雇われた家庭教師が約束通り、彼に会いに来た。それを拒絶する理由は彼にはない。傍若無人なんて、十歳の子供に対するものとは思えない、評価を周りから受けている彼だが、実際の彼は理由もなく約束を破ることなどしないのだ。
ただ家庭教師が持ってきた多くの書物を見て、彼は少し約束したことを後悔している。背表紙に書いている題名は、どう考えても歴史書、もしくは歴史を解説したもの。そういう知識を彼は必要としていない。
「御曹司について色々な人に話を聞かせてもらいました」
「ろくな話ではなかっただろ?」
家庭教師が語り始めたのは歴史についてではなく、彼についてだった。ただそれも彼を不機嫌にさせるものだ。
「そうですな。残念ながら御曹司の本質について、誰に聞いても分かりませんでした。これは御父上を含めての話です」
「……俺の本質?」
「たとえば、御曹司は毎日、わざわざ郊外まで行って鍛錬を行っている。そうであるのに皆、御曹司を怠け者と評価する。これはおかしい」
彼に対する評価には矛盾があると家庭教師は考えている。毎日、鍛錬を続けていると誰もが知っている。そうであるのに誰もが彼を怠け者と評価する。鍛錬を行っているのは事実。そうであれば評価が間違っているということだ。
「もともと怠け者だった。一度、広まった悪評はそう簡単には変わらない」
「確かにそうですな。ですが、一番近くにいる家族や使用人たちが皆同じ評価であるのは不自然ではありませんか?」
「それは……何か理由があるとお前は言うのか?」
自分のことだが、第三者に改めてこのように聞かれると、確かにおかしいと思う。不信感を持つ周囲の人々に対しては、彼は理解されることを諦めている。何故、評価されないのかなど深く考えなかった。考えたことはあっても忘れている。
「そう評価されるように仕向けている存在がいる」
「…………」
目を大きく見開いて固まってしまった彼。家庭教師の言葉の意味。それを理解して驚いているのだ。
「たとえば、の話です。ですが、御曹司には心当たりがあるようですな?」
「……なくはない」
周囲には味方はいないと思っていた。周囲どころか「この世界には」だが。ただこの時期に敵を意識することはしていない。敵は五年後、十五歳になって王国中央学院で学ぶようになってから現れるもの。そんな風に思い込んでいた。
だがすでに敵は身近にいるのだ。たとえば、将来、自分から跡継ぎの座を奪う父親の第二婦人の息子だ。
「私の勝手な想像ですが、御曹司は自ら他人を遠ざけている。それでは人は見えないのではないですかな?」
「人が見えない?」
「人の本心は見えない。それでも注意深く見ていれば、漏れ伝わってくるものがあるものです。それは人を避けていては分からない」
彼の生き方は「独立独行」。それで思う通りの人生が生きられるのであれば良い。だがそうではないと家庭教師は思っている。そんな生き方が許される世界ではないと知っている。
「……そうかもしれない」
裏切りを知って、他人を信じられなくなった。信じるのが怖くなった。信じることそのものを止めた。だがそれで裏切られることがなくなったわけではない。以前の人生の記憶を失っていたから、誰が裏切るか分からなかった。そう思っていたが、家庭教師の話を聞いてそうではないと分かった。
「歴史を学ばれよ」
「どうして歴史?」
これまでの話と歴史を学ぶことが何故結びつくのかが彼には分からない。
「歴史には真実が隠されております。それを見つけ出す能力を身につけるのです」
「……真実が隠されている、というのは?」
歴史は過去の事実を記したもの。真実が隠されているという言葉は、彼にはピンとこない。過去の歴史には今の時代に役立つことが多く記されているというのは教わった記憶があるが、家庭教師の言葉はそれとはズレているように感じるのだ。
「歴史書のほとんどは勝者が残したもの。その内容は勝者に都合の良いものになっております」
「嘘が書いてあるのか?」
「嘘が含まれていると言うべきですな。歴史書に記されている結果は事実。ですが、その結果に至るまでの内容には、勝者に都合の悪いことは書かれておりません」
結果まで捻じ曲げることは無理がある。負けた戦いを勝ったことにすることは、その先に何の影響も与えないものであれば可能だろうが、そうでない戦いの結果を捻じ曲げてしまうとその先の結果も全て捻じ曲げなくてはならなくなる。それはさすがに無理だ。
歪められているのはその結果に至った要因。きわめて卑怯な方法で、非人道的な手段を使って勝利を得た。そんなことは、よほどその人物が後世でも評判の悪い人物であれば別だが、そうでなければ、まず隠される。
「……それを見抜く力……必要なのか?」
「ただ歴史の真実を暴くだけであれば意味はありません。その知識をいかにご自身の人生に活かせるか。活かせるだけのものを学べるかです」
「……ひとつ聞きたい。どうしてその力だと思ったのだ?」
彼は「運命を変える力」を求めている。それを家庭教師に告げた。それを受けて家庭教師は歴史を学ぶことを薦めてきた。その理由を知りたかった。
「そうですな……本来、人の運命は……人によって作られる、ものである……はず」
「おい? どうした?」
いきなり家庭教師の雰囲気が変わった。話すのも苦し気。体調が悪くなったのかと彼は思ったのだが。
「……だ、だが……この世界、の、う、運命は……」
「お、お前、まさか?」
息が出来ない苦しさ。口の端からこぼれる血。目は充血し、顔から血の気が引いていく。そこから徐々に意識は薄れ、自分が自分ではなくなっていく。
彼にもこうなった経験がある。家庭教師の様子はその時の自分と同じだと気が付いた。
「……お前、何回目だ?」
家庭教師は自分と同じ。同じ人生を繰り返している。繰り返していることを知っている。
「……わ……わ、私……は……」
苦し気な表情の中に笑みが混じった。彼の問いの意味を分かっている証だ。
「良い! もう良い! これ以上、話すな! もう、もう分かったから」
これ以上、無理をすればどうなるか。結果は分かっている。彼は彼自身の人生を終わらせられてしまう。正しくは、彼は自我を失ってしまうのだ。人生の最後の瞬間まで。
「……しばらく休んでいろ。俺は……勉強している」
家庭教師が持ってきた本から一冊を選ぶ。どれでも良かった。家庭教師の気持ちが落ち着き、平常に戻るまでの時間つぶしなのだ。
本にはすでに知っている歴史が書かれていた。王国中央学院の授業で学んだものだ。彼はまだそれを覚えていた。その内容を、家庭教師に言われた通り、隠されている真実がないかを意識しながら読む。だがそんな簡単に見つけられるものではない。そもそもひとつの歴史書を読んだだけで分かるものではない。いくつもの歴史書を、可能な限り、異なる視点で書かれたものを複数読んで、分かるものなのだ。
それでも彼は歴史書を読み続けた。分からなくても、想像しているだけで楽しかった。歴史をこう思ったのは初めてだった。
「……学ぶ気になりましたか?」
「……ああ。時間の無駄とは思わない」
「では、私は職務を全うできましたな。今日限りで御曹司の家庭教師を辞することに致します」
「えっ? どうして?」
彼は学ぶ気になった。良い家庭教師を得られた思ったのだ。だが相手は家庭教師を続けないと言う。信頼しようとしたところで、いきなり裏切られた気分だ。
「もう私は御曹司の役に立ちません。ただ時間をつぶすだけの存在になるでしょう。それは……私も、望むところ、では、ありません」
「分かった。もう良い」
家庭教師のままでいても教えたいことは教えられない。それはこの世界が許さない。家庭教師は彼のことを思って、今日で終わりにしようと考えたのだ。それが彼にも分かった。
「……では、私はこれで」
「ああ……ありがとうございます」
たった一日、短い時間であっても家庭教師は彼の師。そう思うことにした。
「……私が思うに、御曹司は御曹司が思う以上に自由だと思います。貴方なら貴方の人生を歩めます」
「だと良いな」
家庭教師から見て、彼はかなり自由だ。家庭教師よりも遥かに思考が自由で、家庭教師では許されない言動を平気で行える。そう思える。
だが本人は、これまでの挫折経験から、そんな風には思えない。あがいてもあがいても逃れられない悲劇が、彼に自分自身を特別だと思わせないのだ。彼の人生は確実に変化しているというのに。
◆◆◆
「なんだ。結局、飼うことにしたのね?」
まるで彼が休憩を取るのを隠れて見て、待っていたかのようなタイミングで姿を現した彼女。その彼女の視線は座っている彼の足元で、丸パンとじゃれ合っている子犬に向いている。
「だから、俺は羊飼いじゃない。こいつが勝手に纏わりついてくるだけだ」
「えっ? じゃあ、今日も私のパンはなし?」
自分のパンはまた子犬に奪われた。そう思って、落ち込んだ様子の彼女だが。
「もらえるのが当たり前と思うな。でも、まあ、あれだ……お前のパンは別にある」
彼は彼女にあげるパンを別に用意していた。
「ふうん……それで、子犬の名前は?」
彼女のパンを別に用意していた。それは、つまり、最初から子犬にパンをあげる予定だったということ。飼っていることを否定した彼だが、面倒を見る気はあるのだと彼女は思った。
「…………」
彼女の問いに彼は苦々しい表情で沈黙を返す。自分の思いを彼女に見抜かれたことが、恥ずかしいのだ。
「な・ま・え。つけたのでしょ?」
彼女のほうは笑顔だ。飼っていないなどと言いながら、ちゃんと名前をつけている彼が面白い。文句を言いながらも、自分のパンを用意してくれる彼の優しさが嬉しかった。
「……ケルベロス」
「物騒な名前。もっと可愛いのが良かったのに」
彼の知識ではケルベロスは地獄の番犬と呼ばれる架空の生き物。地獄の番犬は、可愛い子犬には不似合いだと思った。
「今が可愛いだけだ。成長したらどうなるかは分からない」
「なるほど。成長するまで面倒を見る気か」
「……悪いか?」
ますます彼の顔は不機嫌になる。よりにもよって彼女に自分の心情を見抜かれるというのが、どうにも気に入らないのだ。
「悪いとは言っていない。良いことだと思うよ。動物好きなのね?」
「……人間よりはな」
「人間よりはって……屈折してるね? でも……気持ちは分からなくはないか。動物の欲は人間の欲に比べれば、遥かに分かりやすいものね?」
世の中には善人ばかり、なんてお気楽な思いを抱けるような暮らしを彼女はしていない。なんとしてでも現状から抜け出して見せる。そう考えているのだ。今ではなく、転生前から。
「お前……」
彼は彼女のことをそんな風には思っていなかった。誰からも愛される外見と性質。自分や自分の大切な人のような苦労などしたことはないのだろうと。
「それで? パンはいつもらえるのかな?」
彼の表情を見て、彼女は話題を切り替えた。自分の苦労話をするつもりはない。同情なんてされたくないのだ。
「……ほら、やる」
少し躊躇いを見せて、彼は紙袋に入れたままの丸パンを彼女に渡した。施しと感じさせない渡し方はどのようなものかを考える間だ。すぐに思い付くことではないので、結果、ぶっきらぼうに紙袋を突き出すという形になった。
「……私、そのうち餌付けされてしまうのかしら?」
「餌付け? そんなつもりはない」
「パンの代償に変なこと求めない?」
「お前な……俺を何だと思っている? 俺はお前になんて……興味はない」
自分が彼女に求めるとしたら何か。それは彼女の死だ。彼女がこの世に存在しなければ、彼の大切な人が苦しむことはない。殺されることもない。
「ちょっと? 間が空いたけど?」
「……いや、無償奉仕する理由もないかと思って。じゃあ、お前に何を求めるのかと考えてみたが、何も思いつかなった」
「それはそれで複雑だけど、まあ、良いわ。君がエッチなことを考えないように、先にお礼を渡しておくことにする」
彼の言葉を信じて良いのか。素直に信じられない自分が彼女は悲しかった。信じたいという思いがあることが、少し辛かった。彼女の運命の人は別にいる。自分にとって特別な人はその人でなければならない。彼ではない、と彼女は思っている。
「俺はそんなことは考えない」
「冗談よ。でも、お礼は本当。お礼になるかは分からないけどね」
「それは何だ?」
彼女は本気でお礼をするつもりだと分かった。お礼になるか分からないという謙遜がそれを彼に分からせた。だが、彼女が何を用意しているかまでは分からない。想像も出来ない。
「魔法の属性変換は何故、必要だと思う?」
「そういうことか……敵の弱点を突く為、だと思う」
彼女が用意したのは魔法の知識。それは彼にとってもありがたいことだ。お礼として認められる。
「私もそう思う。でもそれは属性変換がなくても、魔力には威力があるってことにならないかな?」
「属性のない魔力……補助魔法なんてそうだな。火水風土に限らず、属性があるとは聞いていない」
「無属性魔法がある。じゃあ、その無属性魔法を発動するのには属性変換の過程はいらないはず。属性変換を必要とする魔法とそうでない魔法で詠唱には違いがある?」
無属性魔法には属性魔法に必要な過程が存在しない。そうであれば詠唱にも違いがあるのではないかと彼女は考えた。あくまでも仮説であって、確信がある考えではない。
「お前、それ俺から知識を得ようとしているだろ?」
彼女には詠唱についての知識がない。詳しくは知らないが、それを調べられる環境にいない。詠唱に関しては、彼のほうが知識があるはずだ。
「バレたか。でも、ひとつの視点は提供したでしょ?」
「まあ……あくまでも俺が知る限りだが、補助魔法の詠唱は短い。ただ、属性がある魔法の中でも低級のものと比べると、そんなに違いはないように思う」
「そうなの? 間違った仮説だったか」
詠唱の長短は属性に関わらす魔法の位による。低級魔法は短く、上級魔法は長い。それでは彼女の仮説は成り立たない。
「……決めつけるのは早い。実はいらない部分があるのかもしれない。それを省くことで詠唱が短くなる……いや、でもそれじゃあ……」
あまり検討する意味はない。すでに彼は限りなく無詠唱に近い状態で魔法を発動出来る。発動する魔法の威力に影響を与えそうな「魔力の活性化」を理解する為に、一からやり直しているが、それに役立つものとも思えない。
「甘~い」
「はっ? 甘いって何が?」
「君の考えが甘い。私が考えた仮説は属性変化する前の魔力でも、色々と力を与えてくれるのではないかというもの。もしそうであれば、「魔力の活性化」を行った時点で戦闘力があがると思わない?」
「補助魔法に限ってだが、完全無詠唱が実現できる……いや、それだけじゃないか。なるほどな。それなら深く研究する意味はあるな」
防御力をあげる。脚力をあげる。力を強くする。補助魔法にも色々あるが、その全てに属性変化が必要ないとしたらどうなのか。魔力を活性化するだけで、その全ての効果を体に与えることが出来るかもしれない。彼が強く求めながらも諦めていた、魔法の複数同時発動と同じ結果が得られるかもしれない。
「お礼になった?」
「ああ、なった。しかし……」
彼女の考えを知ることは、とても役に立つ。それは彼にとってはありがたいことだ。だが、彼女のその能力を喜んでばかりではいられない。彼女は彼の敵。敵の能力が高いことは喜べない。倒し甲斐があるなんて彼には思えないのだ。ずっと敗北し続けているのだから。