北方辺境伯家の王都屋敷。広大なその屋敷に置かれている家具はどれも一級品。ダイニングセット一つで、庶民であれば、何年も暮らしていける金額であったりする。貴族と平民、それもトップクラスの貴族家と平民の家では、その暮らしに大きな、という表現ではとても正しく表せない差があるのだ。
ただ男の狙いはいくらでもある高級家具ではない。そんなものを一つ持ち出したくらいでは満足出来ない。もっと効率良く持ち出せる、より高級な品が探し求めているお宝だ。
機会は一度きり。その一度で最大の成果を得なければならない。その為には事前調査は欠かせない。もっとも高価、かつ持ち運びやすいお宝がどこにあるか。それを見つけておかなければならない。
今、男が探っているのは書物室。置かれている書物の中には、庶民が何年も働いて、ようやく買えるかどうかという高価な書物もあるが、目的はそれではない。使用人の中で噂になっているお宝。元は王家の秘蔵品だった宝石だ。
使用人は、男が聞けた範囲でだが、誰も見たことのないそれは屋敷のどこかに隠されている。その隠されている場所の候補のひとつが書物室なのだ。
人気のない書物室。まずは定石通り、一番奥を探してみる。壁に隠し棚がないか、隠し部屋かもしれない。もしかすると本の中に隠されている可能性もある。ただこの可能性は低いと男は考えている。誰かが偶然見つけてしまうような場所に置かれているとは考えづらいのだ。
壁を少しずつ移動しながら軽く叩いていく。音の変化に気を付けながら。焦ることなく、隙間なく、ゆっくりと。地味で辛抱強さが求められる作業だが、ここで雑な仕事をしては良い結果は得られない。丁寧な仕事が、最善の成果を得られる近道。そう考えて、作業を続けなくてはならない。
「何か探し物か?」
「えっ? あっ、えっと、レグルス様に頼ま……いえ、落とし物を」
いきなり掛けられた声に、咄嗟に用意しておいた言い訳を口にしようとした男。だが、それは間違いだと途中で気が付いた。声をかけてきたのは彼、レグルスなのだ。
「ここでは落とし物は見つからない」
「今日、立ち寄った先をすべて順番に回っているのです」
「ああ、そういう無駄な言い訳は良い。そういう話をしたくて俺はここでお前を待っていたわけじゃない」
彼は無駄話をする為に、男を、付き人を待っていたわけではない。事実を明らかに、それを自分が知っていることを明らかにする為に、この場所で待ち伏せしていたのだ。
「……では、どの様な御用でしょうか?」
「お前に頼みがある。北方辺境伯家に雇われた付き人としてでなく、エモンという一人の男として引き受けてもらいたくて」
「…………」
驚きに目を見開いている付き人。彼が、知るはずのない本名で、自分を呼んだことに驚いているのだ。
「信じないだろうが、俺はお前のことを知っている。俺が気配を消して、お前を待ち伏せ出来たのは、お前自身にその技を教わったからだ」
「……何のお話でしょう?」
「惚けても無駄だ。お前はこの家の財産を狙っている泥棒。ただの泥棒にしては色々な技を持っている。それを俺は知っている。ちなみに、お前の将来も知っている。ある場所に盗みに入って失敗。お前は処刑されることになる」
前世においてはそうだった。その前の人生においても。その前も、その前も。エモンは、動機までは知らないが、こともあろうに王城に忍び込み、盗みに失敗して処刑される。彼の人生が終わるよりも前のことだ。
「……私の未来など、分かるはずがありません」
「そうだな。この人生では変わるかもしれない。それは、ここでお前がどういう選択をするかにかかっているかもしれない」
「この人生?」
「俺にとってこの人生は何度目か分からないほど繰り返された人生の、もっとも新しいものだ。以前の人生で、俺とお前は違う形で出会っている。違う形で出会ったが、お前は命を助けてもらう代わりに俺に技を教えてくれた」
これまでは、エモンが盗みに入ったところでのいきなりの出会いだった。彼は学院を卒業していて、今よりも冷酷だった。今、彼は「教えてくれた」という言い方をしたが、そうしなければエモンは殺されている。脅して、無理やり教えさせたのだ。
「……そんなことがあり得ると思いますか?」
「それがあり得る。ただ今の俺はもう、お前から技を教わるつもりはない。潜んでいる俺に気づけないお前の技など習う意味ないからな」
以前の人生でエモンから教わった技を、すでに彼は身につけている。まだまだ未熟な部分があるのは分かっているが、それはこの先も鍛錬を続ければ良いだけのこと。改めてエモンに教わる必要はないと考えているのだ。
「…………」
「これは言いたくなかったが、お前に選択の余地はない。断ればお前は、泥棒として追われることになる。少なくとも王都にはいられないな。他の土地で泥棒するという選択肢はあるが、それでどれだけ稼げるだろうな? 手配書も全国に出回ることになる」
「……貴方に仕え続けたらどうなるのですか?」
まだ自分が泥棒であることは認めない。それでもエモンは、考える気持ちを持った。証拠などなくても、北方辺境伯家が泥棒だといえば泥棒になる。それを知っているのだ。
「正直分からない。お前の人生が幸せなものになるとは、俺には言えない。不幸になる可能性のほうが高い。ただし、それは俺に仕え続けた場合。仕事を終えたら俺から離れれば良い」
「……仕事というのは?」
「俺の家族を殺した奴らを調べてもらいたい。手を下した奴らだけでなく、恐らくいるだろう、裏で糸引いている奴も」
彼は真実を明らかにするために、エモンの力を借りようと考えたのだ。その為に、これまでの人生とは異なる行動を選んだ。選ぶことが出来た。
「……その裏で糸を引いている奴らが……いや、貴方ならおおよその当たりはつけているのでしょうね?」
「この件は確かな証拠が必要だ。推測だけで行動するわけにはいかない」
「私が考えている通りだとすれば、行動の先に待つのは破滅だと思いますが?」
これを言うエモンにも、おおよその事実は推測出来ている。仇討ちなど出来る相手ではないことが分かっている。
「それがどうした? 俺の人生はとっくの昔に破滅している」
だが彼にとってはそんなものは関係ない。彼はもう何度も不可能なことに挑戦し、失敗し続けている。破滅を恐れることなどない。また、そんな気持ちになっている。
「……分かりました。お引き受けしましょう」
エモンは彼の依頼を引き受けることに決めた。断るという選択は許されないという事情もあるが、それが全てでもない。彼という人間が、真実を知って、どのような行動を起こすのか。それを見てみたくなったのだ。普通に考えれば、何も出来ないはずだが、彼であれば違うのではないか。こんな風に思えたのだ。
◆◆◆
行動することを決めた彼が、エモンの調査結果を待つだけでいるはずがない。次の手も打つことにした。本来は、彼の人生を、彼の愛する女性の人生を幸福に導く為の手札を、時を待つことなく、切られるものは切ることに決めたのだ。
「……剣術の訓練ですか」
「俺に教えることに問題があるのか?」
北方辺境伯家が王都で抱えている騎士たち。その一人に向かって、彼は剣術を教えるように命じた。王国中央学院への入学を待っている場合ではない。そう考えた結果の行動だ。
「……いえ。問題などあるはずがありません」
「では、教えてくれ」
「分かりました。すぐに準備致しますので、少しお待ちください」
明らかに嫌々引き受けた様子の騎士。鍛錬用の剣を取りに向かう間にも、同僚たちに肩をすくめて見せている。出来損ないの我儘に付き合わされる不運にウンザリ。そんな感じだ。
そういう態度は、もっとも彼を苛立たせるものの一つだと知らないで。知るわけがない。騎士たちは、彼のことを、今の彼のことをまったく知らないのだ。
「さて、まずは何から始めますか?」
「そうだな。とりあえずは一度、手合わせしてもらおう。まずは自分の実力を知ることから始めないと」
「……分かりました。では、お相手致します」
まともな立ち合いになどなるはずがない。彼は剣術をまったく教わっていない。相手の騎士はこう思っている。間違いではない。彼は、剣術は、習っていない。
「では、始めます」
「ああ」
剣を構えて向かい合う二人、という形にはならなかった。
「ぐぶっ」
彼の拳をまもとに腹に受けて、前かがみになる騎士。その下がった騎士の顔に、彼の膝蹴りが撃ち込まれる。顎にまともに蹴りを受けて、今度は仰向けにのけぞる騎士。さらに無防備なその腹に、彼は拳を撃ち込んだ。魔力を込めていない、素の拳なので、大きく吹き飛ぶまでにはならなかったが、騎士は連続した彼の攻撃に耐えきれず、その場に膝をついた。
その低くなった顔に叩き込まれる彼の拳。騎士はたまらず仰向けに倒れていく。
「……問題はあったな。素手の俺に勝てないお前では、教えるものなどあるはずなかった」
「ぐぁああああっ!」
血まみれの顔を足で力いっぱい踏みつける彼。騎士はその痛みに、叫び声を堪えることも出来ない。それを周りで見ている他の騎士たちの顔は、その多くが真っ青だ。
彼は愚鈍であると聞かされていたが、このような残忍さを目の当たりにするとは思っていなかった。馬鹿にしてはいけない相手だと思い知らされた。
「……さすがに皆が皆、このような惰弱な騎士ではないのだろ? 俺の相手を出来るのは誰だ?」
血まみれで倒れている騎士の替わりを求める彼。その視線に誰もが目を伏せた。油断しなければ、目の前の騎士のような無様なことにはならないと思っていても、自家の騎士に平気で残忍な真似が出来る彼の指導者にはなりたくない。下手に機嫌を損ねて、同じような目に遭いたくないのだ。
「……ああ、じゃあ、お前で良い」
誰も名乗りをあげないので、彼のほうから指名することになった。
「お前、そこで自分には関係ないという顔をしている、茶髪のお前だ」
「……ぼ、僕ですか?」
「そう。その僕だ。お前を俺の指導係にする」
彼の言葉を聞いて選ばれなかった騎士たちは、ほっとしている。一方で選ばれた不運な騎士、ではなく従士は。
「ぼ、僕には無理です。僕はまだ、全然で、お相手を出来る力はありません」
なんとか彼の指導者から外れようと必死だ。
「問題ない。俺も素人だからな」
「でも、素人同士では」
「俺が命じている。誰でもない。お前が俺の指導者だ。そう俺が決めたのだからそうなのだ」
問答無用。彼はなんとかして指導者から外れようとする従士の口を封じることにした。
「……でも僕では」
「良いから、こっちに来い。早速、鍛錬を始めるからな」
まだ抵抗しようとする従士だが、それは無駄な足掻きというものだ。彼は言葉にした通り、その従士を指導者にすると決めたのだ。実際には、ここに来る前から決めていたのだ。
従士の抵抗は彼と、その従士に押し付けることになってホッとしている先輩騎士たちの圧力によって、完全に封じられることになる。
渋々、彼の後について歩く従士。集団から離れた、訓練場の端まできたところで、彼の足が止まった。
「名前はジュードだったな」
「あっ、はい」
「まず最初に、俺と二人だけの時は、その胡散臭い演技は止めろ」
「……演技、ですか?」
何を言われているのか分からない。そんな顔で問い返す従士、ジュード。
「そういう演技。あっ、もしかして素なのか? 殺人鬼だからって、普段から怖い性格とは限らないか」
「……あの、レグルス様は誰のことを話しているのですか?」
「お前以外に誰がいる? お前、人を殺したく殺したくて、うずうずしているのだろ? 俺がその機会を与えてやる」
「…………」
怯えた雰囲気はそのまま。だがその目はまっすぐに彼を見つめている。彼はかまをかけているのではない。確信を持って、自分を殺人鬼扱いしている。それがジュードにも分かったのだ。
「周りに怪しまれないように弱い振りをしているのも疲れるだろ? 俺の前では、屋敷の外ではだけど、そんな演技は必要ない。素のお前でいれば良い」
「……やはり、レグルス様は勘違いしています」
「ここは正直になったほうが良い。お前はこの先、罪のない人たちを大勢殺す。それでお前は満足かもしれないが、それ、ブラックバーン家にバレるからな。バレてお前は密かに消される。殺されるだけでなく、存在そのものがなかったことにされる」
彼はエモンと同じように、ジュードの人生も知っている。その人殺しの技、という表現が適切かは別にして、を利用したこともある。だがジュードは彼に、北方辺境伯家に使われているだけでは満足しなかった。任務とは関係なく人を殺し、それが知られ、公にならないうちにその存在を消されることになる。ジュードという人間は、この世に存在しなかった。そこまで北方辺境伯家はやるのだ。
「……何を言っておられるのか分かりません」
「今のはそうだろうな。だが自分の気持ちは分かるはずだ。自分に人を殺したい衝動があることを知っているはずだ。それとも……もう殺したか?」
この彼の問いにジュードは反応した。怯えた雰囲気は一瞬で消え去り、周りの空気が冷えたかのように感じる強い殺気が体から放たれた。
「やっぱり、演技か。ここで俺を殺せば、お前も殺される。別の場所で試みても同じだ。俺ともう一人を同時に殺さない限り、お前の殺人はブラックバーン家に知られる。俺たちが告げ口するからな」
「……それがはったりではない証は?」
ようやくジュードは完全に演技を止めた。これ以上続けても無駄だと分かったのだ。
「証なんて示すはずないだろ? お前は俺以外のもう一人を知ることは出来ない。確かめるには、一か八か俺を殺すしかない」
「……あんたこそ、演技が上手いじゃないか。愚鈍な跡継ぎだって噂だった」
「いや、それは事実だ。俺は愚鈍な子供だった。ただ、そうではいられなくなっただけだ」
愚鈍な跡継ぎのままでいる選択もあった。ブラックバーン家は敵だと考えれば、油断させるのも悪くない。だが彼はその選択を捨てた。そんな半端な真似をしていては目的は果たせない。こう思うようになったのだ。
「あんたに付く利点は?」
「ないな。殺して良い相手を何人か用意してやれるくらい。それもずっと続くことじゃない」
「……分からないな。何故、僕を選ぶ? あんたなら他にも選択肢はあるはずだ」
自分は味方にするには危険すぎる。ジュード自身も自分のことをこう思っている。ブラックバーン家の彼であれば、もっと相応しい相手を見つけられるはずだとも思う。
「俺にはお前しかいない。信用出来るのはお前だけだ」
「……理解出来ない。僕のどこが信用出来るというのさ?」
「人殺し以外に興味がないところ。俺が何者であろうとお前には関係ないだろ? ブラックバーン家の俺だから手伝ってくれる奴を、俺は信用出来ない」
彼が行おうとしているのはブラックバーン家の自分では出来ないこと。それに協力する人たちも、彼が何者であるかに関係なく、協力してくれる者でなくてはならない。この条件で彼が思いついた人物は、エモンとジュードの二人しかいないのだ。ブラックバーン家から財宝を盗もうと考えていたエモンと、ブラックバーン家を人殺しの為に利用する道具くらいにしか思ってないジュードしかいないと考えたのだ。
「……僕はあんたを信用していない。僕にすべての罪をかぶせようとしている可能性もあるよね?」
「それはない。俺は、俺が殺したという事実を求めている。自分一人でも出来るとなったら、お前の力は借りないつもりだ」
出来ることなら全てを自分の手で。彼はこう考えている。だが、それは難しい。そう考えて、最低限の仲間を募っているのだ。ジュードに罪を被せようなんて発想はまったくない。
「……とりあえず、分かったと言っておくよ。今は状況が分からな過ぎるからね」
彼の内心などジュードには分からない。彼が真実、自分を裏切るつもりがないことは分からない。それでもジュードは受け入れた。選択肢がないから、だけではない。彼の瞳の奥に宿る暗い影。自分より、遥かに暗い闇を抱えているように思える彼に興味を持ったのだ。
「それで良い」
彼もまだ先のことは見えていない。まだエモンの調査も終わっていないのだ。具体的なことはそれから。そうであるのにジュードを仲間に引きずり込んだのは、自分を鍛える為だ。自分の一人の力で、少なくとも最初の目的は果たしてしまいたいからだ。