クラウディアの要求をヒューガは、彼女が拍子抜けするくらいに、あっさりと受け入れた。イーストエンド侯爵はクラウディアの側で活動する自由を得たのだ。
もっともその自由には当然、制限がある。イーストエンド侯爵は拠点間を自由に行き来することは出来ない。彼が滞在を許されたのは旧都。旧都の中では自由に動き回れるというだけのことだ。それはクラウディアが同行していても変わらない。彼はアイントラハト王国の国民になったわけではない。変わらずパルス王国の貴族で、客人なのだ。
「……何故、イーストエンド侯を側に置くことを許したのですか?」
今回の措置にエアルは不満を持っている。ヒューガが伸ばしてくる手を払いのけているのは、その不満のせいではないが。
「ディアがそれを望んだ。俺はその望みを叶えただけだ」
何度、エアルに拒絶されても、めげることなく彼女の体に手を伸ばすヒューガ。今度は払いのけられる程度では済ますに、力を込めて叩かれることになった。
「痛ぁ……」
「今はそういう時じゃないでしょ?」
「ええ? じゃあ、何時がそういう時?」
ギゼンたちを失うことになった戦いのあと、ヒューガとエアルがこうして二人きりになるのは今日が初めて。そういう気分になれない、という思いは二人の共通のものだった。昨日までは。
「何時って聞かれても……」
本来、どんな時でもエアルがヒューガを拒むことはない。心も体もヒューガの物。そうエアルは思っているのだ。その自分がヒューガを拒んでいる。その理由を考えたエアルは、少し自分が情けなくなった。
「冗談。エアルに慰めてもらおうなんて考えは駄目だよな」
「……何を慰めてもらいたいのですか? クラウディア様と何か?」
自分に悪いと思ってしまうような原因は何かとなれば、今はクラウディアに関わることである可能性が高い。そして自分がこうして拒絶している理由もクラウディア。自分の立場をわきまえていたはずなのに、こんな行動を取ってしまう自分の弱さをエアルは感じている。
「う~ん。うまく説明出来ないのだけど……思っていたのと違っているという感覚があって。時期が悪かったのかな?」
ようやく訪れた約束の時。だがクラウディアとの関係はなんだかぎこちない。いくつか理由は考えられるのだが、ヒューガは自分自身でうまくそれを整理出来ないでいた。
「……ギゼン殿や他の人々の死に責任を感じているのですか?」
「それはもちろん。今も後悔は消えていない」
「クラウディア様も同じ気持ちを持っているのではないですか?」
クラウディアを助ける為に仲間が死んだ。そのことへの後ろめたさが二人にはあるのではないかとエアルは考えた。これも理由の一つではある。
「それはあるけど、それだけではない。このことは、はっきりと分かる」
「……それ以外の理由を私に求めるのですか?」
他にも思いつく理由がある。だがそれを口にすることはエアルには躊躇われた。
「ディアはパルス王国の人間であることを選ぼうとしている?」
ヒューガにも理由は思いついている。ただ気持ちの整理がつかないだけだ。
「だから……いえ、きちんと話をするべきね。そう思っているなら、どうしてイーストエンド侯を?」
クラウディアに関わる話題を避けるべきではない。それはただヤキモチを焼いている女性としての態度だ。こう考えたエアルは、この話題に正面から向き合うことにした。臣下としてだけでなく、ヒューガを愛する一人の女性としても。ヒューガにとってどうなのかだけを考える、素の自分として。
「深く議論すると結論が出る」
イーストエンド侯爵を側に置こうとするのは、どう考えてもパルス王国の王女としての立場から。それを認めないとなれば、クラウディアに選択を迫ることになり、その結果は望ましいものにならないかもしれない。ヒューガはそれを避けたのだ。
「それは結論を急ぐからよ。クラウディア様がこの国に馴染むには時間が必要。そしてイーストエンド侯の存在はその邪魔をする。分かっていたはずよ?」
ヒューガも分かっていた。だから当初、イーストエンド侯爵の入国を認めず、会うことも避けていた。それで良かったのだとエアルは思っている。ヒューガとクラウディアの関係は、もう一度時間をかけて築き上げていかなければならないものだと考えているのだ。
「その時間は許されているのかな?」
「それは……そうかもしれないけど」
パルス王国にとって残された時間は多くないかもしれない。勝敗が決したわけではないが、状況はかなり厳しいものだ。そしてこの先、さらに厳しくなることをヒューガたちは知っている。
「ディアが一番に望んでいるのは何なのか? その邪魔をするわけにはいかない」
「それでは振り出しに戻るわ」
「振り出しには戻らない。今の俺たちにはやりたいこと、やるべきことがある。あの時とは違う」
何も決まったものがなく、ただ可能性を消さない為だけに離れ離れになることを、クラウディアが一方的にだが、選んだ。だが今は違う。少なくともヒューガの側は、あの時とは大きく状況が変わっている。
「だからこそ話し合う時間が必要よ。今の自分たちで、どうしていくのかを話し合う時間が」
結論を避けながら、それでいてこうして話を急ごうとするヒューガ。決断の速さはヒューガの良いところではあるが、これについてはそうさせてはならないとエアルは思う。エアルも、そう思ってしまう状態であることを感じているということだ。
「……この世界に転生させられたことを恨んでいた」
「ヒューガ?」
そんなはずはない。ヒューガはこの世界に来たことに感謝しているはずだ。
「冬樹と夏には強がって見せたりしたけど、この先どうすれば良いのか、途方に暮れていて、不安で胸が一杯で……」
ヒューガが話しているのは、この世界に転移してきたばかりの頃のこと。それが分かったエアルは、じっとヒューガを見つめている。彼がこのような弱音を見せるのは滅多にないこと。過去のことであったとしても、そうだから尚更、それだけ心に残っている思いなのだと理解した。
「じっとしていられなくて、とにかくやることを捜して、不安を紛らわそうとしていた。そんな時だ。ディアと会ったのは」
ただの弱音ではなく、クラウディアへの想い。少し胸が痛くなったエアルだが、何も言わずに話を聞いている。
「……この世界に来たことを初めて感謝した。この世界でやるべきことを見つけたと思った。自分の転移にも意味があったのだと思えた」
クラウディアとの出会いは、ヒューガの心の影を払ってくれた。不安よりも何とかしなければならないという気持ちの方が強くなった。もし自分の異世界転移に意味があるとすれば、彼女との出会いがそれだと思えた。死なないように努力する、ではなく、この世界で生きていく覚悟を与えてくれた。
「でも……きっと今の俺にとって、彼女が全てじゃない。俺は……薄情な人間だ。人を愛せない」
ヒューガにとって周りは全て敵だった。唯一の存在は自分の弱さのせいで命を落とした。もう人と関わることはしない。世の中にいるのは敵とそれ以外。そんなヒューガの考えをクラウディアは壊してくれた。壊してくれたと思っていた。だが、やはり自分は他人を受け入れていない。それがクラウディアであっても。こんな想いが心に浮かんでしまう。
「……私は貴方に愛されている。愛されていると感じている。私の勘違いじゃないわ。ヒューガ、貴方は私を心から愛してくれている。私はそれを知っている」
「エアル」
伸ばされた手。自分の頬を包むエアルの手の温もりが、冷えていた心を温めてくれる。
「私も貴方を愛している。貴方が私を愛してくれているのと同じ深さで貴方を愛している。ヒューガ、私の想いを感じて。それが私が感じている貴方からの愛情よ」
重なる唇。重なる体。ゆっくりとベッドに倒れていく二人。
(……ふふん。早く大きくなって、ルナも同じことをするのです)
「……ルナ。今、良いところだから」
◆◆◆
パルス王国の東部、イーストエンド侯爵領を奪ったあとの優斗の動きは鈍い。本人に動きがないだけで魔王軍全体としては、元南部貴族たちの軍勢はパルス王国東部の貴族領を奪い取ろうと戦いを続けており、ライアン率いる魔族たちはユーロン双王国と対峙しているパルス王国軍に奇襲をかける為に西に向かっている。行動を起こしていないのは優斗と元傭兵たち。その理由は。
「でっ? 結局、見つけられないってこと?」
不満を思いっきり顔に出して優斗は、報告した元傭兵の部下に問いを向けている。
「……すみません。あちこち探したのですが」
部下に命じた任務がうまく行かなかったことに、強い不満を感じているのだ。
「誰かも分からないのかな?」
「それは判明しました。クラウディア・サラ・パルス。パルス王国の王女です」
「嘘?」
優斗が捜させていたのはクラウディア。彼女の素性を聞いて、不満に代わって驚きが表情に表れた。
「間違いないはずです。王女はイーストエンド侯爵の姪で、この場所で暮らしていました。魔法が得意ということで部隊を率いて戦いに出たことは確認出来ています。特徴からも間違いないだろうと」
「……会っていたはずなのに……どうして覚えていないのだろう?」
パルス王国の王女であれば優斗は会ったことがあるはず。だがその記憶が、驚くほど美しい王女に会ったという記憶がなかった。それが優斗には不思議だった。クラウディアのような女性に会って、自分が覚えていないはずがないのだ。
「パルス王国の王女の噂であれば少し知っています。幼い頃に魔族に攫われたことがあり、それが理由で人前に出ることはなくなったそうです」
「だからか……あれ? じゃあ、どうして彼は彼女を知っている?」
「彼、ですか?」
いきなり彼と言われても部下は分からない。
「日向。黒島日向だよ。どうして僕が知らないのに、彼は彼女を知っているのかな?」
「なるほど……どうしてでしょうね?」
黒島日向の名を教えられても、やはり部下には分からない。ただそれを聞くと優斗が怒り出すと考えて、答えを誤魔化すことにした。誰か分からない相手についての質問など自分が知っているはずがないのだ。
「……城にいた時のことなんて君が知るはずないか。でもパルスの王女か……ますます見つけたくなったな」
外見以外にもクラウディアには価値がある。優斗はそう考えた。
「第一王女ってことですので、正統性は上ですね」
優斗が思いついたクラウディアの価値は、部下にもすぐに分かった。第一王女の夫と第二王女ローズマリーの夫であるアレックス。クラウディアの相手のほうがパルス王国の王になるべきという、やや強引だが、大義名分を作れるということだ。
「ライアンに調べさせれば良かったかな……いや、真面目に探すとは思えない。そうなると……」
ライアンの部下に調べさせても見つかる可能性は低い。そう優斗が思うのは自分の下心が分かっているからだ。美人を手に入れる為なんて理由でライアンが動くはずがない。だからといって諦めたくない。優斗はもう一つの選択肢を考えた。
視線の先にいる人物、新たに味方になった魔族の一人、イエナに頼むという選択肢だ。
「……魔王様。女の子を捜すのは俺の仕事じゃねえと思うけど? 心がウキウキする殺しをさせてくれるっていうのが約束だ」
だがそれはすぐに相手に拒否された。
「パルス王国の王になる大義名分が出来る」
「そんなものなくても勝てる。パルス王国は滅ぼして、新しい国を造れば良いじゃねえか」
大義名分は戦いを楽に進める為のもの。魔王を称する優斗に仕えることには抵抗を感じても、第一王女であったクラウディアの夫に仕えるのであれば貴族側にとっても気が楽だ。降伏する口実として使える。
だがそんなことをイエナは望まない。彼が求めるのは戦い。それもライアンとは違い一方的に相手を殺す戦いなのだ。
「……世界を統べる王にはそれにふさわしい王妃が必要だ」
ここで諦めるには惜しい。クラウディアを捜させる為の口実を考えた優斗だが。
「パルスの王女がそれだと? 魔王様が見た世界はまだごく一部に過ぎない。決めるのは全世界の女を手に入れてからで良いんじゃねえのかな?」
「全世界の女……」
「そもそも一人に決める必要はねえか。それに今は見つからなくても、魔王様が世界を我が物にしてしまえば隠れていられる場所はなくなる。いずれ手に入る女だ」
イエナのほうもなんとか優斗に諦めさせようと説得を続ける。彼は知っているのだ。クラウディアが何者か。見つけてくることは出来ても、簡単には連れてこられない。少なくとも一人でヴラドに挑むような真似はしたくない。
彼は良い思いが出来ると考えて優斗に従っているのだ。何も得ていないのに苦労だけ背負い込むつもりはない。
「……分かった。でもそう言うなら、さっさと戦いを始めてくれないかな? いつまでここにいるつもり?」
「厳しいねぇ。こちらもいつまでも暇を持て余しているつもりはない。仲間はもうすぐ集まる。そしたらすぐに殺しまくってやるよ。その代わり、約束は忘れないように」
「ああ。君に南部を任せる。南部魔王イエナって、良い響きだよね?」
「……ま、まあ」
優斗はイエナに南部を与えることを約束した。他にも味方になる、もしくはこれから味方になる魔族の長に東部魔王、西部魔王、北部魔王という称号を与える予定だ。前魔王の四大魔将とパルス王国における四エンド家の真似事。イエナを味方にする時の思い付きだ。
優斗がイーストエンド侯爵領から動かないのには、味方が揃うのを待っているという理由もある。優斗もイエナと同じ。復讐だけに命をかけるつもりはない。パルス王国を、全世界を自分の物にするというのが本当の戦う目的だ。自分の欲望を満足させる為に戦うのだ。リスクは出来るだけ避けたいという思いが生まれていた。