戦乱の世はこの世界全体で続いている。アリシアが知るゲーム『アルデバラン王国動乱記』だけが、この世界の全てではない。アルデバラン王国から遠く離れた土地でも戦争と、一時の平和な時代が繰り返されているのだ。
このような世の中では、望まないのに故郷の地を離れなくてはならなくなる人たちもいる。戦争から逃れる為に。そして戦争の当事者として戦って、敗者となってしまったせいで。
花街の創設者たちもそういった人たち。そして同じように遥か遠い異国の地からアルデバラン王国に逃れてきた人たちがいる。王立中央学院で剣術教官を努めているレイフも、そういう祖先を持つ人物だ。
レイフの祖先は、花街の創設者たちと祖国を同じにする。一緒に逃れてきたわけではない。祖国での立場は接点を持つようなものではなかった。立場は異なるが、敗者になったという点は同じ。祖国に生きる場所を失い、新天地を求めて逃げたのだ。自分たちを敗者に貶めた者の影響が決して及ばないだろうと思える、遥か遠くの国まで。
アルデバラン王国を選んだ彼らの祖先は、先見の明があったと言えるかもしれない。アルデバラン王国は、当時はまだ今のような大国ではなかった。そうであるから彼らのような異国人の力を借りることも受け入れた、という点もあってのことだが、二百年の時を超える安住の地となったのだから。
レイフの祖先は、彼ら独自の剣術をもってアルデバラン王国に受け入れられた。猫の手でも借りたいという表現はレイフの祖先たちに失礼だが、勝つためであれば何でも利用するという考えが、受け入れを許したのは間違いない。剣術が評価されたというより、戦う力を持つ集団として評価されたのだ。
とにかく祖先たちはアルデバラン王国に定住することになった。彼らの力は、間違いなく、アルデバラン王国の役に立った。王国は勝ち続け、大国と言われるまでに成長した。
その結果、そういった人たちの価値は低下することになった。どれだけ存在するのか、誰も把握出来ないくらいあった剣術の流派は、徐々に淘汰されていくことになった。
レイフの祖先が持ち込んだ流派は、淘汰される側だった。彼らが特別なのではない。優れたものが、そう評価されるものが残り、そうでないものは消えていく。自然の流れだ。今もまだ、一族内だけであるが、継承されていることを喜ぶべきなのだ。
レイフの実家は、そんな滅びゆく剣術を継承する一族だった。
「我らが剣術を学びたいと申す者がいる? それは本当か?」
レイフの報告を受けて驚いているのは彼の兄。門下生になりたい人がいるなどという話はこれまで一度もなかった。それはそうだろう。存在そのものを知る人がいないのだから。
「はい。事実です」
「そうか……我らが舞術を知る者がいたか」
舞術というのは通称だ。今この時代に、そんな呼び方をする人などいないが、かつてはそう呼ばれていたのだ。
「……舞術は知らないものと思われます」
「なんと? それでどうして学びたいなどと申し入れてくるのだ?」
「少し聞きかじった程度のようです。見様見真似で動いているところを指導した私に、その知識があると知って、学びたいと考えたものと思われます」
「そうか……そうであっても学びたいと言うのであれば、指導するのはやぶさかではないと思うが?」
折り入って相談がある、と言ってレイフは話を切り出した。何事かと身構えた結果、弟子入り志願者がいるという話。弟子入りなど、この家に生まれてから初めての出来事だが、今のように神妙になって話すことではないと兄は思う。
「その者はブラックバーン家の公子です」
「ブラックバーン……北方辺境伯家が我らが舞術を?」
少し落ち着いた気持ちが、また舞い上がることになった。北方辺境伯家が自家の剣術を学ぼうとしている。それは衰退していた自家の流派を救うことになるかもしれない。そう思ったのだ。
「私が思いますに、北方辺境伯家ではなく、公子個人の希望ではないかと」
「そうだとしても……い、いや、北方辺境伯家だけに我が舞術をか……」
兄の視線が斜め後ろに座っている老人、父であり、現当主に向く。北方辺境伯家が関わっているとなると、自分の判断で決めることではないと考えたのだ
「……我らの技が北方辺境伯家に伝わったからといって、何事かに影響を与えるわけではない。そのような技であれば、今の様なことにはなっておらん」
北方辺境伯家が舞術を取り入れたからといって、それで王国内の勢力争いに影響が出るわけではない。他国との戦況にも変化はない。そうであるから舞術は、王国に高く評価されることなく、衰退したのだ。
「どこぞの公子であろうと、弟子入りに関係ない。どのような身分であろうと学びたいという意欲を持ってくれているのであれば、惜しみなく技を伝えるべきだ」
「はっ」
「ただし、ひとつだけ条件がある。その者は最後の継承者に相応しい人物か? この条件を求めるのは儂の未練、愚かな誇り。分かっているが、この点は譲るわけにはいかん」
この場にいる三人は、普通に考えれば、これから学ぼうという若者よりも先に死ぬ。舞術の継承者はその者一人になる。そして恐らく、最後の継承者になる。レグルスは最後の継承者に相応しい人物か。舞術を滅ぼす人物として、受け入れられる人物か。当主はそれだけが気になる。
「……評判の悪い人物です。学院に入学する前に、百人を超える人を殺したという噂もあります」
「人殺しを好むような人物か。それでは」
「しかし、私が見る限り、授業に取り組む姿勢は真摯であり、地味な鍛錬も嫌がる素振りを一切見せることなく、何か月も続けるような愚直さがあります」
「……道を究める資質があると?」
父の言葉を遮ってレイフが口にしたのは、レグルスを褒める言葉。殺人を犯した人物とは異なる印象を与える説明だった。
「その者はこのように申しました。求めるのは、必要とあらば万人を斬ることが出来る剣だと」
「百どころか万……戦場の剣ということか……?」
舞術はそういうものだった。円と線。円は、乱戦の中、どこから来るか分からない攻撃を防ぐ為。線は、とにかく敵を押し倒し、首を掻き切ってしまえば勝ちという考えから生まれたもの。舞術は剣術ではなく武術。殴る蹴る、投げる、押し倒す。何でも有りの戦闘術なのだ。
それを舞術と呼ぶようになったのは、そういった荒くれ武術では世間に受けないから。洗練された技であるかのように装う為という打算的な理由からなのだ。
「そして、こうも申しました。騎士道なんてもので綺麗に飾ろうとしても、剣術は所詮は人殺しの技だと」
「……そんなことを……なるほど、どうやら継承者にこれ以上ないほど相応しい人物のようだ」
舞術が今のように廃れた一因には、いつの頃からか重宝されるようになった騎士道精神なんてものが影響している。当主はこんな考えを持っている。彼に言わせれば、騎士道精神なんてものは、長く続く殺伐とした戦争の中、わずかな美談だけを取り上げて作り上げた虚像。戦いは正々堂々とした美しいものでなければならないなどという、現実離れした妄想が、剣術にも正当性を求め、元々勝てば何でもありが基本であった舞術を拒絶させた、ということになる。レグルスの言葉は、当主にとって、これ以上ないほど共感できるものだった。
これにより、レグルスの弟子入りは受け入れられることになる。舞術を会得したからといって、それで無敵になるわけではない。いくつもある技の在り方の一つを学べるだけのこと。だが、レグルスが学ぶに相応しい戦闘術であることは間違いない。これを運命というなら、そうなのだろう。
◆◆◆
七月に行われる期末試験が終わり、八月に入ると王国中央学院は夏休みに入る。そして九月からは新学期。レグルスたちは二年生になる。これを今言われれば、レグルスは「それが何だ」と答えるだろう。二年生になるのを楽しみに待つなどという気持ちも、時間の余裕もレグルスにはない。鍛えなければならない点は山ほどある。さらに学びたい勉強も多い。その上、何でも屋の仕事。忙しくて大変なのだ。
「そうであれば尚更、今日くらいはゆっくり休んでください」
「ああ……その気持ちはありがたいのだけど、フランセス殿。休むというのはこういうことかな?」
レグルスはふかふかのベッドの上にいる。体を休めるには丁度良い、とは思えない。同じベッドの上にフランセスもいるのだ。一応は、普通のマッサージをしてくれているだけなのだが、今の状況が異常であるのは間違いない。
誰かが部屋に入ってきたら、どう思うか。しかもここはフランセスの家。家族が今の状況をどう思うかと考えると、怖くなる。
「大丈夫。きちんと習いました。これからもこうしてレグルス様のお体をほぐして差し上げられるように」
習ってきたというのは嘘ではない。それはマッサージをされているレグルスにも分かる。気持ちが良いのは否定出来ないのだ。
「そこまでの気遣いは恐縮するばかりなのだけど」
「そのようなことは言わないでください。私は、レグルス様を喜ばせる為であれば、何でもするつもりです」
「何でも……」
レグルスの頭の中で、妄想が膨らんでいく。人生経験豊富なはずのレグルスではあるが、その記憶は今は全て失われている。精神もすっかりリセットされて、若返っている。今の彼は、未経験の若い男の子なのだ。理性と欲望が、彼の頭の中で戦っている。
「私はレグルス様の物。物をどのように扱おうとレグルス様の自由です。好きにしてください」
マッサージをしながら、さらに卑猥さを感じさせる言葉をささやくフランセス。だが、それを言う彼女の顔は真っ赤に染まっている。レグルスとの距離を一気に縮めようと、大胆に誘惑しているフランセスであるが、彼女もまた未経験の乙女。頑張っているが、恥ずかしさは隠せないでいる。
「おふざけも過ぎると痛い目に遭いますよ?」
「痛い目とはどのようなものですか? 教えていただけます?」
さらに挑発を続けるフランセス。だが、彼女の真っ赤に染まった顔をレグルスは見てしまった。彼女が無理をしていることに気が付いてしまった。
「では、少しだけ」
「あっ」
素早く動いて体を入れ替えるレグルス。仰向けにベッドに寝たフランセスの上に乗る形だ。仰向けに寝ていても、豊かな胸の膨らみがはっきりと分かる。腰の細さも、今日初めて、レグルスはそれを知った。言葉の挑発以上に、フランセスの魅力的な体は、彼の心を刺激した。
「……教えてください。レグルス様」
首筋まで真っ赤に染めているフランセス。その恥じらいと挑発する言葉のギャップもまた、レグルスの心を揺さぶる。考える力が失われていく。
ゆっくりとフランセスの顔に、自分の顔を近づけていく。すぐに重なる唇。フランセスのほうからも抱きついてきたのだ。
「……これ以上のことをしてもらう資格は俺にはありません」
なんとかこの言葉を口にすることが出来たレグルス。フランセスに将来の地位など約束出来ない。彼女が望む立場を与えられる自分でいる予定はない。生きているかも怪しい。この思いがレグルスを止めたのだ。
「今日、どうして時間を頂いたか分かりますか?」
「……御礼の為。フランセス殿にはお世話になっているから」
アリシアが猛獣に襲われた件。そして結局、エモンの試験対策についてもフランセスに頼ることになった。その引け目が、忙しい中、レグルスにフランセスと会う時間を作らせたのだ。
「それは貴方の理由。私が時間を作ってもらったのは、誕生日のお祝いをする為です」
「誕生日? 申し訳ない。俺はフランセス殿の誕生日を把握していなかった」
「違います。レグルス殿の誕生日を祝う為です」
「えっ? でも……」
今日はレグルスの誕生日ではない。誕生日は近くはあるが、まだ先だ。
「当日は時間がとれないでしょ? 貴方には一緒にお祝いする相手が、別にいるから。だから、今日。今日、貴方に私を贈ろうと思って」
「…………」
フランセスの言葉にレグルスは胸が締め付けられるような息苦しさを感じた。好意などないくせに、ただ利用する為だけに、フランセスに近づいた自分を責める気持ちが生まれた。彼女に好意を向けられる資格など自分にはない。罪悪感が胸に広がっていく。
「そんな顔しないで。私は貴方の物。同情なんて必要ありません」
「私は貴女にそんな言葉を口して欲しくない。口にさせたくない」
「それは出来ません。私のこの想いは打算。私は贅沢を求めているだけです」
純粋な好意ではないとフランセスは話す。事実ではあるとレグルスは思う。自分がブラックバーン家の人間でなければ、彼女はこんな真似をしないはずだ。だが、それでも彼女を裏切っているという気持ちが消えることはない。将来の自分は北方辺境伯ではない。ブラックバーン家の人間でもなくなっている。彼女は求めるものを手に入れられない。
「求めるものは手に入りません。貴女はブラックバーン家の人間にはなれない」
「……それを話すのね?」
フランセスの雰囲気が変わった。求めるものが手に入らないと分かって、態度を変えたのだとレグルスは思った。
「騙すわけにはいきませんから」
「いえ、まだ貴方は私を騙している。本当の貴方は、そんな話し方はしない。本当の貴方は、今のように自分を飾らない……アリシアの前では」
アリシアの名を口にするフランセスは悲し気な表情を見せている。
「……そうかもしれません」
その反応に戸惑うレグルス。何故、フランセスはこんな表情を見せるのかと思ってしまう。
「……本当の貴方を私に見せて。貴方が何者であるかを私に分からせて」
「それを望むなら、別に構わないけど」
態度を取り繕う必要がないというのは、レグルスにとってありがたいことだ。フランセスはそもそも素を隠すような相手ではない。アリシアとの普段のやり取りを、何度も見られているのだ。
「私は……私は恋をしたい」
「えっ?」
「貴方を相手に恋をしたい。ただの女の子として、ただの男の子の貴方に恋をしたい。これが本当に私が望むこと」
フランセスが本当に望んでいるのは北方辺境伯の妻の座ではない。初めはそういう下心からの付き合いだった。だが、レグルスとアリシア、二人のやり取りを間近で見るようになって、気持ちが変わっていった。二人のようになりたい。ひと時でも良いから、二人のような関係性になりたい。そう思うようになったのだ。
「……その相手が俺である必要はあるか?」
「諦められるでしょ? 貴方なら」
人を好きになって、その人と結ばれる。それが不可能であることをフランセスは分かっている。学院を卒業すれば、それでもう自由な時間は終わり。家が決めた誰かに嫁ぐことになる。ずっと想いを引きずっているわけにはいかない。
これは計算。レグルスであれば割り切った恋愛が出来る。そう判断して、相手に選んだのだ。悲しい計算だ。
「……それでも俺かな?」
こんな問いを口にしながらレグルスは、フランセスを抱きしめる。抱きしめて、その唇にまた自分のそれを重ねた。同情からか、欲情からか、もしくはいずれとも異なる感情からか。それを考えることなく、ただ優しく、フランセスを抱きしめた。