王都を囲む外壁の内側に入り、王都中心部に続く街道をさらに進む。馬車の窓から見える景色。「懐かしい」という気持ちが彼女の心に広がった。やがて何千回と行き来した場所に辿り着く。馬車を降りて駆け回りたいという衝動が湧き上がるが、それは出来ない。目の前に座る彼女付きの侍女、という役職のお目付け役が、それを許してくれない。貴族の令嬢がドレス姿で道を駆け回るなど、セリシール公爵家ではあり得ないことなのだ。
いよいよ彼女は王都に戻ってきた。アリシア・セリシールとして。当初、本人が思っていたよりも遅い帰還だ。北方辺境伯家の公子との婚約は、王立中央学院入学の一年前だと思っていた。実際にほぼその通りだったのだが、婚約成立と彼女が王都に昇る時期は同じではなかったのだ。
養女になってから、徹底的に礼儀作法を叩き込まれた。それだけの時間だった。彼女にとっては不本意なことだ。礼儀作法の必要性は分かるが、その間、鍛錬をまったく出来ていないのだ。
学院への入学はもう半月後。遅れを取り戻せる期間ではない。せめて鈍った体を少しでも元通りに近づけたい。こう考えているが、それも思うように出来るか分からない。セリシール公爵家の使用人たちが良い顔をしないのは間違いない。北方辺境伯家、ブラックバーン家も婚約者が鍛錬をすることなど許すだろうか。最悪は学院に入学してから頑張るしかない。
いよいよ内壁の門をくぐる。表中央通りは相変わらずの賑やかさ。人込みの中に彼の顔を探して、そんな自分に気が付いて、彼女は落ち込んでしまう。
彼に会いたい。でも会うのが怖くもある。家族を捨てて、貴族になった自分を彼はどう思っているのか。こんなことを、ある日、思ってしまったのだ。その日からずっと彼のことを思い出すと同時に、罪悪感が心に湧いてくるようになってしまった。楽しい思い出に影が差すようになってしまった。
「アルデバラン王国動乱記」は貧しい平民の娘が王妃にまで成り上がる物語だ。ゲーム通りに自分が王妃になったら彼はどう思うだろうと彼女は考えてしまう。家族を捨て、婚約者を裏切って、王妃の座を手に入れる自分を、彼は認めてくれるだろうか。
(……いやいや、少なくとも婚約者は悪い男だから。事情を知れば、同情してくれる、はず)
落ち込んだ時の、近頃の自分への言い訳はこれ。北方辺境伯家公子、レグルス・ブラックバーンは悪人なのだから、裏切っても仕方がない。彼も「それは仕方ないな」と言ってくれるはずだ。彼がレグルス・ブラックバーンであることを未だに知らない彼女は、こんな言い訳を考え付いたのだ。
(いよいよ、ご対面か……気が重い)
その悪人、レグルス・ブラックバーンとの対面の時が近づいている。聞いている予定では、それは明日だ。
(……婚約まで、何もないよね? そういうの、ちゃんとしているよね? でも、あのレグルスだからな……)
レグルス・ブラックバーンは女たらし。多くの女性を騙して、利用する。これがゲームでの設定だ。そんなレグルスが、結婚まで何もしないでいてくれるのか。彼女は不安に思っている。
(やっぱり、聞いてみようかな?)
お付きの侍女であれば、貴族の婚約時の決まり事について知っているはず。これまでも何度も聞こうと思ったのだが、「エッチは結婚までないよね?」なんて聞くと、卒倒されてしまいそうで口に出せないでいた。
「……どうかされましたか?」
彼女の視線に気づいて、侍女が問いかけてきた。
「……いえ、何もありませんわ」
やはり、彼女は質問することが出来なかった。
「もうすぐ到着のはずです。もう少し我慢してください」
そして「何を我慢?」という言葉も口にしなかった。そのような問いは侍女の、セリシール公爵家の基準では「はしたないこと」とされる。「本当にトイレを我慢しているわけでもないのに、そういうことにされるのはどうなのか」と彼女は思うが、それを議論しても時間の無駄だ。そうだからそう。これで大抵のことは終わってしまうことを、すでに知っている。
賑やかな通りを過ぎて、さらに城に近づくと、閑静な住宅区域になる。貴族の屋敷がある区域だ。
「到着したようです」
馬車が止まったことは彼女にも分かった。王都で暮らす屋敷に到着したのだ。外から馬車の扉が開けられるのを待って、降りる。
「……素敵なお屋敷ね?」
屋敷の外観は彼女が想像していたよりも、遥かに立派だった。セリシール公爵家は貴族とはいえ、貧しい。彼女にとっては贅沢な暮らしであったが、内情は火の車。破産寸前であることは、嫌でも、気が付いた。そうであれば、もっと慎ましい暮らしをすれば良いのに、と何度か忠告したが、それは受け入れてもらえない。公爵としての品位を落とすことは許されないと言われて、終わりだ。
そんなセリシール公爵家が王都に立派な屋敷を構えていることが、彼女は意外だった。
「……お借りしたものです」
彼女の問いに、ささやくような小さな声で侍女は答える。
「ああ……私はもっと小さなお屋敷でも構いませんよ?」
借家だといてもこれだけ大きな屋敷だと、賃料はかなり高そう。また無駄なプライドで、無理な見栄を張っていると彼女は考えた。
「……ご厚意で」
「安くして頂いているの?」
「……ブラックバーン家のご厚意で、無償でお借りできることになりました」
侍女はようやく事情を彼女に話した。ブラックバーン家から無償で屋敷を借りたということも、恥ずかしいのだ。
「……そうでしたか。では、お会いした時に御礼を申し上げなければなりませんね?」
こういう話を聞かされると、「ああ、自分は金の為に売られたのだ」と彼女は思ってしまう。実際にセリシール公爵家の立場からはそうだ。平民の娘を養女にして婚約させるだけで、金銭の支援が得られる。実の娘と嘘をつくくらいのことは、まったく罪悪感を覚えない。特に珍しいことでもないのだ。
「いつまでも外に立っているわけには参りません。お屋敷に入りましょう」
「そうね」
アリシア・セリシールとなってからの王都での生活がこの日始まる。いよいよゲームが始まるのだ。
◆◆◆
王都二日目。いきなりアリシアにとって、試練の時が訪れる。彼女がそう思っているだけであって、ゲーム上は特別なイベントではない。プロローグにおいてダイジェストで流されるアリシアとレグルスの初対面の時が訪れただけのことだ。
ただ一大イベントととらえているのはアリシアだけではない。彼女とは意味が違うが、セリシール公爵家の人々もこの時を迎えて、大いに心を騒がせている。
アリシアの美貌から、まずないと思うが、万が一レグルス・ブラックバーンが彼女を気に入らなかったら。婚約にあたっては、形ばかりではあるが、レグルスについて調べた結果、かなりの問題児であることが明らかになっている。セリシール公爵家の調査能力では、もっと子供の頃のことを人伝に聞くくらいだが、それでも問題があることは分かる。使用人たちは婚約に至った裏事情を知らないのだ。彼女が貧しい平民の家で育ったことも知らされていなかった。
屋敷では朝から大騒ぎ。風呂で体を磨き上げ、髪型を整え、化粧を施し。この日の為に用意されたドレスに着替え、準備は万端。といってもそれは外見的なことだけで、礼儀作法についての指導はブラックバーン家の屋敷に着くまで続いた。
おかげでアリシアの心に不安が浮かぶ余裕もなかったことは、救いかもしれない。わずかな救いだ。部屋に通されたあとは、収まっていた不安な思いが、これ以上ないほど、心に広がっているのだから。
「背筋を伸ばして。伏し目で、正面からお顔を見るような真似は決してしないように。はしたないですから」
部屋に通されてからも侍女の説明は続いている。侍女も不安で、守るべき礼儀を口にすることで、不安から気持ちをそらそうとしているのだ。
「……メガン。はしたないのは貴女ではなくて? 静かにお待ちするべきだと私は思うわ」
「……失礼いたしました」
あまりに侍女のメガンが煩いので、アリシアは少しだけ気持ちが落ち着いた。それも、レグルスが現れるまでだと分かっているが。
その時はすぐにやってきた、と思われた。
「失礼いたします」
ノックをして部屋に入ってきたのは侍女。顔を見なくても声と服装でそれは分かる。
「旦那様もすぐにいらっしゃいますので」
テーブルの上に持ってきたお茶を並べながら、侍女は旦那様がもうすぐ現れることを告げる。いよいよだ、と思いながらも、侍女が「旦那様」と言ったことがアリシアは少し気になった。婚約したばかりで「旦那様」などと呼ぶ慣習があることなど、習った覚えがないのだ。
「待たせて、すまない」
侍女が言った通り、旦那様、ベラトリックスが現れた。声だけではすぐに分からなかったアリシアだが、顔をはっきりと見なくても、テーブルまで歩いてくるベラトリックスの外見で自分の婚約者ではないことが分かった。婚約者のレグルス・ブラックバーンは自分と同い年であることは分かっているのだ。
「初めまして。アリシア・セリシールと申します。本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」
教えられた通りの、とくに凝ったところのない挨拶を告げるアリシア。
「レグルスの父、ベラトリックス・ブラックバーンだ。王都までの旅はどうだったかな?」
「おかげさまでつつがなく王都までたどり着けました」
「それは良かった。それでも昨日の今日では、まだ疲れが残っているだろう。座ってくれ」
「ありがとうございます」
ベラトリックスの言葉を受けて、素直に椅子に腰かけるアリシア。疲れているわけではないが、ここで遠慮することに意味はない。ベラトリックスも本当に疲れを心配しているわけではなく、座るけっかけとして話題を振っただけであることは考えなくても分かる。
「さて、息子がまだ外出から戻っていなくて。もう少し待ってもらうことになる」
「そうですか……」
婚約者との初顔合わせ。それなりに大事な場のはずが、それに平気で遅刻するレグルスは、知っている通り、性質の良くない人物だアリシアは思った。
「御父上はお元気かな?」
「はい。本来であれば同行して、ご挨拶させていただくべきなのですが」
「ああ、構わない。領地にいる父に挨拶に行かれたと聞いている。それで両家の挨拶は済んでいる」
現在のブラックバーン家の当主は領地にいるコンラッドだ。家同士の挨拶という意味では、コンラッドと会うのが正しい。王都に来られるのであれば来ても構わないが、そこまでの旅費を負担する義理はブラックバーン家にはない。来られない理由はベラトリックスには分かっているのだ。
「そう言っていただけると安堵致します」
「……アリシア殿は王都は初めてかな?」
「……はい。初めてです」
一瞬、問いの意味を考えたアリシアだが、本来は悩む必要のない質問だ。アリシア・セリシールが王都に来たことがあるはずがないのだから。それに気づいて、わずかに間は空いてしまったが、答えるべき答えを返した。
「長く暮らしていると珍しいこともない王都だが、初めてとなるとまた違うだろう。時間があれば色々と見て回ると良い」
「はい。今から楽しみです。あっ、御礼を忘れておりました。素敵なお屋敷を用意していただき、ありがとうございます」
「ほとんど使うことのなかった建物だ。遠慮なしに自由に使えば良い」
「ありがとうございます」
アリシアは少し気持ちが落ち着いてきた。悪人の父親は悪人。そう思っていたのだが、こうして話をしているとベラトリックスは普通の人のように感じられる。そう思わせるのも交渉術のひとつであったりするのだが。
「失礼致します。レグルス様がご到着なさいました」
「やっと来たか」
使用人がレグルスの到着を告げに来た。それを聞いたベラトリックスは渋い顔だ。ベラトリックスが部屋の入口に目を向けた瞬間に、ちらりとその顔を見たアリシアは、当たり前だが父親も遅刻を快く思っていないことが分かった。
席を立って、レグルスが入ってくるのを待つアリシア。
「遅くなりました。父上」
「遅い。それにまず声を掛けるのは私ではないだろう?」
「ああ……初めまして、アリシア殿。お待たせして申し訳ない。レグルス・ブラックバーンだ」
「初めまして」とレグルスは「アリシア」に挨拶をした。それを聞いて、わずかに眉を寄せるベラトリックス。だがその表情は、レグルスの顔も、アリシアには見えていない。教えられた通り、目線を下げているのだ。
「初めまして、レグルス様。アリシア・セリシールでございます」
アリシアも「初めまして」と返す。
「お掛けください。長旅でお疲れでしょう?」
「……いえ。おかげ様で快適な旅を経験することが出来ました」
父親のベラトリックスへ返した言葉とは別のものを。そう考えて、応えるアリシア。
「ずっと馬車に揺られているだけでも疲れるものです。今日はお屋敷でゆっくりお休みになると良い」
「……お心遣いありがとうございます」
なんとなく会話の展開に違和感を感じるアリシア。なんだか「もう帰れ」と言われているように聞こえるのだ。
「気を使ってなどおりません。私もこの後、予定が詰まっておりまして」
「レグルス。まだ来たばかりではないか」
アリシアが感じた通り、レグルスはもうこの場を終わりにしようとしている。それが分かった父親が、彼をたしなめる。
「お話する機会はこの先、いくらでもあります。なにも王都に到着した翌日、まだ疲れが残っている日に長く話をする必要はないでしょう?」
「せっかく来てくれたのだ。長く話せば良いだろう?」
さらにアリシアの心に違和感が広がっていく。会話の流れについてではない。レグルスの声に対する違和感だ。違和感というのは少し違うかもしれない。彼の声がアリシアの記憶を刺激しているのだ。
「ですから、予定が詰まっていると申し上げました。ほら、呼びに来た」
「おい! レグルス!」
椅子から立ち上がるレグルスを引き留める父親。だが、レグルスの動きは止まらない。迎えに来た使用人が立っている出口に向かって、歩き出していた。
「……えっ?」
その背中を見て、アリシアはレグルスか何者か分かった。どうしてもっと早く気付かなかったのかと思った。彼の声に、何故すぐに気が付かなかったのかと。
「……ま、待って!?」
礼儀としてはこれは誤り。だが、それを咎める人は誰もいなかった。アリシアの制止の声に足を止めて、振り返ったレグルス。間違いなく、彼女が知る彼の顔だった。
「……またお話しする機会はあるでしょう。今日はこれで失礼する」
だがレグルスの口から出たのは、この言葉だった。それに対して、アリシアは何も言えない。咄嗟に口から「待って」の言葉が出ただけで、頭が混乱していて何も考えられないのだ。
会いたかった人が目の前にいる。もっとも会いたくない人として。再会を喜びたいのに、素直に喜べない。アリシアの婚約者レグルス・ブラックバーンは世の中を乱す悪。アリシア・セリシールの敵なのだ。
両の瞳から涙が零れ落ちる。喜びか、悲しみか、分からない涙が、アリシアの頬を濡らしている。
「…………」
それを見て、口を開きかけたレグルスだが、結局は何も言うことなく出て行った。そうしなければならないと思ったからだ。
「……泣いていましたよ?」
アリシアの涙は、レグルスを迎えに来た使用人、エモンも見た。泣いてしまうのも当然だと彼は思う。
「分かっている」
「良いのですか?」
「俺が側にいるほうが、あいつを悲しませることになる。これで良いんだ」
アリシアはいずれ真実を知る。両親が殺されたこと。その殺害にブラックバーン家が関わっていること。ブラックバーン家が、彼女が貧しい平民の家に生まれた過去を消し去る為に、彼女の両親と何の関係もない女の子を殺した事実を知るはずだとレグルスは思っている。自分との婚約のせいで両親が殺されたことを彼女は知るはずだと。
「……そうでしょうか?」
「そうだ。この話はもう良いから急ぐぞ。喧嘩に遅れる」
「はい、はい」
レグルスの気持ちは、エモンにも分からなくはない。だが、彼が無理をしているのは明らかだ。無理をして、彼女と距離を取る理由を作っているように感じられる。
だが今、何を言ってもレグルスは聞きはしない。それもまたエモンは分かっている。流れに任せるしかない。これは彼と彼女、二人の問題なのだから。