ヒューガが政務から遠ざかってしまうとその分の負担のほぼ全てをカルポが背負うことになってしまう。特に明確な定めはないのだが、アイントラハト王国において、王であるヒューガに次ぐ高位にあるのは季節の軍を任されている四人、エアル、カルポ、冬樹、夏ということになんとなくなっている。その中で政務を行えるのはカルポ一人。実務はそれぞれ専門家がいるのだが、そこから上がってくる様々な事柄の決裁を行う人が必要で、四人の中でそれがきちんと出来るのがカルポということだ。カルポ本人は自分が出来ているのではなく、他の三人が軍事に特化し過ぎているだけ、と考えているが。
とにかくまとめ役は必要で、それはカルポが担っている。各部署からの報告を受けて、それを各拠点の責任者と共有する。定期的に行われている、この会議の進行役もカルポだ。
「心配していた結界について、問題が起きている様子はありません。ゲノムスも問題ないと言っているので、間違いないと思います」
ルナはその力を大きく損ねた。それにより大森林内の結界が揺らぐことを心配していたのだが、それは幸いにも稀有に終わった。
「他の四人が頑張っているということ?」
カルポの説明に対してセレネが問いを返してきた。結界はアイントラハト王国を成立させる上で絶対に必要なもの。問題がないのであればそれで良い、では終われない。セレネ本人は良くても、西の拠点の人たちを安心させる為には詳しい状況を知っておく必要がある。
「それもありますが、ルナもある程度は結界に関わる力を残していたようです」
「意外とちゃんとしているのね?」
「王の国を守ることもルナにとっては大事。そういうことなのだと思います」
ヒューガの為がルナの全て。その「ヒューガの為」にはアイントラハト王国を守ることも含まれているのだとカルポは考えている。セレネは意外に思っているが、ルナの中ではきちんと整理され、決められていることなのだと。
「言い方を変えれば、ヒューガが王だから結界を守っているということね?」
「当然です」
「……王でいてくれるかしら?」
今回の件に責任を感じて、玉座を降りるなんて考えてもらっては困るのだ。
「王がどう考えようと王は王です。どこにいようと何をしていようと、あの方は大森林の王。これは変わりません」
「西も同じ考えよ。皆が王であり続けてくれることを望んでいるわ」
ヒューガがいなければアイントラハト王国は成立しない。これは皆が分かっていることだ。
「場合によっては戦死者の家族に説得を頼むつもりです。バーバさんにはもう相談済みで、了承を得ています」
ヒューガをアイントラハト王国に繋ぎ止める為に、カルポは手段を選ばないつもりだ。近親者を失って辛い思いをしている人たちでも利用する。そう決めていた。
「……その必要はない」
「王!?」
割り込んできた声はヒューガのもの。突然現れた彼を見て、カルポたちは驚きの声をあげた。
「辛い想いをしている人たちにそんな真似をさせるつもりはない。俺よりも優先すべきはその人たちの気持ち。その人たちに何をするべきかを考えろ」
「分かりました。考えてみます」
「……まずは俺が会いに行く。その人たちにとって良いことなのかは分からないけど、何もしないわけにもいかないと思う」
近親者への謝罪。ヒューガは、もっと早くに行うべきだったそれに向き合う覚悟をようやく決めた。
「それは王として、と考えて良いのですね?」
「王を守る為。気休めにもならないかもしれないけど、無意味な死には出来ない」
王を、国を守る為に戦死した。こうすることに意味があるのかはヒューガには分からない。だが、何の為に亡くなったのか分からないという状態よりはマシだろうと思ったのだ。
「承知しました。名簿を準備します」
戦死者の近親者について話しているこの場面では笑みを浮かべてはいけない。カルポはこう思っているのだが、完全には抑えきれていない。ヒューガは王であり続けることを決めている。それを知って、安堵と喜びが心に沸き上がっているのだ。
「外の様子は何か分かっているか?」
「元勇者はイーストエンド侯爵領を占拠しました。ただ、それ以降は大きな動きは見られません。さすがに防諜が固くて。人員を増強致しますか?」
魔族相手では、情報収集は容易ではない。かといって、ヒューガからの指示がない状況では、諜報部門に無理をさせるわけにもいかなかった。
「……いや、良い。知りたいのは、大森林に攻めてくるつもりがあるかどうかくらいだ。それも、無理して探る必要はない」
大森林に侵攻してくるかどうかは、守りの固い拠点に侵入しなくても分かる。たとえ魔族であろうとも、ルナたちに気付かれることなく結界内に侵入することは出来ないはずなのだ。
「他国も今はまだ動きを見せていません。この事態にどう対応すべきか、なかなか結論が出せないようです」
「ユーロンは?」
ユーロン双王国はすでにパルス王国と戦争状態。南部だけでなく東部でもパルス王国が敗北したとなれば、必ず大きな動きを見えるはず。そうヒューガは考えた。
「ユーロンの情報はまだ届いていません。パルス王国東部の状況が、ユーロン双王国に届いているかどうかも分かりません」
対応を検討する前に、まずパルス王国東部で何が起きたかを知らなければならない。すぐ近くのマンセル王国であればまだしも、西のユーロン双王国に詳細な情報が伝わるには時間がかかるはず。距離だけの問題ではなく、パルス王国は当然それを妨害しようとするはずだ、
「それもそうか……分かった。後は何か?」
「外の状況に変化が現れるのは、もう少し先だと思われます。まだ事態の詳細を把握している国はなく、当事国であるパルス王国でもきちんと把握しているのか怪しいものです」
「今後の動きの中で影響があるのは……マンセル。次がマリか。レンベルクにはこちらから伝えたほうが良いか」
優斗が攻め込んでくること以外で、アイントラハト王国に影響があるのはマンセル王国との関係がどうなるか。マリ王国がどう動くか。そうヒューガは考えた。
「レンベルク帝国への使者はグラン殿でよろしいですか?」
「ああ。それが良い」
「それと……」
他にもヒューガに伝え、判断を仰がなくてはならないことがある。だがそれを口にすることをカルポは躊躇った。
「何?」
「その……クラウディア様はどう致しますか?」
「えっ? ディア?」
カルポの口からクラウディアの名が出たことに驚くヒューガ。本来は驚くようなことではないのだが、心の備えが出来ていなかったのだ。
「今は他の方たちと共に南の拠点にいて頂いています」
「南の拠点……他の方というのは?」
当時、かなり気持ちが動揺していたヒューガだが、イーストエンド侯爵家の人々が大森林までついてきてしまったことは知っている。どうすべきか考えがまとまらず、とりあえず西の外れの結界内にとどまることまでは許可したはずなのだ。
「イーストエンド侯と候の側近と思われる人たちです」
「入国を希望している?」
「はい。それだけではないのですが、とりあえず私の独断で南の拠点にご案内しました」
イーストエンド侯爵が強く求めた結果だ。入国はヒューガの許可がない以上はどれだけ強く言われようが認められないが、ずっと森の中で野営という待遇を改善するという理由で、南の拠点に入れていたのだ。
「……その入国はどういう立場で?」
「確認は出来ておりません。とにかく王に会わせろを繰り返すばかりですので」
「じゃあ、まずはそれを確認するところからだな。まあ、聞かなくても分かるけど」
アイントラハト王国の民になりたい。イーストエンド侯爵がそんな考えを持っているはずがない。パルス王国の大貴族として、ヒューガに面会を求めているのだ。
「承知しました。クラウディア様は?」
「ディアか……サキさんはどう思う?」
クラウディアの入国を認めるかどうか。それをヒューガは南の拠点の責任者、リリス族のサキに尋ねた。
「彼女に関しては私が判断することではございません。王はすでに約束をなさっているはずではありませんか?」
入国審査はサキの管轄。だがクラウディアについての判断を彼女は管轄外とした。ヒューガは隣の席をクラウディアの為に空けてある。それを自分が否定することは出来ないと。
「……確かに。ディアが望むなら入国を許可して。ただし、同行者は認めない」
サキの答えの意味を、ヒューガは少し考えた。約束がなければどうなのか。クラウディアのことをリリス族はどう見ているのかを。ただ、人の心を読む術のないヒューガでは、正解は分からない。
「……分かりました。そう伝えます」
カルポもヒューガの心の内を読み取ろうとした。何故、ヒューガはクラウディアの入国についてサキに意見を求めたのか。無条件で彼女の入国を認めようとしなかったのか。
考えても答えは得られない。ヒューガに尋ねる気にもなれない。答えを知りたい気持ちと知りたくない気持ち。今はまだ、相反するその思いが拮抗しているのだ。
◆◆◆
空に浮かぶ白銀の月。その美しい輝きを見ることはバーバラには出来ない。彼女の瞳はその光を映してくれない。それでも彼女は夜空を見上げている。遠い記憶を呼び起こし、かつて見た月の姿を頭に思い浮かべている。隣に立ち、一緒に夜空を眺めていた人の姿が、見えないはずの瞳にはっきりと映っている。
「……少しは元気になったか?」
近づいてきた足音。それに向かってバーバラは夜空を見上げたまま、声をかけた。
「それは俺の台詞じゃないか? それともまだ聞くには早いか?」
ギゼンを失った悲しみはバーバラのほうが遥かに強い。心配されなければならないのは彼女のほうだとヒューガは思う。
「……寂しくないと言えば嘘になる。だがな、お主が思っているほどではない。儂もギゼンも十分に長生き出来たと言える年齢だ」
「そうだとしても、死の時は少しでも先のほうが良かった。それなのに俺のせいで……」
「お主のせいではない。お主のおかげだ。お主はギゼンに死に場所を与えてくれた。戦いの場で死なせてやってくれた」
ギゼンは最後の時まで剣士でいられた。バーバラは彼がそれを望んでいたことを知っている。優斗の人間性を無視すれば、彼の強さは最後の相手として相応しいものであったはずなのだ。
「……誰も俺を責めてくれない」
ヒューガは戦死した人たちの関係者に会ってきた。バーバラは最後の一人なのだ。
「それを望むのは甘えだ。仮に王を責めたとして、それで悲しみが消えると思うか? それとも自分の気持ちを晴らす為か?」
「それは…………そうだな。バーバさんの言う通りだ」
バーバラの言うような気持ちが確かに自分の心にあった。それにヒューガは気が付いた。死なせてしまった罪は、そんなことで薄れるものではない。薄れさせてはならない。
「戦死者が出るたびに、そのように落ち込んでいては事が進まない。今の気持ちを無くせとは言わない。だが、それを押し殺す強さは持つべきではないか?」
「…………」
バーバラの言うことは分からなくはない。だが、この先も仲間を死なせてしまうような事態を起こすつもりはヒューガにはない。ただそれを言葉にすることも出来ない。
「なるほど……お主はまだ定まっていなかったのだな?」
「そうなのかもしれない」
バーバラの言う「定まる」が何を指しているのか、未だにヒューガは分かっていない。王として生きる覚悟は決めたつもりだった。だが、その気持ちは仲間の死で大きく揺らいでいる。決めたはずの覚悟はその程度のものだった。
「以前はその時を待ってやれたが、今はそういうわけにはいかん」
「何故?」
「お主はギゼンがその命を捨てて、守った男だ。お主にはそれだけの価値がある。そう思って、ギゼンは死んだのだ。その死を無意味なものにされては困る」
剣士として死んで行ける場を求めて。それだけでギゼンは命を捨てたのではない。ヒューガを失ってはならない。なんとしても無事に連れ帰らなければならない。そう考えての行動だ。
「……俺に何の価値がある?」
「多くの人々を導く力。弱者を哀れみ、それを救う力。常識を打ち壊し、変革を生み出す力。この世界の全ての人々に生きる意味を与える力。死ぬ意義を与える力。お主には他の何者も成し得ないことを実現する力がある」
「俺は……」
そこまでの人間ではない。ヒューガはこれを声に出来なかった。バーバラの声が、その体から放たれる雰囲気が、それを否定することを許さない。何故だか、そんな思いが心に広がった。
「お主が躊躇えば、それだけ長く世の中は乱れる。お主ももう分かっているのではないのか?」
少なくとも優斗にこの世界を任せるわけにはいかない。彼が支配する世界が良いものとは思えない。そうであれば、誰かが彼を止めるのか。
「……多くの人が死ぬことになる」
戦争が、これまでとは異なる大規模な戦争を引き起こすことになれば、今回とは比べものにならない犠牲者が出る。そんな戦いを自ら引き起こすことにヒューガは躊躇い、恐れを抱いているのだ。
「お主の為すべきことはそんな単純に計れるものではない。五年、十年の戦いによって生み出される死者の数だけでなく、その先、百年の死者の数を含めて、どうかというものなのだ」
「その先、百年……」
その時はヒューガ自身は生きていない。自らが死んだ後の世界。そこまでのことを考えろというバーバラの言葉を、ヒューガの心は受け入れている。そうでなければならないと思えている。
「王道を進もうと覇道を選ぼうとお主がお主である限り、辿り着く先は同じ。百年先の未来を創れ。それがお主がこの世界に来た意味だ」
「…………」
何故、自分は異世界に転移することになったのか。疑問に思っていながらも考えないようにしていたその理由を、神ではなく、バーバラの口が語ってくれた。
「ギゼンがお主と出会い、亡くなったことには意味がある。同じように儂とお主の出会いにも意味がある。今、その意味を示そう」
「意味?」
「……月の預言者と称されし我、バーバラ・フィン・スチュアートは汝に告げる! 汝、ヒューガ・アルベリヒ・ケーニヒ! 異世界より訪れし人! 精霊に愛されし人よ! 汝は光もたらす人! この世界の混沌を払い、人々の未来を照らす導き手となる運命の人!」
両手の平を夜空に向かって掲げ、語り始めたバーバラ。普段とは異なる、威厳さえ感じさせる朗々とした声。耳ではなく心に届く声が大森林を震わせている。
「汝の信じる道を進め! 汝の光が照らしだす道を突き進め! 世界はそれを望んでいる! 汝が汝であり続ける限り、世界は汝を祝福するであろう!」
木々の間から差し込んできた月の光がバーバラを照らし、その姿を輝かせる。幻想的な雰囲気。月の預言者と呼ばれるに相応しい彼女の姿。月の光はそんな彼女の言葉を祝福しているかのようだ。
「俺が俺である限り、か」
「悩むことは悪いことではない。悩みのない者に弱者の苦しみは分からないからな。この先も悩めば良い。悩みながら進んでいけば良い。それがお主の在り方。お主はそれで良いのだ」
「……ありがとう」
バーバラの言葉はヒューガを肯定するもの。間違いを犯すことさえ、受け入れるものだ。今のヒューガにはその言葉が嬉しかった。甘えるつもりはなくても、心が軽くなったのは間違いない。
「共に歩むが良い。お主は多くの人を導く存在だが、多くの人に支えられる存在でもある」
「ああ、そうだな」
バーバラの言うヒューガを支える人たちはすぐ後ろにいる、その気配をヒューガは感じていた。後ろを振り返り、その人たちの存在を確かめる。夏、冬樹、エアル、カルポの顔がそこにあった。
「……ぷっ」
その一人、夏がこらえきれないという様子で噴き出した。
「……ここ笑うところか?」
「だって……異世界に転移して、その世界を手に入れるなんて、お決まり過ぎる展開じゃない? 異世界転移したばかりの頃のヒューガを思い出したら、何だかおかしくて」
ヒューガは異世界転移に意味を持たせようとしていなかった。自分はただの巻き込まれ。一歩も二歩も引いた態度を取り続けていた。それを思い出して、夏はおかしくなった。面白がっているというより、ようやくなるべき形になった。そういう思いが笑いになったのだ。
「世界征服を目指すなんて一言も言っていない。ちょっと守るものが予定よりも増えただけだ」
「はいはい。分かってる。その守るものがこの先も増えるってこともね」
「だから……まあ、先のことは分からない。とりあえず、今やれることから始めるか」
「私たちはとっくに始めているから。足踏みしていたのはヒューガだけよ、ね?」
夏の問いに冬樹もエアルもカルポも頷きで返す。今よりも強くなる。強い軍を、国を造る。これまでも行っていたことだが、さらに上を目指して彼らは動いている。
「そうか。じゃあ、俺も皆に追いつくように頑張らないと」
「……いや、もう少し休んでも良いんじゃないか? 怪我も治ったばかりだろうし」
「はい?」
やる気になったヒューガに水を差す言葉。それを発した冬樹の意図がヒューガには分からない。
「姑息。どうして冬樹はそうなのかな?」
夏には冬樹の意図が分かっている。
「どういうこと?」
「ヒューガに頑張られたら、ますます差をつけられてしまうでしょ?」
「ええ!? ここでそんなこと考えるか!?」
「冗談! 冗談に決まっているだろ!? お前がどれだけ努力しようが、必ず俺は追い抜いてみせる! 絶対だ!」
「ギセンさんも」
「……ああ、もちろんだ。言っておくけど、あの男を殺すのは俺だ。これだけは絶対に譲らない」
師匠であるギゼンを越えて、彼のかたきである優斗を殺す。これが冬樹の目的だ。
「今更。最初からあいつを殺すのはお前の役目だっただろ? 俺はそれに協力すると誓った。その約束は忘れていない」
「……そうだったな」
立ち合いで冬樹は優斗にまったく歯が立たなかった。ボロボロになるまで打ちのめされた。いつか必ずやり返す。その実現の為に協力する。これがヒューガと冬樹の始まりだった。
異世界に来て、すぐに始まっていたのだ。それがより明確な目的として定まっただけ。それだけであるが、大きな、そして大切な変化だ。