もう何度通ったか数えきれなくなったくらい通い慣れた道。その道を彼は速足で歩いている。本当は駆け出してしまいたいのだが、それを行っては不安が現実のものになってしまうような気がして、逸る気持ちを抑え込んでいるのだ。何もない。あっても、せいぜい風邪を引いて寝ているくらいんだろうと考えようとしている。
昨晩、鳴り響いていた鐘の音。どこかで火事が起きていることを知らせる鐘だ。そんなことと、彼女が朝、姿を現さなかったことに関係などない。こう彼は思おうとしている。
だが、それは無駄な抵抗だった。
「アオ!? あんた、無事だったのかい!?」
自分に気付いて驚きの声をあげた近所に住む老婆。無事であることを驚かれるような出来事が起きたのだと、これで分かった。
そうなるともう、逸る気持ちを抑えこむことなど出来ない。彼は彼女の家に向かって、全力で駆け出した。
「……そ、そんな」
少し離れた場所からでも壁が黒く煤けているのが分かる。彼女の家は、まず間違いなく、火事になっていた。夜中に鳴った鐘の音は彼女の家が燃えているのを知らせるものだった。
「君! 近づかないで!」
彼女の家に近づこうとする彼を止める声。焼け跡の片付けを行っている人の声だ。
「……俺はこの家の関係者だ」
「関係者?」
「……家族は? 家族はどこだ!?」
彼女は、彼女の両親はどこにいるのか。それを彼は尋ねた。そういう聞き方しか出来なかった。
「家族……君の家族は……まだ家の、あっ! ちょっと、君!?」
男の声を最後まで聞くことなく彼は家の中に飛び込んだ。湿った室内。中よりもずっと酷く焼け焦げている。そして焼け焦げているのは、家だけではなかった。
「…………」
家の中で唯一、焼け焦げていない物。白い布が床に並んでいる。何かを隠すように床に敷かれていた。
「き、君。見ないほうが良い」
白い布に近づく彼をまた、追いかけてきた男が止めた。親切心からの言葉だ。それが分かった、そうでないことを強く否定したいと思いながらも分かってしまった、彼だが、制止を無視して床に敷かれている布をめくる。
「…………」
人であることは、焼けた人の遺体であることは分かる。だが生前の面影はまったく残っていない。隣の焼死体も同じ。その隣も。
死を受け入れられない。別人の死体だと思いたい。自分の大切な、家族が亡くなってしまったなんてことは、絶対に認めたくない。
「……大丈夫か?」
「……この死体は、ここで?」
「ああ。亡くなった時のままだ。運び出す予定だったのだが、担当の者がなかなか到着しなくて」
「そうか……」
別人が彼女の家で焼け死んだ。あり得ない状況に期待したい思いが消えない。だが、そんな期待を胸に抱いたまま、何もしないわけにもいかない。
「後の処理はこちらで行います。ご苦労様でした」
「失礼ですが、貴方は?」
割り込んできた声。この辺りではまず見かけない綺麗な身なりを見て、問いかける言葉も丁寧なものになっている。
「ブラックバーン家に仕えております。そちらのレグルス様お付きの使用人です」
「ブラックバーン家……そ、それは失礼致しました」
現れた男が北方辺境伯家の使用人だと知って、さらに態度が改まる。北方辺境伯家の人間に無礼な言葉を向けた。それを咎められないか、内心ではかなり怯えている。
「お仕事は何が残っているのですか?」
「ご遺体を運ぶことと、現場の片付けです」
「……では、もう結構です。ご遺体の埋葬も、家の片付けも当家で行います」
具体的にどうするかなど彼の付き人は考えていない。彼はそうしたいだろうと思ったので、邪魔者には消えてもらおうと考えただけだ。
「……承知しました。では、お願い致します」
一役人に、使用人とはいえ、北方辺境伯家の人間の意向に逆らうことなど出来ない。付き人が望む通り、この場を去っていった。
「……少し息苦しいですね。申し訳ございません。私は少し外の空気を吸いに行ってきます」
「…………」
付き人の言葉は届いているのか。彼は床に跪き、無言のまま、じっと三人の遺体に視線を向けている。その彼をその場に残して、付き人は建物を出た。家の中の音が、耳に届かない場所へ向かった。
◆◆◆
自分が何をしていたのか、彼は覚えていない。気が付いた時には建物の中は、遺体が並ぶ部屋だけではあるが、綺麗になり、花が飾られていた。太陽は沈み、花の近くに置かれている蝋燭が部屋を照らしていた。
「起きろ。いつまで寝ている」と囁いてみたが、誰も起き上がってきてはくれない。賑やかで、暖かだった家は静寂に包まれたままだ。散々泣いたはずなのに、また涙が一筋零れた。
「戻りま……した」
「…………」
彼にとってはタイミング悪く、付き人が戻ってきた。頬に残る涙のあとを、慌ててぬぐう彼。
「……周囲へのお詫びは済みました。誰も怒っている人はいません。皆、悲しんでくれていました」
「……そうか」
付き人は近所の家に、火事を起こしたことへの謝罪をしに回っていた。火元は彼女の家だと聞いて、気を使ったのだ。本来、北方辺境伯家には関係のないこと。だが、彼の為には必要だと思っての行動だ。
「何か召し上がりますか?」
「いらない」
「そうですか……今夜は……ここで過ごされますか?」
「ああ」
この世界では、葬式は家族だけで行われる。自分以外の家族はいない、と思っている彼は、一晩ここで弔うつもりだ。そうであろうことを付き人も分かっていての問いなのだ。
「この狭さではベットを持ち込むわけにはいきませんので、掛布団だけでよろしいですか?」
「いらない」
「……別の部屋も掃除致しましょう。この部屋は四人が寝るには狭すぎます。三人でも……ベッドないのですね?」
この部屋には元々、ベッドが置かれていない。それに付き人は今になって気が付いた。
「……狭いからな。寝る時は床に薄いマットを敷いていたはずだ」
とても狭い家なので一部屋で食堂と寝室兼用。そんな使い方をしていたことを彼は知っている。
「他にも部屋があるのにですか? 意外と荷物持ちなのですね?」
ようやく一言以上の言葉を発した彼。付き人はもっと話させようと、彼に問いを向けた。それで少しでも悲しみが和らぐならと考えた。
「別の部屋はリサが…………」
「どうかされましたか?」
突然また、さきほどまでとは違う雰囲気で固まってしまった彼。その意味は付き人には分からない。
「……さっきの役人、どこの誰か分かるか?」
「調べれば分かると思います」
「じゃあ、調べろ。調べて三人の遺体は本当に動かしていないのか聞いてくれ」
頭に浮かんだ疑問。彼はその疑問の答えを得る為に、役人の情報を必要としている。
「……承知しました」
何故、彼がそんなことを聞こうとするのか、付き人は考えた。彼は動かされている可能性を考えている。それは何故なのか。ただ付き人には考えているだけでは分からないことだ。分かるとすれば、さきほど口にした別の部屋の掃除を実際に行った時。彼女の部屋が別にあると知った時だ。
「…………」
すでにそれを知っている彼は考えている。何故、彼女は両親のすぐ隣で亡くなっているのかを。自分の部屋で寝ていた彼女は、火事に気が付いた両親を起こしにきた。だが結局、火事に巻き込まれてしまった。一つの仮説を考えてみる。だが、すぐにそれにも疑問が生まれる。
(……起きていたリサが炎に焼かれる……火事ってそんなに勢いの強いものなのか? でも、そんな勢いのある火の中に……あいつならやるのだろうか?)
両親を助ける為であれば、燃え盛る炎の中に入っていくなど平気でやる。こうは思う。だが、それでも疑問は生まれる。両親を助けようとした彼女が、川の字のように並んで亡くなっているのは不自然だと。
「アオ様?」
いきなり三人の遺体にかけられている布をはぎ取る彼。その行動に付き人は驚いた。悲しみによる行動、といった雰囲気ではないのだ。
「静かにしてろ」
「……はい」
感じた通り、悲しみによる行動ではない。彼の声の強さがそれを付き人に、はっきりと分からせた。
(……火事の中で人は寝ていられるものか? 熱くて目を覚ますよな。目を覚まして逃げようとする)
三人の遺体に暴れている様子はない。それに、今は掃除して綺麗になっているが、マットの燃えカスの上で亡くなっていたのだ。寝ている時に焼死したという状況だ。だがそんなことがあり得るのかと彼は疑問に思っている。
(……二人とも火事に気付くことなく、炎の熱さに苦しむこともなく、亡くなった。リサが側に来て、呼びかけても寝ていた?)
苦しむことなく亡くなったのは不幸中の幸い、なんてことでは終わらない。結果に至るまでの中に、隠された真実がある。歴史書を学ぶきっかけとなった考えを、彼は忘れていない。ずっと勉強を続けているのだ。
(片づけたのは失敗だったか……でも、火事について調べる知識なんてないからな……)
火元はこの家。ではこの家のどこが火元だったのか。知識がなくても、この部屋なのだろうということは分かる。そうでなくては別の部屋で寝ていたはずの彼女が、ここで焼け死ぬはずがない。火元が彼女の部屋であれば、そこで焼死しているはずだ。だが、この部屋のどこかとなると彼にはそこまで突き止める知識はない。
(普通に考えれば隣のキッチン。父さんは煙草を吸わないから、他に火を使うとすれば……)
思いつかなかった。
「日常で火を使うとすれば、どういう時だ?」
「えっ、ああ……えっとですね……料理する時」
付き人が思いついたのもキッチンでの調理の時だった。
「それは俺にも分かる。それ以外で」
「……煙草」
この可能性もない。
「他には?」
「……ああ、灯り。ランプで使います」
「それ以外」
この家では夜、ランプは使わない。油代がもったいないので使わないようにしていた。日が暮れたら寝る。もしくは街灯のところに行く。この辺りの貧しい家は、どこもこんな感じだ。
「……お風呂……は、ないですか。この季節では尚更ですね」
お湯を沸かすは贅沢だ。油にしても薪にしてもお金がかかる。夏は水、寒い季節でも貧しい家では水、もしくは濡らしたタオルで体を拭くだけで済ませていたりする。汗をかかない季節であれば、それ十分なのだ。
「……火事の原因がない、ということですか?」
さすがに付き人も彼の問いの意味に気が付いた。この部屋には火事の原因となるような火元がない。そうであれば、何故、火事が起きたのか。この疑問には、危険な答えしか思い浮かばない。
「さあな。それはまだ分からない」
まだ断定できるような段階ではない。怪しいというだけで、決定的な証拠はないのだ。
「……役人に伝えますか?」
「それで何か分かるのか?」
「では、ご実家の力をお使いになりますか?」
「…………」
選択肢としてはもっとも正しい方法だ。北方辺境伯家の力を使えば、火元さえ洗い出してしまうかもしれない。だが、彼は付き人の問いに答えることなく、じっとその顔を見つめているだけ。
「……あ、あの、何か?」
「いや、良い。家の力はもっと面倒な時に使う。あまり乱用すると、色々と煩いからな」
便利ではあるが、出来れば使いたくない力だ。北方辺境伯家に借りを作るようで嫌なのだ。実際に父親あたりは恩に着せてくる。恩に着せてくるという感覚は、彼がそう感じるというだけで、実際のところは分からないが。
「そうですか……火元がないのに火事。不思議ですね?」
三人の亡骸に視線を向けながら、付き人は彼に問いかける。
「火元がないはずがない。ただそれが何かを俺たちが思いつかないだけだ」
これは嘘。思いついている可能性はある。ただ、この時点では裏付けるものが何もない。だから彼は口に出さない。今は付き人と共有すべきことではないと考えたのだ。
「やはり、何か買ってきましょう。アオ様はいらなくても、私はお腹が空いてしまいます」
「そうか。じゃあ、そうしろ。でも……お前、やっぱり図太いな。ここで飯を食えるのか?」
三人の惨く焼けただれた焼死体を前にして、食事をする。それが出来る神経は特別だと彼は思う。その思いを、そのまま口に出してみた。
「……い、いや、さすがにここでは。別の場所で頂きます」
「そうか。それが良い」
動揺を見せる付き人。彼の予想通りの反応だ。多くの疑問が生まれる中にも、確信を得られるものもある。彼は確信した。次はそれを証明してみせることだ。