ゼクソン王国の西部。ウェヌス王国との国境に近いその場所に六千ほどの軍勢が集まっている。その多くはゼクソン王国最西部に造られた、移設された上で強化されたという表現が正確だが、防衛拠点の守りについているグスタフ・ゲイラー将軍率いるゼクソン王国軍銀獅子師団四千だ。ゼクソン王国軍は事態がいつ動いても即応できるようにと、軍の半分をウェヌス王国との国境近くに置いているのだ。
そのゼクソン王国軍銀獅子師団よりは数はかなり少ないが、別の軍旗を掲げる軍勢がそこに合流している。アシュラム王国軍重装騎士兵団二千。率いているのはフレッド・マグナイト将軍だ。彼らの目的はゼクソン王国軍との合同訓練。軍の精強さではゼクソン王国軍に劣るアシュラム王国軍。軍を鍛え直す為に頻繁に、こうしてゼクソン王国に軍を派遣しているのだ。
ただ今回の合同訓練はこれまでと少し趣が異なっている。訓練そのものに特別なものがあるわけではない。特別なのは同行者。アシュラム王国からは国王ウォーレンとアルビン・ランカスターが軍と共にやってきていた。
それを迎えるゼクソン王国も国王であるヴィクトルと王母ヴィクトリア、そしてシュナイダーが王都からやってきている。両国のトップ同士の会談というところだ。もっとも、幼いヴィクトルはまだ形式的にその場にいるだけ。アシュラム王国との話し相手はヴィクトリアとシュナイダーが務めることになる。
「ウェヌス王国の元宰相であり、ランカスター侯爵家の長兄であるお主とこうして向かい合っているというのは、なんとも不思議なものだな」
アルビンはゼクソン王国に攻め込んだウェヌス王国の元宰相であり、その謀略を裏で糸引いていたランカスター侯爵家の人間。これ以上ない敵だった人物だ。そのアルビンとこうして話をしていることの不思議さをヴィクトリアは感じてしまう。
「その節のことは、なんとお詫びしたらよいのか……」
「詫びは必要ない。犠牲者とその家族に対しては、私も共に詫びるべきだが、今日の我が国があるのはお主の関わった謀略のおかげだ。個人的には礼を言いたいくらいだな」
ランカスター侯爵家の謀略がなければグレンがゼクソン王国に来ることはなかったかもしれない。ましてヴィクトリアと夫婦になることなど絶対にあり得ないことだ。謀略によって犠牲者を出したことは許されることではないが、その責任はゼクソン王国側の施政者にもある。ヴィクトリア個人にはアルビンを責める資格はなく、一人の女性としては逆に感謝したいくらいなのだ。
「……どうお答えすれば良いのか」
「答える必要もない。そういうことだと伝えたかっただけだ。ここからは今と未来のための話をしよう」
「はい。我が国の軍はいかがですか? 率直なご感想をお聞きしたい」
軍事力で後れを取っているアシュラム王国。戦争が始まるかもしれない今の状況では、軍事力の増強はもっとも優先すべき課題の一つだ。アシュラム王国軍が帝国の弱点となってウェヌス王国に敗れるようなことはあってはならない。これはアルビンだけでなく、ウォーレン王を筆頭にアシュラム王国重臣たちの共通の懸念事項なのだ。
「基礎体力については、貴国に戻られてからも実直に鍛錬を続けられているようで、我が国ともそう差はなくなったように見えます」
アルビンの問いに答えたのはシュナイダー。軍事の細かな部分についてはヴィクトリアも把握できていない。シュナイダーはヴィクトルの近衛だからここにいるのではなく、この話し合いがあるからシュナイダーの同行が決まり、そのついでにヴィクトルにも現場を見せようということになったのだ。
「基礎鍛錬は帝国軍において、もっとも重視されていること。決して怠ることのないようにと陛下から指示が出ておりますので」
「そうでしたか。ただ自国の王からのお言葉があったとしても、鍛錬の成果は褒められるべきものだと思います」
国王の言葉があったからといって、怠けることなく継続できるものではない。基礎鍛錬は地味で、それでいてかなり辛いものなのだ。ウォーレン王にはその厳しい鍛錬を行わせるだけの人望、もしくは威がある。シュナイダーはそう考えた。
「基礎体力についてはそうだとして、いざ戦争となった場合に我が軍は問題ないレベルにあるでしょうか?」
「戦える戦えないで言えば、戦えます。ただし戦い方は考える必要があるでしょう。これは貴国に限った話ではなく、我が国の軍も同じことです。ウェヌス王国には戦いを経験した将兵が多くいます。その実力は侮るべきではありません」
「敗戦であっても経験は経験ですか……ただ経験豊富な将兵が多くいるというのは、これは元ウェヌス王国の中枢にいた人間としての意見ですが、将については当てはまらないと思います」
「そうなのですか?」
ウェヌス王国の内情については、シュナイダーも分かっているわけではない。経験豊富な将兵が多くいるは、ゼクソン王国とアシュラム王国二国との戦いを経験しているのだから、そうであろうという推測に過ぎないのだ。
「少なくとも私がウェヌス王国にいた頃は、軍は人材不足に陥っていました」
「捕虜になっていた将兵が帰還しています。その人たちは……そうか。登用されているのは貴国から帰還した人たち。我が国から戻った人たちは要職に就いていないのですね?」
「その通りです。我が国の捕虜であった将たちはもともと経験不足であった上に、たった一度の戦いで捕虜になっております。経験豊富とは言えません」
ウェヌス王国の大将軍となったハーリーとカーの二人は、ゼクソン王国との戦いにあたって抜擢された若い将。さらに一度の戦いで捕虜となっているので経験豊富とは言えない。一方でゼクソン王国で捕虜になった人たちに将官クラスはいない。その実力がある者たちも帰還することなくグレンに付いて当時のルート王国に行ったか、一度は帰還しても結局、グレンの下に戻ったかのいずれか。ウェヌス王国にはいない。
「何故、そのようなことになったのでしょう?」
グレンに心酔している人たちがウェヌス王国軍の要職に就かなかったというのは、本人たちの意思もあってのことだと分かる。だがそうだとしても国王の権力があれば、どうにか出来たのではないかという思いもシュナイダーの頭に浮かんでいる。
「……エドワード王の為人の全てを把握しているわけではないので勝手な想像なのですが、他人を信じていないのではないでしょうか?」
「それは……言葉にするのは少し躊躇いますが、皇帝陛下も同じような……」
ヴィクトリアを横目で見ながら、これを言うシュナイダー。ヴィクトリアが怒り出さないか心配したのだが、彼女は怒るどころか笑みを浮かべている。グレンも簡単には人を信じないということについてはヴィクトリアも同意見だ。ただ、グレンのそれはエドワード王とは違う。彼であれば今のウェヌス王国のような状況には絶対にしないとも思っている。
「皇帝陛下はそれが必要と考えれば、信用出来ない人物でも用います。私がそうであるように」
「……私も同じです」
グレンを敵視し、ゼクソン王国で反乱を起こしたシュナイダーも信用されていないはずなのに重要な役割を与えられた。
「二人の差は……自信の差なのでしょうか?。何かが起きてもいくらでも対処出来るという自信が皇帝陛下にはある。一方でエドワード王はそこまでの自信はないので、抜擢して強い権限を与えることが出来ない」
エドワード王は実際のところ、それほど自信を持てていない。それが功績を、それも自分自身が功績をあげなければという焦りとなり、事を急がせているのだとアルビンは考えている。
「グレンは本人が言っているほど人を信じないわけではない。ある点では普通よりも信じるほうだ」
アルビンの問いにヴィクトリアが答えた。軍事についての話ではなく、グレンのこととなればこの中で一番分かっているのは彼女なのだ。
「ある点と言いますと?」
「説明が難しいが……人の心かな? あの男は人の能力ではなく、人の心を信じて用いるのだ」
「人の心ですか……」
アルビンの知る、謀略家としてのグレンとは結び付かない意外な言葉。では自分の心にグレンは何を見て、用いようと考えたのか。アルビンには分からない。
「善悪や敵味方はその時、その人の立場によって変わる。能力はその時、劣っているように見えても努力次第でいくらでも伸ばせる。要はその人物が何を思い、何を目的として生きようとしているか。それが自分のそれと合致する部分があるか。こんなことを考えているように私は思う」
「……皇帝陛下のお考えはすぐには理解出来そうもありません。ただおかげでエドワード王についてはまた少し分かったような気がします」
「ほう。何が分かったのだ?」
「エドワード王はその人の能力だけを見て、為人を見ていない。一人の人間としての相手のことを見ようとしていないのかもしれません。だから過去の、最初の評価が全て。相手への見方を変えることが出来ないので、人を信用することが出来ない」
「それだとエドワード王はこれまで一人も高く評価している人物はいないということになるが?」
最初の評価が全てであれば、最初に高い評価を得た人が重用されているはず。そういった人物が誰なのかヴィクトリアには分からない。
「いないわけではありません。トルーマン殿がおりました」
「……その唯一の存在を、玉座を奪う為に失ったということか」
ジョシュアを暗殺するという、決して他者に知られてはならない仕事を任せたのだ。信用はしていたに違いない。だが、そのトルーマンはその一件でこの世の人ではなくなってしまった。
「若い時から周囲にいた現宰相なども信用はしているでしょう。ただ、その能力は自分を超えるものではない。こんな思いもあるのではないでしょうか?」
「孤独の王か……」
「国王は誰もが孤独であるはずです。その上で、どうするか。良き方策を採れず、国を危うくする者には、そもそも国王である資格がない。国王の気持ちなど理解出来ない私ですが、一国の政治を預かる立場にあった者としてそう思います」
これはヴィクトリアではなく、ウォーレン王に向けての言葉。一国を背負う立場にある者には、そうでない者には分からない苦悩がある。だがそれを乗り越えていかなければ、良い国には出来ない。アルビンはウォーレン王にそういう心構えを伝えようとしているのだ。
「お主の今の言葉をきちんと受け止められる資質がまずあることだな。ヴィクトルもそうあって欲しいものだ」
ヴィクトルの資質はまだ見えない。まだ判断する時でもない。母としてのヴィクトリアは将来に不安を感じないではいられない。ヴィクトルが背負うのは一国どころか三国。それ以上になる可能性もあるのだ。
「臣下が迷わないことです。そうあることに全力を尽くします」
将来の皇帝を育てる立場にある臣下がどのような人物か。それによって大きく変わってくるとシュナイダーは考えている。その一人、それもかなり重要な位置にいる自分が正しくあらねばならないと。
「すまない……話を脱線させたな。エドワード王の為人を知った上で、この先、どのような動きに出るか。今日はそれを考える場だ。だが、難しいな」
「エドワード王の問題を解決する策は、皇帝陛下を臣にすることです。それにより亡きトルーマン殿の代わりを、総合力ではトルーマン殿を軽く超える高い能力を持つ臣下を得られます。エドワード王が就任してからずっと皇帝陛下に拘っていたのは理解出来ます。しかし、そろそろ本人も分かってきているのではないでしょうか?」
「グレンを臣下に出来ないことをか?」
「はい。妹君を人質にしても従わせることが出来ないということではなく、そもそも自分にその器量がないことを。それを素直に認め、受け入れられれば良いのですが、そうでない場合は、なんとか自分のほうが上であることを示そうと強引な手段に打って出る可能性があります」
グレンを臣下として従わせることなど出来ない。仮にそういう形になっても、人々の崇敬の念は臣下であるグレンに集まり、その国王は立場を失うことになる。フローラを利用して強制的にグレンを縛りつけても、本当の意味での主にはなれない。
ルート帝国の人々であれば当たり前に思うことを、果たしてエドワード王は受け入れられるか。彼のプライドがそれを許すか。
「受け入れられないと思っているのか?」
「はい。幼い頃からずっと彼の支えは自分の才覚。ジョシュア様に比べれば自分のほうが能力は高い。だが長幼の序が国王になるのを邪魔しているというのが、自らへの言い訳だったのだと思います」
「だがその頼りの才覚もそれほどのものではなかった。それを受け入れることは自分の所業を否定することになるか……」
実の兄を暗殺する、失敗してジョシュアは生きているが、ことまでして手に入れた玉座。だがそれを行った自分には国王に相応しい能力はなかったなんてことをエドワード王が受け入れられるはずがない。ウェヌス王国の為になるという暗殺の大義が崩れてしまえば、ただの兄殺しの簒奪者になってしまうのだ。
「戦争になります。これは我々の望む形ではあると思いますが……」
ウェヌス王国と戦う。グレンを除くルート帝国の皆はその展開を望んでいる。その戦いが、グレンによる統治をもっと多くの国に広げる契機になると考えている。
「問題は終わらせ方だな」
「はい。たとえ勝ててもウェヌス王国全土が焼け野原のようになっては意味がありません。ほどほどのところで負けを認めさせたいのですが、それが難しい」
ただ勝てば良いというものではない。ウェヌス王国の人々を不幸にするだけの戦いであれば行ってはならない。それで勝っても、望む形にはならない。
「……ジョシュア殿を玉座に返り咲かせるというのは?」
ずっと話を聞いているだけだったウォーレン王が自分の考えを口にした。ジョシュアが王になれば、ウェヌス王国もグレンに従うことになる。それだけでなくウォーレン王の知るジョシュアは、王に相応しい資質を持っているのだ。
「ひとつの方策として有りです。しかし、ジョシュア様を支える者たちがいるか。今であれば私にはそれを行う気持ちがあります。しかし、私はウェヌス王国には戻れません。戻ってもジョシュア様を否定する材料に使われるだけでしょう」
ウォーレン王の評価は高いジョシュアだが、ウェヌス王国での評価は低いままだ。そのジョシュアがグレンの引き立てでウェヌス王国の国王に返り咲いたとして、はたして人々が素直に従うか。ウェヌス王国に混乱をもたらしたランカスター侯爵家のアルビンがそこに絡んでも悪材料にしかならないだろう。
ウェヌス王国は大国で、全土に手を届かせるのは、ゼクソン王国やアシュラム王国に比べて遥かに難しい。国王の威信が行き届かなければ、第二のランカスター侯爵家を生んでしまう可能性だってあるのだ。
「ウェヌス王国にはグレンの統治を求める理由がない。そこが難しいところだな」
ゼクソン王国との違い。当事者であるヴィクトリアにはよく分かる。最初に手を伸ばしたのはヴィクトリアであり、彼女が治めていたゼクソン王国。グレンはその伸ばされた手を、自分の目的に合致するからだとしても、握り返しただけなのだ。それはアシュラム王国でも同じだ。
「我々がそれぞれ自国を良い国にするというのも一つの方策です。民は暮らし良い国にしてくれるのであれば、統治者は何者でも構わないというのが本音でしょう。ルート帝国がそういう国であることを知らしめれば、少なくとも民衆の支持は得られると思います」
「焦ってはいけない。それでいて戦いの時は迫っているか……やるしかないな」
良い国と言葉にするのは簡単だが、それを実現するには長い年月が必要になる。その一方でウェヌス王国との戦いの時はそう遠くない時期に訪れる見込みだ。焦って拙策に飛びついてはいけない。だが時は待ってくれない。ルート帝国としては難しい状況だ。
だからといってウェヌス王国が容易な状況というわけではない。有利不利はない。やるべきことを一つ一つ行って、来たるべき時に備えるしかない。ヴィクトリアはそう自分に言い聞かせているのだ。
ルート帝国にはもっとも大切な要素がまだ足りていない。それが事を複雑にしている面もある。グレンをその気にさせること。これがそうだ。