夜空に浮かんでいるのは上弦の月。ただ、湖面を揺らしている生暖かい風が、雲も運んできて月を隠してしまう。時折、途切れた雲の間から姿を見せることもあるが、それはわずかな間。雨の気配はないものの、夜空の多くは雲に覆われていて、月や星を楽しむことは出来ない。
もっとも、闇の中を駆けている人々には、初めから夜空を楽しむつもりなどない。彼等は遊びに来たのではない。殺し合いをしに来たのだから。
木が鬱蒼と生い茂る森の中を駆け下りてきた彼等。その彼等の足を止めたのは、先頭を走っていた男の合図だった。
すぐ先からは木々の数が一気に減っている。人の手によって切り倒されたことは、地面に残る切り株の数で分かる。それは目的地に近づいた証。ここから先は慎重に進まなくてはならない。
無言のまま、指を立てる先頭の男。それに応えて後ろから、立てられた指の本数と同じ三人が前に出てくる。
地面に膝をつく三人。ぼんやりとした光、もしくは暗い影のようなものが、それぞれの体に纏わり付いている。それぞれの精霊力が活性化されたのだ。
いくつもの黒い塊が地を走り、切り株の根が地を伸びていく。
「…………」
じっと黙ってその様子を見ている周囲の人たち。
しばらく時が経ったところで、三人がそれぞれ首を横に振った。異常なしの意味だ。それを確認したところで、また彼等は動き出す。
身を隠す木々はほとんどない。ここまでくれば、あとは躊躇う時はない。全力で先に見える壁に向かって、走っている。
「……罠ではないか?」
地を駆けながら罠の可能性を口にしたのは、牙だ。
「だろうな」
その牙に、土門が同意を示す。向かう先は敵の本部だ。ここまで近づいて、気付かれていないはずがない。
それでも駆ける足を緩めることはない。敵本部を襲おうというのだ。待ち伏せは最初から覚悟の上だ。
「それでも、全くの無防備ってのはね。月子ちゃん、お願い」
潜んでいる敵に対して、こちらは姿をさらしている。それはさすがに分が悪いと考えたミズキが、月子に声をかける。月子の能力で、敵の目をくらまそうというのだ。
「もう始めてる……」
「さすが」
「期待しないで。曇り空じゃあ、私の全力が出せない」
月子の能力は月の満ち欠けに影響を受ける。さらにその月が雲に隠れている今夜は、十分に力を発揮出来ないのだ。そうであったとしても並のメンバーに劣るものではないが。
「私たちさえ隠れられればそれで良いの。全部、隠れたら隠れていないのと同じでしょ?」
「他の人を見捨てろと言うの?」
「他の人は他の人で、なんとかするわよ。それよりも……ド○エモーン。あの壁、邪魔」
目の前に見える壁。それを超えなければ、敵本部に侵入出来ない。その邪魔な壁を、ミズキは力尽くで排除しようとしている。実際にそれを行うのは土門だが。
「俺一人に丸投げするな」
「土を扱うのは土門の役目でしょ?」
「……あれは土じゃなくて」
と文句を言いながらも、土門は自らの精霊力を高め、土を操ろうとする。目標は壁が埋まっている地中。それを持ち上げるか、逆に抜き去るか。わずかでも良いので壁を歪めようとしたのだが。
「……早くしてもらえる?」
「無理だ。届かない」
試みは失敗。壁を崩すことは出来ないと、土門は判断した。
「ちょっと? 諦め早くない?」
「あの壁、かなり深くまで埋まっている。いや、壁というより器だ。とてつもなく大きな鉄の器が埋まっている。壁に見えるのは、その器の縁だ」
「……鉄をいじる人っていた?」
「俺は知らない」
土門は精霊力を何かに変換させるのではなく、すでに存在する木や土、水などを自在に操る系統の能力者だ。だが、鉄を操る能力者を土門は知らない。
何故、そのような構造になっているのか。こちらのメンバーの能力を知っているからと考えるべきだ。裏切り者が敵方にいるのだから、それも当然かと思うが。
「……嫌な予感」
ミズキの勘は正しい。それはすぐに証明された――突然、自分たちを照らした明かり。
「後ろだ!」
それは後方から向けられていた。闇に慣れた目には、眩しすぎる照明。後方、そして左右は真っ白に見える。
「囲まれてる!」
「関係ない! ぶっ殺してやれ!」
「まとまれ! 包囲を突き破る!」
周囲を敵に囲まれている知って、完全戦闘モードに入る『YOMI』のメンバーたち。いくつかの集団にまとまって、包囲している敵に向かって、突き進もうとしたのだが。
「落ち着け! 無闇に突っ込むな! まずはまとまれ! まとまって四方を警戒しろ!」
朔夜が全体を取りまとめようと声をあげた。その指示を受けて、バラバラに動こうとしていた集団がまとまり始める。
月子たちも、朔夜の指示に従って、周囲との距離を縮めた。
「……かなりの数だな」
移動しながら牙が呟く。
光に目が慣れて、周囲の様子が見えるようになってきている。三方を囲む敵。数としては味方を遙かに凌駕している。
「雑魚もかなり混じっている。俺等と対等に戦えるのは、多くても三十くらいのはずだろ?」
コウの根拠は特殊戦術部隊の特殊能力者の数を基にしている。指揮官を入れて五人の分隊が五つと裏切り者を足した数だ。
「……それで待ち伏せをすると思うか?」
だが牙はそれで済むと考えていない。敵だって勝てる算段があって待ち伏せをしていたはず。何かがあるはずだと。
『お前たちは完全に包囲されている! 大人しく投降しろ! そうすれば命まではとらない!』
拡声器を通して、投降を呼びかける声が特殊戦術部隊の側から聞こえてくる。百武分隊指揮官の声だが、『YOMI』のメンバーのほとんどには分からないことだ。
「何故、俺等が投降しなければならない!? 命乞いするのは、そっちのほうだろ!?」
その呼びかけに、誰かが挑発の声をあげた。特殊戦術部隊の特殊能力者の数については、作戦参加者のほぼ全員が把握している。それに対して、味方は百名ほど。誰も負けるとは思っていないのだ。
「朔兄。早く攻撃命令を」
月子もまったく負ける気がしていない。時間を費やすよりも早く戦闘に入るべきだと考えて、朔夜に指示を求める。
「……もう少しこのままで待て」
「もう少しって何時よ?」
「もう少しはもう少しだ」
こう言って、朔夜は一人、前に向かって歩き出す。
「ちょっと!? 朔兄!?」
それに焦る月子だが。
「大丈夫だ! 何の危険もない!」
朔夜は歩みを止めようとしない。さらに朔夜の直轄といえる集団も前に進み出ていく。自分たちだけで戦闘を開始しようとしている。残ったメンバーの多くはそう考えた。
『もう一度言う! 大人しく投降しろ! これはお前たちのリーダーの命令だ!』
そこに再度、聞こえてきた投降の声。
「裏切り者が何を言う! お前はもう幹部じゃねえ!」
ようやく相手が裏切り者だと、誰かは間違っているが、気が付いた『YOMI』のメンバーたち。投降の声に反発の声をあげたのだが。
『俺はまだ幹部だ! それはリーダーである朔夜が認めている!』
相手から、まさかの答えが返ってきた。何を言っているのかと戸惑う『YOMI』のメンバーたち。その彼等にさらに衝撃的な声が届く。
『ようやく、この時が来た! 今こそ我々は一つになるのだ!』
聞こえてきたのは朔夜の声。それはさすがに多くのメンバーが分かる。
「朔夜! お前、何を言っている!?」
その朔夜の声に反応したのは焔。幹部の焔であっても今の状況は、まったく分かっていない。
『言った通りだ! YOMIと特殊戦術部隊は一つになる。一つになって、この国を変えるのだ!』
「気が狂ったか!? どうして俺たちが軍の奴等と一緒になれる!?」
零世代である焔にとって『YOMI』は軍に復讐する為に作られた組織。その復讐相手と一つになるなどあり得ないことだ。
『なれるさ! いや、すでに一つだ! 俺は『YOMI』のリーダーであり、特殊戦術部隊の指揮官だからな!』
「意味がわからん!」
『まだ分からないか! 俺は朔夜であり望でもある! 双子の兄弟なんかじゃない!』
「な、なんだと? そんな馬鹿な!?」
望と朔夜が同一人物。焔にとっては、あり得ないことだ。二人とは軍にいた時から知り合いだったはずなのだ。
「朔兄! おかしなこと言わないで!?」
そして月子も同じ思い。自分の兄は双子。それは間違いないはずなのだ。
『……月子。詳しいことは後で話す。だから、こちら側に来るんだ』
「話すなら今話してよ! 貴方は誰!?」
『俺は朔夜であり、望でもある。この日のために、二人の人物を演じてきた。仲間を集め、この世界を変える為に!』
「ふざけるな! 貴様は裏切り者だ! 裏切りは許さない!」
朔夜の説明に激高する焔。焔はこの世界を変える為になど行動してきていない。自分たちを使い捨てにした軍への恨みを晴らすこと。それだけが彼の生きる意味なのだ。
『俺に従わないつもりか?』
「当たり前だ! 裏切り者になど従えるか!?」
『ならば……死ね!』
朔夜の「死ね」の声とほぼ同時に焔に襲い掛かる水の刃。特殊戦術部隊からの攻撃ではない。味方、の側にいた者からの攻撃だ。背中から放たれたそれをまともに受けた焔は、全身から血を噴き出しながら、地面に倒れていく。幹部とはいえ零世代の焔。戦闘能力は高くないのだ。
『焔のようになりたくなければ投降しろ! 投降といっても待遇は悪くない! 特殊戦術部隊の隊員として、君たちは扱われる!』
この朔夜の声に応えて動き出したのは、焔を殺した者を含めた数人。初めから朔夜に付いていて、それでありながら、この場に留まっていた人たちだ。わずかな数だが、彼等の役目はきっかけ作り。その彼等につられて、動き出す人たちがいた。
すでに朔夜に付いて三十人近くが特殊戦術部隊側にいる。数の優位は失われているのだ。死にたくなければ朔夜の指示に従うしかない。罪に問われないのであれば、それも有りと思う人は当然いる。
「……貴方はいかないの?」
意外な人物が動こうとしないので、月子は本人に理由を尋ねてみた。九尾だ。
「そっちこそ。大好きなお兄ちゃんに従わなくて良いのか?」
「……私が先に聞いたのよ?」
九尾の問いに返す言葉が見つからず、月子はこう返した。
「どうして俺が奴の命令に従わなければならない?」
「これまで従ってきたじゃない」
九尾はこれまで命令に忠実だった。命令を受ければ、何でもする。そんな人物なのだ。
「俺は『YOMI』の幹部に従っていただけだ。奴はもう幹部どころか『YOMI』のメンバーでもない」
「……殺されるかもしれない」
「命を惜しんで、仲間を殺した奴に従えと? あり得ない。俺は軍の犬になる為に、これまで手を汚してきたわけじゃない」
「そう……」
九尾には九尾なりの考えがあって、悪事にも手を染めてきた。この話を聞いて、やはり意外という思いが消えない。
「そっちはどうするつもりだ? さっさと決めろ」
「私は……」
さっさと決めろと言われても、簡単にはいかない。月子にも仲間を裏切りたくないという思いがある。だが兄である朔夜と戦う覚悟も決まらない。
「決められないならいい。協力しろとは言わないから、背中から撃つのだけは止めてくれ」
「私がそんな卑怯な真似するはずないでしょ?」
「……信じよう。行くぞ」
最後の言葉は月子ではなく、この場に残った他の人たちに向けたもの。その九尾の言葉に従って、集団が前に出る。その数は二十ほど。この状況でその数を従わせる力が、九尾にあるということだ。
それもまた月子には驚きだったが、九尾が話した仲間を思う気持ちが事実であれば、あり得ることかと思い直した。
『……愚か者共が』
戦う気満々で前に出てきた九尾たちを見て、朔夜が呟く。拡声器を近づけたままなので、呟きと言えるような音量ではないが。
九尾たちの集団が眩い光に包まれていく。それぞれが精霊力を活性化させているのだ。その中でも九尾は、一際眩い光を放っている。九尾の通り名の由来となった、その姿。背中に広がる九つの尻尾のように見える精霊力がうねっている。
「……殺せるだけ殺せ」
「了解」
臆することなく九尾と仲間たちは、包囲する特殊戦術部隊に向かって駆けていく。戦いの始まりだ。