ライアン率いる魔族の部隊はパルス王国の中央部を大きく迂回する形で北部から西部に向かっている。ユーロン双王国と対峙しているパルス王国軍に奇襲をかけるという作戦はパルス王国も想定したものだが、現時点ではその動きは掴まれていない。
イーストエンド侯爵領を北上。ドュンケルハイト大森林の外側にある森林地帯を移動して、北部に入る。そこから進路を西に変え、パルス王国の北縁部にある、これもまた森の中を突き進んでいる。途中までは前回のパルス王国との戦いが敗北に終わったあと、旧魔族領から逃れる時に使った経路を逆に進む形。旧魔族領の入り口辺りからは、かつてヒューガたちがエルフ奴隷解放を行っていた時に使っていた移動路を、たまたまだが、使っている。進路を予測していなければ捕捉することは難しく、パルス王国はそれが出来ていない。
予測していても完全に捕捉することは難しい。ライアンは見つけられるのを防ぐ為の備えを怠っていない。配下の者たちを部隊周辺に配置して、近づく者のないように警戒させているのだ。
「今のところ、捕捉された形跡はありません。先の様子も確かめておりますが、警戒すべき存在はいないと考えております。ただし、パルス王国に限ってのことです」
警戒網を構築している部隊の責任者、淫魔の女性が定期報告を行っている。これまでの報告とは少し違う。パルス王国に限って、ということはそれ以外には捕捉された可能性があるということだ。
「……大森林か?」
「ヴラド様がアイントラハト王に仕えることを決めたのであれば、そうなります」
動きを掴まれた相手はヴラド。そうなるとライアンも不手際を責めることは躊躇われる。ヴラドの間者としての能力は高い。時と場合によっては淫魔族も負けるものではないが、総合力ではトップクラスだ。
「……それはないと思うが」
「何故ですか?」
「何故?」
ヴラドがヒューガに仕えるはずがない。この考えは「何故」と問い返されるようなことではないとライアンは考えている。
「……誰とは申しませんが、このままで良いのかと疑問を感じている者たちがいます」
「誰とは聞かん。だが何に対して疑問を感じているのかくらいは教えてもらえるのだろうな?」
ライアンの方針に疑問を持っている者がいる。それは誰かと聞いても相手が答えないことはライアンも分かっている。答えるつもりがあるなら、わざわざ「誰かは話せない」という前置きをつける必要はない。回りくどい言い方などせず、組織を乱す不満分子として報告してくるはずなのだ。
「あの男が魔王を名乗っていることです」
「なるほど……それであれば、そう遠くないうちに解決する。あの男は魔王からパルス国王、もしくは新しい国の王だと宣言するはずだ」
優斗には魔王であることの拘りなどない。パルス王国の人々を恐れさせる為、皮肉も込めて、魔王を名乗っただけだ。支配がもう少し落ち着けば、自分は国王だと言い出す。ライアンにはそれが分かっている。
「そうですか。それについては納得しました」
この言い方は不満を持っているのが本人であることを示している。だがそれを指摘するつもりもライアンにはない。彼女一人の考えではないことは分かっている。
「それとヴラドがアイントラハト王国に仕えることに、どんな関係がある?」
優斗が魔王を名乗っていることと、ヴラドがヒューガに仕官することの繋がりがライアンには分からない、
「……魔王を名乗るに相応しいのは誰かという話があります」
「なるほどな。そういうことか」
魔王に相応しいのはヒューガ。彼女を含めて、こう思っている人たちがいる。この事実に驚きはない。ライアンも、どうしても魔王に相応しい人物を一人あげろと言われれば、ヒューガを選ぶ。
「あの方は、魔王様の御気持ちを理解している。実際にどうかは、あれだけでは分かりませんが、理解しようとしていることは間違いありません。それを多くの者たちが知ってしまいました」
魔王に相応しいのはヒューガだと思っていても、彼に信奉が集まるのは問題だという認識はきちんと持っている。味方が大量に大森林に流れてしまっては、戦いを継続出来なくなってしまう。
「……魔王様の意思を継ぐとすればそれはヒューガ。そうであればヴラドが仕える可能性はあるか……だがヴラドが生きる理由は他にある」
前魔王の死に際して、四大魔将のうち二人が死を選んだ。ライアンは満足できる戦いを求めて。そしてヴラドはクラウディアの為に生きることを選んだのだ。
「その理由となる女性は大森林に入りました」
「だからといって王妃になるとは決まっていない」
「そうですか?」
クラウディアとヒューガは、正式なものではないが、婚約している。そのような約束を二人は交わしているのだ。その二人がとうとう同じ場所で暮らすことになった。約束の時が来たはずだ。
「……彼女ははたしてアイントラハト王国の王妃に相応しいか? そうではない女性を王妃にしたとすれば、ヒューガは魔王に相応しくないと言える。かといって約束を破談にするのもな……どうなるかは分からんな」
ライアンはクラウディアに対して不信感を持っている。魔族の道理をわきまえている特別な人族、という評価を消し去ったのだ。
「ライアン様はそうお考えですか……確かに」
「結ばれないわ」
その通りかもしれない、と続く言葉を遮ったのは美理愛だ。ヒューガとクラウディアは結ばれない。美理愛はそう断言した。
「貴女に何が分かるのですか?」
二人の関係を断言できるだけの何を美理愛は知っているのか。知っているはずがない。ましてヒューガがクラウディアの代わりに美理愛を選ぶはずがない。そう思ったのだが、そこまで美理愛は愚かではない。
「……日向くんに相応しいのはエアルさんよ。私はそう確信した」
この人には敵わない。エアルは美理愛にそう思わせた。ヒューガへの気持ちを失ったつもりは美理愛にはないが、ヒューガの隣を争うことなど、綺麗サッパリ諦めてしまっている。
「自分だと言わない分別はありましたか。でも……私も含め、他人が分かることではありませんね」
どういう結果になるかは当人たちが決めること。王という立場にあるヒューガに選択の自由はないとは彼女は思わない。政治とは異なる何かで決まるものだと、漠然とだが、感じているのだ。
「結論の出ない議論をいつまでも行っていても時間が勿体ない。ヴラドは何を調べに来たのだ?」
「暇つぶしとおっしゃっていました」
「はっ?」
暇つぶしの為に偵察に出てきた。ライアンには理解出来ない行動だ。
「一応、理由はあります。クラウディア殿の為にパルス王国の状況を調べたい。だが今、クラウディア殿の側にはパルスのイーストエンド侯がいるようです。情報を求めているのはクラウディア殿よりもイーストエンド侯。彼の為に行動している形にはしたくないとのことです」
「こじつけだな……必要なのか?」
クラウディアに危害が及ぶ事態にならない限り、ライアンたちの戦いの邪魔をヴラドはしたくない。だがパルス王国の重臣であるイーストエンド侯に情報が伝わる結果になれば、邪魔することに繋がる。だから暇つぶしに散歩していたら、たまたま知った。こういう建前を作ろうとしているのだとライアンは理解した。
「ヴラド様なりに筋を通そうとされているのではないですか?」
魔族にとっては大切なことだ。こじつけであろうとなんであろうと裏切りという形にしたくないのは当然のこと。
「ヒューガが絡む事態になれば意味のないことかもしれない」
「精霊の言葉ですか……」
ヒューガに過去の約定は無意味。世界に彼は裁けない。ルナはこう告げた。にわかに信じられる内容ではないが、精霊であるルナが発した言葉なのだ。完全に否定も出来ない。
これもまた魔族たちがヒューガを特別視する理由。戦って良い相手なのか。こんな不安を掻き立てられる大きな原因だ。
「あの男のことは考えても無駄なのかもしれん。普通でないのは間違いないが、それ以上のことは分からん」
「その普通でない日向くんと戦うのですか?」
美理愛としてはヒューガとの戦いは止めてもらいたい。ライアンたちとは長く一緒にいて、ただ恐ろしいだけの人たちでなくなっている。仲間意識とまではいかないが、それに似た感情が生まれてきているのだ。
「……約束がある」
ヒューガと戦うこととは別に、ライアンには優斗に協力していることへの嫌悪感が生まれている。乗り気ではなくなっているが、約束は守らなければならない。仕方なく、という気持ちが強くなっているのだ。
「そんな約束は……守るべき約束なのですか?」
「守らなくて良い約束などない。それに今の世界が気に食わんのは俺も同じだ。あの男はやり方はどうであれば、その気に入らない世界を壊そうとしている。その点では協力する意味はある」
「でも……」
自分たちを騙し、奴隷にしようとしたパルス王国に復讐する。その気持ちは美理愛も分からなくはないが、それに正義はない。優斗のやり方は正しいものではない。美理愛もそれに関わる一員であることが苦痛になっている。
約束を無効にする方法がないわけではない。だが、美理愛にはまだその覚悟が出来ていないのだ。今の優斗は裏切り者を許さない。それは自分であっても同じ。その恐怖を乗り越える強さがないことが美理愛は悔しかった。エアルであれば。そう思って劣等感が膨らんでしまうのだ。
◆◆◆
東の拠点に部屋を持つことになったクラウディアだが、すぐに南の拠点に戻ることになった。イーストエンド侯爵の要請による、一時的な移動だ。
イーストエンド侯爵としては自分の領地を取り戻す為に、パルス王国を守る為に、なんとかしてアイントラハト王国の力を利用したい。クラウディアはその為の、彼にとっては、切り札だ。引き離されたままの状態は望ましくない。
「軍と呼べるのは四百ほどか……実力はどう見えた?」
アイントラハト王国軍はわずか四百名。実際は異なるが、ほど。クラウディアからこの情報を得て、イーストエンド侯爵は落胆を見せている。
「強い、と思う。実戦形式の訓練は見られなかったけど、ひとりひとりの実力は高いと思うわ」
クラウディアが訓練の様子を見たのは一度きり。アイントラハト王国内を案内された時に見ただけだ。それでも個々の能力がかなり高いことは見て取れた。
「魔族を抑え込むだけであれば、その数でもなんとかなるか」
魔王軍の内、魔族は五百から六百。四百では数に劣るが、それでも役に立つとイーストエンド侯爵は考え直した。魔族を除けば、あとは裏切った小貴族家の軍。決して強いとは言えない小貴族家の軍が相手であれば、逆に味方のほうの数が少なくても対応出来る。その浮いた戦力を魔族との戦いに向ければ良いのだ。
「……すぐに戦うとは限らないわ」
厳しい訓練を行っていた。だからといって、すぐに大森林を出て、魔王軍と戦うとは限らない。きちんとヒューガに確認したわけではないが、クラウディアには戦争に向けた雰囲気のようなものが感じられなかった。
「何故だ? この間の戦いで、味方を失ったのではないのか?」
優斗とヒューガは敵対関係となったはず。戦いを躊躇う理由がイーストエンド侯爵には分からない。分からないというより、自分にとって都合の悪い状況を受け入れる気がないのだ。
「……敵を討つという気持ちはあると思う。でも、勝つための準備には時間が必要よ」
味方を殺されたことに激高して、戦いを仕掛ける。そんな様子はヒューガにはまったく見られない。意外と冷静、というのがクラウディアの感想だ。そんな状態の彼が、今、戦いを仕掛けるとはクラウディアには思えない。
「準備が出来るのを待ってはいられない。今も領民たちは魔族の支配に苦しんでいるはずだ。なんとしてでも止めないとその苦しみは全国に広がってしまう」
「そうだけど……」
それはパルス王国の人々の苦しみ。アイントラハト王国の人々には関係ない。この言葉をクラウディアは声にしなかった。それを聞いて、イーストエンド侯爵が納得するはずがない。
「クラウ。お前はパルス王国の王女として人々を苦しみから救わなければならない。その為に出来ることの全てを行わなければならないのだ」
「私は……」
パルス王国の王女ではない。その地位はとっくに捨てているつもりだ。
「分かっている。だが、クラウも考えてみてくれ。魔王のせいで多くの人が苦しんでいる。何もしなければ、その数はさらに増えていく。そんなことを許して良いのか?」
「それは、駄目だけど……」
優斗の行いは間違っている。彼の行動を止めなければならない。クラウディアもそれには同意だ。だが、クラウディア本人に止める力はないのだ。
「……ヒューガと共に立ち上がって欲しい。パルス王国の王女に戻ったからといって、彼との関係を終わりにする必要なんてない。二人で協力して、人々を救えば良い。戦いが終わった後も」
ヒューガとクラウディアのどちらが王になっても良い。とにかく二人がパルス王国を統治する。その形をイーストエンド侯爵は望んでいる。今思いついたことではない。ずっと以前から考えていたことだ。
「……王は他にいるわ」
パルス王国の王はアレックス。クラウディアとヒューガの二人でパルス王国を統治するという形にするには、彼の存在は邪魔になる。
「謀略で玉座を奪った者だ。先王の死にも関わっているかもしれない」
アレックスの正統性をイーストエンド侯爵は否定する。クラウディアを玉座に据えるには、そうでなければならない。
「……そういえば、エリザベートがいるわ」
父親を死に追いやった謀略。その話になったことで、クラウディアはエリザベートのことを思い出した。
「それはどういうことだ?」
「彼女はアイントラハト王国で暮らしている」
「なんだと……生きていたのか……?」
エリザベートの流刑地はドュンケルハイト大森林。いてもおかしくないのだが、イーストエンド侯爵はとっくに死んでいるものと思い込んでいた。
「そうみたい」
「彼女は何をしている?」
「……ヒューガのお世話係みたい」
詳しいことはクラウディアも分かっていない。ヒューガに聞く気になれなかったのだ。
「それはいかん。あの女をヒューガの側に置いておくのは危険だ」
何を企むか分からない、油断のならない女。イーストエンド侯爵のエリザベート評も当然、かなり悪い。彼にとっては、妹を殺した憎むべき存在なのだ。
「ヒューガに何かあってからでは手遅れだ。すぐにあの女を遠ざけろ」
「私が?」
「お前は王妃になる身。その権利はある。それにこれはヒューガの、この国の為でもあるのだ。正しいことを行うのに、躊躇うことはない」
これはイーストエンド侯爵の本心だ。エリザベートは国を傾ける。そういう女性を側に置いておくなどあってはならないと本気で思っている。
「……そうだね」
そしてその考えはクラウディアも同じ。母の、そして父の敵であるエリザベートを許す気にはなれない。
「なんとかヒューガに頼んで、私を側に置いてくれ。私を側に置くことは、この国の為になる。いずれクラウと共にパルス王国を統べることになるヒューガの為であれば、私は身を粉にして働こう」
「……分かった。話をしてみる」
イーストエンド侯爵が優秀であることは間違いない。その彼がヒューガの為に働くことは悪いことではないはずだ。エリザベートのこともある。彼女がパルス王国でどれだけの悪事を働いたかを説明してもらうのも良いとクラディアは考えた。
もちろん不安はある。はたしてヒューガは受け入れてくれるのか。会わせる前であっても、相性が良くなさそうであることは分かる。
だがそれでもクラウディアはイーストエンド侯爵の為に動くことを選んだ。クラウディアは知ってしまったのだ。チャールズが魔王軍と戦っていることを。彼には大森林に逃げ込むつもりがないことを。
自分だけではヒューガを説得する自信がないクラウディアは、味方を必要としていたのだ。