出陣の準備にアルカナ傭兵団施設は賑わっている。実際の準備は軍政局の仕事で、傭兵団の団員が行うことはそれほどないのだが、大国との戦争を前に気持ちが高ぶっていて、何をするにも騒がしくなってしまうのだ。
鍛錬場も多くの団員で賑わっている。残りわずかな日数で、いきなり強くなれるはずなどないのだが、気持ちを落ち着かせる為に鍛錬を行わないではいられないのだ。
「グズグズするな! ノロマ!」
ただ、体を動かしたからといって、それで全員が気持ちを落ち着かせることが出来るわけではない。苛立ちを他者にぶつけている者もいた。
「さっさと持ってこいよ! ウスノロ!」
「は、はい」
大きな荷物を抱えて歩くボリス。怪力のボリスだ。その歩みは文句を言われるほど遅くはない。怒鳴られていることに怯え、背中を丸めているからそう見えるだけなのだ。
「それでも特殊能力持ちか!? でくのぼう!」
ボリスを罵っている従士たちもそれは分かっている。分かっているから尚更、激しく罵倒してボリスを怯えさせようとしているのだ。彼らがボリスを蔑む理由は妬み。自分たちにはない特殊能力をボリスが持っていることを妬んで、彼を貶めようとしているのだ。
「お前みたいな奴がいると……」
ボリスを罵る言葉が途中で途切れる。そうさせたのは目の前に現れたヴォルフリックだ。
「荷物置け」
「え、あっ、その……」
いきなり声を掛けられたボリスは大いに動揺している。三団対抗戦での不正。それについてまた何か言われると思ったのだ。
「荷物を置けと言っている」
「は、はい」
ヴォルフリックに言われた通りに、持っていた荷物を地面に置くボリス。
「これ投げろ」
「はい?」
ヴォルフリックが差し出したのは鉄で出来た丸い球。いきなり投げろと言われても、ボリスには何の意味があるのか分からない。
「投げろと言っている。目標はあれ。向こうのほうで旗を持って立っている奴がいるだろ?」
「……いる」
かなり離れた場所に白い旗を持って立っている人がいる。ブランドなのだが、そこまではボリスには分からない。
「投げろ」
「……はい。じゃあ……行きます」
鉄の玉をブランドに向かって投げるボリス。だが、大きく弧を描いて宙を飛んだ鉄球はブランドからは大きく左に外れて、飛んでいった。
「お前、目は見えているよな?」
「……はい」
「じゃあ、もう一度だ」
またヴォルフリックは別の鉄球を差し出してきた。それを受け取って投げるボリス。今度はやや右に逸れ、ブランドが立つ位置よりもずっと後ろに飛んで行ってしまった。
「…………」
「……ごめんなさい」
ヴォルフリックにジト目を向けられただけで謝ってしまうボリス。この気の弱さが周囲の嘲りを許しているのだが、性格はそう簡単には変わらない。
「……距離は充分だから良しとするか。今からお前は俺の従士な」
「はあ…………はあっ!? どういうこと?」
まさかの言葉に驚くボリス。この展開はまったく想像も出来ていなかったのだ。
「どういうことって、お前を俺の従士にするってことだ」
「い、いや、そうじゃなくて」
いきなり従士にすると言われてもボリスは困ってしまう。すでに彼には仕えている上級騎士がいるのだ。
「戦争となって慌てて数を増やそうとでも考えたか?」
そのボリスが仕える上級騎士、オトフリートが会話に入ってきた。自分の従士が引き抜かれようとしているのだ。知らない顔は出来ない。
「まあ、そんなところだ」
「俺が引き抜きなんて許すと?」
「思った。彼は従士扱いされていない。召使いが必要なのであれば、他にもっと適任者がいるはずだ」
ボリスは月のチーム内で従士扱いされていない。他の従士たちから雑用係としてこき使われている毎日で、鍛錬も充分に出来ていないことをヴォルフリックは知っている。ほぼ丸一日、鍛錬場にいるヴォルフリックだ。嫌でも分かる。
「……ボリスの立場がどのようなものであろうと、俺に仕えていることに違いはない。主に無断で連れていくなんてことが許されるはずはない」
オトフリートもボリスを評価していない。特殊能力保有者であることで大いに期待していたのだが、それ以外には何もなかったボリス。剣はまともに扱えない。気が弱くて人と争うことも苦手。最初に期待していた分、失望も大きく、他の従士に便利使いされていても何も言わなかった。
だからといってヴォルフリックに引き抜かれることを素直に認める気にはなれないのだ。
「……それもそうか。分かった。俺には彼が必要だ。頼む、譲ってくれ」
こう言ってオトフリートに向かって、深々と頭を下げるヴォルフリック。これには頭を下げられたオトフリートのほうが驚いてしまう。
「……お前」
何故、ボリスの為に頭を下げることが出来るのか、オトフリートは不思議だった。ただこの考えは間違い。ヴォルフリックは自分の為に、愚者のチームの為に頭を下げたのであって、ボリスの為ではない。ボリスはまだ仲間ではないのだ。
「頼む」
頭を下げたまま、再び、オトフリートに頼むヴォルフリック。
「……勝手にしろ」
ヴォルフリックにこんな態度を取られると、オトフリートも喧嘩腰に出られない。頭を下げている相手に嫌がらせをしていると周囲に見られるのも嫌なのだ。
「じゃあ、勝手にする。行くぞ」
「……えっと」
「行・く・ぞ!」
「は、はい!」
戸惑いながらもヴォルフリックに逆らうことはボリスには出来ない。ヴォルフリックに仕えることには、かなりの不安があるが、それでも彼は自分を必要だと言ってくれた。それを嬉しく思う気持ちもある。
仲間のもとに戻ろうと歩き出したヴォルフリックのあとをボリスも付いて行く。その様子を見ているオトフリートの従士たちの心には苦いものが浮かんでいる。役立たずがいなくなってせいせいしたと考える者はいない。いなくなって寂しいなんて思う者もいない。彼らの心に湧いているのは疑問。何故、ヴォルフリックはボリスを選んだのか。
ヴォルフリックが志願してきたクローヴィスやフィデリオをなかなか従士として認めなかったことを彼らは知っている。その後も力のテレルの娘であり、知る人は知る剣の実力者であるセーレン以外は増えていない。ヴォルフリックの従士に選ばれるのは特別なこと。目立つ活躍を見せているヴォルフリックであるので、そういう思いが傭兵団の従士たちの間に広がっていたのだ。
ボリスに対する妬みの感情は、彼が月のチームからいなくなっても消えることはなかった。
◆◆◆
ヴォルフリックの従士になったボリス。歓迎会なんてものはなく、それどころか詳しい事情も一切聞かされないままに、鍛錬をやらされている。他のメンバーとは異なる特別な鍛錬だ。
「駄目。何で分からないかな?」
「ごめんなさい」
ヴォルフリックの問いに対して、申し訳なさそうに体を丸めて、謝罪を口にするボリス。
「謝罪はいらない。その時間もどうすれば良いか考えろ」
「ごめんなさい」
「だから……なんてやっている時間が無駄か。良いか、お前のはただ力に頼っているだけ。活かしていない」
「はあ……」
頼るのと活かすのは何が違うか分からない。だからといって分からないとも言えないボリスだった。
「……具体的に行こう。強力だかなんだか知らないが、お前のはただその力を使っているだけ。それも上半身だけだ。まず、その特殊能力を忘れろ」
「えっ……?」
特殊能力はボリスが人に誇れる唯一のもの。それを忘れろと言われても、素直に受け入れられない。
「遠くに投げるにはどうすれば良いか。単純にそれを考えれば良い」
「でも……僕は人よりも……」
人よりも遥か遠くに投げられている。特殊能力は充分以上に活かされているとボリスは考えている。それを強く主張出来ないのが、彼の気の弱さだ。
「傲慢だな」
「えっ?」
自分とはまったく重ならないはずの言葉。それをヴォルフリックに言われて戸惑うボリス。
「特殊能力を持たない人の努力を考えていない。持たない人が行う工夫を認めないのは傲慢だ」
「…………」
ボリスは唯一自慢できる特殊能力に頼りきっている。それを持たない人のように、周囲の問題はあったとしても、努力をしていない。それをヴォルフリックは傲慢だと表現した。そんな風には思っていないボリスには受け入れられない表現だ。
「……分かった。じゃあ、鍛錬方法を変えよう」
ボリスに自分の言葉が届いていないことをヴォルフリックは感じている。気が弱いからといってプライドが、それも悪い意味でのプライドがないわけではない。それが分かったのだ。
ボリスの正面に立つヴォルフリック。
「殴ってこい」
「はい?」
「どうして一度で通じないかな? 殴ってこいと言っている」
「でも……」
そんなことをすればヴォルフリックは大怪我をする。そう思うボリスは殴れと言われても、「分かりました」とはすぐには言えない。
「……構えるから腕を殴れ。無駄に時間を使いたくないから、さっさと言われた通りにしろ」
呆れ顔でこれを言うヴォルフリック。ボリスの思い上がりに呆れているのだが、彼のほうはそう受け取らない。言うことを聞かない自分に苛立っているのだと考えて、仕方なく構えをとった。
それを見たヴォルフリックも構えを取る。下半身を固めた上で、目の前で腕を交差させた。
「……来い」
「はい……」
言われた通りにヴォルフリックに殴り掛かるボリス。だがその勢いは弱く、ヴォルフリックの体はびくともしない。
「……じゃあ、次はもう少し強くしてみろ」
全力でなんて言ってもボリスは言うことを聞かない。そう考えたヴォルフリックは少しずつ力を入れさせることでボリスの抵抗を失くそうと考えた。
言われた通りに先ほどよりは少し力を入れて、殴り掛かるボリス。やはりヴォルフリックはびくともしない。
「次」
さらに力を入れて。結果は変わらない。次も同じ。その次も。徐々にボリスの頭の中で「こんなはずでは」という思いが強くなる。とうとう腕が空を切る音が聞こえるようになっても、ヴォルフリックの体は動かなかった。
「そろそろ、全力で来たらどうだ?」
「……はい」
自分の特殊能力が通じない。それは自分の価値を無にしてしまう結果。その焦りがようやくボリスの抵抗感を消し去った。拳を固く握りしめて構えを取るボリス。両目をつむって大きく深呼吸して、気持ちを集中させる。
「うぉおおおおっ!」
雄たけびをあげて大きく足を踏み込むと、全力で上半身を振り回す。ブンという風切り音と地を揺らすような衝撃音が重なる。ヴォルフリックの足元から立ち上がった土煙。ボイスの拳がヴォルフリックの交差した腕に叩きつけられたその瞬間、眩い光が見ていた仲間たちの目をくらませる。
――それが収まった時、その場に立っていたのはヴォルフリックだけだった。
「……そ、そんな」
全力を込めたはずの拳がはね返された。信じられない事態に、地面にあおむけに倒れたまま、ボリスは呆然としている。ただ呆然としているのはボリスだけではない。横で見ていたクローヴィスもセーレンも、上位の鍛錬方法を教えたフィデリオも驚きで目を見張っている。平然としているのはブランドだけだ。
「努力で人はここまでになれる。特殊能力はその努力の上にあってこそ活かされるものだ」
特殊能力は常人では到達できない領域に保有者を持ち上げてくれる。だがそれは常人で到達できる領域まで自らの努力でたどり着いた結果。これがヴォルフリックの、ギルベアトの教えを受けた孤児たちの考えだ。
黒狼団の仲間たちはヴォルフリックが人の何倍も努力してきたことを知っている。だから彼らは特殊能力保有者であるヴォルフリックを羨む気持ちが薄い。特殊能力の有無を考える以前に、ヴォルフリックの努力に追いつかなければという思いがあるのだ。
「残りの数日でなんとかなるなんて考えていない。だからといってその数日の努力を怠ったら、いつまで経っても強くなんてなれない。俺はそう思う」
ボリスに自分の言葉が届いているか。それは今、本人に聞いても分からない。これから先の何か月、何年かもしれない先に結果が出るものだ。今日はこれ以上のことは無理。そう考えてヴォルフリックは自分の鍛錬に戻ることにした。
ボリスから離れるヴォルフリック。その行く手を遮る人がいた。
「……ん?」
小柄なその人。ヴォルフリックが初めて見る、肩に烏を乗せたその人は黙ったまま、じっと見つめている。と思うのは顔の向きからヴォルフリックがそう思うだけで、実際には長く伸びた前髪が両目を隠していて、どこを見ているのかよく分からない。
「伏せ!」
「……はっ?」
いきなり発せられた声。ヴォルフリックにはまったく意味が分からない。
「……通じないか。それはそうだな。黒狼と呼ばれていても人間だ。シュバルツとは違う」
「はい?」
シュバルツはヴォルフリックの本名。貧民街で隠れ住む為にギルベアトがつけた名であるが、彼自身は本名だと思っている名だ。
「大丈夫かな? 危なくないかな?」
「あの……何か用?」
まったく会話として成り立っていない。相手は独り言を呟いているだけだ。
「……おおっ? 私に話し掛けた?」
「何故、驚く? よく分からないけど、俺に何か用か?」
「お前はヴォルフリックだな? 黒髪だし、目も青。間違いないはずだ。黒狼団っていう組織のリーダーをやっている」
「……最後のはコメントできないけど、ヴォルフリックではある」
黒狼団のリーダーであることはアルカナ傭兵団に来てから話をしていない。すでにその事実は知られていてもおかしくないと考えてはいたが、こういう形で露見していることが分かるとはヴォルフリックも思っていなかった。
「私はキーラ。お前に伝書烏を預けに来た」
「ああ……傭兵団の」
伝書烏は獣使いの特殊能力を持つ上級騎士が操っているとヴォルフリックは聞いている。その伝書烏を肩に乗せて連れてきたキーラは、とてもそうは見えないが、アルカナ傭兵団の一員だということだ。ちなみに女性だ。
「特別速く飛べる伝書烏だ。私の大切な友達だから食べるなよ?」
「普通食べないから」
「そうか? シュバルツは時々、食べたそうにしているぞ?」
「あのさ、そのシュバルツって?」
自分と同じ名を持つ人がいるなど、ヴォルフリックは知らなかった。今の話だけでキーラと同じように変わった人であるのは間違いないようだとヴォルフリックは思ったのだが。
「私の友達。黒い狼だからシュバルツ。シュバルツは古語で黒いって意味だ」
「あっ、そう……」
黒髪だからシュバルツ。ギルベアトは孤児らしくわざと単純な名にしたのだが、それを聞かされていないヴォルフリックは、彼の語彙力のなさを恨むことになった。
「会いたかったか? 同じ狼、喧嘩になると困るから連れてこなかった」
「喧嘩……そうかもしれないけど、同じ黒狼なら友達にもなれる可能性もあったな」
何故、自分を人間ではなく狼として話をするのかヴォルフリックには、まったく理解できないが、それを指摘してもキーラには通用しそうもないので、話を合わせることにした。
「……友達になりたかったか?」
「なれるのであれば」
「そうか! じゃあ、次は連れてくる! 仲良くなれると良いな!?」
「おっ、おう」
適当に話を合わせたつもりが、キーラはとても喜んでしまっている。引くに引けない状況になってしまったと思って、ヴォルフリックは戸惑っている。狼と友達になれる自信がないのだ。
「約束だからな。だから必ず生きて帰って来いよ」
「ああ。ありがとう」
「御礼なんて……照れるだろ? 私はもう行く。じゃあな」
顔の下半分を、見えていないが恐らくは上半分も、真っ赤に染めてキーラはヴォルフリックから離れようとする。恥ずかしくて、これ以上この場にいられないのだが。
「烏! 伝書烏は!?」
伝書烏を肩に乗せたままだ。
「おおっ? そうだった……お前を救うかもしれない友達だ! 大事にしろよ!」
特にキーラが何かをした様子はないのだが、伝書烏は彼女の肩を離れて、ヴォルフリックの肩に止まった。その場で軽くひと鳴き。挨拶でもしているのかと思って、ヴォルフリックもよろしくの言葉を呟く。
「ヴォルフリックってさ」
「そうですね」
そのヴォルフリックを見ながらこそこそ話をしているのは、セーレンとクローヴィスだ。
「何だ? 文句があるなら堂々と言え」
「文句じゃなくて……キーラさんは動物以外とはまともに話すことが出来ないって聞いていたのに……ヴォルフリックは次の約束までしてみせた」
「はい?」
「きっと獣に近いのね?」
「…………」
絶句するヴォルフリックの代わり、ではないが、伝書烏がまたひと鳴きする。気にするな。そんな風に言っているように聞こえたヴォルフリックは、セーレンが言うように動物に近いのかもしれない。