エイトフォリウム帝国との開戦をエドワード王は決断した。まだ公式な決定にはなっていないが、その決断は城内で働く人々にはすぐに広まっていった。公式に決定する前にも色々と準備は必要だ。各部署には新たな戦争が始まることが、それがエイトフォリウム帝国であることが伝えられているのだ。
さらなる戦争の準備が始まって、城内はなんとなくざわざわしている。慌ただしく働く人々が多いから、というだけでなくそれに関係のない人も戦争の相手を知って、落ち着かない気持ちでいるのだ。
そんな異様な雰囲気の中、城の奥で騒ぎが起きていた。王家の人々の私的空間にほど近い場所で、本来はあり得ないことだ。その騒ぎの中心にいるのは、健太郎だ。
「邪魔をするな! これは陛下のご命令なのだぞ!」
「誰の命令であろうと関係ない!」
フローラの部屋の扉の前に立ちふさがって、多くの近衛騎士たちに向かって、エドワード王の命令を拒絶する健太郎。
「陛下のご命令に逆らうつもりか!?」
「誰であろうとフローラを傷つけるような真似は許さない!」
「別に……別にフローラ様を傷つけるつもりはない」
フローラを傷つける。そんな事態は近衛騎士たちも望んでいない。
「監禁しようとしているだろ!?」
近衛騎士たちはフローラを別の場所に移すようにエドワード王に命じられている。それを健太郎は阻止しようとしているのだ。
「そこまで厳しいものではない。夕顔の塔は身分の高い方々が幽閉、あっ、いや、安全に過ごす為に作られた場所だ」
フローラが連れて行かれようとしているのは夕顔の塔と呼ばれる身分が高い人が罪を犯した時やそれ以外にもなんらかの事情があって、幽閉される時に使われる場所。開戦にあたってエドワード王は、そこにフローラを閉じ込めておこうと考えたのだ。
「人の自由を奪うなんて間違っている」
「そうではない。フローラ様を守る為だ」
「フローラは僕が守る!」
「お前に任せるつもりはない。いざ戦いが始まるとなれば何が起こるか分からない。不測の事態が起きて、フローラ様に万一があってはならないのだ」
これが建前であることは近衛騎士たちも分かっている。だが結果として、彼女の身に何事も起こることなく、ウェヌス王国に居続けてくれることになる可能性がないわけではない。その可能性を高める為には、誰も近づくことの出来ない場所にフローラを置いておくことは悪い選択肢ではない。そう考えて自分たちの心を納得させているのだ。
「今のままでも何も起きない」
「我々はそう考えていない。だからフローラ様には安全な場所に移って頂く」
「その場所が安全かなんて分からない!」
「安全だ! 塔の守りには我々、近衛騎士団がつく」
夕顔の塔の守りは近衛騎士団の担当。あくまでも王家やそれに近い高貴な人が幽閉されている場合はそうであるということなのだが、今回フローラをそこに置くにあたっても近衛騎士団が守りに就くことになっている。エイトフォリウム帝国の皇家の血筋という点では当然のことではあるが。
「お前たちのことなんか信用出来るか!?」
「なんだと!」
健太郎の言葉に怒気を発する近衛騎士。形はどうであれ、フローラを守ろうという気持ちに嘘はない。それを否定されることは、まして健太郎に否定されることは、受け入れられるものではない。
「僕はフローラの勇者だ! 彼女を守る責任がある! たとえ何者であろうと彼女には指一本触れさせない!」
「貴様にそれを言う資格などない! 邪魔をするなら力尽くで排除するまでだ!」
「やれるものならやってみろ!」
近衛騎士が熱くなったことで、状況が一気に悪化してしまった。高まるお互いの闘気。ついに争いは血を見ないでは済まない事態に陥った、となったその時。
「止めて!」
フローラが部屋を飛び出してきた。
「フローラ! 危ないから下がるんだ!」
「危なくない! 私には皆を恐れる理由なんてない!」
「フローラ……」
フローラと近衛騎士たちの関係を健太郎も知らないわけではない。彼らが護衛として真剣にフローラを守っていたことはもちろん、自分に悪意を向けてくるのもフローラを心配に思っているからこそであることも知っている。
「良いの。生活する場所が少し変わるだけでしょ? 私は気にしないから」
「でも……」
「こんなことで争う必要なんてない。そんなの私は嫌」
フローラにとって近衛騎士たちは自分に優しくしてくれた良い人ばかり。そんな人たちが自分のことで傷つくのは嫌なのだ。別に処刑を命じられたわけではない。少し自分が我慢すれば良いだけのことだ。
「……分かった。じゃあ、僕も一緒に行くよ」
「えっ……」
「だ、駄目? でも、だって、僕は君の勇者で。君を守るのが仕事だから」
まさかのフローラの拒絶に焦る健太郎。
「従者用の部屋もあります。そこに押し込めておけばよろしいのではないですか? フローラ様がお住まいになる部屋とは鍵付きの扉で隔てられておりますので、勝手に侵入することも出来ません」
そんな健太郎に助け船を出したのは近衛騎士だった。
「じゃあ、良いかな」
「……なんか、一応、ありがとうは言っておく」
近衛騎士よりも自分のほうが遥かに警戒されている。健太郎としてはそれに納得いかない気持ちはあるが、とりあえず側にいることは出来るようになった。
騒ぎは終息。フローラは夕顔の塔に移ることになった、と思われたのだが。
「なんだ? やけに騒がしいから何事かと思って、わざわざ足を運んでみたというのに、終わってしまったのか?」
「えっ? じ、上王様!?」
突然現れた声の主に驚く近衛騎士たち。上王と呼ばれたその人はウェヌス王国の元国王。エドワード王、そしてジョシュアの父だった。
「お主、その態度は無礼ではないか? それとも儂がまだ生きていることに驚きでもしたか?」
「ま、まさか。ただ、滅多に部屋をお出にならないので、少し驚きました」
上王は部屋に、といってもかなり広い空間なのだが、籠ったきりで表に出てくることはない。存命は近衛騎士という立場であれば当然知っているが、顔を合わせるのは滅多にないことなのだ。
「それで? 何の騒ぎだ?」
「いえ、もう落ち着きました」
「落ち着く前は何を騒いでいたのかと儂は聞いておるのだ。それとも何か? 生死も定かでなかった男の命令など聞く気にならんか?」
「そのようなことはありません。フローラ様の御部屋を移す予定なのですが、何も分かっていないこの者が邪魔をしたので、少し揉めておりました」
騒ぎの責任を全て健太郎に押し付ける近衛騎士。実際、騒ぎを起こしたのは健太郎であるので、嘘をついているわけではない。
「勇者か……成長のない男だな。それで、そのフローラというのは……おお? お主か?」
フローラに視線を向けて尋ねる上王。
「はい。私です。お騒がせして申し訳ございません」
フローラは上王に会うのは初めてのこと。その存在を意識したこともなかった。どういう態度で接せるべきか少し迷ったが、まずは謝罪することにした。
「美しい女子だな」
「……いえ、そのようなことは」
「よし! 今日から儂の面倒をみよ!」
「えっ?」「上王様!」「駄目だ!」
驚くフローラと近衛騎士たち。健太郎は即座に上王の言葉を否定した。
「毎日同じ顔で飽きた。お主は侍女の仕事は出来るのか?」
「出来ますけど……」
上王の考えがフローラには分からない。初めて会って、外見を褒められて、側で仕えるように言われる。普通に考えれば良くない展開だ。
「駄目だ! 駄目だ! そんなの絶対に駄目!」
健太郎がまた反対を訴える。
「お主に拒絶する権利はない。それに何を心配しているのか知らんが、上王である儂に対して無礼ではないか?」
「無礼であろうとなんであろうと、僕はフローラを守る!」
「……ではお主にも儂の側付きになれば良い。フローラと儂の二人を守ることになるがな」
健太郎にも自分に仕えるように告げる上王。
「僕も一緒……えっと……」
上王の提案に迷う健太郎。夕顔の塔と同じ様に上王に仕えることになってもフローラの側にいられる。どちらが正しい選択なのか分からなくなったのだ。
「上王陛下、よろしいのですか? このような男を側に置くことを決めて。この男は女性であれば誰にでも手を出す、軽薄な男ですよ? 私はともかく他の侍女にとっては危険な存在ですわ」
また新たな声が、女性の声が割り込んできた。その声の主が誰か分かって、一番驚いたのは。
「ミ、ミーシア!?」
健太郎だった。かつてフローラに近づく為に利用し、傷つけてしまったはずのミーシア。このような場で再会することになるとは、まったく思っていなかった。
「私のことを覚えていてくださったのですか? てっきり、もう記憶から消されていると思っていましたわ」
「いや、そんなことはない。僕は君に酷いことをした。そのことは忘れられない。忘れるわけにはいかない」
「ケン……そんな風に思っていてくれたなんて……私も……貴方のことを……」
健太郎の言葉を聞いて涙ぐむミーシア、だが。
「忘れていないわ。最低男」
「えっ……」
「フローラ様。この男のことは決して信用してはいけません。この男は貴女に近づく為に私を騙して」
「ま、待って!」
ミーシアが何を言おうとしているか察して、慌てる健太郎。傷つけたと反省していても、自分が仕出かしたことをフローラに知られるのは困るのだ。
「いいえ。待ちませんわ。私を騙して、心と体を奪った最低の男なのです」
だがミーシアは容赦なく事実を口にしてしまう。
「…………」
それを聞いて、じっと健太郎を睨みつけるフローラ。
「……えっと……その……」
「最低」
「ごめんなさい……」
フローラに軽蔑の視線を向けられて、背中を丸めて小さくなる健太郎。
「ふむ。面白い関係性じゃな。これはしばらく退屈しなくて済みそうだ」
上王はその様子を見て、嬉しそうだ。くだらないやり取りであっても、普段は得られることのない刺激が面白いのだ。
「上王様。フローラ様を夕顔の塔にお移しするのは国王陛下のご命令で」
ただ近衛騎士はこの流れで、フローラを連れて行かれてしまっては困る。エドワード王の命令を果たせないことになってしまうのだ。
「儂の命令には従えないと?」
「……国王陛下のご命令が先に発せられているわけですから」
「だからそれは変更だ。あとから発した儂の命令によって書き換えられることになるのだ」
「しかし」
「文句があるならエドワードに伝えよ! エドワードに伝え、儂の命令に不服というなら自らそれを言いに来いとな!」
「……はっ」
上王にここまで強く言われて、それでも拒絶することは近衛騎士には出来ない。まずは言われた通りにエドワード王に伝え、改めて上王の命令を拒絶してでも元の命令を遂行しろという指示を得なければ、逆らえないのだ。
引き下がっていく近衛騎士たち。といっても全員ではない。奥の守りを担当する騎士はその場に残ったままだ。
「では行くか」
「……はい」
上王に仕えることになった。だがこれで良かったのかフローラには分かっていない。
「ご心配なく。上王様はフローラ様のお味方。この男がいなくても誰にも指一本触れさせることなくお守りいたしますわ」
そのフローラの不安を和らげる言葉を発したのはミーシアだ。
「ミーシアさん……貴女は?」
いきなり上王の侍女という立場で現れたミーシア。その彼女にフローラはかつてはまったくなかった得体の知れなさを感じていた。
「私は貴女の味方。お伝え出来るのはこれだけです」
「そう……」
◆◆◆
クリスティーナ王女の下にラルクスタン男爵が馳せ参じた。この事実は当人たちも思っていなかった効果を、義勇軍にもたらすことになった。ラルクスタン男爵は悪名高い男ではあるが、その能力は認められている。悪名の高さも悪事を働いているということではなく、気位が高く誰にでも喧嘩を売る、本人にそのつもりはなくても、という面から嫌な男、面倒くさい男という評価を得ているだけだ。
その気位の高い面倒くさい男がクリスティーナ王女に仕えることを受け入れた。それはそのままクリスティーナ王女の能力の高さを、過大評価になっているだけだが、証明することになったのだ。
国王と王弟の争いを私欲を満たす為の私闘と断じ、モンタナ王国の民を私欲から守る為に立ち上がると宣言したクリスティーナ王女。その志を評価する者はいた。だが志だけでは内戦には勝てない。国は良くならない。そう考えて動くことを躊躇っていた人たちの心を揺らすことになったのだ。
これはまだ大きな流れにはなっていない。クリスティーナ王女の勢力が飛躍的に大きくなっているわけではない。だが確実に、気持ちが動いている人は増えていた。
「……あの王女殿下に。正直、信じられないな」
気持ちが動いても行動が伴わない。その理由の一つにはこういう思いもある。クリスティーナ王女は評価するに充分な印象を周囲に与えていない。まだ、何故あのラルクスタン男爵が、という思いのほうが強いのだ。
もっとも書状を見て呟きを漏らしたオズボーン将軍が行動しない理由の最大のものはこれとは異なるものだ。
「ラルクスタン男爵自身が書いた書状も出回っているようですので、クリスティーナ王女に仕えているのは間違いのない事実のようです」
オズボーン将軍に驚きの情報をもたらしたのは彼の部下だ。王国組織とは別にオズボーン将軍は情報収集に動いていた。特別な意図があるわけではない。内戦に勝つ為には戦場の情報だけでは足りない。そう考えているだけだ。
「王弟派の動きは何か分かったか?」
「こちらよりも遥かに動揺が激しいようです。今のモンタナ王国の在り方に疑問を持って、王弟に味方した人は少なくありません。ただ王弟は国王よりはマシという程度の評価。ウェヌス王国の謀略でさらにその評価が下がっているところに、これですから」
この国を変えたいという思いを持つ人は王弟派に多い。その為にはまず国王を倒すこと。王弟に不満はあってもそれしか選択肢はなかったのだ。だがここにきて新たな選択肢が生まれた。王弟よりも良い条件である可能性が高い選択肢が。
「動くかもしれないな。だが、勝利の可能性が見えなければ、大きな流れにはならない」
志が高い人はクリスティーナ王女側に動くかもしれない。命を捨ててでも志を実現する為に行動しようという人は。だがそういった人は少数だ。誰でも命は惜しい。負ける側に付くのには抵抗がある。
「……仮に、仮にですが、国軍が味方しても勝てませんか?」
部下は口にしてはいけない問いを口にした。
「ウェヌス王国軍に増援がなければ可能性はなくはない。だが、戦況が不利になれば必ず増援を送ってくる。負けるわけにはいかないはずだ」
だがオズボーン将軍は部下を叱責しなかった。国軍がクリスティーナ王女に寝返る可能性を否定することなく、それでも勝利は難しいと判断した。会話の相手は部下であるが、モンタナ王国軍の将軍という立場を外れて、話をしているのだ。
「もともと我が国にはウェヌス王国の侵略を防ぐ力はありませんか……他国に頼るしかないわけですが」
「陛下がお認めにならない」
ウェヌス王国の野心は周知の事実。ゼクソン王国、アシュラム王国と戦いが続けば、次は自国である可能性は誰でも考える。だがその脅威に対して、モンタナ王国は何の手も打てなかった。自主自立を掲げ、正しくはそれを言い訳にして国王は自分の上に立つ存在を受け入れようとしなかったのだ。
「追い詰められなければ、ですか……」
「いや、本当に追い詰められる前にウェヌス王国に降伏するつもりだ。王弟ではなく自分を選べという条件を出して」
モンタナ国王の考えをオズボーン将軍は知っている。従属することになるのであれば大国ウェヌス王国に。そう考えていたところに、国王にとってまさかのことに王弟がウェヌス王国と結んでしまったのだ。だが国王はまだ諦めていない。自国の力を示し、攻略は大変だとウェヌス王国に思わせたところで交渉に出ようとしている。王弟を捨て、自分を選べばウェヌス王国に従うという条件で。
「国王、王弟のどちらが勝ってもこの国はウェヌス王国の従属国ですか……」
「もう小国が単独で生き残れる時代ではないのだろう」
「連合であれば生き残れますか?」
「……可能性はある」
具体的な名は出さないが、部下の気持ちがどこを向いているのかオズボーン将軍には分かっている。何故こうなる前に隣国アシュラム王国に、その後ろにいるグレンに頼ることをしなかったのか。今からでも遅くないのではないかと言いたいのだと。
こうなる前に、という思いはオズボーン将軍も同じだ。国王に提言もした。だが受け入れてはもらえなかった。
「それでも将軍は将軍であり続けるのですか?」
オズボーン将軍の気持ちを部下も分かっている。国王への不満はあってもモンタナ王国軍の将軍として、為すべきことを為す。国に殉じると決めているのだと。それを惜しいという気持ちが部下にはある。
「私はモンタナ王国軍の将軍だ」
「そうですか……最後にもう一つ、ご報告があります」
「何だろう?」
「クリスティーナ王女が雇った傭兵団ですが、名称だけは分かりました」
これが他の何よりも部下が伝えたかった情報。これを知ってオズボーン将軍がどう考えるのか、気持ちを変えてもらえることを期待している。
「名称か……」
「はい。銀狼傭兵団という名称であることが分かりました」
「…………」
大きく目を見開いたまま、固まってしまったオズボーン将軍。可能性を考えていなかったわけではない。もしかすると、という思いはあった。だがそれはただの願望。その願望でさえ、すでに手遅れだという思いで否定してきた。正しくは、深く考えることを避けてきた。
「銀狼傭兵団という名だけで、その実態はいまだに不明です。ですが……いずれ明らかになる時はきます」
「そうか……その時は来るか」
これを断言する部下は真実を知っている。どのようにして彼はそれを知ったのか。それを自分に話そうとしないのか。動くのは王弟派だけではない。自分の知らないところで国軍も大いに揺れていることをオズボーン将軍は知った。