その後も彼は、彼が鍛錬を行っている内壁の外で、パンを盗み食いした女の子を何度も見かけた。どうやら彼女も鍛錬を行っている様子。外見の美しさだけでなく、彼女は戦う力でも人々に高く評価されていた。それは天性の才能に恵まれているおかげと、そしてそれを恨めしいと彼は思っていたが、どうやら努力も行っていたようだと分かった。だからといって、彼女に対する悪感情が薄れるものではない。彼女が努力しているのであれば、自分はそれに勝る努力を行わなければならない。日々の鍛錬にさらに熱がこもることになった。
彼の鍛錬メニューには近頃魔法も加わっている。この世界には魔法がある。彼にとっては特別なことではない。自意識に目覚めた時、その前からそれはあり、あるのが当たり前のものとして彼は人生を繰り返してきた。
(魔法は苦手分野。何が駄目なのだろう?)
苦手の克服には何度も取り組んできた。魔法はそのひとつで、彼としては特に頑張ってきた分野だ。だが、その成果はこれまでのところ現れていない。
実際は他人より酷く劣っているわけではない。ただ彼の比較対象は同年代ではトップクラスの実力者。煌びやかな才能に恵まれた者たちなのだ。
(やっぱり、才能か……)
魔法に関しては才能の有無が全て。これがこの世界の常識だ。魔力量、その密度、そして制御力。さらに応用力などが魔法を評価する主な項目だが、制御力以外は鍛える方法がない。彼も様々な試みを行っているが、効果がある鍛錬方法は見つかっていない。
(そうなると……俺の場合は補助としての活用か)
才能を持たないことで攻撃魔法や防御魔法を優れたものに出来ないのであれば、補助魔法を伸ばすしかない。剣に魔力を乗せて、その威力をあげる。身体能力を向上させるなどの魔法だ。その領域は彼の得意とするところ。彼自身はこれまで満足したことはないが、周りはそう評価している。
「……プロテス」
彼の体から光が放たれる。魔法が発動した証だ。魔力で体の耐久力を高める魔法で、本来はもっと長い詠唱を必要とするのだが、彼は短縮に成功している。発動するだけであれば、新たな人生になっても短い鍛錬期間で出来るようになる。
「これにさらに攻撃補助が出来たらな……」
魔法の二重発動。これも彼が実現したいと夢見ているものだ。だが、まだ手がかりも掴んでいない。魔力に、同時に二つの属性を持たせる。こういうことだろうと思っているが、実現方法がまったく思いつかないのだ。
漠然と魔力の感覚を探っているうちに、防御魔法の効果が切れた。持続時間はまだまだ短い。これはもっと鍛錬が必要だ。
「……またパンを盗みに来たのか?」
そこに、彼の鍛錬を邪魔する者が現れた。見るだけで彼を不快にさせる女の子だ。
「もっと基礎訓練をしたほうが良いと思う」
「なんだと?!」
「だ、だって、何事も基礎は大事でしょ? 魔法も同じ。個々の魔法を使う前に魔力を鍛えるべきだと思うの」
大声を出した彼に怯えながらも、女の子は助言を続ける。その助言が結果として、彼の怒りを静めることになった。
「魔力を鍛える?」
魔力そのものを鍛えることなど、出来ないことだと思っていた。だが女の子は当たり前のことのように話している。それが彼はとても気になった。
「そう。もっとしっかりと魔力を感じるの。いえ、違うわ。感じるのではなく掴む……どう表現すれば良いのかしら?」
「……お前はそれが出来るのか?」
言葉での表現に苦しんでいるが、彼女には何らかの感覚があることは分かる。それがどのようなものか彼は知りたい。それこそがずっと求め続けてきたものかもしれないのだ。
「私もまだまだ鍛錬中。部分部分は把握できるようになったけど、もっと全体をコントロール出来るようにしたいの」
「部分部分というのは?」
間違いなく彼女は彼が知らない感覚をつかんでいる。相手が仇敵と言えるような相手であることを忘れて、彼はさらに詳しいことを尋ねた。
「魔法を発動する時に、こう、わっと湧き上がる感じは?」
「ある」
「それを体内で感じるの。発動する前から魔力の存在を感じられるようになって、その動きを完璧に制御する。私が目指しているのはこれ」
彼女もまだ目指す領域にまで達していない。それはそうだ。彼女も彼と同じで教えてくれる人がいない。彼と違うのは、そもそも彼女が目指す形を教えられる人などいないということだ。
だが彼女にはこのゲーム世界の知識を超える、実際に通用するかは分からないが、知識がある。異世界転生ファンタジー小説の知識だ。
「発動する前から魔力を……確かに魔力は元々、体内に存在するものだ。でもこうしていても何も感じない」
「人の体の中には血が流れている。でもその流れを普段感じることは出来ない。でも魔力であれば感じられる。感じられるようになる変化を魔法の発動とは別に出来るようになれば良いのだと私は思う」
「外に出る瞬間に感じられるなら、中にいる時も感じられるはずか……でも補助魔法……いや、感じ取ろうとしていないだけかもしれない」
彼女の説明は漠然としたものだが、彼にはその意味が伝わった。彼自身も同じように漠然とした考えから、様々なことを思いつき、それを実現するということを繰り返してきたのだ。こういう問答は合っている。
「私は発動直前の状態を作り出している。ただ……口では説明出来ないの」
「人それぞれの感覚があるからな……いや、待てよ……違う……そうか、そういうことか」
人それぞれ感覚が違う。だから言葉にしても上手く伝わらない時がある。その通りだと思い、では自分の感覚はどのようなものかを考えた彼の頭にひらめいたものがあった。
「何か分かったの?」
「自分が馬鹿だってこと」
「はい? 何それ?」
真剣な表情が崩れ、彼女の顔に笑顔が広がる。彼が冗談を言ったと思ったのだ。だがそうではない。彼は本当に、自分の愚かさに気が付いたのだ。
「詠唱の意味は知ってる?」
「私、まだ魔法は習っていないから」
「えっ? それで魔力の鍛錬? すごいな、お前」
彼女の言葉に彼は素直に驚いた。さすがは王妃にまで成り上がる女と、これを考えた時には複雑な感情が湧いたが、思った。
「ありがとう。この先、大変だから。色々とやっておかないと」
「……そうか。詠唱の話だったな。詠唱には段階があると俺は思っている。長い詠唱には長くなる理由があるということだ」
「へえ。そうなの?」
今度は彼女が驚く番だ。彼は「俺は思っている」と言った。それはつまり、誰かに教わった知識ではないということ。彼は、この年でそれを考え付いたのだと思ったのだ。間違いだが。
「その段階のひとつが、お前が言う体内での変化じゃないかと思った。眠っている状態の魔力を変化させて、使えるようにするって感じ」
「魔力の活性化」
「知っているのか!?」
自分の仮説を彼女はすでに知っている。そう思って彼はまた驚くことになる。
「この言葉の表現が正しいかは分からないけど、さっき私が言った『掴む』はそれのひとつみたいな感じ。体内にある魔力を、端でもいいから掴んで、手繰り寄せるの。これはあくまでも私の感覚ね」
「それを詠唱なしで出来るのか……」
持って生まれた才能の差だと彼は思った。彼女とはスタート地点ですでに大きな開きがあるのだと。
「詠唱を使う時って、どうするの?」
「えっ?」
「教えてよ。私はその感覚知らないから」
彼女のほうも知識を得ることに貪欲だ。少しでは早く成長するためには、この世界の情報を少しでも多く得たほうが良いと考えている。それに、彼が何者か知らない彼女に、質問を躊躇う理由はない。
「あ、ああ……出来ているわけじゃない。ただ詠唱の最初が、そのお前が言う『魔力の活性化』の為のものであるなら、意識を体内に向けることで感じられるのではないかと思った」
「なるほどね。練習としてか。上手く出来ると良いね?」
「ああ……」
彼はふと思った。こうして話をしている彼女は、彼の心の中にある先入観を出来るだけ排除して見れば、普通に屈託のないとても可愛らしい女の子だ。この女の子がどうしてあんな悪女になってしまうのかと。
彼女はヒロインなのだが、悪役令嬢キャラの女性を愛している彼にとっては、悪女なのだ。
「少しは役に立てたかな?」
「……ああ、そうだな。勉強になった」
悔しいがこれを否定することは出来ない。
「それだけ?」
わざとらしく頬を膨らませて、さらに問いかけてくる女の子。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
求めていたお礼を受け取れて、満面の笑顔で応えてきた。
「……良かったら、これ」
「えっ!? もらえるの!?」
彼が差し出したのはパン。少しでも借りを返したいという思いからの行動だが、女の子は彼が思っていた以上の反応をみせた。
すぐに受け取ったパンをちぎって、口にいれる。
「う~ん、美味しい~」
「大げさ」
たかがパン。女の子の反応は過剰だと彼は考えた。そんな考えは彼女への悪感情も影響している。
「本当に美味しいよ。こんな美味しいパン、普段は食べられないもの……お腹が空いているのもあるかもね?」
「そうか……」
彼は思い出した。正しくは、彼女について改めて考えた。成り上がり女だと彼は彼女のことを蔑んでいるが、それはつまり、彼女の実家が彼のそれとは比べ物にならないくらい貧しいということ。実際にそうだ。辺境伯家と比べるのは彼がその家の人間だから。普通の人は比べることさえ思いつきもしない。貴族とは名ばかりの貧しい家、細かく言うと、伝統ある名家なのだがすっかり落ちぶれてしまっている貴族家なのだ。
「はい。全部もらうのは悪いから」
「俺は良い」
「良いから食べて」
彼女は強引に彼にパンの半分を押し付けてくる。そこまでされて拒絶するのはおかしいと彼はそれを受け取って、口に運んだ。
「食べてって、もとは俺のだ」
こんな文句を言いながら。
「そうだね」
その文句に笑って答えて、彼女も残りのパンをまた食べ始める。二人で一つのパンを分け合って食べている二人。どうしてこんな状況になるのか、彼は少し混乱している。そもそもこれまでの人生にこんな場面は、消えた記憶にあるかもしれないので絶対とは言えないが、なかったはずなのだ。
「さてと、お腹も膨れたし。また鍛錬を始めないと」
「……ああ、そうだな」
「ありがとう。久しぶりに楽しい時間だった。また……迷惑じゃなければ、また話そうね?」
「……ああ。次はもっと多くのパンを用意しておく」
もう二度と会わない、という言葉を彼は口にしない。そんなことを言っても無駄であることは分かっている。近い将来、彼女は彼の婚約者になるのだから。
「ふふ。ありがと」
嬉しそうな笑顔を向けて、彼女はこの場から離れて行く。少し離れたところで、その勢いは増す。走り込みを行うのだと、それを見て、彼は思った。
(……俺も始めるか)
ぼんやりと見ているわけにはいかない。彼女との差は明らかになった。それを少しでも縮めなければならないのだ。
(詠唱……口に出したほうが、意識は体内に向けられるか)
彼は詠唱のほとんどを言葉にすることなく魔法を発動できる。長年の鍛錬の成果だ。だが言葉にしていないだけで、意識は頭の中の詠唱に向いている。それでは意味がないと彼女と話した結果から分かった。
「我願う。戦神マスカルポーネの加護が、我の力にならんことを。守りの力を。プロテス」
魔法が発動し、彼の体が光で覆われる。
「……分からない」
詠唱の過程で何か体に変化が生まれないか、これまで意識していなかったそれを探ったつもりだったが、彼は何の感覚も掴めなかった。
魔法効果が切れるのを待って、もう一度試みる。これも上手くいかない。
(効率悪いな)
魔法の重ね掛けも彼は、というか彼だけではなく誰もが、出来ない。一度魔法を発動してしまうと、効果が切れるのを待つ時間が必要だ。
(……頭でも考えてみるか)
感覚を得ることが目的だが、今の状況では数をこなすことが出来ない。ただ待っているだけの時間は無駄なので、仮説を立ててみることにした。
(……詠唱のどの部分が活性化に繋がるのか。普通に考えれば頭だよな。寝ているのが起きて、準備して、行動。この順番以外はない)
ここは深く考えるまでもない。順番が逆になることなどあり得ない。
(……発動までの段階を正確に把握する必要があるか。あいつは……起こす、掴むと言っていた。そこが始まり。そこから制御……)
難しいことではないのだ。この件の問題は詠唱と魔力の動きを結びつけることではなく、それを感じ取れるようになることなのだ。
(『我願う』で起こす。制御は……戦神からか……。『我願う』は共通。魔力を起こすという部分はどの魔法も同じってことか。短い言葉だな……)
詠唱については良く理解しているほうだと思っていた。だが冒頭の『我願う』という短い言葉に注目して、深く考えることまではしていない。ちょっと仮説を立てただけで、全てを分かった気になっていた。自分の愚かさを彼は知った。
(言葉を知っているのは意味を理解しているのとは違う。そういえば教会の言葉に『詠唱は祈り』なんてのがあったな。神の名が続くからそんなことを言うのだと思っていたけど……)
教会は魔法を神の奇跡だとしている。日常的に奇跡なんて起こるはずがない。たんに教会の権威を高める為に、魔法を利用しているのだと彼は思っていたが、それは間違いかもしれないと考えた。神の奇跡と認めるわけではない。『我願う』という短い言葉に、もっと想いを込めるべきだと考えたのだ。
(制御部に神の名。これの違いは何だろう?)
我願うは、基本、全ての詠唱で共通。だがそのあとに続く、祈りを捧げる神は魔法によって異なる。全て違うわけではない。たとえば、彼が鍛えようとしている補助魔法はほとんど戦神マスカルポーネだ。攻撃魔法は属性によって変わる。火の神ティラミス、土の神タピオカなどがある。
(変化の形を現しているということか。火の神ティラミスであれば火属性に魔力を変化させる……だとすると……神には序列がある。これは何に関係するのか? もし、いや、そこまでの知識はないか……)
どの神に祈るかによって魔力が変化する属性が決まる。教会の教えでは、神には序列がある。その神の序列と魔法の威力には関係性がある。この後、彼は教会が教える神の格などを調べて、それを知ることになる。
彼は真理を知ったのだ。真理という言葉を使うのは大げさかもしれないが、ゲームの設定を知ることはこの世界の真理を知ることと同じようなものだ。