侵攻軍七万二千。これ以上は不可能という大軍を編制しての旧リリエンベルグ公国領奪回作戦は、自軍の半分にも届かない敵軍を相手に、大失敗に終わった。たった一戦で侵攻軍は壊滅的な打撃を受けて撤退。その第一報が入った時、まさかの大惨敗という結果に大混乱に陥ったローゼンガルテン王国だが、事はそれだけでは終わらなかった。
ラヴェンデル公国軍の裏切り。ゾンネンブルーメ公国軍の一部の離反。詳細が明らかになるにつれて益々、混乱は強まっていくことになる。さらにラヴェンデル公国が領境を封鎖したことが明らかになると、ローゼンガルテン王国は混乱を通り越して、膠着状態に陥ることになった。何をどうすれば良いか分からなくなって、動けなくなってしまったのだ。
「国が貸し与えた領地を守り育てるどころか、破綻させてしまった。この責任の重さは理解しているはずだね?」
動けなくなったのは混乱だけが理由ではない。アルベルト王子とキルシュバオム公爵。二人の権力争いの決着を待っているという理由もあるのだ。
「……それは理解しております。だがしかし、国の存続を揺るがすような事態に直面している今、我が家をお取りつぶしにするというご判断は正しいものでしょうか?」
破産に対する罰は爵位の取り上げ。ローゼンガルテン王国の法は当然、キルシュバオム公爵も知っている。だからといって簡単に領地を返上するつもりはない。その先に待っているものは明らかなのだ。
「こういう時だからこそ、きちんと処理しておくべきだと私は思っている」
「ラヴェンデル公国は背き、ゾンネンブルーメ公国も動く気配がない。ここでさらにキルシュバオム公国を失って、はたして誰がローゼンガルテン王国を支えるのですかな?」
「少なくともラヴェンデル公国が背くことになった一因は、キルシュバオム公爵家にある。事態を収拾する為の役に立つ」
ラヴェンデル公国はカロリーネの存在を、参戦しなかった理由にしている。そのカロリーネを敵側に追いやったのは誰なのか。アルベルト王子はその点を追及しようとしている。
「はて? 何故、我らの責任なのでしょう? 王女殿下を保護しようとした覚えはありますが、敵に回した記憶はございません」
キルシュバオム公爵はカロリーネの件に関して惚けることを選んだ。最初から悪あがきであることは分かっている。嘘をつこうが、それがバレようが事態がこれ以上、悪化することはないのだ。
「君の記憶になくても事実は事実として存在する。君の命令でカロリーネ暗殺に動いた者たちがいる。失敗に終わったけどね」
「そのような不手際は私の仕事ではありません。何者かが私を嵌めようとして仕組んだものではありませんか?」
これを認めてしまえばキルシュバオム公爵家の取りつぶしどころか、王女暗殺未遂の罪で死罪。といってもそれ以前に国王弑逆の罪で死罪だ。わずかな可能性でも、そこから逃れる道を切り開く為であればキルシュバオム公爵はいくらでも話を作るつもりだ。
「カロリーネの件の追及は今すべきことではない。キルシュバオム公爵家の破産は紛れもない事実で、それを証明出来る者もいる。破産となれば爵位は返上。今必要なのはこの事実の確認だ」
アルベルト王子はキルシュバオム公爵と長々と議論するつもりはない。キルシュバオム公爵から爵位を取り上げ、公権を奪う。それで事は先に進むのだ。
「返済が一時的に滞るだけのこと。ご猶予を頂ければきちんと返済致します」
キルシュバオム公爵としてはなんとしても爵位を奪われるのを防ぎたい。彼に必要なのは時間。この劣勢を挽回する為の時間なのだ。
「相手はそれを信用ならないと言っている。待てないと言うのだから、待てないよね?」
アルベルト王子は当然、その時間を与えるつもりはない。この場で終わらせるつもりだ。
「……交渉の時間を頂けませんか? それなりに付き合いのある者たち。きちんと話し合えば、誤解は解けるものと思います」
「往生際が悪いね? それが許されないことは分かっているはずだ。それとも君はまだ分かっていないのかな?」
「……私が何を分かっていないとおっしゃっているのですか?」
キルシュバオム公爵にはアルベルト王子の問いの意味が理解出来ない。つまり、分かっていないのだ。
「誰と戦っているか」
「……誰とも戦っているつもりはありません」
「つまり、分かっていないのだね? 君を追い込んでいるのは私ではない。もし仮に、あり得ないけど、ここで私が爵位召し上げを取りやめにしたとしても、違った形でキルシュバオム公爵家は滅びることになるよ。念の為に言っておくと、滅びると取りつぶしは違う意味だから」
アルベルト王子にとってはこの一件は切り札。この機会を逃してしまうとキルシュバオム公爵家に復権の機会を与えてしまう恐れがある。たとえ王国騎士団の統帥権を完全に奪い返したとしても、キルシュバオム公国と軍事的に戦うという選択は難しい。ローゼンガルテン王国そのものも財政的、軍事的に厳しい状況なのだ。
だがこの状況を作り上げたジグルスの側には、その軍事的選択を躊躇う理由はない。
「……なるほど……いつの間に通じていたのですかな?」
そこまで言われれば、キルシュバオム公爵にもこの件の黒幕が誰かは分かる。だが、アルベルト王子とジグルスの関係性が不明だった。
「その表現は正しくない。私も脅されている側だからね」
「……我が家を代償にして、何を守るのですか?」
アルベルト王子には守りたい何かがある。それを奪われない為に、キルシュバオム公爵家の犠牲を必要としている。その守りたい何かが、キルシュバオム公爵は分からない、思いつくものはあるが確信を持てない。
「決まっている。ローゼンガルテン王国だよ。まあ、正直に言うと、苦労して守る必要はあるのかという思いはあるけどね?」
「……国王になる御方の台詞ではありませんな」
「民の為を思えば、どちらが良いか分からないということだよ。アイネマンシャフト王国にはカロリーネがいる。妹は彼の国の正しさを認め、ローゼンガルテン王国より彼の国を選んだ。妹の他にも同じ選択をした人たちが大勢いる」
自分が守ろうとしているローゼンガルテン王国はどのような国になるのか。そこで暮らす人々はアイネマンシャフト王国の人々よりも幸せでいられるのか。自分の治政はジグルスのそれを超えられるのか。アルベルト王子は自信がないのだ。
「魔人との共存を人々が受け入れるとは思えませんな」
「そうだろうね。だがその判断の結果は、いずれ分かることになる。その時に人々はどう考えるか。それが私は不安だ」
自分たちも同じように他種族との共存を求めるようになるのであれば良い。だが、そうではなく、逆に否定する想いが強くなる可能性もあるとアルベルト王子は考えている。嫉妬、妬みといった悪感情は誰もが持っているものだ。
「……何故、彼の国は上手く行ったのか。それは分かっているのですか?」
アルベルト王子の懸念はキルシュバオム公爵にも伝わった。すぐ隣に富国強兵を実現した国が存在することの脅威としてであるが。
「そうしないと生きられない。選択肢がなかったから。そして、その結果が良いものであったからだと聞いている」
「追い詰められた結果ですか……リリエンベルグ公国を見捨てた結果、生まれた国に我が国は滅ぼされるかもしれない……なるほど。守る気が薄れるのも分からなくはありません。こんなことを言える立場では私はありませんが」
リリエンベルグ公国を見捨てる決断は、キルシュバオム公爵が行ったものではない。宰相をはじめとした王国上層部が誘導し、殺された国王がそれを許したのだ。愚かな判断だ。その愚かな王に国を任せておくわけにはいかないという大義名分を掲げ、反逆したキルシュバオム公爵家も、国政を正すことなく私欲を優先させてしまった。愚政は続いた。振り返って考えれば、我がことながら、呆れる思いが湧いてくる。
「ローゼンガルテン王国の民も追い込まれれば同じ選択を行うだろうか?」
アルベルト王子が言うローゼンガルテン王国の民は、三公国を除いた王国のこと。公国は違う道を進む。その可能性をアルベルト王子は考えている。
「……難しいでしょうな。今回の戦いにおいて、もっとも苦労を知らない者たち。変化を受け入れるとは思えません」
魔人との戦いで戦場になったのは四公国。王都周辺の中央部で暮らす人たちは、戦火を免れている。徴兵された人々は別だが、物不足などの苦労はしていても死を覚悟するほど追い詰められてはいないのだ。
「やはり、そう思うか……難しいね」
アイネマンシャフト王国と公式に交渉を行っているわけではない。キルシュバオム公爵家の扱いについて、一方的に通達を受けただけだ。この戦争をどういう形で決着させるべきか。決着出来るのか。アルベルト王子にはまだ具体的な構想がない。平和的な解決にはしたいと思うが、その方法も思いつかない。重臣たちがどう考えるかも、まだ分からない。
「その難しいご判断は、この先、ローゼンガルテン王国の国政を担う者たちが決めること。私はそれを遠くで見守らせて頂きます」
「急に?」
つい先ほどまで取りつぶしから逃れようと足掻いていたキルシュバオム公爵が、それを受け入れる意思を示す言葉を口にしてきた。求めていた言葉だが、その変わり身に少しアルベルト王子は驚いてしまう。
「一家皆殺しなんてことは絶対に避けなければなりません。それに……国政の中心にいることが良いことだとも思えなくなりました」
「だろうね」
「……陛下は陛下が思う良い国づくりをなさってください。それが一番正しく、そして難しいことでもあります。陛下のご健闘を陰ながら見守っております」
「……分かった。頑張ってみるよ」
陛下とキルシュバオム公爵はアルベルト王子を呼んだ。意識してのことであるのは明らか。国王と認める意思を示したものだ。激励のようであり、責任を負わされただけのようにも思える。素直に喜べないのは、この先の苦労が明らかであるから。ローゼンガルテン王国の動乱はまだ終わっていないのだ。
◆◆◆
旧リリエンベルグ公国侵攻軍はグラスルーツに籠ったまま動けないでいる。無事に逃げ帰ってきた人々の数は予想以上のもの。この段階で万を超える捕虜を抱えることも、戦死者を増やす意味もないとアイネマンシャフト王国が考えているからであるが、それはローゼンガルテン王国軍には分からないことだ。
数の回復は思いがけず、順調に進んでいる。だからといって再出撃を考えるほどローゼンガルテン王国軍の上層部は愚かではない。では撤退するかとなるのだが、それも見送られている。グラスルーツの背後には領境の砦があるだけ。そこを突破されればローゼンガルテン王国中央部への侵攻を許すことになってしまう。それを恐れたローゼンガルテン王国は、領境の砦よりも遥かに堅牢なグラスルーツで、アイネマンシャフト王国の南下を防ぐべきだと考えたのだ。
では西の領境、ラヴェンデル公国側はどうするのかとなるのが、そこは放置。考えても対応策はない。その先、ラヴェンデル公国から王国中央部に繋がる領境周辺の守りを固めようとしていうが、それは侵攻軍とは別の王国軍の役目だ。
「グラスルーツの外は、以前の状態に戻りました」
「その以前の状況というのは?」
報告を受けて、問いを発したのは王国騎士団長。彼は今回が初めての参戦。ブルーメンリッターが出動した時の状況を、報告としては聞いているが、詳しく知らない。
「空には多くの魔人が飛んでおります。グラスルーツから一歩、外に出ればその行動は敵に筒抜け。偵察も困難になります。当然、飛竜を使っても同じ。わずかに残った飛竜を失うだけです」
「なるほど。そういう状態か」
報告に聞いていた状況。これ以後、旧リリエンベルグ公国領内の情報は一切得られなくなる。過去の多くの犠牲者がそれを教えてくれている。
「一方で、一日の帰還者数に大きな変化はありません。敵の襲撃を受けたという証言も得られておりません」
「……敵は意図して、我が軍の者たちを逃がしていると?」
「その可能性がかなり高いと思われます」
前回のブルーメンリッターによる偵察任務の時に比べると、敵の追撃はないに等しい。完全に統制を失っていたローゼンガルテン王国に追撃をかけることをしてこなかった。何らかの理由があると考えるのは当然だ。
「敵と接触した人はいないのですか?」
会議にはクラーラも参加している。なんとなく、王国騎士団長の副官のような立場で。騎士団長はあくまでも王妃候補として接しているつもりなのだが、クラーラがそのように振る舞っているのだ。
「いえ、おります。少なくない数の者たちが帰還途中で敵と遭遇しております」
「それでも見逃されたのですね?」
「はい。証言からは敵に襲撃の意思があるとは思えません。多くの場合、方向を見失ってしまった者たちにグラスルーツの場所を教える為に姿を現したようです」
親切心から各地に道案内役が配置されている、のではなく、すでに住民が帰還している街や村にローゼンガルテン王国軍が近づかないように見張っているのだ。
「……それ以外の接触はどのようなものがあるのでしょう?」
「それ以外は、傷の手当をされたり、水や食料を与えられたりです」
敵とは思えない対応。その報告を聞いた人たちの表情に戸惑いが浮かぶ、相手の意図を図りかねているのだ。
「そうですか。やはり、交渉の余地はあるのですね?」
例外はクラーラ。その顔には笑みが浮かんでいる。ジグルスは決定的な対立を望んでいない。それを感じさせる情報は、クラーラが求めていたものだ。
「しかし、グラスルーツを出て、外に出た者たちは容赦なく殺されています」
「殺されていると決まったわけではありません。違いますか?」
偵察に出た人たちは皆、行方不明になっている。生きて捕らえられているだけの可能性が高いとクラーラは考えている。
「確かに全員の生死を確認しているわけではありません。ですが、かなりの確率で殺されているはずです」
「えっ? どうして、それが分かるのですか?」
だが報告者はクラーラの考えを否定してきた。
「この会議の直前に帰還者を通じて警告が届きました。許可なく入国する者は王国に害を及ぶす意図がある侵入者と判断して処分するというものです。警告だけでなく、偵察に出た騎士の物と思われる装備、そして骨も渡されております」
「そんな……」
なんとかしてジグルスたちと接触を持とうと、偵察のつもりではなく使者を送り出すように依頼してきたクラーラ。報告の通りであれば、その全員が殺されたことになる。交渉は拒絶されたということになってしまう。
「それと……もうひとつ、相手からの警告が」
「どのような内容ですか?」
「よろしいですか?」
「話してもらわなければ、良いも悪いもありません。得た情報は全て伝えるべきではありませんか?」
クラーラには報告者が躊躇う理由が分からない。分かるはずがない。内容を知らないのだから。
「……では、そのままお伝えします。王国騎士団にはアイネマンシャフト王国国王ジグルス・クロニクスの父を暗殺しようと企んだ者がいる。そのような相手と交渉を行うことは出来ない」
「えっ? そんなことがあったのですか?」
そのような事実があったことなどクラーラが知るはずがない。この事実はジグルスと彼の周りの親しい人たち、それと暗殺未遂の関係者だけが知ることなのだ。
「まだ続きがあります。まずその殺人未遂の犯罪者を処分することが交渉の最初。そちらにその意思がないと判断した場合、交渉はなし。処分はこちらで行う。どこに逃げようとも、必ずその報いを受けさせる。という内容です」
「ジグルスさんの父親を暗殺なんて……そんなことが本当に……あったの、ですか?」
クラーラは事実かどうか確かめようと、恐らくは一番情報を知るだろう王国騎士団長に問いを向けようとしたのだが、それだけで全てが分かってしまった。王国騎士団長の真っ青な顔がそれを教えてくれた。
「……知らない。私はそんなこと知らない」
口では否定する王国騎士団長。だがその狼狽ぶりが事実をクラーラに、彼女だけでなく、この場にいる全員に教えてくれた。
「なるほど。やはり、貴方でしたか。動機は王国騎士団長の地位。王のお父上が帰還すれば、王国騎士団長の地位は間違いなくお父上のものになる。その邪魔をし、自分が王国騎士団長の地位を手にする為というところですか?」
「な、何を馬鹿なことを! ただの推測でそのようなことを軽々しく口にするな! 無礼ではないか!?」
動機について話をした報告者を怒鳴りつける王国騎士団長。彼はまだ分かっていないのだ。
「王のお父上を暗殺しようとした犯罪者相手に、無礼もなにもありません。貴方こそ、お父上に対する無礼をまず詫びるべきです。許されることはありませんけど」
「……貴様……何者だ!? 部下ではないな!」
「ええ、私は使者です。警告を二つ、確かに伝えました。私の仕事はここまで。貴方の処分は、王自らの御手でなされることでしょう」
「えっ……?」
王自らの手で。この言葉の意味することをクラーラは、王国騎士団長も考えた。その答えは、数秒で知れることになる。王国騎士団長は知ったと言えるかは微妙だが。
黒い影が王国騎士団長を襲う。ゆっくりと傾く王国騎士団長の首。噴き出す血潮。落ちた首が床を転がる。
「最後にもう一つ警告を。この防壁を誰が作ったのか分かっているのですか? 貴方たち、敵に知り尽くされている場所で、よくのんびりと過ごしていられますね?」
「ち、ちょっと! 待って!」
クラーラの呼びかけを無視して、会議室を出ていく使者。すぐにあとを追って廊下に飛び出したが、その姿を見ることは出来なかった。
この防壁を建設したのは魔人たち。設計にはジグルスの考えが盛り込まれている。拠点を作る時は奪われた時のことも考えるべきだという考えだ。奪われてもすぐに奪い返すことが出来る。その為の仕組みが見えない場所に仕込まれている。外からの進入路、隠し通路や隠し部屋などは代表的なものだ。今回あえて、それを明らかにした理由。それは――
この日から数日後、ローゼンガルテン王国軍はグラスルーツから撤退していった。いつ敵に教われるか分からない場所。そんな場所にとどまっていられるはずがないのだ。