悲しみを心の内に宿しながらも彼は前に進んでいる。進むしかないのだ。本来、彼の人生において苦難が始まるのは、まだ先のこと。今はその時に備えて、自分を鍛える時だ。実際には、その目的に対する意欲は以前よりも、かなり弱まっているが、自らを鍛えるという点に関しては、彼の気持ちは変わらない。もっと強く、もっと早く強くならなければならないと思って、毎日を過ごしている。
「……それと猛獣使いに何の関係が?」
彼の話を聞いて、首をかしげているリキ。
「猛獣使いになればケルを内壁の中に連れていけるようになる。鍛錬の相手をしてもらえる」
彼は『猛獣使い』の資格を取得した。正確には『猛獣使い見習い』だ。だが見習いであっても、ケルを内壁の中に連れて行くことが出来るようになる。彼は、ケルを『猛獣使い』として一人前になる為の訓練相手として登録したのだ。
「それは……すみません」
彼が『猛獣使い』の資格を取得するのは、彼と対等に立ち合える人間がいないから。自分たちでは彼女の代わりを努められないからだとリキは考えた。
「何を謝っている? 意味なく謝るな」
だが彼がその不満を口にすることはない。恵まれた環境なんてものを彼は求めていない。求めても得られないことが分かっている。リキたちは、いるというだけで十分なのだ。
「よし、ケル。来い」
リキにそれ以上、何も言わせることなく、彼はケルを相手に話を始めた。抱きかかえて顔を近づけると、嬉しそうに尻尾を振り、彼の顔をぺろぺろとなめてくる。しばらくそれをさせたところで、地面に転がして、腹を撫でる。ケルはされるがまま。大人しくしている。
「最初は少し窮屈に感じるかもしれないけど、我慢だぞ」
大人しくなったケルの首に、彼は首輪を巻く。
「首輪をつけるのか?」
「ただの首輪じゃない。魔道具だ。別の魔道具を使うと俺の野獣であることが分かる。野獣はおかしいか。飼い獣であることが分かる。内壁の門を通る時に必要になる」
「魔道具……普通の首輪にしか見えないけど?」
魔道具なんて物をリキは初めて見た。ただ、見た目はただの首輪。彼の説明を受けても、それが魔道具であるという実感は湧かない。
「見た目はそうだな。でも、今からやることを見ていれば、これが魔道具であることが分かるかもな。ちょっと待ってろ」
さらに猛獣が命令を無視して暴れないように、使い手の登録を行う。
「ケルには、こんなのいらないのだけどな。規則だから仕方がない」
この登録は彼にとっては、好ましいものではない。暴れた時に強制的に大人しくさせる魔道具、場合によっては殺してしまう魔道具など、ケルには付けたくないのだ。
「首輪を付けて、次は……」
登録手順が書かれている紙を見て、次に何を行うかを確認している彼。
「……体が大きくなった時、首輪も大きくなるかな?」
「えっ? ああ、えっと……そうみたいだな。でもケルの場合は心配いらないだろ? ずっと小さいままだ」
リキの質問に、同じ紙を調べて答える彼。それを終えるとまた、手順の確認に戻った。
「……首が二つある場合はどうするのだろう?」
「首輪も二つ付けるんじゃないか?」
続く質問には調べることなく答える彼。手順を確認することを急ぎたいのだ。
「三つだと?」
「はあ? お前、さっきから何、意味のない……」
リキのくだらない、と思われる、質問に苛立って、説明書から目を離して、前を見た彼。
「……ケル。ちょっと見ない間に大きくなったな?」
小さかったケルの体が、彼とほとんど変わらないくらいに大きくなっていた。
「違うだろ!?」
呑気な彼の反応に、突っ込むリキ。それが出来るリキも、余裕があるということだ。ケルは体が大きくなっただけではない。頭も三つに増えている。そんな姿の犬がいるはずがない。犬以外でも、滅多に見られることはない。彼がつけた名前の通り、伝説のケルベロスそのものの姿だ。
「……猛獣、いや、魔獣か。ケルは魔獣だったのだな」
獣の中でも、もっとも危険な部類。猛獣であっても危険となれば軍が討伐に出るが、魔獣はさらにその上。猛獣とは明らかに異なる性質を持っているのだ。今、ケルが目の前で見せた変体もそのひとつだ。
「……大丈夫なのか?」
普通は大丈夫ではない。こんな問いを発している時間があるのであれば、すぐにこの場から逃げるべきだ。まず逃げられないで終わる、人生が、だろうが。
「さすがにこの状態では、内壁の中に連れて行くのは無理かな?」
「そうじゃ……ああ……大丈夫か……」
そういう問題ではないと考えたリキだが、その不安はそれを言い切る前に消えた。ケルが三つの頭を彼に近づけて、その顔を舐めているのを見て、ケルはケルだと分かった。
「ち、ちょっと!? ケル! 舌大きい! 舌多い!」
ただ大きくなったケルの、それも三つの舌に顔をなめられている彼は大変だ。
「ちっちゃく! ちっちゃくなれ! ケル!」
元の体に戻るようにケルに頼む彼。その彼の願いを聞いて、ケルはみるみる小さくなっていった。
「戻れるのか……顔をなめる時はこの姿な」
「小さくなれ」と言ったものの、実際に戻れると彼は思っていなかった。ケルが元に戻ったことに驚いている彼だが、このほうが都合は良い。顔を舐められる時だけでなく、内壁の中に連れて行く時もこの姿であれば止められることはない。
「今までずっと小さいままだったのに……何があったのだろう?」
ケルがさきほどのような姿を見せたのは初めてのこと。魔獣について何も知らないリキであっても、きっかけが首輪であるだろうことは思いつく。
「魔道具の魔力に反応したのかな? でも俺たちが魔法の鍛錬をしている時には反応しなかった」
「確かに、そうだな?」
「……強くなる必要がある状況……この魔道具、ケルにとっては良くない物なのかもな。猛獣を従える為の物なのだから、良いはずないか」
ケルが反応したのは身の危険を感じるような何かがあったから。同じ魔力でも、ケルに対する悪意があったからではないかと彼は考えた。
「じゃあ、猛獣使いは諦めだな?」
彼であれば、ケルが好まない魔道具を使うことはない。魔道具の首輪を使わなければ、猛獣使いになれないのであれば、迷わず断念するだろうとリキは考えた。
「……う~ん……首輪だけ付けておけば良いんじゃないか?」
「それだと暴れた……暴れないと?」
暴れた時の対処が出来ない、とリキは思ったのだが、そもそも暴れるという前提が、彼にとっては間違っていることに気が付いた。
「ケルが一度でも暴れたことをあったか?」
「……ない」
「じゃあ、平気。しかし……ケルは凄いな。大きくなったケルは強いのか? 今度、鍛錬しような」
ケルが魔獣であることへの懸念は彼にはまったくない。恐れるどころか、喜んでいるようにリキには見える。実際に喜んでいる。ケルとの鍛錬は遊びの延長ではなく、本当の意味での鍛錬になる。それが分かったのだ。単純にケルが強そうだということを喜んでいるだけでもあるが。
◆◆◆
花街の太夫の序列が決まった。一番人気は桜太夫。これは大方の予想通りの結果だ。未熟さを批判された時期もあった桜太夫だが、貴族の非道を真正面から咎めたこと、その後、その貴族が花街から遠ざかることなく、別人であるかのように粋な上客になったことが、桜太夫の名を一気に高めることになったのだ。
桜太夫本人としては、不本意だ。騒動を収めたのはマラカイとその家族。しかも最高の収め方をしてくれたおかげで、自分の名は上がった。自分は恩人たちに世話になっただけで、自分自身は何もしていないという思いが桜太夫にはある。しかもその恩を返すことも、もう出来ないのだ。
「……恩返しは、花街をより一層華やかに盛り上げること。そう考えるしかないだろうな」
桜太夫の気持ちを聞いたうえで、親分が返した答えがこれ。一番人気に決まったことへの祝いの言葉を告げようとしての訪問だったのだが、ただ「目出度い」だけでは終わらなかった。
「それは分かっております。ただ、今の私に一番太夫の資格があるのかと、どうしても思ってしまいます」
桜太夫が意識するのは、一番を争う太夫たちではなく、お世話になった百合太夫、リーリエだ。彼女を超えるどころか、並べてもいない自分に一番太夫は荷が重い。こう思ってしまう。
「それについては問題ない。これまで一番になった太夫が皆、自分にはその資格があると考えていたと思うか? そんなはずはない。百合太夫だって不安に思っていた。不安に思うからこそ、頑張れるのだ」
負わされた責任に押しつぶされそうになりながら、それに相応しくあろうと努力を続けてきた。名を残してきた太夫こそ、そういうものだと親分は知っている。太夫が泣き言を語れる、唯一といって良い存在が親分なのだ。
「……親分さんは大丈夫ですか?」
桜太夫が不安を感じるのは、自分の力不足だけが原因ではない。花街そのものに対する不安。それに対して、自分が無力であることを情けなく思う気持ち。百合太夫がいてくれたら、マラカイがいてくれたら、と思ってしまうことが恥ずかしいのだ。
「儂の心配か……それについては申し訳ないとしか言い様がないな」
「流れを変えることは出来ないと?」
「……花街のことは花街の者が決める。多くが変化を求めるというなら、それに従うのが花街の親分である儂の努めなのだ」
外の者たちが花街を我が物にしようとしているのであれば、断固戦う。だが今、花街を変えようとしているのは花街の者たち。それが、親分から見て、悪しき変化であろうと、強引にそれを止めるわけにはいかない。それは花街の意思を調整する者としての自分の立場を否定することにもなるのだ。
「流れに抗おうとしている者たちもおります」
変化を求めるのは花街の者と親分は言うが、それを拒む者たちも花街の者だ。力ある者たちの望むままに花街が変わることが、正しいことだとは桜太夫には思えない。
「……桜太夫。これを言うのは一度きり、この場だけのことだ。そのつもりで聞いてくれ」
「……はい」
「儂が悪いのだ。本当に花街のことを思っているのであれば、二人の結婚を認めるべきではなかった。無理にでも花街に引き留めておくべきだった。それをしなかった儂が、花街を変えてしまうのだ」
百合太夫としてリーリエがいてくれれば、マラカイがいてくれたら。こう思っているのは親分も同じ。自分の決断で二人を手放した親分のほうが、その想いは強いのだ。
「…………」
親分の想いを聞いて、桜太夫には返す言葉がない。何も思いつかない。何を言っても、親分を責めることになってしまう。同情の言葉を口にしても、それに何の意味もないことも分かっている。
「二人を守りきれなかった。儂の限界だ」
「…………」
さらに続く言葉に、桜太夫は絶句する。親分が口にした「守りきれなかった」の意味。それに気づいてしまったのだ。一度きり、この場だけのこと。この言葉の重さに気がついてしまったのだ。
◆◆◆
彼の足は完全に自宅から遠ざかっている。着替えを取りに帰ることさえ、なくなっているのだ。もともと家族が、そこで働く使用人たちが大嫌いだということだけが理由ではない。漠然とした、前世以前の記憶を失ったから漠然としているのだが、嫌いではなく、もっと明確に北方辺境伯家を避けたいと思う理由があるのだ。
ただ、まだその理由も確たるものがあるわけではなかった。それに踏み込み覚悟が、彼の中でまだ固まっていなかった。この夜までは。
「おい、止めておけ!」
「なんで、止める!? こんな奴の墓なんて、ぶち壊して当然だろ!?」
「わざわざそんな真似する必要はない。もう帰るぞ」
二人の酔っ払いが外で騒いでいる。彼にとっては聞き捨てておけない言葉を叫んで。
「お前、人の家の間で何を騒いでいる」
実際に彼は行動を起こした。建物を出て、騒いでいる男たちの前に出た。
「なんだ、てめえ?」
「今、言った。この家の住人だ」
「住人……まさか、てめえか? 俺たちの邪魔をしてやがるのは?」
相手は彼のことを知っていた。顔も名も知らないが、存在を知っていた。男にとっては邪魔な存在として。
「お前の邪魔をした覚えはない」
「しているだろ? ガキのくせに喧嘩にしゃしゃり出てきて、俺たちの邪魔をしてやがる」
男は彼が助太刀した喧嘩の対戦相手。彼の顔も名も知らないということは、男自身は喧嘩に参加していない。仲間から話を聞いているだけだ。
「……負けるほうが悪い」
「なんだと!? てめえ、調子に乗りやがって!」
「調子には乗っていない。俺は事実を述べただけだ」
冷静に、見える雰囲気で彼は言葉を返している。実際は冷静どころではない。かなり腹を立てていて、半分は意識して相手を挑発しているのだ。家族の墓を壊すなんて口にした男に、彼が冷静でいられるはずがない。
「……それが調子に乗っているって言ってんだ! ガキだから見逃してもらえると思っていたら、大間違いだぞ! こっちはガキだろうと女だろうと容赦はしねえ! 邪魔者は問答無用で消してやるからな!」
「お、おい! 酔い過ぎだ。もう黙れ」
「誰が黙るか! こんな生意気なガキ、生かしておけねえ! 家族と同じように焼き殺してやる!」
男は口にしてはいけない言葉を口にしてしまった。ひどく酔っぱらっているところに、さらに彼に挑発されたからだとしても、決して言葉にしてはいけな事実だった。
男の言葉が、彼の心を刺激する。彼の心の奥底で静かに眠っていたドス黒い感情が、男の言葉で目覚める。心の中で暴れ始める。
「……同じように……俺の家族を殺したのは、お前なのだな?」
「ああ、そうだ! ナイフでめった刺しにして、油をかけて、焼き殺してやった! てめえも同じ目に遭わせてやろうか!?」
「……そうか」
彼女と出会い、親しく接しているうちに向け先を失ってしまった漆黒の感情。前世での怒り、憎しみ、恨みの感情が今、出口を見つけて、火山の爆発のように勢い良く心の奥底から噴き上がる。
感情の消え去った表情で立っていた彼。その体が、ゆらりと揺れた。
「がっ……」
彼の拳を身に受けて、男の体がバキバキと鳴る。一撃で骨が砕けたのだ。さらに男の顔に叩き込まれた拳。うめき声をあげることもなく、大きく吹き飛んだ男の顔は、その一撃で崩壊していた。
「…………」
恐怖を浮かべて彼を見つめている、もう一人の男。その男の目には、彼の体を覆う、炎のように揺らめいている漆黒の影が、はっきりと見えている。後に彼の、過去の人生にはなかった、裏の異名となる「黒炎の鬼公子」の由来となる黒い影が。
「……お前もか?」
「ち、違う! 俺は知らない! 本当だ! 俺は最近、こいつの仲間になったばかりなんだ! 信じてくれ!」
「……仲間か。その仲間のことを聞かせてもらおう。どこの誰だ?」
「…………」
何者だと聞かれても、男はすぐに答えるのを躊躇ってしまう。正体をばらしてしまうことで、後々、咎められるのではないかと思って。
この判断は正しくもあり、間違ってもいる。ここで何を話しても、男が仲間に咎められることはない。男はこの場で死ぬのだから。秘密を守ったという点では正解だ。事実を調べるのに、彼は時を必要とすることになるのだから。すでに死んだ男には意味のない時間稼ぎであるが。