七万という大軍での侵攻。そうであっても不安を感じていなかったわけではない。前回の作戦でブルーメンリッターは為す術もなく壊滅に追いやられているのだ。魔人は強い。それを改めて思い知らされた戦いだった。
そうであるからこその大軍。これ以上の大軍を今のローゼンガルテン王国は編制出来ないだろうと思える数を揃えて、戦いに臨んだのだ。だがその結果は――前回と同じ。少なくともエカードはそう感じている。
序盤から大苦戦。敵の前衛に立った巨人族の部隊を打ち崩す有効な攻撃を思いつけないまま、犠牲者を増やすばかりになった。正面突破は不可能と判断し、騎馬隊による迂回攻撃を仕掛けようとしたが、それも敵騎馬隊の圧倒的な攻撃力の前に無残にも砕け散った。
次の打つ手は何があるのか。考えようとしても心の動揺がそれを許してくれない。動揺がなくても良い策を思いつけるとは思えなかった。自分の無力さをまた思い知らされることになった。
だがそれは始まりに過ぎなかった。突然、後方に現れた敵騎馬隊。普通の騎馬隊ではない。半人半馬のケントール族の部隊。それを率いているのは、ジグルスだった。
軍全体が揺れたかのような錯覚を覚えた。そう感じるほどの衝撃力をジグルスの部隊は持っていた。二万のキルシュバオム公国軍はその威力の前に無力だった。
大きなうねりを引き起こしながら自軍の中を駆け抜けるケントール族の部隊。先頭に立つのはジグルスだった。それが分かって前に進もうとしたが、足が動こうとしなかった。味方を蹴散らすジグルスは、自分が知る彼とは違っていた。自分の体は彼の前に立つことを恐れていた。
そこから先の記憶はほとんどない。前回同様、暴風雨の中をただ逃げ惑うだけだった。一秒でも早く、そこから逃げ出したかった。逃げ出した――気が付いた時には戦いは終わっていた。自分の周りには大勢の味方がいた。皆が無言で、ただ歩いていた。撤退、というより逃避行が始まっていた。
「エカード様!」
自分の名を呼ぶ声。それに気づいたエカードは一瞬、逃げだそうと考えた。誰であろうと、今の自分を見られたくなかった。だがそれは無理だ。逃げる場所などどこにもないのだから。
「……クラーラ?」
諦めて声が聞こえたほうに視線を向けると、馬に乗って近づいてくるクラーラの姿が見えた。情けない自分を見られたくないという思いがまた心に浮かんだが、これもどうしようもないことだと諦めた。
「ご無事でしたか?」
「ああ、貴女も無事で良かった」
「私は……守ってくれる人がいましたから」
エカードの周りには誰もいない。これに気付いたクラーラは、一瞬、言葉に詰まった。エカードの状況をどう受け取って良いのか考えたのだ。
「……王国騎士団の状況はどのようなものですか?」
クラーラの躊躇いに気付いたエカードは、恥ずかしさを誤魔化す為に王国騎士団について尋ねた。
「……少しずつ再集結は進んでいますが……どれだけの数になるか今は分かりません」
「そうですか……敵の追撃は?」
今の状況を知る為には見栄を張っていられない。前回と同じように追撃に追撃を重ねられて、絶望的な状況になる前に出来ることを行わなければならないのだ。
「今のところは確認されていません。ただ、全体を把握しているわけではありませんから……」
クラーラも多くの情報を持っているわけではない。敗北が決定的になったと判断した段階で、王国騎士団長をはじめとした騎士団の上層部と共に撤退に移っているのだ。
「とりあえず集結出来ている数はどれくらいですか?」
「およそ一万。私以外にもこうして周辺を回って味方を捜している騎士たちがいます。この状況であれば、千、二千はすぐに増えるとは思います。それ以上の数も、どこまで範囲を広げるかによって変わってきますが、可能だと思います」
統制こそ取れていないが、追撃から逃れて移動している人たちは周辺に大勢いる。核となるには十分な数がいる自分たちが動けば、一定数までの再集結は難しくないとクラーラは判断しているのだ。
「一万二千ですか……先を急ぐべきだと思います」
一万二千では一撃で壊滅してしまう恐れがある。恐れというより、間違いなく壊滅する。一万二千が二万でも同じことだ。そうであれば味方を集めるよりも撤退を急ぐべきだとエカードは考えた。
「味方を見捨てろと?」
クラーラはその考えに同意出来ない。敵の襲撃に怯え、少数で逃げ回っている味方を見捨てることなど出来ない。
「……すでに見捨てています。その結果が今です」
「見捨てるなんて……」
「リリエンベルグ公国を、そこに暮らしていた人々を見捨てた結果がこれです。味方であった人たちを敵に追いやった…………私もその原因を作った一人です」
リリエンベルグ公国の救援に即座に動いていれば、リーゼロッテとジグルスと共に戦っていれば、こんなことにはならなかった。それをさせなかったローゼンガルテン王国、そしてそれが出来なかった自分の責任。自業自得だとエカードは思う。
「……なんとしてでも、今の状況を変える必要があります。その為に出来ることの全てを行わないと」
「出来ることの全て、ですか……」
「そうです。諦めるわけにはいきません。諦めたらそれで終わりです」
エカードを勇気づける言葉。自分に言い聞かせている言葉でもある。
「出来ることの全てを行えば、それで事態は好転すると本気で思っているのですか?」
「えっ?」
だがクラーラの言葉は、彼女が望む形では、エカードに届かなかった。
「戦闘で、策略で、交渉でもなんでもいい。貴女はあのジグルスに勝てると、本気で思っているのですか?」
「……私は……勝ち負けではなく……」
よくやく気付いた事実。エカードがはっきりと言葉にして、それを気付かせてくれた。
「私は勝てると思えない。思えなくなってしまいました。考えてみれば私は、自分よりも遥かに不利な状況にあった彼にも、ずっと遅れをとっていた。そんな相手に、その時とは比較にならないほどの力を手に入れた彼に、どうすれば勝てるというのですか?」
思い返してみれば、常に自分は劣等感を感じていた。ジグルスは男爵家で自分は公爵家。剣の実力も、学問の成績も自分のほうが上だった。そうであるのに、何度も敗北感を味わうことになった。
何故、認められなかったのか。受け入れることが出来なかったのか。素直に負けを認めるべきところは認め、彼から学ぼうと思えなかったのか。
試みたつもりの時期はあった。だがそれは学ばせてもらうという謙虚さを伴うものでは、おそらくは、なかった。自分の為に役に立つのは当然。こんな思いがどこかに潜んでいた。対等に見ていなかった。自分の過ちをエカードは理解した。理解したと考えた。
「……どんなに厳しい状況であっても、諦めずに最善を尽くす。私はこれをジグルスさんに教わりました。だから、諦めません」
「貴女はそうすれば良い」
「私はエカード様にも……いえ、話はあとにしましょう。味方はここから東に、歩いても、半刻ほどのところにある林の側に集結しています。エカード様は先にそこに向かってください」
生気を失った表情の、今のエカードに何を話しても通じない。こう考えたクラーラは他の集団を探すことを優先することにした。多くの味方と合流し、安堵感を感じられる中で少し休めば、彼も立ち直る。こう考えたのだ。
「……東か」
さきほどまで周りを歩いていた人たちも東に向かって歩き出している。まとまった味方がいる。食料もある。教えられた場所に向かわないという選択は、普通はない。東に向かって歩を進めたエカード。それを確認して、クラーラは馬を駆って、さらに西に向かった。
遠ざかっていく馬の足音。それが完全に聞こえなくなったところで、エカードは糸の切れた操り人形のように地面に崩れ落ちていった。
万の味方がいるから安心、なんてエカードには思えない。それだけ敵の攻撃の的になる可能性が高まるだけだ。ではこのまま一人で逃げるのか。逃げてどこに行くのか。安全な場所に辿り着いても、すぐにまた戦場に送られるだけ。絶望的な戦いが待つ戦場へ。
何もしたくない。これが今のエカードの気持ち。動くことさえ厭わしく思えてしまう。
(…………空が……青い)
仰向けで地面に倒れたまま、どれだけの時間が経過したのか。ようやく空っぽになりかけた頭に浮かんだのは、当たり前の言葉だった。空は青い。この当たり前のことを感じたのはいつ以来か。前に、ぼんやりと晴天の空を眺めていたのは、いつだったか。
(……レオポルド……マリアンネ)
誰とだったかは覚えている。幼馴染の二人。大切な友が一緒だった。いつも一緒だった二人は、今はいない。自分は大切なものを失った。そう思った途端、目じりから涙が零れた。
公爵家とその従属貴族家の子。そんなものは関係ない。実家が何であるかに関係なく、仲の良い三人だった。英雄なんて肩書なんてどうでも良い。二人と一緒に出来ることなら何でも良かった。それで楽しかったはずだった。自分は大切なものを見失っていた。それを思うと、涙が止まらなくなった。
「気持ち良さそうですね?」
「……ああ……こんな風に空を眺めるのは久しぶりだ」
突然掛けられた声。声の主はすぐに分かった。自分に終わりをもたらす者、ジグルスだと。不思議と動揺はない。あるのは、涙を見られたら恥ずかしいという思いだけだった。
「そういえば俺も夜空を眺めることはあっても、昼の空を見上げることはないですね。忙しくて。そういう心の余裕を失っていました」
「……そうだろうな」
すぐ近くから聞こえてきた地面を擦る音。ジグルスも仰向けになって寝転んだのだとエカードは判断した。
「これからどうするつもりですか?」
「それを決めるのは俺じゃない。君だ」
自分の生殺与奪はジグルスが決めること。この期に及んで悪あがきをするつもりはエカードにはない。そんな気持ちは消えてしまった。
「その予定だったのですけど、どうやら選択肢がひとつ増えそうなのでその確認をしようと思いまして」
「……選択肢というのは?」
「もし、貴方から戦う気持ちが消えているのであれば、命を助けて欲しいとマリアンネさんにお願いされています」
「マリアンネ? 彼女は生きているのか?」
マリアンネが生きていることに驚いて、地面から起き上がったエカード。その時にはすでにジグルスも上体を起こして、エカードのほうを見ていた。
「元気でいます。それで? まだ戦う気はありますか?」
「……戦う気はない。だが……それで命を助けてもらおうとは思わない」
戦意など綺麗サッパリ消え失せている。これ以上の戦いは苦痛を増すだけ。戦いがなくても同じだ。エカードはもう全てのことから解放されたいのだ。
「貴方を助けるつもりは俺にはありません。マリアンネさんを助けるのに貴方が必要だと思うから、こうして話をしているのです」
「マリアンネを助けるとはどういうことだ? 俺がどうだろうと彼女は関係ない! 彼女はもともと君たちと戦うことを嫌がっていた! それなのに俺が無理やり彼女を戦いに引き込んだのだ! 悪いのは俺だ! だから!」
自分の選択によってマリアンネまで命を奪われる。そんな事態を招くわけにはいかない。必死の形相でエカードはマリアンネを庇おうとしている。早とちりだ。
「そういうことではありません。助けるというのは、マリアンネさん一人でレオポルドさんの面倒を見るのは大変なので、手伝う人が必要だということです」
「……レオポルド?」
「レオポルドさんは記憶を失って、子供みたいになっています。大人の図体で子供の心を持つ人の面倒を見るのは大変らしくて。男手が必要だと訴えています」
「……レオポルドも無事なのか?」
マリアンネはまだ分かる。彼女はリーゼロッテと仲が良かった。学院時代も彼女だけはリーゼロッテとの仲を壊さないでいた。だがレオポルドは違う。彼は自分以上にリーゼロッテとジグルスに敵意を向けていた。それを二人も分かっているはずだとエカードは思っている。
「無事という表現が正しいかは微妙ですが、マリアンネさんの手を焼かすくらいに元気ではいるみたいです」
「どうして?」
「どうして助けたのか、ですか? この国は国民の半分が元敵です。敵対していた人を全員殺していたら、この国は存在していません。レオポルドさんの場合は客という立場ですけど」
これは説明しやすい理由。エカードとレオポルドに、はたしてどれほどの責任があるのか。彼らは正義のヒーロー役を与えられ、それを疑うことなく演じていただけではないか。今のジグルスにはこういう思いがあるのだ。
「……俺は……俺は……」
レオポルドとマリアンネが生きて、ジグルスの国にいる。それを知ってしまうとエカードの心に迷いが生まれる。生きて彼らと会いたい。だが自分にそれが許されるのか。死んでしまった仲間も大勢いるのだ。
「先に条件を伝えておきます。臣従は強制しませんが、ローゼンガルテン王国に戻れる保証はありません。仮に戻れたとしても、キルシュバオム公爵家はなくなっています」
「公国を攻めるつもりか?」
ジグルスはキルシュバオム公国を攻めようとしている。私情を抜きにすれば、当然の選択。エカードはすぐにその可能性を思いついた。
「その可能性は認めます。でも我々が攻める攻めないに関係なくキルシュバオム公爵家はなくなります。破産して。公爵家であろうと破産したら廃絶ですよね?」
「……破産?」
まさかの理由。キルシュバオム公爵家の一員であるエカードであっても、ピンとこない理由だ。
「公爵家といえども借金はあります。それが、戦時が続いただけでなく野心を実現する為もあって、かなりの金額に膨れ上がっているそうです」
「そうかもしれない……だが」
「商家は督促なんてしない? 普通はそうみたいですね? でも普通ではない事態が起きたら?」
キルシュバオム公爵家という大貴族家相手に無理な督促など、普通はしない。睨まれてローゼンガルテン王国で商売が出来なくなる恐れがある。そもそも、キルシュバオム公爵家の影響力により、貸している以上の利となって返ってくるのだ。ほとんどが返してもらうつもりのない金。賄賂のようなものなのだ。
「……それを起こしたのは君か?」
何故、普通ではないことが起きるのか。それを企てた何者かがいたからだ。
「俺は戦いに勝っただけ。もともと失脚寸前であったところに、最後のひと押しを加えただけです」
ローゼンガルテン王国軍の負けであるが、その中でキルシュバオム公爵家はより影響力を失うことになる。失脚は明らか。そうなればヨーステン商会を始めとする大商家も督促を躊躇うことはない。躊躇うどころか、回収不能になるのを恐れて、かなり強く出ることになるはずだ。
「そうか……ふっ、破産……キルシュバオム公爵家が破産……ふっ、破産なんて……馬鹿げたことで……」
「涙を堪えるのも、無理に笑いを堪えるのも、どちらも精神的に良くないと俺は思います」
「……そうだな」
ジグルスの言葉を受け入れて、大声で笑い始めたエカード。笑っているのか、泣いているのか。どちらであるのかは側で見ているジグルスにも分からない。おそらく両方なのだろうと推測するだけだ。
「……さて、俺は全てを失った。こんな俺にも生きる価値はあるか?」
散々、大声で笑ったあと、エカードはこの問いをジグルスに向けた。諦めの思いからの問いではない。将来を見ての問いだ。
「カロリーネ様の言葉を聞いていなかったのですか? この先、世界を変えるのは名も無き勇者たちの力です。名も無き勇者というのは、どこの誰でもない、一人の人のことです。この国はそういう国なのです」
出身も、身分も称号も、種族も部族も関係ない。ぞれぞれが一人の人として同じ志の下で出来ることを一所懸命に行う。アイネマンシャフト王国で求められるのはこれだ。
「俺にも出来ることがあると?」
「それはあるでしょう? なんといっても貴方は攻略対象の中でもナンバーワン。絶対に仲間にしなければならない一人ですから」
「その攻略対象というのは……?」
「ああ、これは忘れてください。とにかく、やることは山ほどあるということです。別にレオポルドさんのお世話だけでも構わないと俺は思います。一人の人を助ける為に全力を尽くす。とても大切なことです」
「そうか……そうだな」
気負う必要はない。こうジグルスは言ってくれているのだとエカードは受け取った。無理に高みを目指す必要はない。世の中に名を知らしめようと張り切る必要などまったくない。誰もやらない何かがあり、それを自分が出来るのであれば、それを行えば良い。皆がそうすることで、小さいかもしれないが多くの幸せが生まれる。そもそも幸せに大小などない。こう思うべきなのだ。
貴方たちは「自分たちの目の前の戦いで勝つことしか考えていない。他の戦場で何百、何千の犠牲が出ようと知らないと言う」。かつてジグルスに言われた言葉。何故、ジグルスはこんな言葉を自分に向けたのか。その意味がようやくエカードは分かった気がした。ジグルスは何をしたかったのか、何をしようとしているのか。少し分かった気がした。