裏中央通りの広場に多くの人が集まっている。その人々の目線の先にあるのは大きな台。その台には太い柱が立てられ、その柱の上から綱が伸びている。先が輪になった綱。設置されているのは絞首台だ。
集まった人々のささやき声が重なって、大きな喧噪となっている。ささやき声の内容は様々だ。何も知らず、これから処刑される罪人がどのような罪を犯したのかを問う声。ある程度は事情を知っていて、殺される相手に同情する声。その逆に、犯した罪の重さを責め、罪人の悪行を非難する声。
内容は様々だが、概ね、罪人を非難する声が多数を占めている。それはそうだ。彼女は将来この国の王となる人を裏切り、その将来の王とその人の妃となる女性に危害を加えようとしたのだ。彼女の罪を否定することは、王家を批判することになる。少数ある同情の声も、まだ若い女性が処刑されるのは可哀そう、という程度のものだ。
そんな人々とは根本的に異なり、これから処刑される女性に心から同情し、処刑という罰をまったく受け入れられていないのは彼一人。
だがそんな彼も彼女の処刑を止めることは出来ない。そんな力はない。心の内に暗い憎悪の炎を燃やしながらも、傍観者でいるしかない。
いよいよ罪人が引き出されてきた。彼にとってはこの世界で唯一の大切な人。愛する女性だ。
最後に一目だけでも。そんな彼の想いも叶えられない。女性は黒い布を被せられている。被せられたまま、処刑台にあげられた。処刑する側としては死の恐怖を、それを見学している人々の好奇の目が見えないようにという配慮。だが彼にとっては、最後の瞬間に愛する人の顔さえ見られないという罰でしかない。
まだ駄目だった。愛する人を救うことが出来なかった。何度も何度も繰り返した人生。だが最後は常に悲劇だった。数えきれないほどの同じ人生を送ってきた。その記憶は走馬灯のように、この瞬間になって頭を駆け巡る。彼女の死ぬ瞬間が、何度も何度も頭の中でフラッシュバックする。彼女の足元が落ち、体が沈む。くねる体。やがて動かなくなり、ゆらゆらと綱とともに揺れるだけになる。黒い布に覆われて見えないはずの彼女の顔が、はっきりと頭に浮かぶ。助けられなかった自分を恨む表情が見える。後悔と懺悔の思いで胸が張り裂けそうになる。
これまで何度も繰り返された、最後の瞬間の、この世の中にこれ以上の苦痛はないと思う拷問の時間だ。
意識が遠ざかっていく。最後の最後で見る光景はまた同じ。愛する人を死へ追いやった女性と共犯者の男性。うつむいている女性を、ほほ笑みを浮かべながら優しく抱きしめる男性の姿。幸せそうな姿。自分の大切な人を不幸のどん底に落としながら、幸せの絶頂にいる二人の姿だ。
許さない。決して許さない。その幸せな場所は、愛する彼女のものなのだ――
「…………」
目を開けると、視界に入ったのは夜空に浮かぶ赤い月、ではなく見慣れた天井だった。
「……夢……いつもこういうことあったかな?」
最後の瞬間の記憶は心に焼き付いている。だがこうして夢に見た記憶は彼にはない。夢に見てもおかしくはない。他の何を忘れても、その瞬間だけは忘れたくても絶対に忘れることが出来ない。そういう記憶なのだ。
「……戒め、かな?」
仇敵と親しくしている。それに対する自分自身からの警告かと彼は考えた。親しくするのも、記憶からは消えているが、繰り返される人生の中であったことかと考えていたが、そうではないのかもしれないと思った。
「……まあ、良い。気持ちが緩んでいたのだとして、反省しておこう」
何故このような夢を見たのかは分からないが、本当の意味など関係なく、戒めだと思っておくことにした。怒りと悲しみは彼を動かす原動力。その瞬間は辛くても、思い出すことは悪いことではない。時に無駄な努力と諦めかけてしまう心も、もう一度、奮い立たせることが出来る。
「……しかし……印象違い過ぎるな」
最後の瞬間の彼女はとても儚げな雰囲気だ。この「彼女」は彼の大切な人のことではない。彼が恨みに恨んでいる女性のことだ。その女性と今会っている女の子の印象はあまりにも違う。同一人物とは思えないその印象の違いが、つい気を許してしまう原因だと彼は考えている。言い訳だ。
「……やっぱり、緩んでいる。いや、記憶が薄れているか」
つい先ほど、最後の瞬間を夢に見たばかりだというのに、憎悪の感情なしに仇敵のことを考えている。いつものことだ、ということを彼は知っている。新しい人生が進むにつれて、憎悪の感情はその勢いを衰えさせ、ある時点からまたジワジワと膨れ上がっていく。そして最後の瞬間に爆発するのだ。
毎回のこと。だが、その進行がいつもより早いことには彼は気が付いていない。
「……少し早いけど、起きるか」
中途半端な思考を繰り返していても時間の無駄。そんな時間があるなら鍛錬と勉強の時間にあてるべき。そう考えた彼はベッドから起き上がり、着替えを始めた。
「……まだまだだな」
鏡に映る自分を見て、少し落ち込む。毎日の努力によって鍛え上げられた体、にはほど遠い太った自分が映っている。実際には筋肉はかなり付いてきている。その上にある脂肪が落ちていないだけだ。それも確実に減ってきているのだが、彼はそれでは満足出来ないのだ。
服を着替え、昨晩のうちに用意させておいた食事が入っている紙袋を持って、部屋を出る。
「あっ?」
「えっ?」
扉の前に人がいて驚く彼。相手のほうも驚いている。
「……お飲み物をお持ちしました」
「ああ。いつも置いておいてくれたのは、お前か?」
「……はい」
近頃は、部屋を出たすぐのところに毎日、果実と野菜を絞ったジュースが置いてある。頼んだ覚えもないのに誰がと思っていたが、その誰、少なくとも運んでいた相手は分かった。
「そうか。ありがとう」
「えっ?」
「えっ?」
驚いている相手の反応に彼も驚く。どうしてここでそういう反応を見せるのか分からなかった、のだが。
「……俺がお礼を言うのはおかしいか?」
「い、いえ! そんなことはありません! 申し訳ございません!」
少し考えれば、心当たりはあった。彼が礼を言うという想定外の対応を見せたことに、侍女は驚いたのだ。不機嫌そうに侍女に問いかけているが、別に怒っているわけではない。
「いや、謝らなくて良いから……おかげで、市場に寄る手間が省けて助かっている。これからも頼む」
自分への低い評価には慣れている。この侍女はこうして頼んでもいない仕事をしてくれるだけ、かなりマシだ。以前の朝食は、郊外に行く前に市場に寄って、果物などを買って食べていた。その時間が省けるのは本当にありがたいのだ。
「分かりました!」
侍女はそれを偶然聞いて知ったから朝食を用意しようと思った。考えていた通り、彼の役に立っていたと知って、嬉しそうに笑みを浮かべた。
美人というよりは愛らしいと表現するのが合っている顔。さきほどまでのこわばった顔より、当たり前だが、笑顔が似合っている。
「……じゃあ、行ってくる」
用意してもらったジュースを飲み干して、侍女に出かける挨拶を告げる彼。
「行ってらっしゃいませ!」
侍女は嬉しそうにそれに応えた。人に見送られて出掛けるのはいつ以来か。彼の記憶にはない。十歳以降は初めてということだ。
(考えてみたら俺、侍女の顔を全然覚えていないな)
覚える気がなかったのだから当然だ。顔を覚えるどころか、存在そのものを無視していたのだ。
(ああいう侍女もいる。そして……敵もいる)
自分の為に自ら朝食を用意してくれる侍女がいる。それは喜ぶべきだが、喜んで終わりでもない。これまで自分がまったく目を向けてこなかった屋敷の人々。その人々の中には、彼女のような人だけでなく、自分に敵意を持っている者もいる。それに対して、どうすべきか。今の自分に何が出来るのか。これを考えると頭が痛くなる。彼の気持ちとしては、今は鍛錬に集中していたいのだ。
◆◆◆
表中央通りをまっすぐに進むと内壁の門がある。その門の通過は平常時は自由だ。犯罪者も手配書に書かれている似顔絵に似ているか、よほど怪しいところがなければ、門番に誰何されるようなことはない。まだ十歳の子供である彼が通過しようとしても、特に問題はない。彼がここを通るのは、ほぼ毎日のことであり、門番は彼が何者かも知っているのだ。
門を抜けると、もしかしてずっと門の近くで待っているのではないかと思うくらい、すぐに子犬のケルベロスが近づいてくる。彼は分かっていないが、似たようなものだ。門が閉まる夜の時間帯以外は門から遠く離れることなく、近くをうろうろしているケルベロスは、近づく彼の匂いを感じて寄ってくるのだ。
「ほら、朝食だ」
彼はケルベロスの朝食も用意するようになっている。こうして朝合流して、鍛錬が終わる昼過ぎまでケルベロスとは一緒。その間、昼に与えるパンだけでは足りないだろうと思ったのだ。
今日のケルベロスの朝食はサンドウィッチ。ローストビーフが挟まれた贅沢なものだ。用意した使用人は、まさかそれが犬の餌にされているなんて思わない。当主の孫である彼の為に作っているつもりなのだ。
この事実を知れば使用人は悲しむだろう。そして彼女も悲しむだろう。自分は丸パンで、ケルベロスは豪華な具のサンドウィッチを食べていると知れば。
(……そういえば、あの女に会ったことないな)
その彼女も同じように毎日のように郊外に通っている。そうであれば、行く途中で会うことがあってもおかしくないのに、と彼は思った。別に会いたいわけではないが。
(昼時は同じ場所にいるだけで、それ以外は別の場所で鍛錬しているのか?)
会いたくはないが、彼女がどのような鍛錬をしているかは気になる。王国中央学院に入学した時点で、彼女とは実力差がある。才能の差もあると思っているが、それだけではないことは、もう分かっている。自分と同じか、もしかするとそれ以上の鍛錬を行っているのだろうと思うようになっている。
(……聞いたら教えてくれるかな? あっさりと教えてくれそうだな)
彼女はまだ彼が何者か分かっていない。彼が何者か知れば、いきなり敵視はしなくても強い警戒心は持つはずだ。彼としては自ら自分が何者かを明かす気にはなれない。
「……まだ先だけど、中央学院に入学したあとのことを考えないとだな? お前、どうする?」
入学はまだ四年以上先のことだが、学院に通うようになれば、こうして毎朝、郊外で鍛錬することなど出来なくなる。ケルベロスに餌を用意してやることも難しくなる。
だがこの問いを向けてもケルベロスが答えてくるはずがない。答えを求めているわけでもない。考えるきっかけとして、言葉にしてみただけだ。
(四年も経てば大きくなるか。自分で餌を……狩れるのか? そういうのは自然に覚えるものなのか?)
自分がずっと餌をやり続けていれば、ケルベロスは自分で餌を狩ることを覚えないのではないか。こんな懸念が彼の頭に浮かんだ。そもそも野獣がどうやって狩りの方法を覚えるのかも分かっていない。
「お前も一緒に鍛錬するか? それが良いか?」
自然に覚えるものでなければ、教えなければならない。教え方など知らないが、それはあとで調べれば良いと彼は考えた。野獣に人間が狩りを教える方法など、そう簡単に調べられるはずがないのに。
新しい人生を始めて、かなり時間が経過してきたことで、彼の思考は若返っている。二十五歳までの人生を何度も繰り返した、延べ年数で言えば数百歳、千歳を超えているかもしれない人と思えない単純な発想になってしまっている。
「とりあえず、走るか!」
川辺までの走り込み。これはいつもの日課だ。ウォームアップ程度の速さから始めて、徐々に速度をあげていく。それにケルベロスは軽々と付いてくる。子犬とはいえ、走ることに関しての能力は高いのだ。
彼の体力もかなりついてきている。まだ無駄な脂肪があるとはいえ、心肺機能は確実に向上。無断な脂肪も基礎代謝があがっていることで、彼は基礎代謝なんて言葉は知らないが、確実に減っていくはずだ。
(……集中、集中……我願う。戦神マスカルポーネの加護が……我願う……我願う……)
走りながら「魔力の活性化」の訓練を行う。これについてはまだまだ。静止状態でようやく、わずかに感じ取れるようになったくらいの状態なので、走りながらではまったく魔力を感じられない。
それでもこれを行っているのは、ただ走っているだけでは勿体ないと思うから。常に「魔力の活性化」を試みているわけではない。読んだ歴史書について考えている時もある。
とにかく一秒でも無駄にしたくない。常にではなく、休む時は休むで、頭を空っぽにしようとしている時間もあるが、それ以外の時間は出来るだけ頭も体も使うようにしているのだ。
(あれ? あいつ、か?)
先のほうに見覚えのある女の子の姿がある。初めて川辺に行く前に姿を見かけた、と思った彼だったが。
(えっ……? 嘘だろ? あいつ、本当に人間か?)
彼女は人間離れした速さで駆け去って行ってしまう。
(走ることさえ、こんな差があるのか……)
体力には自信があった。努力は人一倍続けたつもりで、これまでの人生でも自信を持てるくらいの結果は、あくまでも体力に関してだけだが、出してきたつもりだった。
だが今、彼は彼女に追いつくことなど絶対に出来ない。追いつくどころか離される一方なのは、試みなくても分かる。唯一、勝っていると思っていた体力も、そうではないと思い知らされた。久しぶりに心がくじけそうになった。