからといって、納得しているわけではないが。
「ふむ……全てを知る者の言葉は、一点しか見えていない者には理解出来ないことがあります。この意味は分かりますかな?
レグルスの反応に不満を見たロジャーは、師に無条件で従わなければならない理由をこう表現した。納得できなければ去れ、なんて強気なことは言える立場ではないことを、彼は理解しているのだ。
「それであれば分かります」
ロジャーにとって幸いなことに、レグルスはその説明だけで納得した様子を見せた。人に教わる地道な鍛錬はそういうものであることをレグルスは知っている。教わる側だったリキたちが、今の自分と同じように感じていたことを思い出したのだ。
「道場ではその約束を守っていただかなければなりません」
「分かりました」
「では……そうですな。まずは実力を確認させていただこう」
こう言ってロジャーは立ち上がる。鍛錬をすぐに始めてもらえるのはレグルスにとってもありがたい。床から立ち上がって、レイフ教官の前に向かったのだが。
「父が、いえ、当主がお相手致します」
「えっ……ああ、光栄です」
当主自ら相手をしてくれると教えられた。しかも。
「剣はこれを」
「……木、ですか?」
「はい。木であっても骨くらいは折れます。まず大丈夫だとは思いますが、お気をつけて」
木剣で立ち合いを行うらしい。当主とはいえ、老人相手の立ち合い。儀式的なものかとレグルスは思ったのだが。
「……身体能力を補うのが技。力が強い者に勝つために編み出されたのが技。その技がどういうものであるかを、知ることが出来るはずです」
その気持ちを読み取ったレイフが、レグルスの油断をたしなめた。レグルスの実力の全てを知っているつもりはないが、父であるロジャーに及ぶものではないと考えているのだ。
「……分かりました」
この時点でのレグルスは半信半疑。技だけで全てを補えるとは思えなかった。確かにそうかもしれないが、それとロジャーを立ち合い相手として物足りなく思うのは別。
と考えるのは、思い上がりというものだ――
「……つ、強い……ジ、ジャラッド……い、いや……技は、奴以上か」
その思い上がりをレグルスは知ることになった。彼の剣はまったくロジャーの体には届かなかった。どれだけ速く剣を振っても、その先には必ずロジャーの剣が待ち構えていた。では力押しで、と思っても、軽くいなされて、床に転がるばかり。
どれだけ頑張ってもその状況は変わらない。やがて自慢の体力も尽き、床から立ち上がれなくなってしまう。
「わ、私のお相手も!」
ブラックバーン騎士団副団長のジャラッドと同等か、それ以上などと聞いてはオーウェンは黙って見ているだけではいられない。自らの相手をしてもらえるように申し出た。
「どうぞ」
レグルスとの立ち合いが終わったばかり、それもかなり長く続けていたというのに、ロジャーはそれを受け入れ、すぐに立ち合いを始めようとする。
剣の技ではレグルスよりもオーウェンのほうが上。どれだけ善戦出来るか、というところなのだが。
「……ま、参りました」
結果はレグルスと同じ。床に這いつくばることになった。
「……僕もやるべきだね」
レグルスとオーウェンの二人が挑んで自分が動かないというわけにはいかない。ジュードも立ち合いを申し込んだ。身体能力においても、技においても、二人に及ばないジュードでは結果は見えている。予想通り、もっとも短時間で決着がつくことになる。
三人がかりで一太刀もロジャーの体に当てることが出来ずに、立ち合いは終わることになった。並み優れた技というものが、どれほどのものなのか。三人はこれを思い知ることになった。
立ち合いを終えて、ロジャーと向かい合う三人。一番前に座っていたレグルスは、正座をし、姿勢を正した。
「わたくし、レグルス・ブラックバーンは師の技を継承する為に、全身全霊を尽くし、鍛錬に臨むことをお誓い申し上げます! 師よ! 何卒、私の弟子入りをお認め下さいますよう、お願い申し上げます!」
膝の前に両手をつき、深々と頭を下げるレグルス。オーウェンとジュードも慌ててそれに倣った。
「……その礼儀は、どこで?」
それにはロジャーたちが驚いた。台詞は異なるものの、弟子入りを求める者の礼儀としてはほぼ満点。レグルスがこの礼儀をどこで知ったのか気になってしまう。
「……実は花街で。芸の師に弟子入りする最初に、今のような礼を行うと知り合いに聞きまして……おかしかったですか?」
「いや……しかし、花街か。花街の文化は我が祖先の国のそれと通じるものがあると聞く。確かにそうなのだな」
通じるどころか同じ国。ここまでのことはロジャーも知らない。同じ祖国を持つものであっても、接点はまったくない。これはアルデバラン王国に住みつくようになった最初からそうなのだ。
「舞の足運びと師の剣術の足運びにも似たものがあるようですし」
「舞……貴殿が学んだのは花街で踊られている舞の足運びか?」
レグルスが舞術を知っているというのは勘違い。踊りの舞であることが分かった。
「はい。どれだけ動いても、一本芯が通っているような振る舞いの美しさに憧れて、少し教えてもらいました」
「……我が流派は舞(まい)の術と書いて、舞術(ぶじゅつ)と読む。花街の舞とは当然異なるものだが、それでもよろしいか?」
「もちろんです。師の技の凄さを思い知り、さらに学びたくなりました」
元々、レグルスは、レイフ教官であれば自分の試みを形にしてくれるのではないかと考えて、指導を求めたのだ。流派が何であろう関係ない。実際に当主ロジャーの技の凄さを思い知った後であれば、それさえも関係ない。
「分かった。では今より、貴殿らと儂は師弟となる。それ以外の関係は一切無視。良いな?」
「「「はっ!」」」
この日、レグルスたちは正式に舞術に入門した。レグルスは、一日だけの家庭教師であったアオグストは例外として、初めて師という存在を得ることになったのだ。
◆◆◆
六月はアリシアの誕生月。彼女の誕生日の二日後がレグルスの誕生日だ。レグルスのことだから、どうせ何もしてくれない。こんな、期待しながらも裏切られた時のことを恐れて、諦めの気持ちを心に抱きながら、アリシアはその日が来るのを待っていた。
今のところ、状況は諦めの気持ちが正しいと思えるもの。何事もなく自分の誕生日は過ぎていくのだ、とアリシアが思い始めた頃。
「……誕生日パーティー、ですか?」
レグルスではなくジークフリートが、お約束のように誘ってきた。
「そう。もうすぐ誕生日だよね?」
「そうですけど……そのパーティーというのは?」
こんな質問も毎回のお約束だとアリシアは思う。ただ、今回はこれまで以上に重要なことだ。誕生日に二人きりなんてことは、さすがに問題だろうとアリシアも思うのだ。
「少人数のパーティー。メンバーは基本、この前と同じかな?」
「基本と言うのは?」
ここは曖昧にしてはいけない。諾否はそれがはっきりしないと返してはいけない。
「私とアリシアの他は、守護家の同級生たち。気心が知れている仲間だけのほうが良いよね?」
「キャリナローズさん、タイラー、クレイグ、あとは……」
ジークフリートがはっきりとした答えを返してくれないので、アリシアは一人一人を確かめることにした。
「アン、あとはレグルスも」
「あっ……そうですか」
サマンサアンは覚悟していた。だがレグルスの名が出るとは思っていなかった。こちらは覚悟が必要な相手ではない。
「ちゃんと誘っておくから。王家からの招待状という形をとれば、レグルスも無視は出来ない。間違いなく参加するよ」
「そうですか……」
レグルスであれば平気で無視するのではないか。この不安がアリシアにはある。ここは、はっきりと断るべきではないか。だが、ジークフリートの言う王家の誘いを断って良いのか。個人の感情で決めて良いのか、とアリシアは悩んでしまう。
「ただ、日にちは一日前になる。良いよね? お祝いは気持ちが大事だから」
「ああ……分かりました」
当日でないのであれば、最悪の状況は回避できる。何が最悪か、アリシアにも良く分からなくなっているのだが、とにかく婚約者であるレグルスがいない誕生日を過ごすということにはならない。こう思って、アリシアは了承を口にした。してしまった――
(……これは、もしかして嵌められたのかしら?)
湖のほとりに立てられた大きな日除けの傘の下で、アリシアはぼやいている。いざ当日になってみれば、レグルスは集合場所に姿を現さなかった。サマンサアンも、こちらは少しホットしたが、欠席。ジークフリートにとって都合の悪いだろう二人が欠席という結果だ。
これはジークフリートに嵌められたのではないか。こんなことをアリシアは思ってしまう。
(しかもこれ、パーティーなの?)
アリシアたちがいるのは屋外。すでに夏を感じる暑さの中、用意された水着を着て、外にいる。バーベキューパーティーと考えれば、確かにパーティーだが、どうして水着なのかが気になる。
それに、この世界の水着は元の世界に比べると露出が少ない。スクール水着よりも少ない。上は肘より少し上、下はひざ下まで。色気のイの字もない。肌を晒すことにならないのは良いが、これはこれでアリシアは恥ずかしく、心が浮き立つこともない。
他の皆と一緒に湖に入ることなく、アリシアが日傘の下で不満を頭に浮かべているのは、この水着にも原因があったりするのだ。
(……そういえば、アオは水の中で鍛錬していたな。来てしまったものは仕方がない。私も泳ぐか)
この場にいないレグルスのことを思い出し、気持ちが乗らないとしても、何もしない無駄な時間を過ごしているのは良くないとアリシアは思った。
鍛錬のつもりで、思いっきり泳ぐのも悪くない。そう思って立ち上がり、湖に近づくアリシア。
(……あれ? あれは、誰? あれって……)
湖の中央付近で、宙に手を伸ばしている誰か。遊んでいるにしては、少し様子がおかしいようにアリシアには見える。伸ばしていた手が沈む。また少し水面の上に出たが、また沈んだ。
「……あれは……大変! 誰か溺れている! 急いで、助けて!」
誰かが溺れている。そう確信を持ったアリシアは、助けるように皆に向かって叫びながら、自らも湖に飛び込んでいく。
水の冷たさを感じたのは一瞬のこと。あとは無我夢中。一秒でも早く泳ぎつかなければならない。それだけを考えて、アリシアは必死に泳いだ。