ローゼンガルテン王国が動き始めた。参戦命令に従って公国軍が動き出したということで、アイネマンシャフト王国への侵攻はもう少し先。まだ、西の領境から侵攻する予定のラヴェンデル公国軍を除く、他の二公国軍が王都に集結したという段階だ。キルシュバオム公国軍とゾンネンブルーメ公国軍それぞれ一万八千。現時点でのほぼ全戦力を投入している。
もう負けは許されないキルシュバオム公爵家はもちろんのこと、ゾンネンブルーメ公爵家にも手を抜けない理由があるのだ。
「必ずや我が軍の手で敵を討ち、陛下にご安心して頂く所存です!」
アルベルト王子に向かって戦勝を約束しているのはシルヴェスター・ビューロー。ゾンネンブルーメ公爵ヨハネス・ビューローの息子。次代のゾンネンブルーメ公爵候補だ。
「……シルヴェスター。私はまだ陛下と呼ばれる身分ではないよ?」
アルベルト王子には白々しく思えて、わざわざ指摘するのは嫌なのだが、ここはシルヴェスターの思惑に乗ることにした。
「おや? これだけ時が経っているのに、まだ手続きが終わっていないのですか? それは問題ですな」
これを言いたくて、わざとシルヴェスターはアルベルト王子を陛下と呼んだのだ。キルシュバオム公爵への嫌味。牽制でもある。ゾンネンブルーメ公爵家が継子であるシルヴェスターを総指揮官として軍を送り出したのは、キルシュバオム公爵家に対抗するという意思表示なのだ。
「戦時中だからね。色々と忙しいのさ」
「戦時中だからこそ、即位を急ぐべきだと私は思いますが、今更ですな。戦いは終わる。平和の時代の象徴としての即位も悪くありません」
「そうだね。平和であったほうが民は喜ぶ」
さすがに楽勝気分までシルヴェスターに合わせる気にはなれない。無難な言葉を選んで、アルベルト王子は答えた。
「宰相殿。我らが帰還して、すぐに即位の儀式を始められるように準備は怠りなく。ああ、その時は当然、父上も出席させていただくことになるので伝え忘れないように願う」
「……儀式の日取りについては良き日を選んで行うことになるでしょう」
当たり障りのない答えを返した宰相、であるが、その言葉に否定的なものはない。アルベルト王子の即位は既定のもの。宰相はそう考えているようにも受け取れる。実際に既定のものになってはいるのだ。だがそれは、キルシュバオム公爵の望む形ではない。
「挨拶はそれくらいで良いかな?」
即位の話を終わらせようと話に割って入ってきた。
「そう焦らなくても敵は逃げません。いや、我らを恐れて逃げてしまうかもしれませんか?」
「敵を甘く見るのはどうかと思うが?」
「甘く見てはおりません。魔人軍を自領から追い払った実績があっての自信です」
ゾンネンブルーメ公国軍は自領を占領していた魔王軍を追い払った。確かにそういった形にはなっている。それに比べるとエカードたちは領境付近で足止めされていただけ。実績という点では上、というほどではないのだが、ゾンネンブルーメ公爵家はそう思っているのだ。
少なくともその意図はキルシュバオム公爵に伝わった。この場での目的は達成したということだ。
「……次の戦いでも同じ結果になると良いが……とにかく、さっさと軍議に入るべきだな。騎士団長」
シルヴェスターを黙らせるには別の誰かに話をさせるのが一番。キルシュバオム公爵はその誰かに王国騎士団長を選んだ。もともと今は軍議の場。本題に戻しただけだ。
「では軍の編制についてから。新たに編成したローゼンガルテン王国軍は三軍一万八千。これに二公国軍もそれぞれ一万八千が加わって侵攻軍は五万四千となります。別にラヴェンデル公国軍も一万二千で西の侵入口から侵攻することになっております」
新たな侵攻軍は総数六万六千。これにすでに出陣している一万六千から七千が加わる。かなりの大軍だ。それぞれの公爵家の思惑は別にして、ローゼンガルテン王国は全力でアイネマンシャフト王国との戦いに挑もうとしている。
「……大軍だね? 物資の調達などは大丈夫なのかな?」
物資だけではない。新たに徴兵された人々もかなりの数にのぼるはずだ。それほど国民に負担をかけてまで行わなければならない戦いなのか。この疑問をアルベルト王子は口にすることが出来ない。
「正直、ぎりぎりのところです。出来るだけ早い段階でいくつかの敵拠点を奪取して、その後は長期戦に備えるというのが大きな流れです」
「物資がぎりぎりなのに長期戦を?」
「拠点奪取後は戦力を調整しながら戦うことを考えております。とにかく序盤で敵に大きな損害を与える。その為に大軍を揃えたのです」
数を揃えたのは、とにかく序段で一気に戦況を有利に持って行きたいという考えがあるからだ。逃げ込む場所もなく野戦で負け続けて壊滅したブルーメンリッターと同じ轍は踏まないという考えからの作戦ではあるのだが。
「……結局、敵戦力は分かったのかな?」
敵戦力が分からなければ、作戦の是非など分からない。
「それが、詳しいことは未だに分かっておりません。空を押さえられているのが一番の問題なのですが、それに対する策がありません」
偵察として部隊を送り込んでも、アイネマンシャフト王国は空からその動きを全て把握してしまう。ある程度、先に進んだところで襲撃を受けて全滅。これが何度も繰り返された。飛竜を送っても同じだ。有翼族と鳥人族によって捕獲されて終わり。それが続いて、ローゼンガルテン王国軍はかなりの飛竜を失ってしまっている。
「……それもあっての大軍か」
「はい。どうせこちらの動きは敵に見張られているのですから、大軍でも関係ありません。見つかったとしても簡単には襲撃出来ない数であれば、先に進むことが出来ます」
旧リリエンベルグ公国領内での隠密行動は不可能。そうであれば、いつどこで敵の襲撃を受けても対応できるだけの大軍で侵攻したほうが良い。こういう考えだ。
「先に進むとして、目的地は?」
大軍だから先に進むことは出来る。だがどこに進むのか。ずっと進軍を続けるはずがないのだ。
「領境からまっすぐ北上して、すでに廃墟となっているブラオリーリエ。そこから更に北上してシュバルツリーリエに向かう予定です。その後はシュバルツリーリエに敵がいるかいないか。籠城可能かどうかなどで判断することになります」
まずは旧リリエンベルグ公国領内の状況を知らなければどうにもならない。偵察が上手く行っていない状況ではそうなってしまう。
「……ラヴェンデル公国の侵攻路は?」
ラヴェンデル公国軍は別ルートでの侵攻となる。どう考えられているのかをアルベルト王子は尋ねた。
「順調に行けばブラオリーリエ付近で合流となります。状況が厳しければ、独自の判断で行動することを許可しております。その辺りは臨機応変に対応する必要がござますので」
「そう……他には?」
かなり粗い計画。領内の情報がない状況では仕方がないという思いもあるが、これで本当に勝てるのかという不安も湧いてきてしまう。
「今はこれ以上のことは……」
計画の粗さについては王国騎士団長も分かっている。だが今の段階では、これ以上のことを考えるのは難しい。シュバルツリーリエ陥落以降、リリエンベルグ公国内の情報はまったくと言って良いほど得られていない。威力偵察という名目でブルーメンリッターが送り込まれたが、得た情報はわずかだった上、かえって混乱してしまうような内容だった。
準備不足は覚悟の上。それでも踏み込まなければ状況は変わらないのだ。
◆◆◆
アルベルト王子は以前ほど日常に不自由を感じなくなっている。それだけ王都におけるキルシュバオム公爵家の影響力が弱まったということだ。国王を弑逆し、王都の実権を握ったキルシュバオム公爵家であるが、それを可能にしたのは宰相と王国騎士団長の協力があったからこそ。キルシュバオム公爵家に直接、官僚組織や王国軍を動かす権限はない。宰相と王国騎士団長がキルシュバオム公爵の意向通りに動かなくなれば、ローゼンガルテン王国の実権も失われてしまうのだ。
この事態を招いたのは完全な計算違い。エカードによる国軍の掌握は失敗と言える結果に終わった。軍という力を得られなければ、官僚組織を押さえつけることも出来なくなる。官僚組織を繋ぎ止める唯一の要素は、宰相もまた国王弑逆に関わった共犯であるということなのだが、それも宰相の覚悟次第。開き直られてしまえば、それで終わりなのだ。
実際に宰相は開き直った。キルシュバオム公爵には宰相を裁くことは出来ない。共倒れがせいぜいだ。軍からの圧力も失われた。この状況になって宰相に、引き続きキルシュバオム公爵の言いなりになる理由はない。それこそキルシュバオム公爵家が失脚する事態になった時、共倒れになってしまう。
宰相が助かる道は、次期国王であるアルベルト王子の許しを得ること。その許しが実態を伴うものになるくらいに、アルベルト王子の権力を強めること。宰相はその為に動き出している。もともと自分が仕出かしてしまったことが信じられず、強い後悔を抱いていたのだ。
「クラーラ様であれば何をお召しになってもお似合いになるのは間違いありません。そうであるからこそ、最高の物を用意するべきだと考えます」
「……ちょっと理屈が分からないな。どれでも大丈夫なのに、何故、最高の物を用意する必要があるのかな? もちろん、良い物を揃えるべきだと思うけどね?」
すぐ先で土下座と言えるくらいに床に這いつくばって意見を述べてきた商人。アルベルト王子には言っている意味が良く分からなかった。
「簡単に申しますと、クラーラ様の美貌に負けることないお衣装を揃えるべきだということです」
「ああ、そういう意味か……いつまでそうしているつもり? 話しづらいのだけど」
「……平民の身で次期国王陛下にお目通り願うなど恐れ多いこと。まして、こうして直答を許されているなど、恐縮至極でございます」
商人の言う通り、この場は異例のこと。王家の人々が商人と直接取引をするなど、皆無ではないが、滅多にあることではないのだ。
「そう言われても……とにかく、それでは話がしづらい。私が許すから面をあげてくれるかな?」
アルベルト王子が望んでこの場を作ったわけではない。宰相から申し入れがあって、それを受け入れただけなのだ。それで気まずさを感じるのは、アルベルト王子は馬鹿馬鹿しいと思う。
「……よろしいのでしょうか?」
「私が良いと言っている。従わないほうが問題ではないかな?」
「……それではお言葉に甘えまして。改めてご挨拶をさせて頂きます。ヨーステン商会の会長を務めておりますパトリシオと申します。このような機会を賜りましたこと、光栄に思います」
顔をあげ、それでも視線は床に落としたまま、改めて自己紹介をしたのはヨーステン商会の会長だった。
「ヨーステン商会……大商家だね?」
ヨーステン商会はローゼンガルテン王国における大商家のひとつ。だがアルベルト王子はそれだけではない、ひっかかりを覚えた。別の話で名を聞いたことがある気がするのだ。
「他家よりもほんの少しだけ大きな商いをさせて頂いているだけでございます」
「ほんの少しだなどと……世間を知らない私が名を知るくらい有名だってことだよ」
アルベルト王子が名を知る商家など片手で数えるほどしかない。城に出入りできる商家は極々限られている。さらに取引は担当者が行うので、王家の人々は、よほどの理由があって担当者が伝えない限り、どこの商家から買った物かも分からない。名を知られているというのは、それだけ力のある商家ということだ。
「恐れ入ります。ただ王子殿下が我が商会の名をご存じなのは別に理由があるのかもしれません」
「別の理由? それはなんだろう?」
さきほど、ひっかかりを覚えた理由。気のせいではなかったようだとアルベルト王子は思った。
「恐れ多くも我が不肖の孫は、王子殿下の妹君に、直接お話しさせていただくことを許されておりました。そのことを王子殿下はお聞きになっているのではありませんか?」
「カロリーネと……それは……もしかして……?」
カロリーネと関わりのある商家の人間。確かにそういう人物についてアルベルト王子は彼女から話を聞いている。だがそれはジグルス絡みの話としてだ。
「不肖の孫はすでに勘当して我が家にはおりませんが、その際の無礼についてはお詫びいたします。申し訳ございません」
また深々と頭をさげてしまうパトリシオ。それでは彼がどのような表情なのかアルベルト王子には分からない。
「……いや、謝罪は無用。妹は仲の良い友人が出来たと喜んでいた。御礼を言いたいくらいだよ」
「御礼など、とんでもございません。今もまだご無礼を働いているのではないかと、我が家の者どもは心配しているのです」
「……そうだとしても、妹が許しているのだから問題ないね」
パトリシオは今、何を言ったのか。その意図を考えながらアルベルト王子は言葉を返す。今もまだ、という言葉は自分が思う通りの意味なのかと。
「そう言っていただけると、少し気持ちが楽になります」
「離れて暮らしていると心配だね? その孫とは連絡を取れているのかな?」
「ずっと音信不通でしたが、つい先日、連絡が届きました。一息つけると思っていたところ、また大きな仕事が入ったようで、忙しい毎日とのことです」
こうしてパトリシオがこの場にいるのは、その連絡が理由。リスクを犯しても動くべき。慎重なパトリシオがこう考えるだけの情報が届いたからだ。
「仕事熱心だね?」
「まだまだ半人前のくせに、生意気を言うようになりました。実家の仕事を心配している余裕があるのであれば、自分の仕事をもっと頑張れと思ってしまいます」
「……何を心配しているのかな?」
パトリシオの言葉のどこにヒントがあるのか。アルベルト王子を懸命にそれを考えている。ひっかかりを覚える言葉に対して、さらに深堀しようとしている。
「これまでお得意様であったからといって、この先もそうであるとは限らないなどと言ってきました。今の時代、どんな変化が先に待っているか分からない。信用は永遠に続かないなどと……我が家のお客様になんという失礼な言い様。勘当して正解でした」
「……変化の時代であることは間違いないかもしれないね?」
まだアルベルト王子にはパトリシオが何を言いたいかが分からない。言いたいことは本当にあるのかも分からない。
「変化の時代を生き抜くには変化を恐れてはいけない。それを受け入れ、自らも変わらなければならない。この言葉については私も同感です。変化を嫌い、流れを見損なっては全てを失うことになります。時には自ら捨てることも必要。身軽になってこそ、流れに乗ることが出来るのです」
「恐れず、受け入れ、自らも変るか……」
何を恐れず、何を受け入れ、どう変わらなければならないのか。ようやくアルベルト王子にもぼんやりと見えてくるものがあった。
「……こういうことは商売に限った話ではないのかもしれません」
「そうだね……ただ、変わるというのは簡単ではない。分かっていても出来ないことがある。商人たちはそういう場合、どうするのかな?」
アルベルト王子には国を大きく変える力はない。少し流れは変わってきていると思えているが、それはどちらかというと変化ではなく、維持だ。大きな変化を求めてのことではない。
「……内の力だけでは難しい時は、外の力を利用することを考えます。それでも簡単ではないでしょう。内と外、どの力を使うにしても大切なのは覚悟。やり抜くという覚悟を示すことだと思います」
「……覚悟……そうだね? それがなければ何も始まらないね……」
その覚悟が自分にはあるのか。あるとは言い切れないとアルベルト王子は思う。周囲の状況を慎重に見極めながら、どう動くかを考えてきた。だが、それだけでは事は動かない。動くとしてはそれは自分が望む方向とは限らない。自分では動かせない。そうであれば誰かの力を借りるしかない。だがその覚悟を決められるのか。決めて良いのかという思いがアルベルト王子にはある。
「老人が説教じみたことを申し上げました。申し訳ございません」
「いや、とても良い話だった。またこういう機会を持てるのかな?」
「王子殿下がお求めになられるのであれば、いつでも。商談はまだ始まったばかりです」
この場だけでどうにかなる話ではない。それをパトリシオも分かっている。彼自身、正解が何なのか分かっていないのだ。
「そうだね。次は物を見させてもらおうかな? 実際に着るクラーラも同席させたほうが良いかな?」
「王子殿下とクラーラ様のお好みが同じであれば是非とも。ただ私の経験では、この手のことでは男女の意見はすれ違うことが多く、揉め事にならないとも限りません」
「そう……結婚前に喧嘩は困るね。分かった。彼女の件は考えてみるよ」
パトリシオの言葉をアルベルト王子は忠告と受け取った。クラーラに問題があるとまでは考えていない。だが彼女の考えとアルベルト王子の頭の中にある人物の意図が一致しない可能性はある。
アルベルト王子も、クラーラに限ったことではないが、周囲との考えの差を感じている。本当にローゼンガルテン王国はジグルスの国に勝てるのか。その前提で物事を考えるのは間違いではないか。
だがこの考えに共感してくれる人はいない。内の力になれる人はいないのだ。