貴族領をまるまる一つ制圧したクリスティーナ王女派。本人の決意は固まっていないのだが、事情を知らない周囲からはそう見られている。
その事実を知った国王はすぐに近隣の貴族家に討伐を命じた。クリスティーナ王女の下にいる兵力は数百、それも半分以上が戦いには素人の義勇兵であり、それを率いるのも指揮官としては未熟な見習い騎士ばかり。王弟との戦いが始まっている今、正規軍を投入するのは勿体ないと考えたのだ。
愚かな決断だ。ただそれは結果としてであって、義勇軍の実態を知らない状況での判断に対して愚かというのは可哀想だ。
国王の命令を受けて動き出した近隣の貴族家軍。彼等も実戦経験は盗賊退治がせいぜいで本格的な戦争など経験してはいない。鍛え上げられた銀狼傭兵団に敵うはずがなく、その上に各貴族家がバラバラに動いたことで各個撃破を許すことになった。
二つ三つ貴族家軍が撃破されてしまうと状況は変わる。クリスティーナ王女に正面から敵対することを避けようとする貴族が出てきたのだ。
「我々もなにも好き好んで戦っているわけではないのです。降りかかる火の粉を払っているだけ。これは分かっていただけますか?」
下手に出ているのは貴族が送ってきた使者、ではなくクリスティーナ王女側の交渉担当。グレンだ。
「それは分かっております。はい」
モンタナ王国の、見習い用ではあるが、騎士服を身に着けているグレンを使者は交渉担当だと疑っていない。疑う必要はない。交渉担当であるのは事実なのだから。
「それは良かった。その上で使者殿にお聞きしたいのですが、デール伯爵様はこの先どうなされるおつもりですか?」
「それなのですが……」
答えに困る使者。主であるデール伯爵にクリスティーナ王女と敵対する意思はない。そうであるから使者としてこの場にいるのだ。だが味方するとも言いづらい。それを約束しては国王に反旗を翻すことになってしまう。
「使者殿がこの場にいるという事実に、我々は大いに期待しているのです」
「……主には王女殿下に刃を向ける気持ちはありません」
だからクリスティーナ王女側も自領に攻め込むことは止めて欲しい。これで交渉を終えたいというのが使者の、この使者を送ったデール伯爵の気持ちだ。
「それは良かった。ではデール伯爵様は御味方だと考えてよろしいのですね?」
「それは……そうなのですが……ただ一つ問題が」
味方する、だけで終わらすわけにはいかない。不戦まででとどめることがデール伯爵の望む結果なのだ。
「問題……それはどのようなことでしょう?」
「王女殿下はこの先、何を為されようとされているのですか?」
「それを聞かれますか? はっきりと申し上げることは出来ませんが……陛下のお気持ちを問うことになりましょう」
「お気持ちを問うとはどのようなことでしょう?」
グレンの答えは曖昧なもの。もっと詳しく、国王と戦う気があるかないかを使者は聞きたいのだ。
「何故、このような状況になったかはご存じですか?」
「聞いております。陛下が罪のない民に兵を向けたと……」
虐殺という言葉を使うことを躊躇った使者の答えはこんな感じだ。
「はい。その上でその罪をクリスティーナ王女になすりつけようとしました」
「えっ……?」
使者が知らない事実。それをここでグレンは明らかにした。
「陛下はクリスティーナ王女が虐殺を行ったことにした上で、それが王弟の命令によるものという偽情報を流そうとしたのです」
「……何故、そのようなことを?」
「王弟の評判を落とす為。そのような作戦を実行させる残虐な王弟に味方しようと考える人は少ないでしょう。本当に残虐なのは誰かも知らずに」
「そんな……」
真実を聞かされて使者は動揺している。自国の王がそのような人物であるとは使者は思っていなかったのだ。これが伯爵本人であれば少し違った反応だったかもしれないが。
「何故、陛下がこのような残酷な策を実行したのか。何故、王女殿下を嵌めるような真似をされたのか。我々はそれをはっきりさせるつもりです」
「…………」
何を話して良いのか使者は分からなくなった。これが事実であり、グレンの言うとおりに国王の残虐さを嫌って王弟派に人が流れるようなことになれば。デール伯爵家も去就を考えなければならない。
「デール伯爵様には事が明らかになるまで動かないで頂きたい」
「……えっ?」
思っていなかった言葉に使者は自分の耳を疑った。
「これは陛下と王女殿下の問題。親子げんかという言葉で済ますには問題が大きすぎますが、そういうことなのです」
「……本当に何もしなくて良いのですか?」
「まったく何もとは申しませんが、軍を動かす必要はありません。国が不安定な今、領内でも色々と問題が起きているでしょう。領内の平穏を守ることに注力してください」
「……では何を?」
実にありがたい言葉。だが都合が良すぎて逆に不安になってしまう。
「少しばかりの物資の提供を。あとは……ああ、領民が義勇軍に参加することを止めないでください」
「領民を義勇軍に参加させろと?」
使者の表情が一気に強ばる。貴族家軍の兵士は徴兵された領民たちだ。領民を義勇軍に参加させるとなれば、それは軍を動かすのと同じこと。
「いえ、違います。自ら望んで参加しようとする人々を止めないで下さいと申し上げているのです」
「しかし……」
多くの領民が戦死するようなことになれば、領地の生産力が落ちてしまう。そうなれば税収は減り、領政は厳しくなる。簡単に了承はできない。
「不安はごもっとも。ですから約束いたします。集まった領民たちを無理矢理戦いに駆り出すような真似は決して致しません」
「それを信じろと?」
「力なき者の言葉は力に驕る者の耳には届きません。義勇軍の数を増やしたいのは戦う為ではなく、陛下に聞く耳を持って頂く為なのです。そうですよね、王女殿下?」
「えっ……ええ。下らない争いの為に民を傷つけたくはありません。義勇軍の数を増やすことが戦いを避けることに繋がると私は考えています」
いきなりグレンに話を振られたクリスティーナ王女。それでも咄嗟にそれらしい話を口にした。それが出来た自分を少し恥じた。
「王女殿下もこうおっしゃっています。デール伯爵に良い返事をお聞かせ下さいとお伝え願えますか?」
この場で判断出来ることではない。グレンからこう言ってもらえたことは使者には救いだ。
「分かりました。持ち帰って主の判断を仰ぎます」
「よろしくお願いします」
これで交渉は終わり。結果が分かるまでにはしばらく時間が必要だ。クリスティーナ王女の騎士に案内されて部屋を出て行く使者。
「……こんなことで上手く行くのですか?」
交渉結果は持ち帰り。これでは成功したとは言えない。クリスティーナ王女はこう考えた。
「どうでしょう? 反応は悪くなかったと思います」
「でも伯爵がどう考えるかは別だわ」
「どう考えようと構いません」
「えっ?」
「日和見の貴族など頼りに出来ません。ずっと悩んでいようが二股を掛けようが、とにかく動けなくなれば良いのです。こちらに必要なのは物資と領民の支持だけです」
不利となれば貴族は裏切る。それを非難しているつもりはグレンにはない。家名を残すことに執着する貴族はそういう行動を起こす。そういうものだと考えているだけだ。
「……それで勝てるのですか?」
「これだけでは勝てるとは言えません。勝つ為には他にも色々とやることがあります」
「…………」
その色々を行えば勝つことが出来る。そういうことなのだ。敵に回してはいけない人を父親は、モンタナ国王は敵に回してしまったのだ。
「それで……蛇と狼だと、どちらが好きですか?」
「はい?」
「蛇と狼です。どちらも嫌いは無しでお願いします」
「……蛇よりはまだ狼のほうが」
どちらを選べと言われれば狼を選ぶ。は虫類を好む趣味はクリスティーナ王女にはなかった。
「やっぱり……では軍旗は白い狼にします」
「はっ? ぐんきって軍の旗のことですか?」
「はい。形を整えることも必要です。はったりってやつですね」
「……狼なのはやはり貴方の」
銀狼と呼ばれたグレンから。結局はグレンの軍なのだとクリスティーナ王女は思ったのだが、これは間違い。
「狼を選んだのは王女殿下です。他にも狐とかあったのですけど軍旗なので強そうなのが良いかなと思って、蛇か狼を選んでもらいました。それとも狐が良かったですか?」
「……あの、ちょっと意味がわかりません」
何故、狐と蛇と狼なのか。これがそもそも分からない。
「モンタナ王国でも白蛇、白狼、白狐は縁起が良いそうです。だからそれを軍旗にしようと思いました」
「……私の容姿を」
白い動物を軍旗にしようとするのは自分の容姿から。クリスティーナ王女にも理由が分かってきた。
「迷信であることは明らかですが、それを知らしめるには時間がかかります。だったら貴方自身の印象を書き換えてしまうほうが早い」
「私の印象の書き換えって、どういうことですか?」
「俺が銀狼と呼ばれているのと同じように貴方の代名詞を白狼にする。縁起の良い白狼の化身という感じです」
「……どうやって、そんなことが?」
「質問ばかりですね。まあ、これは仕方ないか。白狼の軍旗を翻して、驚くような戦いを見せればそう呼ばれるようになります。まあ、少々恐い思いはするでしょうけど」
軍ではなくクリスティーナ王女自身が白狼と呼ばれなければならない。それにはクリスティーナ王女と軍が同一視されるような戦いぶりが必要だ。恐い思いは少々では済まないだろう。
「……私はただの飾り物です」
「上に立つ人なんて大抵がそうです。貴女に必要なのは覚悟。味方を死なせてもやるべきことをやるという覚悟を持つことだけです」
「私がやるべきこと……それが私にはありません」
「そうですか? 貴女は国の為に義勇軍を率いることを決めた。その気持ちがあったのは間違いないですよね?」
「はい。それは間違いありません」
義勇軍を率いることになったのは国王の策に嵌められた結果であったとしても、クリスティーナ王女の心には国を想う気持ちがあった。
「父親とその弟を排除すればこの国はもっとマシな国になると思います。そうなれば民は喜びます。これもまた国の為です。貴女の志を実現する方法の一つです」
「私の志……」
「……あまりこういうことは言いたくないのですけど、貴女に従う騎士たちはそうあって欲しいと思っています。彼等の気持ちに応えようとは思いませんか?」
周囲の期待。それは時にグレンを苦しめた。同じような思いをクリスティーナ王女にさせたくないという気持ちはあるが、それを押し殺して、グレンはこれを口にした。
クリスティーナ王女の迷いは、彼女を信じて付いていこうとしている人々の想いを裏切ることになるかもしれない。そうなった時のほうが彼女は苦しむと思ったからだ。
「私に出来る……いえ、違いました。出来ると信じてやるしかないのですね?」
「はい。そこから物事は動き出すのです」
「分かりました。やります。私は必ず、この国を良い国にします」
「では我々はそれが実現するようにお手伝いします。改めての契約ですね。契約条件は我々を信じて好きにさせてくれること」
「はい?」
「報酬はいりません。勝手にしかるべきところから頂きます。許可なく人を動かすことは多々ありますが、それも気にしないでください。我々はこの国を良くしたいという貴女と契約したのです。我々の行動の全てはその為ですから」
「……信じます」
ようやくクリスティーナ王女の覚悟が決まった。モンタナ王国の謀略と戦いはここから本格化することになる。少なくとも大陸東部では最恐と言える謀略家、戦術家が本格参戦することになるのだから。
◇◇◇
大陸北東部での戦いが大きく動きだそうとしている頃、南東部は平穏を保ったままだ。あくまでも実際の戦闘行為がないというだけで影の動きは活発さを増してきているが。
その影の動きの中心がルート帝国の都ルーテイジ。そのほぼ中心に立つ屋敷の一室で今日も会議が行われていた。ただ今日の会議の議題はいつもとは少し違っている。
「ごめん。この手紙が本当にフローラの直筆かは分からないわ」
フローラからグレンに宛てた手紙がエステスト城塞経由でソフィアの手元に届いたのだ。
「ご覧になったことがないのですか?」
「一緒に住んでいたからといって文字の記憶はないわ。私、勉強嫌いだし」
まったくフローラが書いた文字を見ていなかったわけではない。時々、フローラが食堂で勉強しているのを見ていた。だがそれは勉強しているフローラを見ていたのであって文字を見ていたわけではない。
「……少々、言葉使いが荒くなっておりますが?」
ソフィアの言葉使いをハーバード宰相は注意する。これを許しては宰相もミス・コレットに怒られる羽目になるのだ。
「ああ、昔の感じが出てるわね。フローラと暮らしていた頃を思いだそうとしたからだわ」
「それはどうでしょう?」
ソフィアの言い訳を否定するハーバード宰相。
「何よ」
そのハーバード宰相にソフィアは不満そうな目を向けた。
「言葉使い」
「……どういう意味かしら?」
「そんなことより今は手紙の話です」
「ちょっと!?」
「手紙の中身としてはどうですか?」
ソフィアの文句は無視して手紙の話を進めるハーバード宰相。いつまでもふざけているわけにはいかない。手紙はかなり重要な議題なのだ。
「フローラがグレンに宛てたものとしては余所余所しい感じがするわ」
「そうなると偽物ですか?」
「そうとは限りませんよ。彼女が記憶を失っているのであれば余所余所しくなるのが普通です」
ハーバード宰相の問いにクレインが本物である可能性を示唆してきた。
「しかし記憶は戻ったのではないのか?」
「では言い直しましょう。記憶が戻っていない振りをすれば余所余所しくなるのも当然」
「……そこまで考えて手紙を書くと?」
「養女とはいえセシルの娘ですから。実際、彼女が記憶が戻ったことをきちんと話したのはマアサさんだけです。それ以外は、まあ少し見え見えですけど、ぼかしてはいる」
セシルやグレンほどフローラはずる賢くはない。だが慎重さを持ち合わせているのは確かだとクレインは考えている。
「手紙の中身は見られるものだと分かっていて書いたとすれば……ああ、最後の文ね」
手紙を読み返してソフィアはあることに気が付いた。
「最後の文に何が?」
「最後だけ名前で呼んでいる。しかもレン。『レン、愛している。妹より』って最後に別れた時の言葉かしら?」
手紙の最後に書く挨拶のような文書。それに意味を持たせた可能性をソフィアは考えた。グレンが戦争に旅立つ時のソフィアの言葉。二人にとっての最後のやり取り。「レン、愛している」とフローラは言った。これまで呼んでいた「お兄ちゃん」ではなくあえて「レン」と呼んだのだ、
「そうであればこれは本人が書いたものですか」
「そうでなくてもグレンに送るけどね。面会を受け入れるか断るかはグレンが判断することだわ」
「そうですね。そうなると我々がすべきことは」
「グレンがどう判断を下し、どういう行動に出るか予測すること。それに基づいてどう動くべきかを考えること。クレイン、どう思う?」
グレンの判断を待つ前にそれを予測して動く。そうすることで情報伝達にかかる時間がもたらす行動の遅れを最小限にすることが出来る。
判断を誤ればそれ以上の問題が起きる可能性もあるが、いくつもの可能性を想定しておくことでそのリスクも抑えようとしているのだ。
「この段階でエドワード王と会うことはまずないと思うのですよ。相手はただ友好関係を築く為に会いたいわけではないでしょう」
エドワード王が求めているのはグレンの臣従。それはもう明らかだ。それを受け入れる気がなければグレンに会う理由はないはずとクレインは考えている。
「自分一人だけで臣従する可能性はないかしら?」
「それをエドワード王が許しますか? 僕ならそれで十分満足ですけどね」
「大陸制覇が目的ですものね。三国の臣従も必須ね……エドワード王はグレンに会えると本気で思っているのかしら?」
会わない可能性のほうが高い。これは少し考えればすぐに分かることだ。そうであるのにフローラの手紙に期待するエドワード王の考えがソフィアには分からない。
「……フローラの価値を確かめようとしている可能性はありますね」
「フローラの価値って人質としての価値ってことかしら?」
「ええ。これまでこちらは陛下も含めて、まったく反応を示していないのですよ。それによって価値を疑うことになっている可能性は十分にありますね」
「……もし価値がないと判断したら?」
「そこまではまだ。推測するにも、もっと情報が必要ですね」
「下手な考えを起こしたら……」
エドワード王に対してグレンはまだ様子見だ。エドワード王がどう受け取っているかはソフィアには分からないが、そうであることは間違いない。
「ウェヌス王国は滅びますね」
だがフローラを傷つけるような真似をすれば、それこそ全てを放り出してグレンはエドワード王を殺す為に動き出す。自分が使える全ての力を使って。それはウェヌス王国の滅亡に繋がるかもしれない。
「ええ。絶対に滅ぼしてやるわ」
そうなった時はソフィアもグレンを、それがどれほど苛烈なものであるとしても支持する。心の妹ということで終わらず、血のつながりまであった。フローラはソフィアにとっても大切な存在なのだ。
「フローラ様を手放すべきだと教えてあげてはいかがですか?」
ハーバード宰相はフローラを大事に思う気持ちはあっても国を滅ぼすような戦争は望んでいない。穏便な解決策を勧めてきた。
「もう教えているつもりなのよ。それなのに……いざとなれば攫ってくる。その準備は?」
「それにはまずフローラ様の気持ちを確かめる必要があるのですよ。無理矢理さらってくることを陛下が望むとは思えません」
機会はすでにあった。実行しなかったのはフローラの気持ちを尊重しようというグレンの意思があるからだ。
「それもそうね。その気ならとっくに攫ってきているものね……フローラもそういう気持ちを書いてくれば良いのに」
「それはさすがに無理なのですよ。それにそれほど遠くない時期に分かります。フローラ様が何かを考えているのは明らかですから」
「じゃあ、とりあえず手紙を渡す努力はするくらいの返答はしておきましょう」
「そうですね。それで少し時間は稼げるでしょう」
徐々にフローラの周りは味方で固められている。最終目標は、たとえウェヌス王国王都にいても、相手が国王であっても危害を加えることを許さない体勢を構築すること。表からは見えない影の動きが活発化している。