モンタナ王国侵攻の準備。それは今のところ順調とは言えない。ウェヌス王国が望むよりも早く、事が動き始めているのだ。
モンタナ王国内の戦気は高まっている。国王と王弟の戦いはいつ始まってもおかしくない状態だ。それに合わせて王弟を支援する軍勢を送らなければならないのだが、準備はそれだけで済まない。
敵意を感じさせるルート王国とゼクソン王国、そしてアシュラム王国にどう対処するか。それを決め、実行に移さなくてはならない。これが中々進まないのだ。
「どこかで覚悟を決めなければなりません。それだけのことです」
軽く、と受け取れるような言い方をしているのはゴードン顧問。本人は軽く考えているわけではない。悩み続けていても無駄に時を消化するだけ。これを言いたいのだ。
「覚悟……三国と戦う覚悟ということだね?」
当たり前のことを聞き返すエドワード王。まだ頭の整理が出来ていないので、このような問いを発しただけだ。
「陛下が懸念されているのは、どのような点ですかな?」
「決まっている。グレンがどこにいるかだ」
「確かに彼が軍を率いるかどうかで、大きく変わってくるでしょう。ですが、この場合は彼はいるという前提で考えるべきではないですかな?」
不確定要素があるのであれば、リスクを最大として考えるしかない。楽観視するよりはマシだとゴードン顧問は思っている。
「彼が率いる……二万五千くらいかな。これに勝てるのかな?」
「騎士団五千。国軍三軍で三万。数では勝っておりますな」
「全軍を投入出来るはずがない」
騎士団、そして国軍全軍を参戦させては王都が空に、実際は防衛専門の駐留軍がいるが、なる。そのような動員はないとエドワード王は考えている。
「そうであれば、辺境軍も投入すれば良いのではありませんか?」
「……辺境軍の再編は終わったのか?」
中央の三軍の損害を埋める為に、辺境軍や地方軍から多くの兵が引き抜かれている。その抜けた穴が埋まったとはエドワード王は思えない。
「元通りとは申しません。ですがそれは三軍も同じこと。今の状態で戦うしかないではありませんか?」
それが嫌なのであれば、自ら戦争を引き起こすような真似は止めれば良い。ゴードン顧問はこう思っている。
「三国と本格的に戦うのはモンタナ王国を制圧してから。完全制圧の必要はない。アシュラム王国との国境を押さえれば良いだけだ」
恐らくは、守りが薄いモンタナ王国との国境。そこを突いてアシュラム王国に侵攻するという計画だ。以前から考えられていた方針。それをここでまた口にしただけだ。
「それまでは守りに徹するということでよろしいのですかな?」
「……そうだね。相手が国境を閉鎖しているのであれば、こちらも同じことをするだけだ。近接する軍事拠点に軍勢を配置する。あまり離れすぎない位置が良いね」
侵攻する側には、侵攻場所を選ぶ自由がある。広く分散させては守りが薄くなり、防ぎきれなくなる可能性がある。当たり前の配慮だ。
「軍で防衛計画案を作成したほうが良いでしょう。細かな点まで、この場で打ち合わせをしていては陛下のお時間を無断に消費させてしまうことになりますからな」
エドワード王を気遣っているようではあるが嫌味も含まれている。その細かな点までエドワード王は口を出し、自分で考えようとする。人に任せるということが苦手なのだ。
全てを丸投げしていた父王とは正反対の性格。父王の場合は、もとからの性格ではなく諦めの気持ちがそうさせていたのだが。
臣下にとってはどちらが良いか。どちらも良くないが正しい答えなのだろうが、ゴードン顧問にとっては父王だ。勝手気ままに振る舞える、というと聞こえは悪いが、軍事に関しては自分たちのほうが知識も経験もあるという思いが、エドワード王のやり方を煩わしく感じてしまうのだ。
「では次回の会議はその案がまとまってからだな」
計画案の作成を待って、次回の会議を開催することにしたエドワード王。
「陛下、近衛騎士団からの報告についてはどうなさいますか?」
そのエドワード王にギルバート宰相が別件についての考えを尋ねてきた。
「近衛騎士団……ああ、フローラの件か。あれは、この場で話すような内容ではないよね?」
フローラの言動がおかしい。護衛だけでなく監視役でもある近衛騎士からの報告だ。それは国政の場で話し合うようなことではない。エドワード王はそう考えている。
「……私のほうで対応させていただいてもよろしいですか?」
ギルバートもそれは分かっている。彼がこの話題を持ち出したのは話し合う為ではなく、放置されることを避ける為だ。
「ギルバートが?」
「時間をかけるつもりはありません。ただ以前から知っている顔のほうが、フローラ様も話しやすいかと思いまして」
「……そうだね。頼んでいることは沢山あるはずだから、それに支障を来さない範囲で頼むよ」
「もちろんです」
宰相であるギルバートは、エドワード王と同じか、それ以上に忙しい。その彼にフローラの件を任せるエドワード王。彼にはフローラの扱いについて複雑な思いがある。思っていたような反応を見せないグレン、そしてその周りの人々への苛立ちが、その複雑な思いを生む原因の一つとなっているのだ。
それをギルバートたち、エドワード王の昔からの側近たちは気が付いている。気が付いて、それは良くない傾向だと考えている。なんとかエドワード王自身にも気が付いて欲しいのだが、今回もこの結果で終わってしまった。
◇◇◇
バレル千人将は思いがけない来訪者を迎えて、少し緊張している。地位はバレル千人将のほうが上だが、もう二度と会うことはないと思っていた相手。なんといってもグレンと関係が深かったであろう人物なのだ。
来客者はドーン元第三軍第十大隊第十中隊長。グレンの上司であった人物だ。とっくに軍を辞めていたドーンが何故、自分を訪ねてきたのか。バレル千人将に良い想像など出来るはずがない。
「……用件を聞こうか」
嫌な予感しかしないが、話を聞かなければ、この時間は終わらない。バレル千人将は仕方なく自分から用件を尋ねた。
「お願い事があってまいりました」
「お願い……どのような願いだ?」
「かつての部下の何人かが復職したいと考えております。その希望を叶えていただけないかと。ただし、復帰先はトリプルテンを希望しております」
「……それは、あれだな。その部下というのは、あれの部下でもあるわけだ」
ドーンの部下。つまりその人たちは、ドーンと入れ替わりに中隊長になったグレンの部下でもあるはずだ。
「あれが誰かは分かりませんが、大隊長がそう思われるのであれば、そうなのでしょう」
「何故この時期に復職を考えるのだ? 状況は決して良いものではないと分かっているのだろう?」
かつて起きた第三軍第十大隊兵士の大量辞職。その原因がグレンと戦いたくないという思いからだとバレル千人将は知っている。そして今もウェヌス王国とグレンとの関係は決して良いとは言えない状況なのだ。
「……そういう時期だからではないでしょうか?」
「腹の探り合いは面倒だ。その彼等は、誰の為に復職を考えている?」
「この国の為です」
「それを信じろと?」
辞めた彼等は、この国の為に戦うことから逃げ出したと言える。その彼等が今になって国の為と言ってきても、バレル千人将は信用出来ない。
「では大隊長はもう一度、彼と戦うべきだと思いますか?」
「それを現役の俺に聞くな」
これが答え。バレル千人将は戦うべきではないと考えている。ただウェヌス王国の軍人として、それをはっきりとは口に出来ないのだ。
「前回は、彼の目的は勇者を殺すことでした。ウェヌス王国を滅ぼすことではありません」
「前回は、と言うか……」
ドーンの言い方は、次は違うという意味だ。そうであれば前回よりも事態は深刻になる。
「彼の大切な家族を傷つける可能性がある方が……これはさすがに私も口に出来ません」
またフローラが傷つくことになるとすれば、それはエドワード王の責任。さすがに自国の王を否定的に語ることはドーンには出来ない。
「……それと復職がどう繋がるのだ?」
「出来るだけ守るべき人の近くにいるべきと考えたのではないでしょうか?」
またグレンが復讐の炎を燃やすような事態にしてはならない。それにはフローラを守ることだ。全てのことから。
「第三軍では護衛役にはなれない」
国軍兵士の身分では城内に入ることも出来ない。それでは守ることなど出来ないとバレル千人将は思う。
「近衛にしていただけるのであれば、それを希望しますが、さすがに大隊長も無理でしょう?」
「……嫌味を言うな。復職だって俺の権限では出来るか分からない」
ただ復職させるだけであれば簡単だ。経験不足の新兵が増えた国軍では、実戦経験のある兵士は大歓迎なのだ。ただトリプルテンに復帰させるとなれば話は違う。優秀な兵士は上位軍に配属される。その決まり事を曲げなければならないのだ。
「一応、代替案も考えてきました」
「代替案だと?」
「臨時雇いの教官。これであれば大隊長で決裁が出来るのではないですか?」
人事採用ではなく訓練経費としての決裁で処理出来るのであれば、大隊長の決裁で事は済む。大隊予算の範囲内で収まればの話だが、そうなるようにすれば良いのだ。
「……まさか、奴が考えたことではないだろうな?」
「どこにいるか分かりませんので、連絡も取っておりません」
「本当か?」
「本当です」
「……本当に国の為になるのだろうな? 正直、個人としての感情には色々あるが、私はウェヌス王国の騎士。公人としては、国を裏切るような真似は絶対に出来ない」
普段はあまり見せることのない厳しい視線をドーンに向けるバレル千人将。彼にも譲れない一線というものがあるのだ。
「我々はそう信じております」
その視線を真っ正面から受け止めてドーンは言葉を返した。正直、国を裏切ることになる可能性は否定出来ない。国と国王が一体であるとすれば。
だがドーンたちはそう考えていない。自分たちの、自分たちと同じ民の暮らしを守ることを国の為と言っているのだ。
「……トリプルテンには勇者がいる。それは分かっているのだろうな?」
「はい。知った上での判断です」
「そうか……安月給で良いのであれば、いつもで来いと言っておけ」
「ありがとうございます」
これでドーンの、グレンの元部下たちの復帰が決まった。あくまでも臨時雇いの教官としてだが、軍に戻ることは出来るのだ。そこから先は、どうなるかは彼等にも分かっていない。フローラを取り巻く環境は複雑で、それぞれ微妙に思惑は異なっているのだから。
◇◇◇
フローラの周囲で事が動き始めている。だが、本人はまだそのことに気が付いていない。ほぼ情報が遮断され、自由に動き回ることも出来ない彼女では、それに気付けというのが無理だ。たとえ本人が望んで、そういった動きを作りだそうとしていたとしても。
(……もう一度、彼に会わないと。でも会ってもお話が出来ないからな)
健太郎は、恐らく自分の記憶が戻っていることが分かったはず。好きな花も好きな食べ物も記憶を失う以前のものなのだ。これで気付いていないとしたら、ただの馬鹿。その可能性はなくはないので不安は残っている。
(彼が馬鹿だとしても親父さんが気付いているはず……あっ、記憶をなくしたことを知らないかも?)
フローラが記憶をなくしたことを知らなければ、当たり前のこととして受け取られる可能性がある。それにフローラは気が付いた。
(……やっぱり彼に分からせないと駄目か……大丈夫かな? でも彼しかいない)
健太郎は本来、もっとも信用ならない相手。だがその健太郎が、やり方は納得していないが、記憶を取り戻すきっかけを作ってくれた。彼だけが記憶を戻させようとしたとフローラは知ってしまった。
(……他にいないかな? やっぱり記憶を戻ったことを話すべきだったのかな?)
頼るべきは健太郎しかいない、と簡単には決められない。記憶が戻ったからといって、これまでの記憶を失ったわけではない。ローラとして暮らしていた期間のことも覚えている。自分を助けてくれたのはエドワード。それは間違いない。そのことに深い恩を感じている。
エドワードの部下の人たちも、とても良くしてくれた。皆、自分に優しかった。ローラとしての暮らしは決して悪いものではない。幸せな時間だっと言い切れるものだった。
自分はどうすれば良いのか。フローラはこのことに悩んでいる。記憶が戻ったばかりの時は、グレンとまた一緒に暮らしたいと思った。その為に行動を起こし、健太郎を動かした。だがそれが正しい選択なのか。それが分からなくなってきた。
今日、久しぶりにエドワードの部下に会った。今は臣下というべきでウェヌス王国の宰相となったギルバートだ。
ギルバートはフローラを心配して、政務が忙しい中、わざわざ時間を割いて会いに来た。彼女が健太郎を奴隷にしようとしたという近衛騎士団からの報告を受けて、フローラに何か精神的に不安定になるような問題があるのではないかと心配したのだ。それを知ったフローラは、その心遣いを嬉しく思った。
王となったエドワードは以前とは少し変わってしまった。だが、それ以外の人たちは偉くなっても以前と変わらぬ、言葉使いなどは丁寧なものになっているが、親しみを感じさせる態度で接してくれる。
それが嬉しくもあり、少し心苦しくもあった。ギルバート宰相はフローラにこう告げた。
「王妃という身分をあまり重く受け止めないで下さい。我々が求めているのは貴女の明るさなのです。誰もが笑顔になる貴女という存在を、我々だけでなく、この国の人々にも知って欲しい。人々に笑顔を届けて欲しいだけなのです」
エドワード王との結婚に悩んでいるフローラ、とギルバートは思っているので、に向けての言葉だ。自分のことを思っての言葉だとフローラは受け取った。
自分の行動はギルバートたちの想いを踏みにじるものにならないか。そんなことをして良いのかとフローラは悩む。
(……私はどうすれば良いのだろう?)
心の問いに応える人などいない。フローラ自身が答えを見つけ出さなければならないのだ。それが結果、誰かを裏切ることになるにしても。全ての人が望む結果にはならないのだから。
それを決める覚悟は今のフローラにはない。彼女にはまだ時間が必要だ。失われていた時を知る時間も含めて。