ローゼンガルテン王国軍が侵攻を開始した。王国軍とキルシュバオム公国、ゾンネンブルーメ公国の連合軍五万四千が、旧リリエンベルグ公国の南の領境を超えて最初の目的地であるグラスルーツに進軍。それに比べて、ラヴェンデル公国軍はわずか一万二千で単独行動を行うことになる。ラヴェンデル公爵家を危険視するキルシュバオム公爵家の意向は侵攻作戦に反映されたままだ。ただ、それだけではない。王国騎士団はラヴェンデル公国軍の実力を認めており、ゾンネンブルーメ公国の戦いの時のように、神出鬼没の戦いを行い、敵軍を混乱させてくれることを期待しているのだ。
「……まただ」
進行方向に見える人の群れを見て、タバートはややうんざりした様子で呟いた。ここに来るまでに、すでに何度も同じことが起きているのだ。
「やはり、何らかの策略なのでしょうか?」
タバートの呟きを受けて、部下が問いかけてきた。
「可能性は否定出来ない。だが証拠がない状況で救いを求める人々を放置するわけにもいかない」
集まっているのは旧リリエンベルグ公国からの脱出を求める人たち。アイネマンシャフト王国ではなく、ローゼンガルテン王国の国民でいることを望む人たちだ。これまではそうだった。
「そうだとしても、護衛は必要でしょうか?」
これまで出会った人々を、ラヴェンデル公国軍は護衛をつけて領境まで連れて行っている。だが部下は、ここまで何事もなく進軍してこれたこともあり、危険はないのではないかと思っているのだ。
「不要だろうな。だが相手が求めてくるのだ。仕方がない」
タバートも領境までの道中に危険はないと考えている。だが助けを求めている人たちがそれに納得してくれなければ、護衛をつけなければならなくなる。まず納得はしない。魔族を信用出来ない人たちだから、アイネマンシャフト王国を逃げだそうとしているのだ。
「ずっと守ってくれていた人たちから逃げ出し、見捨てた国を頼るような人たちですから」
「おい」
「……申し訳ございません。失言でした」
部下が護衛の要不要について話を始めたのは、こういう思いもあるからだ。人々が逃げ出そうとしている相手は、魔王の侵略からこの地を守る為に戦ってきた人たち。それに恩を感じることなく、リリエンベルグ公国を、そこに住む人々を見捨てたローゼンガルテン王国に頼ろうという気持ちに納得出来ないのだ。
「……命を大切にしたいという思いは否定出来ない」
逃げるのは自分たちの暮らしを守る為。安全だと思う場所に逃げ出そうという気持ちを否定することは出来ないとタバートは思う。悪いのは戦争を起こす人々なのだ。
「はい。その通りです」
「……それでも全ての人たちが逃げだすわけではない。どれだけが逃げ、どれだけが残ろうとしているのか分からないが……」
「残る人たちは勝利を信じているということでしょうか?」
ローゼンガルテン王国に勝利する。それを信じている人がどれだけいるのか。その人たちが勝利を信じられる理由は何なのか。それが部下は気になる。根拠のある自信であるとすれば、その国を敵とする自分たちはどうなってしまうのか。
「信じているのだろう。俺が知る限りでは、常勝不敗である英雄を王に戴いているのだから」
「……そうですね」
「それに……戦争に強いだけの男ではない。そういう意味ではこの侵攻作戦は間違っていない」
「はい……」
知勇兼備の国王が治める国。時が経てば経つほど、アイネマンシャフト王国は豊かで強い国になる。その時を与えることなく、全力で攻めようというこの作戦は間違ってはいないとタバートは思う。
だからといって勝利が約束されているわけではない。アイネマンシャフト王国軍の強さの一端をタバートたちは共に戦って知っている。あくまでも一端だ。アイネマンシャフト王国軍全体が同じ質であるとすれば、侵攻軍八万が十万、十五万であっても厳しい戦いになるのは間違いない。ローゼンガルテン王国がそういう戦いに挑もうとしていることを、ラヴェンデル公国だけは知っているのだ。
◆◆◆
南の領境を守っていた軍勢と合流したローゼンガルテン王国の主力軍はグラスルーツに到着後、およそ一万の守備軍を残して、さらに北上した。ローゼンガルテン王国騎士団長が率いる一万八千が中央、ブルーメンリッターが合流したキルシュバオム公国軍二万四千が左翼、ゾンネンブルーメ公国軍一万八千が右翼といった配置で、一定距離を保ったまま並進する形だ。全軍が奇襲を受けないように距離をとって、それでいていずれかが奇襲を受けた場合にすぐに救援に向かえる程度の距離感。それを守って、少しずつ前に進んでいる。
「……偵察隊からの報告は?」
日が暮れてキルシュバオム公国軍はすでに野営中。一日を総括する会議の場で、エカードは偵察隊からの情報を求めた。
「前方で小さな村を発見。村人の姿はなし。家財道具などもなくなっているので、我が軍の到着を恐れて逃げ出した模様……いつもの報告だね?」
エカードの問いに応えて、レオポルドが偵察隊からの報告をそのまま説明した。最後の一言はレオポルド個人の感想だが。
「そうだな……つまり、何の情報もなしだ」
旧リリエンベルグ公国領内はエカードたちの知るそれとはかなり様子が変わっていた。姿を見ないのは村人だけではない。空を飛ぶ魔人の姿も一切見かけなくなっている。当然、戦闘など行われていない。ただ無人の地を進んでいるだけなのだ。
「何が起きているのか……何が起きたのか? このまま何事もないはずはないけどね?」
「飛竜による偵察は?」
「周囲の見張りだけ。離れた場所まで送り込む余裕はないよ」
ローゼンガルテン王国軍が保有する飛竜はわずか。移動する軍の上空に飛ばして、敵の接近を見張ることを優先している。遠くまで飛ばす余裕があっても同じこと。アイネマンシャフト王国に奪われて、数を減らすだけだ。
「……どこで仕掛けてくるつもりなのか」
魔人はどこかで必ず奇襲を仕掛けてくるとエカードは考えている。それをなんとかして撃退しなければならない。同じ失態を繰り返すことなど許されないのだ。
「……ねえ、エカード。僕たちは、どうして戦っているのかな?」
「えっ?」
「僕はただ楽しくやりたかっただけだった。皆で集まって、ああでもない、こうでもないと夢を語っているだけで楽しかった」
好きな女の子と、親友と三角関係になりながらも、毎日語らっているだけで楽しかった。仲間たちと協力し合って魔王を倒して国の英雄になる。そんな夢物語を話しているのが楽しかった。
だがただの夢物語だったはずの話は現実になった。それでも仲間たちと魔王を倒すと誓って、その実現の為に頑張るのは楽しかった。
「レオポルド……魔人は倒さなければならない敵だ」
レオポルドが話しているのは学院時代のこと。良き時代、彼らにとってはそうなのだ、を懐かしむ気持ちは分かる。だが現実に戦争は起きていて、自分たちはそれに勝利しなければならない。それから逃げてはいけないとエカードは考えている。
「じゃあ、ユリアーナは何? 彼女は敵になった。リーゼロッテも敵だ。リーゼロッテとは……それは色々あったけど……でも、僕は殺し合いなんて望んでいない。そんなこと夢にも考えていなかった」
「レオポルド……」
初めて聞くレオポルドの気持ち。エカードがこれまでまったく想像していなかった気持ちが、レオポルドの口から語られている。
「どうしてこんなことになった? ねえ、エカード、どうして? 僕たちはどうして戦わなければならないのかな?」
「…………」
レオポルドの問いに返す言葉が見つからない。どうしてこんなことに、という思いはエカードも持っている。何度考えても答えの出ない思いだ。
「死にたくない……嫌だよ。こんなところで死にたくない。僕は……自分のやりたいことをしていない。僕の人生は君のものじゃない!」
ずっと心の奥底に押し込めていた思い。何度か浮かび上がることはあったが、その度に自分自身を誤魔化して、否定してきた思い。だがもう限界だった。もともと不安定になっていた心。取り繕えば取り繕うほど周囲の視線は冷たくなった。さらに気持ちが不安定になった。何故、自分はこんな辛い思いをしなければならないのか。どうして他人から蔑まれなければならないのか。何故、他人の名誉の為に命をかけなければならないのか。この気持ちを抑え込むために心にはめていた蓋は、完全に外れてしまった。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ、嫌だ。もう嫌だぁああああっ!}
「レオポルド!」
叫びながら天幕を飛び出していくレオポルド。それにひどく驚きながらもあとを追ったエカードだが。
「敵襲! 敵襲だ!」
「こ、こんな時に……」
野営地に響いた警告の声が、レオポルドを追う邪魔をした。敵襲の声は聞こえているはずなのに、レオポルドの足は止まらない。その背中はどんどん遠ざかっていく。
「……迎撃態勢! 他軍に伝令を飛ばせ!」
自軍に命令を下すエカード。恐れていた敵の奇襲だ。速やかに自軍を落ち着かせ、迎撃態勢をとらなければならない。このまま総崩れなんて醜態を晒すわけにはいかない。
エカードの失態はキルシュバオム公爵家の失態。その評価はローゼンガルテン王国の権力構造に影響を与えることになる。キルシュバオム公国軍が合流してきた、その日に、祖父の言葉として強く言われているのだ。エカードは自軍の混乱を収める為に動き出した。
◆◆◆
アイネマンシャフト王国の都ノイエーラは、いつも通り活気にあふれているが、その活気は戦時中であることを忘れてしまうようなものだ。武具などの製造は今も続けられているが、その作業はすでに山場を超えており、今は日用品や農具を作成する作業のほうが多くなっている。戦争を続けながらも進められている東部復興。その為に必要なのだ。
そんな街中をのんびりと歩いていたマリアンネ。さすがに戦場にまで同行するわけにはいかない。戦場に付いて行けばローゼンガルテン王国軍と戦うことになる。それが出来るだけの気持ちの整理はまだ出来ていなかった。
一人留守番状態で退屈していたマリアンネ。その退屈を紛らわす、かもしれない、出来事が起きた。
「あっ、マリアンネ!」
「えっ……嘘でしょ?」
自分の名を呼んだ相手がレオポルドだと分かって、困り顔のマリアンネ。親しい人は皆、戦場に出てしまって寂しくはあったが、レオポルドにここで出会うことは望んでいない。考えたこともなかった。
「元気だった? 久しぶりだね?」
「はい?」
軽い調子で挨拶してくるレオポルド。そんな雰囲気が相応しい再会ではない。少なくともマリアンネはそう思う。
「あの、マリアンネ……もしかして、僕は君を傷つけてしまったかな? そうだとしたら謝るよ、許してほしい」
「……ちょっと何言ってるか分からない」
傷つけるとかいう問題ではない。事態を混乱させた一因はレオポルドにもあったと思うが、それが全てではないとも思っている。ローゼンガルテン王国とアイネマンシャフト王国はどのみち戦争になった。それが少し早まっただけなのだ。こう思えるのは安全地帯に逃げ込めたからだということはマリアンネも分かっているが。
「怒っているよね? 当然だよ。あのさ、こんなことを言うと余計に君は怒るかもしれないけど……ほんの出来心なんだ」
「いや、出来心って」
出来心という表現は言い訳にしてもおかしい。もしレオポルドが本気でそう思っているのだとすれば。こう考えるとマリアンネの心に消えていた怒りが湧いてきてしまう。
「本当なんだ。彼女はその……不思議な魅力があって……いや、言い訳にしか聞こえないと思うけど……彼女と一緒にいると、なんか理性が……」
「ちょっと、レオポルド? 貴方、何を言っているの? 彼女って……まさか、あの女のこと?」
それこそ何を今さら。ユリアーナとの関係について、今ここで謝られる意味がマリアンネには分からない。
「あの女というのが、ユリアーナのことならそう。いや、こういう言い方は良くないね。僕は心から反省していて。全てを一からやり直したくて……もちろん、君が許してくれたらだけど……」
「……どういうこと?」
この問いはレオポルドではなく、彼をここまで連れてきた有翼族に向けてのもの。ようやくマリアンネもレオポルドの異常さに気が付いたのだ。
「陛下の推測ですが、記憶を失っているのではないかと」
「えっ?」
「彼の記憶は学院時代の途中で止まっているそうです。陛下のことを覚えていないことから、そう判断されました。王妃様に対する態度も、仲が良かった時のものだったとのことです」
レオポルドはここに来るまでにジグルスとリーゼロッテに会っている。処遇についてどうすべきかを現場では判断出来ず、二人のところに送られたのだが、その結果、記憶喪失の疑いが生まれたのだ。
「……原因は?」
「分かりません。戦場で保護された時にはすでに普通ではなかったとのことです」
レオポルドは敵軍の有力者のひとり。その場で即、殺されてもおかしくない立場の彼に対して保護という言葉を使うくらい、普通ではなかったということだ。
「普通ではないって?」
「嫌と助けてを繰り返すばかりで、まったく会話にならなかったと聞いています。それが落ち着いて、会話が出来るようになった時には、今のような状態だったとも聞いております」
「そう……それで、その、陛下は私にどうしろと? 私に会わせる為に連れてきたのでしょ?」
状況はまだよく分からない。いきなり記憶を失ったレオポルドを連れてこられても、何をすれば良いかも分からない。ただ、それについてはジグルスが考えてくれている。そうだからレオポルドはこうして自分の目の前にいるのだとマリアンネは考えた。
「陛下は、記憶喪失は一時的なものである可能性が高いと考えているようです。なんらかの原因で心を追い込まれて、嫌なことを忘れたことにしているのではないかと」
「彼って、あっ、いえ、陛下ってそういう知識もあるの?」
「あの……無理して陛下と呼ぶ必要はありません。我々は皆、人族のように言葉遣いを気にしませんから」
「そうなの?」
マリアンネが呼び方に気を付けているのはジグルス本人ではなく、周りの人に気を使ってのこと。周りに嫌われてはいけないと考えているからなのだ。その気遣いが無用だとなれば、それはありがたいことだ。
「種族によって違いはありますが、そうだからこそ気にしてはいられません。言葉遣いで争いを起こすなど馬鹿らしいことです」
彼がそうであるように有翼族は割と敬語を使う。だがそうでない種族もいる。そのことで種族間の対立を生むなど馬鹿げたことだ。なによりも国王であるジグルスが許さない。
「……少し気持ちが楽になった。彼は敬語を使うなというけど、周りの人にどう思われているのか心配だったの」
「貴女は大丈夫ではないですか?」
「何が大丈夫なの?」
自分の何が大丈夫なのか。マリアンネにはそう言われる心当たりがない。
「意識してのことだとは思いますけど、それでも街の人たちに自分から話し掛けていますよね? 最初は遠慮がちに、でもすぐに本心から楽しそうに。その楽しそうなのが、貴女の素なのだと皆、思っています」
「……そういうの……いえ、悪い評価ではないのはありがたいけど」
「ああ、すみません。それこそ我々の素は、確か田舎者というのですか? 限られた集団の中でずっと暮らしているので、自分たちとは異なる存在に対して、好奇心が強いのです」
本来、魔族はそれぞれの部族ごとに街や村を形成して暮らしている。滅多にあることではないが、よそ者が現れれば村中がその人物に注目。何かあればすぐに噂が広まるのだ。マリアンネについての情報もそれと同じだと彼は言い訳をしている。
「……なんとなくわかった。恥ずかしいのは変わらないけど」
「話を戻しますと、特別何かをして欲しいという話はありませんでした。ただ記憶が戻った時に貴女が側にいたほうが良いだろうということです」
「確かに……レオポルドは貴方たちに対してはどうなの?」
魔族に対する敵視は学院に入学する以前から持っているはず。ノイエーラに置いておくと揉め事を引き起こすのではないかとマリアンネは心配している。
「我々は、といっても私自身はその場にいたわけではないのですが、彼にとって命の恩人だそうです。これも陛下は無意識にそう思い込もうとしているのかもしれないと言っていましたが……この記憶は戻らないほうが良いですね?」
「そうね……そうは言っても、そう都合良く行くかしら?」
マリアンネが視線を向けると、レオポルドは嬉しそうにニコニコしている。学院時代というよりはもっと前、幼い頃に戻ったかのような雰囲気だ。
「小さい頃は大人しい子だったかしら? 私にはその頃の記憶がないわ。まあ……なんとかやっていくしかないわね」
面倒は見られないと放り出すわけにはいかない。ジグルスの考えている通りであれば、レオポルドは嫌な記憶を自ら消し去ろうとしている。彼にとって良い時代に戻ろうとしているということだ。
その気持ちはマリアンネにも分かる。物事がもっと単純で、喧嘩をしてもすぐに仲直り出来た子供時代。仲が良い状態が普通であった時代。その時に戻りたいという気持ちは、これまで何度も心に浮かんでいた。決して叶わない願いとして。